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呪術師は勇者になれない  作者: 菱影代理
第1章:白嶺学園二年七組
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第5話 蒼真悠斗

 俺の名前は蒼真悠斗。どこにでもいる普通の高校生だ。

 だから、三連休明けでちょっと気だるいけれど真面目に登校を果たし、気の合う友人と他愛もない話をして、それから、退屈な授業が今日も始まる――はずだった。

「はぁ……どうして、こんなことになったんだ……」

 目を開ければ、そこはよく見慣れた教室ではなく、古めかしい石造りの部屋だった。窓はなく、地下室みたいな造りだけれど、天井にある白いパネルが蛍光灯のように光り輝いて室内を隅々まで照らし出している。

 この石室内には、これといって目立つものは何もない。ただの伽藍堂だ。

 右手に通学用鞄を、左手には竹刀と木刀が一本ずつ入った刀袋を持って、俺は一人で立ちすくんでいる。

「本当に、ここが異世界、なのか……」

 全くワケが分からないまま、俺は、いや、俺達、白嶺学園二年七組の生徒全員は、異世界に召喚された。荒唐無稽な話だけれど、こうして現実に見知らぬ場所へ一瞬の内に送り込まれてしまったことから、もう信じないワケにはいかないだろう。

 突如として闇に包まれた教室。謎の男のアナウンス。黒板に浮かび上がる光の魔法陣。あれだけなら、まだ何かのアトラクションだとか仕掛けがあると納得できそうなものだが、この石室に来る直前に見た最後の光景――真っ黒いひび割れが教室中に走り、奈落の底へ落ちて行くかのように崩れ去って行くシーンを見てしまえば、もう日本の常識が通用しない、正しく魔法の世界の出来事に巻き込まれてしまったことを、否応なく理解させられる。

 全く、冗談じゃない。本当に、どうしてこんなことに。

「いや、悩んでいても、どうしようもないだろ」

 思い悩んで立ち止まるな。ただ、前を向いて突き進め。

 俺の爺さんの教えの一つだ。まさか、あの説教臭いフレーズが、こんな時に役に立つなんて、分からないものだな。

 よし、まずは落ち着いて、行動方針を決めよう。と言っても、そんなのは考え込む必要もないほど明らかだけど。

「まずは桜と、友達と、クラスメイトを探さないと」

 あの男の話を信じるならば、恐らく、このダンジョンと呼ばれる場所に、クラス全員は飛ばされているはず。きっと今の俺のように、皆バラバラになっているだろうけど、先に進めば合流できるはずだ。

 とにもかくにも、このダンジョンを進まないことには始まらない。こんな何もない部屋の中で、いつまでも留まっていても仕方ない。

「あ、そうだ、そういえば……魔法陣と呪文、だったか」

 ダンジョンを攻略するのに必要な力。そういう説明だったはずだ。

 あの時は、素直に魔法陣を書こう、なんてみんなに言ったけれど、正直、自分でも胡散臭いとは思っていた。だが、少しでも役に立つ可能性があると判断したから、そう言い切った。

 そして改めて、このダンジョンと思しき一室に飛ばされれば、やはり正解だったと思う。

 しかしながら、果たして本当に、この魔法陣と呪文が効果を発揮するのか、そして、俺達が身を守りための力になりうるのか。実は、とんでもない裏があるのではないのか――それが明らかになるのは、もう実際に使ってみるより他はない。

