第4話 背信
「――生きてるって、素晴らしい」
僕は九死に一生を得た。
どれくらい眠っていたのかは分からない。それでも、大地へどっかりと横たわる鎧熊の死骸がそのままで、血の臭いを嗅ぎつけた野生動物か別の魔物が現れていないことを思えば、そんなに長い時間、意識を失っていたわけではないのだろう。
お腹の傷は、とりあえず出血は止まっている。腹部は乾いた自前の血糊でドス黒かったけど、触れてみれば、四筋の傷痕にそってかさぶたができているのが分かった。こんなにデカいかさぶたが自分の体にできると、改めて戦々恐々とする。
そういえば、熊の爪って雑菌が凄くて、一撃喰らったら傷よりも感染症の方がヤバい、なんて話を聞いた覚えがある。まさか、口で磨り潰した時についた僕の唾液だけで、完璧に消毒も解毒もできてるってことはないだろうけど……いや、今は考えても仕方ない。大丈夫であるよう、祈ろう。
「うぅ……ちょっと、フラフラする……」
さて、いつまでも生の喜びを実感しているわけにはいかない。この場に留まり続けるのは危険に過ぎる。鎧熊でなくても、肉食の生物が現れたら、今の僕はひとたまりもないのだから。
しかし、これから何処に向かって逃げるべきか。いや、方向そのものはコンパス機能で分かるけど、肝心のダンジョンにはあとどれくらいで到着するのか――
「そ、そうだ、ダンジョン!」
高島君というクラスメイトの死体がある、ということは、ここがダンジョンのスタート地点ということじゃないだろうか。僕の立てた推測によれば、そういうことになるはず。
しかし、どう見たって、ここは今までと同じ森の中に見えるけど――
「――あった!」
改めて周囲を見渡せば、すぐ近くに岩の祠があることに気づいた。苔が生す表面に蔦が絡みついており、パっと見では森の緑に紛れて分かりづらいが、一度それと気づけば見失うことはない。
高さ四メートルほどもある長方形の建物は、この深い森にあって確かな人工物であることを主張している。これこそがダンジョンへの入り口に違いない。
それにしても、コレを見落とすとは、さっきまでの僕は本当に錯乱してたんだな。でも、なんだかんだで鎧熊を倒すことに成功したんだから、凄い機転と行動力を発揮してたともとれる。
おお、もしかして僕、やれば物凄くできる子なんじゃないだろうか。
そんな風に、自画自賛しながらダンジョンの祠へ向かおうとした、その時だった。
「――うお、マジで外って森になってんのかよ」
聞き覚えのある、声が聞こえた。それは紛れもなく、祠の中から発せられていて……つまり、クラスメイトの誰かが、ここへ現れようとしていたのだ。
「おーい! 誰かいるのっ!」
この際、誰でもいい。あんなモンスターが闊歩する危険地帯にあって、同じ人間がいるというのは、この上ない安心感である。
とりあえず、クラスメイトと合流できたことを素直に喜ぼう。
「あぁ? 桃川? なんだお前、生きてたのかよ」
薄暗い祠の向こうから現れたのは、茶髪にピアス、不良生徒。樋口恭弥だ。
「え、桃川くん、いるの? うわっ、ホントだーっ!」
次に現れたのは、金髪ツインテールのロリ、レイナ・A・綾瀬。
「ほ、ホントかよっ! 小太郎っ!?」
そして最後に現れたのは、横幅のある我が友人。
「勝っ!?」
「おおおぉっ! 小太郎、無事だったのか!」
斉藤勝。最も見知った太めの友人を前に、僕は今度こそ涙を流すレベルで歓喜と安堵の念につつまれる。
だってそうだろう、これは単純に人と出会えて安心するという以上に、天職を授かった頼れる仲間が増えたってことでもあるのだから。流石に三人もいれば、戦士や炎魔術師といった使える天職を得ているだろう。まさか、呪術師がかぶるなんてことはあるまい。
それに、僕の呪術師の能力だって、戦ってくれる味方がいれば生かせ――
「おい待てよ、桃川」
その時、喜び勇んで駆け寄ろうとした僕の足が止まった。いや、止められたんだ。
