第63話 牙を剥く食人鬼(2)
飛んできたのは、舌だ。長い舌。そう、転移魔法陣のある湖で、僕を捕えた大カエルみたいな舌を、アイツは持っているんだ。
つまり、夏川さんの頬を汚したのは、ヤツの唾液。ベロリと顔を舐められたようなものだ。
「い、イヤぁ! ヤダっ、汚い、やだぁ――あっ、う、くうっ……」
「どうしたの、美波!?」
「お、いいねぇ、もう効いてきた? 効果はばつぐん、ってやつ? 良かったぁ、麻痺耐性とかスキルあったら詰んでたんだよねぇ、実は」
「まずいっ! ヤツの舌には麻痺毒が仕込んであるんだ!」
「正確には、毒の棘を生やせるんだよーん。変な黄色いカエルを食ったらゲットした、役に立たないクソスキルだと思ったけど……いいねっ、このクソスキルが思わぬところで役に立つっていう展開!」
俺マジ主人公! と喜び勇んだ横道の声を聞きながら、僕は慌てて鞄を漁る。
麻痺を治す薬はない。でも、元は黄色のカエルから得た麻痺毒だから、毒蝶にしか使ってなかった解毒薬だけでも、効果はあるかもしれない。
「お願い、美波を癒して――『癒しの輝き』!」
「ぶははっ、マジすか蒼真桜ちゃん! それ回復魔法だろ! 回復魔法はHPを回復するだけで状態異常は治せねーだろ常考!」
果たして、そうなのだろうか。蒼真桜は聖女というチート臭い名前の天職だ。もしかしたら、状態異常も問答無用で一発回復させる効果があったりするかもしれない。
「ごめん……ダメ、みたい、桜ちゃん」
「そ、そんなっ!?」
「ぶはははははっ! ウケるーっ!」
ちいっ、蒼真桜、回復でも役立たずかよ。もし今のメンバーで一人だけ戦力外通告を出せるなら、僕は迷わずコイツを選ぶね。
「委員長、僕の解毒薬なら多少は効果があるかもしれない。使ってみて」
「分かったわ」
「おおっ、何だよ桃川、お前、薬とか作れんのか? さてはお前の天職……『薬師』だな!」
違うよ、バーカ。でも、教えてやる義理はない。
「沈黙は正解とみてよろしいか? ぶふふ」
コイツ、マジで馬鹿だな。駆け引き上手なキレ者キャラにでもなったつもりか。
しかし、横道が一人で勝手にこの状況を楽しんでいるお蔭で、夏川さんが僕の解毒薬を使う余裕くらいはできていた。
「美波、どう?」
「動ける、けど……あんまり、力は入らない、かな」
弱々しく、ヤツには聞こえないような小声で委員長に症状を伝える夏川さん。やはり、解毒薬を塗ったくらいでは、速攻で全回復とまではいかないか。
「危ない、美波――ぐうっ!?」
「あっ、明日那ちゃん!」
麻痺で動けない夏川さんの分をカバーするように動いていた剣崎さんだったが、やはり無理が生じたのか、同じように舌の餌食になってしまったようだ。ナイフで切ったような一筋の傷痕が薄らと、白い太ももに浮かぶ。
「おほっ、これは……美波ちゃんよりさらに濃厚でワイルドな味わい! みなぎる、力がみなぎるぞぉーっ!」
「明日那、薬を――」
「渡さないよーん、っつーか、俺にもくれよソレ」
ヒュンヒュンと素早い風切音が、剣崎さんの周囲からしきりに鳴り響く。手渡ししようとすれば、腕を絡め取られそうだし、投げ渡せば薬を中空で掴み取られてしまうだろう。
「薬はいい……多少、痺れを感じる程度だ。戦闘に支障はない」
「へぇ、明日那は耐性高い感じ? でも、さっきより動きのキレってやつが感じられないなぁ」
夏川さんも卒倒するほどではなかったし、剣崎さんは僕から見れば変わらず剣を鋭く構えているように思える。だが、戦士や剣士などの接近戦に特化した能力を持つ者なら、麻痺による衰えが分かるのだろう。あながち、横道は調子に乗って格闘マンガみたいな台詞を語っているだけはないかもしれない。
「くそ……」