「……よし、行くぞ」

 すでに、魔法陣が描かれたキャンパスノートは開かれ、呪文はメモを読み上げなくても言えるくらいには頭に入っている。

 覚悟を決めて、いざ――

「きゃぁあああーっ!」

 突如として響きわたった悲鳴に、魔法の儀式は遮られる。いや、中断せざるをえない。

何故なら、耳に届いた少女の声を、俺は、俺だけは聞き違えることはないから。

「桜、なのか」

 あの声は、間違いなく桜のものだ。

 桜はレイナと違って滅多なことじゃ悲鳴なんて上げない。黒高の不良共に絡まれたって、毅然とした態度は崩さないし、まして、泣きわめくことなんて。

 そんな桜が悲鳴をあげたのだから、それはきっと、よほどの危険と恐怖が迫っていることに他ならない。

 助けなければ。

 そんなことを明確に意識するまでもなく、俺は刀袋だけを掴み取り、即座に走り出していた。

「桜! どこだっ!」

 勢いのままに石室を飛び出し、俺は部屋と同じく石造りの薄暗い通路を走り抜ける。距離にして50メートルほどだろうか。そこで、ちょうど十字路に出くわす。

「……こっちか」

 必死になって直前の悲鳴を思い出し、声が発していると思しき方向に見当をつける。逸る心を抑えきれないように、俺は全力で選んだ通路を駆け抜けた。

「――桜っ!」

 果たして、そこに彼女はいた。

 長い黒髪にセーラー服の少女は、見慣れた妹の姿そのもの。けれど、彼女の白い顔は、目の前に現れた恐怖の存在により、真っ青に血の気が引いていた。

「に、兄さん!」

「大丈夫か、桜!」

 一も二もなく、桜の元へ駆け寄ってから、俺はようやく、現状をはっきり認識することができた。

 まず、この場所はさっきまでいた石造りとは全く異なり、広々としたドーム状の空間で、まるで植物園のように緑の木々が生い茂っていた。上を見上げて、白い光のパネルがある天井を見なければ、本物の森に迷い込んだように思えるだろう。

 そして、そんな緑溢れる森の支配者であるかのように、堂々とソイツは立ちはだかっていたのだ。

「何だ、コイツは……熊なのか」

 シルエットだけで見れば、確かに熊というより他はない。おまけに、二足で立ち上がった姿は、俺の背丈を遥かに越す、四メートル近い巨大さ。

 昔、修行と称して爺さんにどっかの深い山に強制的に連れて行かれたことがあって、その時に野生の熊と遭遇したが……あの時の熊が子供に見えるほど、コイツの大きさは圧倒的だ。

「兄さん、きっと、これが魔物なのよ」

 少し震えているが、桜の言うことは至極もっともだ。コイツは地球の熊とは一線を画す、全く別の存在であると一目で理解できる。

 何故ならば、この熊は鈍い鋼の光沢を宿す、鎧を纏っているのだから。

 実際は甲殻なのだろう。表面に生える棘や、関節を覆う膜など、蟹や海老と似たような作りになっている。けれど、この大きさと分厚さから見て、素手で簡単にバリバリ剥がせるようなものじゃない。それこそ、見た目通りに鋼鉄の防御を発揮していても、おかしくない。