足元へ飛んできた、一本のナイフによって。ギリギリ、あと三センチでも踏み込んでいれば、この上靴ごと僕の足の指を切り裂いていただろう。
「な……」
「おい! 何するんだよ、樋口っ!?」
僕の代わりに、勝が叫んでいた。
「ッセーな、サンをつけろよクソデブが。テメぇは黙って、そこに転がってるデカブツのコアを獲ってこいや」
「小太郎が生きてたんだ! 助けないと――」
「じゃあ代わりにテメェが死ぬかぁ? あぁ?」」
ズボンの後ポケットから――だろうか、かろうじて見えた。樋口が瞬時にバタフライナイフを取り出し、勝の喉元にその鋭利な刃を突きつけたのだった。
「俺らはもう三人いんだよ、忘れてんじゃねぇぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何で仲間割れなんてしてんのさ! 今はみんなで助け合って――」
「はっ、桃川、テメェ頭沸いてんのか?」
僕が叫んだ至極当たり前の訴えは、鼻で笑われた。
「いや、っつーか、メール読んでねぇのか。気づかねぇとか、頭悪すぎんだろ」
やっぱコイツいらねーわ、とせせら笑いながら、樋口はナイフを勝から引いた。
「斉藤ぉ、ボサっとしてねぇで、さっさとバラしてコア持ってこい。桃川は俺が始末つけといてやっから。あ、レイナちゃんは中で待っててよぉ、血ぃとか見たくないでしょ?」
何が何だか分からないけど、明らかに良くない方向に話が進んでいる。そして、状況も流されている。
勝は顔を真っ青にして、樋口の命令に従って、鎧熊の死骸へと進み始めた。
そして、気持ちの悪い猫なで声で「待っててよ」と言われたレイナは、このどこか異常な雰囲気にも関わらず、素知らぬ顔で祠の奥へと引っ込んで行った。
「んじゃ、桃川、悪ぃけど死んでくれや。あのデケぇヤツを殺ってくれたのだけは、感謝しといてやるぜ。美味しい獲物、ごちそうさん」
そして樋口は、本物の殺意を宿した獰猛な笑みを浮かべて、バタフライナイフ片手に僕へと歩み寄ってきた。
「えっ、ちょ、待って! 待ってよ、何で僕が――」
「おい、あんま動くなよ。一発で急所にキメて楽にイかせてやろうっていう、俺の優しい気遣いを台無しにすんじゃねぇーよ」
ふざけた物言いだけど、決して冗談ではなく、本気。直感で分かる。樋口は本当に、このまま近づいてきて、僕を刺す。当たり前のように、躊躇も、後悔もなく。
事実、その刃はもう、振り上げられていた。
「そんじゃ、いっちょ派手に死んでくれや――」
「僕を刺したら、呪術師の能力でお前も死ぬぞっ!」
樋口の手が、止まった。
「テメぇ……フカしこいてんじゃねぇぞ」
じゃあ、どうして手を止めた。樋口は明らかに警戒している。そうだ、コイツだってもう知ってるはずなのだ、天職という超常の力があるってことに。
「喰らったダメージをそのまま全部、相手に跳ね返す。それが、僕の能力だ」
キャリン、と甲高い音がして、バタフライナイフは折りたたまれた。刃を収納し、柄だけとなったナイフを握った拳が――
「ぶはっ!?」
僕の顔面に炸裂した。痛い、というより、その衝撃に驚く。
「――はっ! クソっ、マジかよクッソ!」
目の前には、僕と同じようにのけ反って顔面を抑える樋口の姿があった。素晴らしい、僕のような貧弱ボーイでも、『痛み返し』があれば、殴られ損にはならないのだ。
幸いにも、鼻の骨も前歯も折れてはいない。その代り、鼻血が伝ってくるのを感じた。別にいいや、これくらいはニセタンポポを使うまでもない。
「な、なぁ樋口さん、小太郎は――」
「っせぇよデブっ! テメぇは黙ってコアとってろ!」
僕がそのまま殺されなかったせいか、勝はどこかホっとしたような表情をしていた。
けれど、樋口の凶行を止めるどころか、唯々諾々と従っているだけの友人の姿に、僕としては不満と不信感しか募らない。樋口さん、って何だよ。勝はダメだ、頼りにならない。
