第480話 スッキリした
「えっと――――誰、かな?」
芽衣子の言葉を聞いて、最初に湧き上がった感情は怒りだった。
リザはジェラルドと共に、万一に備えて小太郎の護衛として同行し、感動の再会となるはずだったこの時も、互いの言葉が聞こえるほどの近距離で身を隠していた。
大人しく見守るだけに留まるはずだった簡単な任務はしかし、芽衣子の一言でリザは怒りのままに魔人化して殴りにいきそうな自分を辛うじて抑えた。
『狂戦士』双葉芽衣子。
その女が如何に自分にとって大切か、リザは農園の反乱を成功したあの日の夜から聞かされている。言うなれば、精霊戦士の長。御子が最も信を置く、一番の実力と忠誠を持つ腹心。
リザは芽衣子の存在をそう理解していた。
だから、小太郎が彼女を特別扱いすることに、何の嫉妬も湧きはしなかった。本物の天職持ちであり、その実力は確か。何よりも大迷宮を共に最後まで攻略したという、凄まじい功績があるのだ。
なるほど、御子の精霊戦士長となるに相応しい実力と経歴である。新参者に過ぎない自分が、何か意見出来るような立場ではない。
だから黙って見守っていた。他でもない、小太郎自身がこの再会を何よりも、誰よりも望んでいたのだから。
それを祝福こそすれ、反対する理由など何一つありはしない――――芽衣子が小太郎を拒絶する一言を放つ、今この瞬間までは。
この女は何を言っているのだ。リザは全く理解できなかった。
小太郎が、この最高の御子が、どれほど力と心を尽くして迎えに来たのか。農園で反乱を起こし、ヴァンハイトで歴史的な階層突破を果たし、ようやく辿り着いたのだ。常人では決して成し得ない難行を超えて、小太郎は芽衣子の前に立っている。
リザはその苦労を、誰よりも理解している。何故なら自分は、自我も怪しい奴隷として農園にやって来た時から、ずっと小太郎の傍にいたのだから。
この苦労は、報われなければならない。この思いは、実らなければならない。
そんなことリザが案ずることもなく、報われるはずだったし、実るはずだった。
けれど芽衣子は、それを一言で一蹴した。
誰だお前は。私はお前のことなど知らない。
彼女の主張を理解するには、そのたった一言で十分過ぎた。
「……ごめんなさい、間違えました」
真っ赤になった怒りを抑えることに必死で、気づいた時には、小太郎は踵を返して駆け出していた。
その姿に、噴火するような怒りから、胸が張り裂けるような悲哀へと変わる。
思い実らず涙を流して走り去るその姿の、なんと哀れなことか。
これが人智を超越した、御子の姿か。
神の寵愛を一身に受け、自分達を解放し導いた、救世主の姿か。
何故、私の御子様がこんな思いをせねばならぬ。こんな仕打ちを受けねばならぬ。
泣かせるな。悲しませるな。小太郎を苦しませる全てが、憎くて溜まらない。
けれど、この身は所詮、ただの精霊戦士。
芽衣子がどれほど身勝手な理由で小太郎を拒絶していようとも、小太郎自身がそれを認めるのならば、自分如きが口を挟むことなどできない。
それに強い怒りを覚えるのは、自分にだってそうだ。
小太郎がこれほど哀しみに暮れているにも関わらず、自分には何一つ気の利いた慰めの言葉すら出てこなかった。身の回りの世話が出来る。戦うことが出来る。そんなことは御子の傍に侍ることを許された身としては、出来て当たり前のこと。
その御心の支えとなってこそ、真に仕える者としての価値がある。
だと言うのに、悲しみのあまりに床に伏せってしまった小太郎に、自分は何も出来ず、何をしていいかもまるで分からない。
これではただ言いなりに動くだけのスケルトンと、一体どれほど違いがあるというのか。
「やれやれ、まさか若様にこんな弱点があったとはのう」