「俺が、コイツを引きつける。その隙に――」

「イヤです! 兄さんを置いて逃げるなんて、私にはできません!」

 すがりつく桜の腕の力が、ギュっと強まる。絶対に離さないという、強い意思も伝わってくるかのようだ。

「優しいな、桜は……けど、その願いは聞けない」

 聞くわけにはいかない。俺は妹を、桜を、絶対に守らなければならないから。

「いくら兄さんでも、こんな化け物が相手では勝てないです!」

「大丈夫だ。勝つのは無理だけど、何とか、逃げ出せるくらいなら――」

「私だけ、逃げても……兄さんがいなければ、意味なんてないですよ……」

 本当に、こういう時は頑固だからな、桜は。こんな危機的状況下にも関わらず、俺としては呆れ半分、そして、もう半分、嬉しくも思う。

「安心しろ。俺だって、こんなところで死ぬのは御免だ。ちゃんと二人とも逃げられるようにするさ」

「本当、ですか」

 嘘を言ってもしょうがないだろう。俺は自分の身の危険を顧みず桜を助けることができる、と自信を持って言い切れるが、それでも無駄死にするつもりは毛頭ない。

 そもそも、この場を切り抜けても、桜の安全が保証されるわけじゃあない。俺達はこの先も、こんな恐ろしげな魔物が闊歩するダンジョンを進まなければならないのだから。

「俺を信じろ。桜も、皆も、必ず、一緒に元の世界へ帰るんだからな!」

 覚悟と共に、俺は刀袋から木刀を抜き放つ。残る竹刀と袋はその場で捨てる、戦いの邪魔だ。

 俺の戦意を感じ取ったのか、これまで距離をおいて観察するように黙って見ているだけだった大熊は、のっそりと前足を地につける四足歩行の構えとなって、鋭い声を上げた。

「だから、早く行くんだ、桜!」

「……分かりました。ごめんなさい、兄さん」

 ほとんど涙声で言い残し、桜はついに走り始めた。その後ろ姿を、俺は振り返って見送ることはしない。

「待たせたな、化け物」

 ガルル、と正しく猛獣に相応しい呻き声をあげながら、大熊の赤い両目は俺を睨みつけた。戦いはもう、始まっている。

 勝ち目のない戦いに挑むのは、初めてではない。命がかかった戦いに挑むのも、初めてではない。

 けれど、絶対に勝ち目がない上に命もかかっている戦いは、初めてだ。

 怖い。けれど、震えない。恐怖心の抑え方は、ずっと前に習ったから。

 嫌だ。けれど、逃げない。俺には守るものがあるんだと、教わらなくても知っているから。

 だから、俺は戦う。化け物相手でも、臆せず、戦える。

「ふっ、はぁ……」

 深呼吸を一つして、さらに落ち着かせる。精神集中。

 俺が手にする武器は、何の変哲もないただの木刀。ついこの間、行きつけの武具店で買ったばかりの新品である。

 綺麗で頑丈、けれど、殺傷力はない。思い切り頭を叩けば人間を殺すことはできるが、この鎧兜で完全武装した大熊では、どこを叩いても痛くもかゆくもないだろう。

 そもそも、こんなヤツには本物の日本刀でも敵わない。まぁ、爺さんなら鉄の甲殻ごと一刀両断できるかもしれないが……何にせよ、俺にはまだ爺さんほどの力量はないし、武器が木刀であることに変わりもない。

 そんな俺がこの場でとれる手段は、自ずと限られてくる。導き出された結論は、弱点を一点集中で狙うこと。つまり、目だ。

 剣道の試合では当たり前だけど、眼突きは禁止。他の武道でも、目を狙うのは同様に禁止されている。だから普通は、相手の目を突く練習なんてしないし、させない。

 でも、俺は違う。自ら望んだワケではないが、それでも確かに、爺さんから目突きを教わったことがある。

全く、あんな小さい子供に危険極まりない禁じ手を教え込むなんて、保護者として、教育者として、どうかしていると思うことしきりなのだが……今は、この窮地を切り抜ける可能性を与えてくれたことに、素直に感謝しよう。

 両手で握った木刀は、肩と水平になるような構え。素人目でも突きを狙っていることが丸わかりだが、動物、いや、魔物相手では関係ない。心理的な駆け引きは必要ない。ただ、最短距離を最速で突くことが重要。

 大熊はいよいよ、俺という獲物に襲い掛かるために、のっそりと野太い前足を動かした――今だっ!

「はあっ!」

 これまでの人生の中で、最も速く、そして、最も力強い。そう自信を持って言い切れる、会心の一撃だ。

 普通の人間なら捉えきれないほどの高速で繰り出された木刀は、吸い込まれるように大熊の目へ――命中!

「ゴァアアアアアアアアッ!」

 けたたましい咆哮が耳に届くと同時に、俺は命からがら、剣を引き戻して間合いから離れることができた。

 危なかった。目に当たったその瞬間、熊は反射的に前足を薙ぎ払っていたのだ。命中だ、と手ごたえに喜んでいれば、あの棘が生えた丸太のような腕が俺の体を吹っ飛ばしていただろう。あるいは、剣を引くのが一拍でも遅れていれば、手に生える鋭いナイフのような爪で引き裂かれていた。

「はぁ……はぁ……」

 一連の攻撃動作を終えてから、ドっと汗が噴き出し、バクバクという鼓動が聞こえてきた。

「頼む、これで退いてくれ」

 山籠もりの時に出くわした熊は、爺さんが先制で鼻先に一発喰らわせると、すごすごと退散していった。爺さん曰く、野生動物は存外に臆病だから、少しでも危険とみればすぐに逃げる、らしいのだが、果たして異世界の魔物は――