早くも、前衛二枚が弱体化されてしまった。ボスモンスでもないのに、たった一人の敵に一方的に攻められているこの状況はまずい。
しかし、霧による目隠しと幻影の囮で、横道の防御はほぼ完璧。委員長と蒼真桜は何度か攻撃魔法を放ってみてはいるが、効果はみられない。二人ともすでに『氷結放射』、『光砲』と広い範囲に効果を及ぼす範囲攻撃魔法を習得している。それで霧の向こうを薙ぎ払ってはみるものの、それでもダメなのだ。
横道はただ姿をくらますだけでなく、攻撃魔法を耐える防御手段も備えているのだろう。それが長江さんから奪った氷の防御魔法だけなのか、それとも、他のスキルがあるのか。
どちらにせよ、こちらが安全に攻撃する手段に欠ける。勿論、一か八かで前衛を突撃させるのはありえない。突っ込んだ先にあの蜘蛛糸による粘着トラップでも仕掛けられていれば一網打尽だし、逆に前衛を放置して僕ら後衛を狙ってもいい。
僕らはこの陣形を維持する以外に動きようがない。
しかし、横道はあの便利な長い舌によって、徐々に、だが確実にこちらの戦力を削り取って行く。
「くっ、痛っ!?」
「委員長!」
「むおおっ、これは一転して、何て繊細な味わい! クールで知的なこの口当たりは――」
いよいよ、ヤツの舌は後衛組みにまで伸びてきた。ヤツは男の僕を舐めたいとは思わないだろうから、次に狙われるのはメイちゃんか蒼真桜か小鳥遊さんか……確率は三分の一。誰が狙われるか予測がつけば、迎撃のしようもあるってもんだけど――
「さぁーって、お次は誰の味見と行こうかなぁ……やっぱ我らが二年七組代表美少女の蒼真桜かぁ? それとも甘ぁいスイーツの味がしそうな、ロリ巨乳小鳥ちゃんか、あるいはぁ、肉汁滴る特大ステーキみたいに美味そうな爆乳ちゃんかぁ!」
横道は自分の優位を理解しているのだろう。隙を窺いつつ麻痺舌攻撃を徹底している。こうして、これみよがしな台詞を言い放つのも、テンション上がってるのと同時に、こちらの焦りと動揺を誘う心理的な作戦の一環のつもりかもしれない。
「ヒャッハーっ! もう我慢できねぇ! ここはやっぱり最強美少女の蒼真桜だろぉーっ!」
「――っ!?」
空中をジグザグに動く不規則な軌道で飛来してきた麻痺舌は、麻痺で反応が鈍った剣崎さんをすり抜け、その背後に庇う蒼真桜へと延びる。来た、と思った時には、もう遅い。この霧の中では、目前に迫ってから出ないと、とても視認などできない。蒼真桜に、これを防ぐ術はない――はずだった。
「あぎゃぁああああああああああああっ!?」
絶叫を上げたのは、汚らしい舌を這わされたはずの蒼真桜、ではなかった。耳障りな叫び声は、霧の向こうから発せられている。つまり、ダメージを負ったのは横道の方だった。
「なっ、なんだよソレ……バリアかっ!?」
蒼真桜は身をすくませて硬直した、どこまでも無防備なポーズをしているが、その身の周囲には薄らと輝く球形の光に包み込まれていた。綺麗な光の球の内にいる彼女の姿は、もう一見して、全方位を防ぐバリアかシールドか、といったようにしか思えない。
「……それは、聖女の固有スキル『聖天結界』よ。ケルベロスの火炎放射も防いだ、強力な光の結界なの」
委員長は、どこか諦めたように教えてくれた。
ちっ、蒼真桜の奴、というか、お前ら、こんな能力を隠していたのかよ。
「いっ、イデぇ! くそっ、舌、火傷してんじゃねぇかっ! バリアとかチート臭ぇ技使ってんじゃねぇぞクソがぁ!」
釈然としないが、横道の発言には同意する。蒼真桜は自分を守る結界があると知りながら、平然と後衛に居座っていたことになる。
ちくしょう、最初から僕がこの能力を把握できていれば、絶対安全な蒼真桜を囮に利用して、横道を引きずり出す作戦ができたというのに。こんなタイミングで、しかも蒼真桜が自分の身を守るためだけに発動してしまったのでは、大した効果は望めない。