「笑っている場合ではありません、ジェラルド。これは由々しき事態です」
自らの不甲斐なさを棚に上げて、ジェラルドの言葉に苛立ちをぶつけてしまう。
本当に、笑い事ではない。これまでどんな苦難を前にしても、笑って乗り越えてきた偉大な御子が、塞ぎこんでしまったのだ。
これは正にディアナ神話に伝わる、太陽の神が奈落の大穴に隠れ、世界が闇に閉ざされた一節も同然の事態である。
それほどの事の重大さだと言うのに、ジェラルドはまるで理解を示さず、市井で話題の色恋沙汰程度に過ぎないと笑い飛ばす。
「全く、デカいナリをしておるくせに、考えは色を知らぬ子供か。良いかリザよ、女に袖にされた心を癒すのは、やはり女にしか出来ぬのだ――――お前が慰めろ」
だが、その言葉を突きつけられた瞬間、リザの心に閃いたのは、紛れも無く期待であった。
「慰める、とは……」
「ふん、その気がないワケではなかろう。お前が若様を見る目に、純粋な尊敬と敬愛のみ、とは言えぬだろうが」
「……」
不躾な視線を向けているという自覚はあった。
そもそもディアナ人で、小太郎の神秘的な美貌に目を奪われない者などいない。歴史上、魔性の美少年と語られる者は多いが、小太郎の容姿はただそれだけで後世に語り継がれるに相応しいものだ。伊達に女神の寵愛を受けてはいない。
だから、と開き直ってしまえば言い訳でしかないが、リザも忠誠心だけでは収まらぬ、邪な目を向けるのも致し方ないことなのだ。
むしろ自分はよく抑えている方だと思う。これほどの美貌を誇る御子ならば、本来は現人神が如く、おいそれと近づくことすら畏れ多いという対応になる。
だがしかし小太郎は、まるで自分の美貌を理解していないかのように、人懐っこい子供のような距離感でいてくれる。
外を歩けば手を繋ぎ、風呂に入れば背を流し合い、夜は共に抱き合って眠る。
ディアナのどんな精霊戦士よりも、今の自分ほど幸福を享受してきた者はいないだろう。
十分だ。これ以上の寵愛を望むのは、あまりにも強欲というもの。
いいや、これ以上先に進んでしまったら、自分でもどうなるか分からない。絶対に歯止めが効かなくなる。この手で清く正しく愛らしい御子様を、穢してしまいそう。
そう自らをずっと戒めていたというのに、
「リザよ、お前とは共にフルヘルガーと戦った仲じゃ。信頼できる戦友だからこそ、儂は応援するし、協力もしてやろうと言うのだぞ――――今宵は誰も、ここには近づけん」
ジェラルドの言葉は、正に悪魔の誘惑。
自分の心の中に突き立つ理性という名の柱に、バキバキと亀裂が入って行く音が聞こえる。忠誠心という梁が、敬愛という壁が、限界を迎えて軋みを上げている。
ダメだ、これ以上の誘惑を聞いたら、自分が何とか保っている『理想の精霊戦士』という形の神殿が、完全に崩れ去ってしまう。
「二人きりでどうするかは、お前の自由だが――――若様はあのフタバという女を大層お気に入りじゃ。割って入ろうと思うならば、今しか機は無いと心得よ」
その言葉が決定的となり、心の神殿は地盤から崩れ去った。
そうだ、双葉芽衣子が自ら栄えある精霊戦士長の座を捨てたならば、後に収まるのは自分であるべきだ。
すでに誓った、この身も心も全てを捧げると。自分は決して、あの狂戦士のように恩知らずの裏切り者になどなりはしない。たとえこの先、全て失敗して何もかもを失い、何もかもを敵に回すことになったとしても、自分だけは傍にあり続ける。
それだけの覚悟は決めた。それほどの思いが、膨れ上がって止まらない。
だから、これで良いのだ。今夜、自分が御子・小太郎の一番になる――――すでに心は己の欲望に傾き、止まらなくなっていた。