「グォオ、ガァアアアっ!」

 潰れた右目からドクドクと血を流しながらも、残った左目をギラつかせて、大熊は俺を怨敵の如く睨みつけた。どうやら、魔物は身の安全よりも敵への怒りが優先されるようだ。

「くそ、もう一度やらないとダメか」

 両目とも潰す。危険だが、それしかない。

 幸い、木刀は折れることもなければ、手放すこともしなかった。もう一度攻撃を仕掛けることは可能だ。

 怒り狂ったように猛然と突進を仕掛けてくる大熊を前に、俺は再度、目突きに挑む。

 さっき成功したのは、半分くらいは偶然だろう。

 当たり前だが、目は小さい。的として正確に狙うには、凄まじいコントロールが必要となる。俺も剣の扱いには少しばかり自信はあるけれど、百発百中とはいかない。

 それでも、この期に及んではやるしかない。すでに大熊は目の前。あと一歩で間合いに侵入を果たす。迷っている暇も、躊躇する余裕も、ない!

「はっ――」

 走り出した切先は、勢いよく空を切って突き進む。さっきと同じ、いや、それ以上の速さが出ていると自分でも分かる。

 そして、目前に迫った大熊、その怒りで燃え盛るような真紅の眼光が宿る左目に向かって、正確に刃が疾走していく。狙い違わず、俺は二度目の目突きを成功させ――

「――ぐうっ!?」

 そんな、弾かれたっ!?

 一体、何に……その疑問は、俺自身がすでに目撃している。

 正確な狙いの元、俺は確かに木刀の切っ先が残された左目に当たるのを見た。だが、命中の瞬間、コイツは目を瞑ったのだ。

 そう、体と同じく、鋼の装甲を纏った瞼を。

 硬質な鉄の瞼に阻まれ、ただの木刀は何ら貫通力を発揮させることなく、あえなく弾かれる。

 そして、予想外の防御で攻撃を返された俺の体は、完全に無防備となり致命的な隙を晒す。

「ぐはぁああああっ!」

 直後、全身を襲う強烈な衝撃。

ふと思い出すのは、去年だったかな、黒高の不良にバイクで襲われた時のこと。あの時、かなりキレた不良の一人が、本気でバイクで俺を轢き殺そうと襲い掛かってきたんだ。

 あの時は、轢かれた瞬間に衝撃をいなすように上手くスウェーバックできたから、派手に吹っ飛んだ見た目ほどのダメージはなかったし、転倒した不良にトドメを刺すだけの体力も残っていた。

「ぐ、う、ぁあああ……」

 けれど、今はあの時の比じゃない。スパイク状の甲殻を纏った体は正しく全身凶器そのもの。そんな奴に真正面から体当たりをぶちかまされたのだ。おまけにこの巨体を見れば、あの時のバイクよりも遥かに重量があるだろう。無事で済むはずがない。まだ生きているのが、不思議なくらいだ。

 俺はやや混乱する頭と霞む視界の中で、どうにかこうにか、顔を起こして前を向く。

 どうやら、俺はうつ伏せに倒れているらしい。幸い、体にそれほど痛みはない。恐らく、麻痺しているのだろう。

「く、そ……これで、終わり……なのか……」

 どうしようもなく実感する『死』という現象。

 俺にはもう、とても戦えるだけの体力は残されていない。そういえば、木刀もどこかに手放してしまっている。もっとも、剣があっても、こんな状態では立ち上がることすらままならないのだ。

 ああ、ダメだ。二度目の目突きを防がれた時点で、俺の勝利は完全に潰えた。

 俺は、負けた。そして、あんな化け物に敗北した人間の末路など、自ずと分かろうというもの。自然の掟に従って、食い殺されるのみ。

「……っ!?」

 しかし、大熊は俺に一瞥だけくれると、すっかり興味を失ったようにそっぽを向いた。いや、違う、アイツはただ目を逸らしたわけじゃない。

 そうだ、ヤツが睨んでいるのは、桜が逃げ去っていった方向。すなわち、俺が最初に通って来た石の通路に向けられていた。

「ま、て……」

 桜が危ない。

 熊の行動は、冷静に考えれば、実に合理的なものだ。死に体の俺は、もう放っておいても逃げない。桜を仕留めた後で戻って来ても、何ら問題はないのだ。

「待て、よ……」

 絞り出すように声を上げると、口の中に血の味が溢れてきた。

 文字通りに必死の思いで制止の言葉を投げようとも、人の言葉を解さない魔物が、止まることなどありえない。ノシノシと鋼の巨体を揺らしながら、何者に邪魔されることなく狩りを続行するのみ。