「ちいっ、蒼真桜は最後にしなきゃダメかよ……へへっ、まぁいいさ、メインディッシュってことにしといやんよ」
『聖天結界』の存在がバレてしまえば、もうその能力は彼女自身を守るためだけの防御手段としてしか機能しなくなる。今更この力を作戦として利用するには……いっそ、単独で突っ込んでもらうか。このジリ貧な状況を変えるには、悪くない手かもしれないが、蒼真桜がそんな汚れ仕事を素直に引き受けるとも思えない。
ええい、どこまでも面倒かけやがって。
「メイちゃん、次は小鳥遊さんか自分の二択だ。捉えられる?」
「それなら、多分、なんとか見切れると思う」
小声で問いかけてみれば、中々に頼りがいのある答えが返ってきた。ここで馬鹿正直に横道が次の獲物を狙ってくれれば、メイちゃんが上手く迎撃できるかもしれない。この麻痺毒の舌さえ切って使い物にならなくすれば、恐らく横道も遠距離攻撃の手段を失い、僕らの襲撃を諦めるか、接近戦を挑むしかなくなる。
無為な犠牲を払ってしまったが、それでもまだ、勝利の可能性は残っている。
「……どっちだ」
僕も『黒髪縛り』を瞬時にぶっ放せるよう集中する。ほんの僅かでも舌の動きを止められれば、その一瞬の隙を必ずメイちゃんならついてくれるはず。
確率は二分の一。横道が狙うのは、果たして、メイちゃんか、小鳥遊さんか。
「どっちの女子を味見してやろうかなぁ――っと、見せかけてぇ!」
だから、僕は反応できなかった。自分に向かって飛んでくる、奴の舌先に。
「うあああっ!」
「小太郎くん!?」
首筋に走る、鋭い痛み。まずい、首はまずい――メイちゃんの叫びを聞きながら僕は大出血を覚悟するが、感じたのは一筋の血がドロリと首筋を伝う感触だけだった。
幸い、傷は浅かった。
毒の棘、と言っていたから、鋭利な刃物のように肉を切り裂く威力はないのだろう。
「はっ、はっ、はぁ……」
急激に心臓の鼓動が跳ね上がる。命の危機を一瞬でも実感して、冷静さが失われようとしている。落ち着け、大丈夫だ。大したことない、かすり傷だ。
自分に言い聞かせるのと同時に、今にも僕の方へ駆け寄って来そうな雰囲気のメイちゃんを止めるためにも、僕はそんなことを叫んだ。
それにしても、横道の野郎、なんだかんだで男の僕も狙ってくるとは。アイツなりに、真面目に戦っていたということか。クラスの美少女を蹂躙できると欲望に突き動かされているだけだと思っていたが……
「……い」
その時、ポツリとつぶやくような声が、霧の向こうから届く。てっきり、まんまと僕に麻痺毒を与えたことで高笑いを上げながらベラベラ喋るのかと思ったが、奴は、不気味なほど静かに、そう言った。
「……んまい」
美味い。そうとしか、聞こえなかった。
「美味いぃーっ! うぅ、まぁ、いぃ、ぞぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
それは、登場してから一番ハイな叫びだった。
「なっ、なん、なんだよコレぇ! 美味ぇ、マジヤバい、これっ、美味い、美味すぎる! 桃川ぁ、テメぇの血はぁ、なぁんでこんなに美味いんだよぉおおおおおおおおおおっ!?」
知るか。
「うぉおおおおおおおっ! 男の娘の時代キタコレ! 俺は今、新時代の幕開けを見たぁああああっ!」
ドン引きである。人喰いの血液ソムリエと化している横道なんぞに、君の血は美少女よりも遥かに美味しい、と太鼓判を押されても嬉しいはずがない。
それにしても、この異常な反応。僕の血はそんなに特別に美味しい、というか、違いのようなモノがあるのか――あっ、もしかして『黒の血脈』が影響しているのか?