「樋口、コアってなんだよ、説明しろ」
「桃川ぁ、舐めた口きいてんじゃ――」
「僕の能力はもう分かっただろ。刺したら、今度こそ死ぬぞ!」
血管がキレそうってほどに憤怒の感情が表情に出ている樋口。だが、その怒りのままにナイフを振るうほど、バカではないようだ。こんなヤツと共倒れなんていう最悪の結末にならなくて良かった。
「……ちっ、いいぜ、教えてやるよ」
数秒の沈黙の後、樋口は口を開いた。言葉だけでは渋々、といった感じだが、何故か、すっかり溜飲が下がったように、再びうすら笑いを浮かべ始めた。
嫌な予感しかしないが、今は話を聞くより他はない。
「『天送門』を動かすのに必要なアイテムだ、コアってのはな。そこで死んでるような魔物からとるんだ、直接、体ん中からよ」
横目で見れば、勝はナイフ片手に鎧熊の死体を漁っていた。手にするナイフは、樋口のバタフライとは違って、妙に古めかしいデザイン。そういえば、樋口が投げてきたナイフも同じよな形だから……ダンジョンの中で入手したんだろうか。
それにしても、あんなナイフ一本で固い甲殻に覆われた鎧熊を上手く捌けるはずがない。それも勝は分かっているのだろう。甲殻を引き剥がすのは諦めて、血と脂に塗れるのを覚悟で腹部の傷痕から手を突っ込んでいた。
あんなんでコアとかいうのを獲れるんだろうか――なんて思ってたら、
「あ、あった! とれたぞ!」
どうやら獲れたらしい。血がべっとりとついた右手には、眩い輝きを放つ真っ赤な宝石があった。
「あれが、コア……」
「いいねぇ、デケぇ図体してるだけあって、コアもデケぇ!」
喜色満面といった樋口の様子を鑑みるに、魔物からとれるコアには大小の差があるようだ。恐らく、コアっていうのは魔力みたいなエネルギーの結晶なんだろう。魔法があるなら、それを成立させるエネルギー源たる魔力があって然るべき。
そして、離れた場所へワープするなんていう魔法の機能を有す天送門も、それを起動させるにはある程度の魔力が必要ってことなんだろう。さながら、ガソリンの切れた車だ。
「鎧熊は僕が倒した、だから、あのコアは僕のモノだ」
当然の主張だった。コアは脱出には必要不可欠なキーアイテムである以上、樋口に渡すなんて絶対に御免だ。
「おい斉藤、撤収だ、さっさとダンジョンに戻るぞー」
しかし、樋口は聞く耳どころか、全く無視で背中を向けた。
勝は言われた通り、コアを手にして樋口のすぐ隣まで歩み寄ってくる。僕と一瞬だけ視線があうと、気まずそうに目を逸らす。
何も言わずとも、その赤いコアを樋口へ手渡していた。
「ふ、ふざけるなっ!」
「なぁ、桃川ぁ、テメぇ、俺からコアを奪い返せる力、あんのかよ?」
悪魔の笑みに顔を歪ませて、樋口は振り返った。これみよがしに、血塗れのコアを見せびらかしながら。
しまった……コイツ、僕に攻撃能力がないことを見抜いている。
「呪術師ったっけ? どう聞いてもコレってよぉ、殺し向き、じゃねぇよな? なぁ桃川、おい、ムカつくだろ、このクソDQNが、とか思ってんだろオタクなテメぇはよ。だったろよ、今すぐ殺ってみろよ。呪術師の能力で、俺を、呪い殺してみろよっ!」
できるはずがない、と確信している目だ。事実、できない。僕は返す言葉がなかった。
「ひゃはははっ! 無理だろっ? 無理なんだろぉ、ええっ! なぁにが呪術師だ、このクソ天職が。そのデカいのも、さっきの能力でたまたま殺れただけだろ」
半分正解で半分不正解だよ、このクソDQNが。
「コアはこのまま俺がもらう、テメぇはそこで見てるだけ。抵抗すんじゃねぇぞ、こっちは三人いる――あ、そっか、そうか、なんだよ、んでこんな簡単なコト気づかなかったかなぁ、俺ぇ」
あーあ、とわざとらしく呆れた顔で、ワックスで尖らせた茶髪をぼりぼりとかく樋口。何か、ろくでもないことを思いついたに、違いない。
「斉藤、お前ちょっと桃川ボコれ」