 アイツの右目は潰れているが、左目は無事。少なくとも、桜を追いかけて捕えるには何ら支障はない。

 そして桜は、いくら普通の女の子よりも遥かに優れた武術の経験者であるとはいえ、丸腰であの大熊の相手をすることは到底、不可能。万が一、熊に追いつかれて襲われた場合、助かる可能性はゼロだ。

「さ、桜……」

 死ぬのか。俺も、そして、桜も。俺は、桜を守り切ることができずに、死ぬのか。

「俺が……守るん、だ……」

 そうだ、桜は俺が守る。俺が、守らなければいけないんだ。

 何故なら、俺は兄だから。妹を守る。当然のことだ。

 そして俺は、その当然のことを、誓っただろう。必ず、俺が桜を守り通してみせると。

「お、俺……が……」

 思い出す誓い。あれから十年経っても色あせない決意。胸の奥から湧き上がる熱い気持ちが、俺の体を動かす。

「う、お、おぉおお……」

 ゆっくりと、右手を、左手を、地面につける。土の感触が、掌に伝わる。大丈夫、まだ神経は死んでいない。

 動く。なら、立てるはずだ。

「おぉおおおおおっ!」

 立つ。手を尽きながら、ゆっくりと、両足で。俺は、立ち上がる。

 よし、立った。さぁ、行くぞ――

「ぐっ、は……あ……」

 そこで、限界だった。

 腹の底からせり上がってきた熱い塊が、強引に喉を押し広げて口から吐き出される。それは真っ赤な、血であった。

すると今度は、俺の意志を一切拒絶するように、体が止まる。まるで、今吐き出した鮮血が、肉体を動かす全てのエネルギーであったかのように。

 永遠に、一歩も踏み出すことができない。ただ、遠ざかって行く熊の後姿を眺めながら、俺は再び、無様に地へと沈んだ。

「……」

 もう、声も出ない。手足の感触もない。今度こそ、本当に、何もかも感じない。

 けれど、俺の思いだけは、どうしようもなく収まらない。

 頼む、動け。動いてくれ。あと一分、いや、三十秒でもいい。

 今から走って追いかければ、もう一度、チャンスがある。今度こそ左目を潰せれば、桜はきっと助かる。

 だから、頼むよ。せめて最後くらい、俺に桜を、守らせてくれ……


『――目覚めよ』


 絶望の泥沼に沈んで行くような感覚の中で、ふと、そんな声が聞こえた気がした。


『目覚めよ』


 いや、気のせいじゃない。声は、謎の声……綺麗な女性の、それも、これまで聞いたこともないような美しくも不可思議な響きで、その声は、俺に何か呼びかけていた。


『目覚めよ、選ばれし光の御子』


 何だって? 光? 御子? 俺が?


『今、世界は再び邪悪なる闇が満ちようとしている』


 まるで意味が分からない。光だとか闇だとか、まして世界のことなんて、俺は知らない。


『闇を祓い、魔を討て』


 関係ない。俺はただ。桜を守りたいだけなんだ。


『汝、世界に白き光をもたらす――『勇者』となれ』


 その時、確かに世界は、光に満ちた。


「――うぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 気が付けば、俺は再び立ち上がっていた。

 手足の感覚が戻っている、いや、むしろ普段よりもずっと力に満ちている。瀕死になっていたのが嘘だったかのように、俺の体はこれまでに感じたことがないほど万全のコンディションとなっていた。