「が、我慢できねぇ……こんなモン味わっちまったら……我慢できねぇよぉ、桃川ぁ!」
まるでゴーマのクスリでぶっ飛んでいるかのように叫ぶ横道。
「お前をぉ、食わせろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
来る。
そう、戦士でもない僕が思ったのだ。
「させない。小太郎くんは――」
狂戦士が、捉えられないはずがない。
僕に向かって真っ直ぐに伸びてきた舌。その先端が麻痺毒針を生やしてサボテンのように刺々しい舌の鞭を、メイちゃんは左手でしっかりと掴み取っていた。
「いぎっ!? い、あぁあっ!?」
鎧熊さえ殴り殺す剛腕で、思い切り掴んだ舌を引く。横道は汚らしい悲鳴とともに、あっという間に霧の向こうから引きずり出される。
もう限界まで舌が伸びているのだろう。大口を開けた横道は無様にもがきながら、ズルズルと舌を引っ張られてメイちゃんの元へ――そう、右手一本で高々とハルバードを振り上げ、必殺の構えを見せる狂戦士の元へ引き寄せられた。
「――私が、守るっ!」
欠片も容赦のない一撃は振り下ろされる。
「ぎぃああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
それは、断末魔の叫び――否、致命傷を逃れるために、犠牲を払った苦悶の声だった。
横道は逃げられないと悟ったのか、思い切り口を閉じて、一息に舌を噛み千切ったのだ。
「いいっ、痛っでぇええええええええ!」
死ぬほど後悔してそうな苦痛の叫びを上げる横道へ、思わぬ回避行動によってハルバードの一撃を空ぶってしまったメイちゃんはすぐに引き戻し追撃を仕掛ける。
しかし、横道も伊達に魔物との戦闘経験を積んでいるわけではなかったということか。舌を切った痛みに身をよじりながらも、迫るメイちゃんへ対応してみせた。
「クソッ、このっ、死ねよっ、うがぁあああ――っ!」
メイちゃんが間合いを詰める直前、横道が血塗れの口から吐き出したのは、蜘蛛糸でも氷の息吹でもなく、真っ赤な炎だった。コイツ、赤犬のボスでも喰らって、火炎放射まで獲得していたのかよ。
「ん、くっ!?」
流石のメイちゃんも、真っ向から火炎を浴びせかけられて無事ではいられない。紅蓮の猛火にその身を炙られながらも、素早く後退して逃れる。
いけない、かなり距離をとられた。火炎放射に押されるように、メイちゃんは間合いを突き放されてしまう。
横道の舌は根元から噛み千切ったことで無力化したが、もしかすれば、まだ遠距離攻撃の手段はあるのかもしれない。再び『氷霧』の中に逃げ込まれる前に、何としても、ここで仕留めるべき。畳み掛けるのは、今だ。
「みんな、攻撃しろ! レム、行けぇーっ!」
後退するメイちゃんと入れ替わるように、槍を構えたレムが突撃を仕掛ける。それに一歩遅れて、僕も続く。
「黒髪縛りっ!」
「ぬあああっ、おいぃ、またコレかよぉ!?」
炎を吐き終わったところで、黒髪縛りをけしかけ拘束。手首と足首、それと腰元に三つ編みの黒髪触手は絡みついた。
勿論、これはすでに一度破られている。やはり、横道は瞬時に肘からカマキリブレードを生やし、髪を切って逃れる――だが、今は最初の時ほど余裕はない。
「ちいいっ、クソが!」
肉薄するレムを前に、全ての拘束を切るのが間に合わない。足首の黒髪は断念し、自由になった両手でレムを防ぐ。そういえば、横道は大剣を持っていない。メイちゃんに引きずられた時に手放したのだろうか。間抜けめ、だが、都合がいい。
「砕け散れぇえええええっ!」
剣がない代わりに、横道は拳を振り上げた。その腕にはカマキリブレードは消え、その代わりに、トゲトゲした白い骨でできた籠手のようなモノが形成されていた。もしかすると、スケルトンか、それに準じるモンスターを捕食して、獲得した能力なのかもしれない。
スパイククラブも同然の腕でもって、横道は槍を繰り出すレムを迎え撃つ。