「坊ちゃま」
今この時ほど、過酷な鍛錬によって感情を面に出さなくなったのを、幸いに思ったことはない。
熱くドロドロとした抗いがたい衝動が、全身を駆け巡っているのを感じる。気分は正に、犯行に及ぶ寸前の性犯罪者か。狂えるほどの興奮が脳を犯す。
「坊ちゃま、一つだけ、お願いをしても良いでしょうか」
何がお願いか。
もしも断られたとしても、今の自分は決して止まらない。
欲しい。欲しいのだ。
一度でも、手に入るのだと思ってしまったのなら、もう欲するのを止められない。
「私に、淫紋を授けていただけませんか」
いつかの酒の席で、ジェラルドからの又聞きで耳にした情報。小太郎は自ら愛した女に、特別な恩寵を賜ることが出来るのだと。
それは紛れも無く、御子の寵愛の証明。双葉芽衣子ともう一人の女、合わせてたった二人だけが持ちえる、愛の証だ。
リザはソレが欲しかった。欲することさえ罪深いと自覚しながらも、そんなモノがあると知ってしまえば、願わずにはいられない。
そして今夜、ついに欲望の箍は外れた。
手を伸ばせば届く距離に、ソレがある――――リザは小太郎の返事を聞き届けた覚えが無いままに、小さく柔らかな頬を両手で包み込み、そっと唇を寄せた。
◇◇◇
「――――どうしよう」
一晩リザと寝たら滅茶苦茶スッキリしてしまった。
爽やかな朝の陽ざしが差し込む寝室の中、やたら冴えた頭で僕は新たに生えた問題に直面している。
「いやマジでどうしよう」
やってしまった。傷心をいいことに、流れと勢いに乗りに乗ってリザと一線を越えてしまった。
「今までの僕の苦労は何だったんだ」
僕がどれだけ我慢してきたと思っている。夢見心地の頭パーな奴隷のガキ時代は良かったさ。僕にはリザの胸の中か、ルインヒルデ様の胸の中かも、区別がつかずにスヤスヤだったのだから。
けれど復活を果たした後も、リザは頑なに僕への添い寝を貫いた。いや分かっている、拒否しなかった自分の責任であるとも。
この僕がリザの母性溢れる褐色の豊満巨体に包まれていても添い寝のラインを守れていたのは、紛れも無くダンジョンクリア後に送った甘く爛れた生活で多少の快楽耐性があったからだ。すでに童貞ではない僕は、多少の誘惑にも耐えられる……耐えられるはずだったんだ!
「こんなことならもっと早く――――いやごめんなさい、ほんと取り返しのつかないことをしてしまって」
自棄になって最低な言葉ばかり出てきそうになるが、昨日はサボりにサボっていた僕の理性は、今日はやたら張り切って頭を冷やしてくれる。
そうさ、どう言い訳しようと、全ては僕の責任で、もう取り返しのつかない状況になってしまったということなのだ。
ああ、ちくしょう、せめてアルビオンの分身が十全な状態だったなら、杏子に慰めてもらって事なきを得たというのに。
今はあっちの分身も定期連絡の頻度も落とさざるを得ないほど、ギリギリの維持となっている。傷心を理由に、あの封印結晶から飛び出して杏子に泣きつけば、10秒と保たず消滅してしまう。
幾ら何でも唯一の連絡手段を、そんな感情的に消費しきっていいはずがない。
じゃあ別な女に体で慰めてもらうのはいいの? と問われれば……
「おはようございます、坊ちゃま」
「あっ……おはよう、ございます……」
ベッドの上で悶々としている内に、リザが現れる。
僕が目覚めた時、すでに裸の彼女の姿は隣に無かった。寝ぼけ眼の起き抜けにイチャイチャすることなど一切なく、リザはいつもの通りに給仕服をパリっと着こなして、折り目正しく僕へと傅く。
ふむ、実は昨日のコトって、全て僕の夢なのでは? ショックのあまりに妄想と現実の区別がつかなくなっている可能性とかワンチャンあるのでは?