「うおおっ、な、何だコレはっ!?」

 何か光っている。何か、というか、俺の体が光っている。世界に光が満ちた、と思いきや、どうやら俺自身が輝いているだけのようだった。

 よくよく観察してみれば、肉体そのものが発光しているのではなく、真っ白い霧のような靄、いや、オーラとでも呼ぶべきものが湯気のように発していて、それが俺の全身を包み込んでいるのだ。

「もしかして、これが『勇者』の力なのか……」

 死の寸前に聞こえてきた謎の女性の声。まるで神様のお告げみたいな感じだったな。

 普通ならただの幻聴だろうと思うところだが、ついさっきまで俺の体は間違いなく瀕死の重傷で、それが一瞬の内に回復しているのだ。何より、この白く輝くオーラがどうしようもなく超常的な力の発露であることを示している。

「神様、か」

 そういえば、例の呪文は神様の力を借りるような文章だった。もしかすれば、この異世界では神様っていうのは実在していて、本当に人間を助けてくれるのかもしれない。

「いや、それより今は――」

 そうだ、アレコレと考え込んでいる暇はない。

 俺に力があるのなら、それが神様の奇跡だろうが、単なる偶然だろうが、何でも良い。ありがたく、使わせてもらおうじゃないか。

 そう、俺はこの力で――

「――桜を、守る!」

 駆け出した足は、驚くほどに軽い。体はグングンと前へ突き進む、というより、崖から転げ落ちて行くような勢いだ。それでいて、まるで転倒する気もせず、体の隅々まで完璧に自分がコントロールしきっているような感覚でもある。

 俺は今、とんでもなく、強くなっている。

 そうハッキリと理解できるのは、きっと、普段から自分の強さというものを把握しているからだろう。学校の部活じゃ、自分の限界なんてそうそう見えはしないけれど、爺さんを相手に毎日命がけの乱取りをしていれば、嫌でも見えてくるものだ。

 だから、分かる。今の俺は、とても超えることはできないと思っていた、いいや、俺じゃなくて、他の誰も同じ、人間という存在では絶対に到達不可能な高みに、いるのだと。

「ぉおおおおおおおっ!」

 体の奥底から無尽蔵に湧き出る力に突き動かされて、俺はあっという間に大熊の背中へと追いつく。

 俺の雄たけびが耳をつんざいたのか、それとも、この自分でも吹き飛ばされそうなほど凄まじい『力』の気配を野生の勘で感じ取っているからか、熊の反応は素早かった。弾かれたように顔を上げて振り返るや、その巨体からは到底信じられないほど身軽な動作で急反転。

 気が付けば、4メートル近い巨体が二足で立ち上がり、真っ直ぐ迫り来る俺をそのまま鋼鉄の腕で叩き潰す動作に入っていた。

 木刀さえ手元にない俺には、どうにもならない圧倒的な攻撃だ。避けることも、防ぐことも、ましてカウンターで討ち取ることなど無理な状態。

 けれど、今の俺は不思議と、負ける気はしなかった。必ず勝つ。

 確信のままに、俺は両腕を振り上げる。まるで、そこに本物の剣が握られているかのように――否、この時、俺の手には、確かに一振りの『剣』があった。

「『光の聖剣クロスカリバー』ぁああああああああああああああああああああっ!」

 迸る白い閃光。失明せんばかりの眩い光の嵐の中にありながら、俺は目の前の光景をはっきりと見届けた。

 それは光の剣だ。俺の手に、白く輝く光の剣がある。

 勢いよく振り下ろされたソレは、難なく巨大な鋼の体を断つ。

 それは、子供の頃に見たヒーローアニメのように、神々しい光が、恐ろしい怪物を切り裂き倒すように、圧倒的でありながら、あっけなかった。

 鋼鉄の甲殻はまるで見かけ倒しだったかのように裂かれ、巨躯の中身はただの水であるかのように通り抜ける。しかし、確かな手ごたえもまた、感じた。

 俺が振るった光の刃は、そうして、熊の魔物を縦に一刀両断してみせた。

「……ゴ、オッ」

 目いっぱいに広げられた熊の口から、僅かに断末魔の声が漏れかけた次の瞬間――その巨大な体が、消える。

 頭の天辺から股にかけての切断面は、鮮血と臓物が噴き出すことなく、真っ白い光に包み込まれている。そこから、一瞬の内に白い光は左右に別たれ崩れ落ちて行く真っ最中の死体を覆いつくし、地面に倒れ伏す前に、全てが光の粒となって弾け飛んだのだ。