まずは、突き出された穂先を弾く。たったそれだけで、木でできた槍の柄は砕けてしまう。しかし、武器を失っても人間ではないレムは、何の恐れもなく前進を続ける。ただの小柄なスケルトンに過ぎない骨の体では、何の迫力もないけれど、それでも横道へと体当たりを敢行してみせた。
「おいっ、コイツ、死ねよクソ雑魚がっ!」
しがみつくレムに、骨の籠手を纏った腕がハンマーのように振るわれ、あっけなく粉砕する。けれど、その一瞬、横道は意識をレムに集中してしまった。舌を切った痛み。一気に接近戦に引きずり込まれた焦り。今の横道には、余裕がない。
「やぁあああああああああああああっ!」
だから、僕でも刺せる。
レムの突撃から間髪入れずに、僕も槍を構えて攻撃した。どうせ呪術に大した威力は望めない。でも、こんな立派な鉄の槍があるのだから、これを使うのが一番手っ取り早い。
僕は呪術師で、何のスキルも能力補正もないけれど、槍のリーチと綺麗な鉄の刃、そして、ここまで隙を見せる横道が相手ならば、やってやれないことはない。
殺人の忌避感や罪悪感なんか遥か彼方にブッ飛ばしながら、僕は何の躊躇もなく、本気でこのクラスメイトの、このどうしようもなく醜くおぞましい食人鬼の死を願って、力の限りに槍を繰り出した。
「うがっ!?」
槍の穂先は、横道の脇腹に刺さる。でも、何だ、硬い。赤犬を刺した時とは、比べ物にならない反発力みたいなものを感じる。まるで、厚くて硬いゴムタイヤにでも突き刺したようだ。
刺さりはした、けど、浅い。
「がっ、あぁ……痛ってぇだろうがっ、桃川ぁあああ!」
「うわあっ!?」
振るわれる横道の剛腕。それによって、僕の槍もレムと同じ末路を辿る。あっけなく槍はへし折られ、腹に刺さった穂先の方はカランと虚しく地に落ち、柄を握る僕はレムほどガッツがあるわけでもなく、勢いに負けて無様に地面へと転がった。
「はぁっ、はぁ……痛ぇ……痛ぇよ……血が足りねぇ……」
ドクドクと血が流れる脇腹の傷を抑えながら、横道は荒い息を吐いて僕を睨む。血走ったその眼は、なるほど、コイツは確かに、人殺しの目だ。
「ちっ、血、血ぃいいいっ! 食わせろ、桃川ぁ、お前を、食わせろぉおおおおっ!」
「小太郎くん!」
飛びかかってくる横道。そこに、いつの間にか駆け寄ってきたメイちゃんが、僕の襟首を掴んで引き寄せてくれる。
攻撃よりも救助を選んでくれた、メイちゃんに感謝だ。
「苦しみもがけ――『逆舞い胡蝶』」
エスケープと同時に、僕は追撃の呪術を放つ。飛び立った『逆舞い胡蝶』の材料は、今まで一番お世話になってきた『傷薬A』だ。
魔物の爪や牙による裂傷を即座に癒してくれる、素晴らしい効果は今、真逆の効果をもって、横道に襲い掛かるのだ。そう、致命傷とは程遠い刺し傷も、コレに触れれば――
「いぃいいああああああああああああああああああああああっ!?」
傷口が開く。出血量も増加。あるいは、痛みも増幅されているのだろうか。
僕のささやかな刺し傷などものともせずに反撃してきた横道だが、『逆舞い胡蝶』によって抉られた傷の痛みで絶叫を上げる。
「あああああっ! クソぉ! ちくしょあああああ――」
苦痛にのたうちながらも、横道は再び火を吹く。メイちゃんは僕を抱きかかえ、素早く下がる。
「僕はいいから降ろして! 今だ、横道にトドメを――」
「……ごめんね、小太郎くん。ちょっと、無理みたい」
滅茶苦茶に吐き出された火炎放射により、周囲は炎の壁ができあがり、容易に一歩を踏み出せない状況。そして、揺らめく炎の向こう側に、背を向けて走り出す横道の姿を見た。
「うぁああああっ! 桃川っ! 桃川ぁあああああああああああああああっ!」
何故か僕の名前を絶叫しながら、横道は走り去って行った。
「逃げた、か……はぁ」
安堵の息をついたのは、窮地を脱したからか。それとも、人殺しをせずに済んだからか。
今の僕には、よく分からなかった。