最悪だった。『痛み返し』は、攻撃してきた対象にしかダメージは跳ね返らない。勝が僕を殴っても、樋口は痛くもかゆくもない。
「え、そ、それは……」
「早くやれって。泣くまでぇ、殴るのぉ、止めないっ! ってよぉ、なんのセリフだっけ? まぁ、好きだろ、そういうの?」
勝は明らかに戸惑っている。だが、それだけだ。躊躇しているだけで、樋口に言われれば、やる。僕を殴る。必ず。
「勝……樋口に、脅されてるのか」
「……ごめん、小太郎」
聞かなくても分かった。勝は樋口より、弱いのだ。普通に喧嘩しても、天道君ほどじゃないが、そこそこタッパのある樋口に勝は勝てない。木刀小太刀二刀流でも、無理だろう。
そして、天職を得ただろう今になっても、勝てないのだ。
樋口は躊躇なく僕を刺しにきた。恐らく、もう誰かを殺している。手馴れている。殺人の覚悟が、ヤツにはある。
命を握られれば、人は何でも言う事を聞く。聞かざるを得ない。当たり前のこと、僕だってそうなるだろう。
理解はできる――けど、
「ちくしょう……友達っていっても、こんなもんか……」
納得なんて、できるはずなかった。裏切られたと、恨まないはず、なかった。
「小太郎、ごめんっ!」
痛かった。その拳は、鎧熊の一撃よりも、樋口の一発よりも、ずっと。僕の頬と、心を抉った。
倒れた僕へ馬乗りになって、勝は何度も拳を振るう。
「ごめん……ごめん……」
涙が出る。僕も勝も。そりゃそうだ、どっちも平等に顔面パンチを喰らってるんだから。マウントポジションなんて関係ない。
右頬が腫れる。左頬も腫れる。また鼻血が流れ出した。お互い、満身創痍。
「そういやぁ、言い忘れてたけどよぉ、ここの天送門って、三人しか送れないらしいんだわ」
苦痛と屈辱の底であえぎながら、最後の納得がいった。
ああ、そうか、三人しか助からないのか。だから四人目である僕は、助けられない。助けたくない。
「桃川が呪術師なんてクソ天職じゃなくて、治癒術士とかだったら、イマイチ使えねーこのデブ捨てて仲間にしてやったんだけどよぉ」
はは、勝、お前、捨て駒だって言われてるぞ。僕を殴ってる場合じゃないだろ。怒れよ。少しでも、男のプライドがあるんなら、相打ち覚悟で樋口を刺してこいよっ!
どうしようもなく友情に亀裂の入った今じゃ、そんな悪態しか心の中に浮かばない。
「な、良かったな斉藤、お前のお友達がカスみたいな天職で。小太郎クンが呪術師になってくれたお蔭で、僕は樋口様に捨てられずにすみましたーって、感謝しながら殴りなさーい。いやホント、お前、いい友達もったよ、羨ましいぜ」
くそ、くそっ、くそぉ!
呪ってやる、呪ってやる、必ず、呪い殺してやる! 樋口、お前は絶対に、僕が、呪い殺してやるからなぁ!
「はぁ……はぁ……ひ、樋口さん……これ以上は……」
「ぎゃははは! すげーイケメンになったじゃねぇか、斉藤!」
腫れあがった顔面を指差して爆笑する樋口。ちくしょう、僕の顔も今、あんな風になってるのかよ……
「お、お願い……します……」
「あーあー分かった、分かったよ。トドメだけは刺せねーからな、仕方ねぇ」
流石にこんな勝でも、僕の命と引き換えに失うのは惜しいだろう。ははっ、こんな従順な奴隷、そりゃあいたら便利だものな。
僕は軽蔑の眼差しで、勝が体の上から退くのを見送った。重いんだよ、このデブ。樋口の次は、お前を呪ってやるからな。
「そんじゃあな、桃川、今度会うときまでに、お前の殺し方考えとくわ。別に魔物に喰われてくれてもいいけどな――ぺっ」
最後に、僕の顔面に唾を吐いて、樋口はダンジョンへと立ち去って行った。
くそ、ちくしょう……ただの不快感だけじゃ、痛み返しは相手に返してくれない。
「必ず……呪い殺して、やるぅ……」
口ではいくらでも言える。けれど今の僕はただ、悔し涙を流しながら、去りゆく二人を見送ることしかできなかった。
最低最悪のクソ野郎と、裏切者の友人。
許さない。僕は絶対に、許さないからな――