「う、うわっ!?」

 そんな不可思議な死体消失現象を呆然と見ているだけのはずだったが、不意に、空中に漂う白い光の粒子は、吸い込まれるように俺の体へと殺到し始めた。

 思わず声を上げながら、振り払うように腕を動かす――あ、そういえば、もう手から光の剣は消えているな。なんてことを思ってしまった間に、俺の無駄な抵抗も終わった。

 気が付けば、光の粒子は全て体に吸収されてしまったかのように、綺麗さっぱり消え去ったのだから。

「な、何だったんだ……」

 とりあえず、体に異常は感じない。光に触れて熱い、ってこともなかった。

 というより、こうして全てが終わってみれば、俺の体は無傷だし、敵である熊の姿も消え、戦いそのものが悪い夢であったかのような感覚に陥る。

 本当に、何だったんだ――と、ここで自室のベッドで目覚めれば思うのだろうが、俺がいる場所は変わらず森林ドームだし、着ている学ランには、大熊の必殺タックルを喰らった時の傷痕も残っている。だから間違いなく、さっきの戦闘はあった。俺は瀕死の重傷を負ってから神の奇跡で復活し、そして、光の剣で、熊を消滅させた。

 よし、いいだろう。とても納得はできないが、そう、理解だけはしておこう。

 それなら、次はもうこんなところで呆けている場合じゃない。脅威がなくなったのなら、すぐに桜を追いかけて――

「に、兄さん……」

「桜っ!? どうしてここに!」

 おずおず、といった感じでかけられた声に振り向けば、ちょうど石の通路の入り口となる部分から、顔を覗かせている妹の姿があった。

「まさか、俺を助けに戻って来たのか」

「はい。私の『天職』が――あっ、兄さん!」

 なんて馬鹿な事を、と俺は怒ったつもりだったのだけれど、あれ、何だ、急に、力が抜けて……

「兄さん! 大丈夫ですかっ!」

「あ、ああ……桜、俺は別に大丈夫、だから……」

 一瞬、気を失ったような感覚。事実、俺はこうして地面にぶっ倒れて、桜に抱き起されているまでの僅かな間の記憶が飛んでいた。

 これはかなりの重症だな。体に満ちるのは、官官照りの最中で猛特訓をし終わった時のような脱力感。大丈夫、というのは、咄嗟に口をついた強がりでしかない。

 ダメだ、もう意識さえ保っていられない。

「だから……泣くなよ、桜……」

 最後に、円らな目に浮かんだ大粒の涙を指で拭って、俺は自分の意識を手離す。

 ああ、どうか次に目覚めた時は、元の世界に戻っていますように。頼むよ、神様。俺は『勇者』になることなんて望まない。だから俺を、ただの高校生に、平和な日常に、戻してくれよ――


聖名・蒼真悠斗。

天職・『勇者』


第一固有スキル・『光の聖剣クロスカリバー』――第二――第三固有スキル『――』――


習得スキル・『一穿スラスト』・『一閃スラッシュ』・『疾駆ハイウォーク』――


獲得スキル・『剛力フォルス・ブースト』・『鉄皮アイアン・ガード・『三裂閃トライ・スラッシュ』――


 そんな風に、何だかよく分からない内容を無理矢理に暗記させられているような感じの夢を、俺は見た……気がした。

 2016年7月11日


 第一章はこれで、完結です。次回は金曜日、15日に投稿します。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 黒の魔王に出てきた用語が登場したのですが、偶然の一致でしょうか。
[気になる点] 俺達が身を守りための力 『鉄皮アイアン・ガード・『三裂閃トライ・スラッシュ』
[気になる点] ポジショントークを垂れ流し過ぎかな 作者が勇者ポジションにしたいキャラに対して勇者然とした行動を取らせようとして臭くなってる
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