「あー、昨晩は、その……」
「まずはお体をお清めいたしましょう」
しどろもどろにリザの真意を確かめるような言葉をゴニョゴニョしていると、素っ裸のままの僕の体がヒョイと猫のように抱えられる。そしてそのまま、浴室へと強制連行。
スルスルと流れるように給仕服を脱ぎ去ったリザの裸体と、僕は再び向き合っていた。
「坊ちゃま、これからはこちらのお世話もリザにお任せください」
下腹部に刻まれた淫紋が輝く彼女に、僕には成す術などあるはずも無かった。
◇◇◇
「はぁあああ……若いってええのぅ……」
一夜の過ち、という言い訳すらできない濃密な朝の時間を過ごしてから、ラウンジに顔を出せばジェラルドの第一声はそれだった。
「ありがとうございます、ジェラルド。貴方の忠言のお陰で、私は坊ちゃまから寵愛を得ることができました」
「なぁに、若者にお節介を焼くのは年寄りの性よ」
「くっ……リザをけしかけたのはジェラルドだったのか」
「はっはっは、そう恨めしい目で見てくれるな。若様とて、その気がないワケでも無かったであろう。此度の件はリザと結ばれる良い機会であったと思う方が良かろうよ」
「ちくしょう、ぐぅの音しか出ない」
ジェラルドからすれば、僕とリザが結ばれるのは喜ばしいことだろう。彼はメイちゃんとも杏子とも面識はないワケで、僕との色恋沙汰となれば、戦友たるリザを応援するのは筋である。
そして僕は常々、男友達に愚痴るが如く、欲求不満なのだと口にしていた。その度にジェラルドは良い店を紹介してやるなどと言ってくれたが、僕はこれでも努力して操を立てて来たつもりだった。そう、所詮はただの「つもり」である。
こんな分かりやすい状況になれば、これ幸いとジェラルドがリザを焚きつけるのもごく自然な流れと言えよう。お節介と言えばそれまでだが、リザとて本気でなければ口車になど乗りはしない。
分かっている、リザもまた本心から僕の事を思っていてくれているのだと。
「して、晴れて思い合う男と女が結ばれたのじゃ。しばらくは二人の仲を育む期間が必要かの?」
「僕もそうしたいのは山々だけれど、残念ながらハネムーンに行ってられるほどの余裕はないよ」
「はい、私はこれまで以上に、坊ちゃまをお支えするのみ」
何もなければ色ボケも大いに結構だが、シグルーンに来た目的を忘れるわけにはいかないからね。
ただ、当初の予定を少々変更しなければならないが……完璧にスッキリした頭で考えれば、すぐに新しい方法は思いついた。
「さて、昨日は見ての通り、メイちゃんには僕との接触は断られたワケだ」
「坊ちゃま、あの女のことは、もうお忘れになった方がよろしいかと」
「はっはっは、露骨に言いよるわ」
「如何に強い戦士であろうと、当人に戦う気がなくば見習いにも劣ります」
リザの言う事には一理も二理もある。
昔の女のことなどスパっと忘れて、今の彼女に捧げるべきだし、実力があってもヤル気が無いなら戦わせることもできはしない。
「本当にメイちゃんが僕のことを見限ったなら、それでも良かったんだけれど――――」
いや全然よくないし、一生モノのトラウマになって死ぬまで引き摺るだろうけど、それでも彼女が選んだ道ならば、大人しく身を引くしかない。
けれど、そうじゃないなら話は別だ。
いいや、そうじゃない可能性が少しでもあるならば、僕はそっちに全力で賭ける。僕は少女漫画みたいな些細なすれ違いや誤解なんかで、関係をご破算にするなど絶対に御免だ。どれほど無粋で未練たらしかろうとね。
「――――僕と同じように頭を弄られてるなら、放っておくことはできない」
本気でメイちゃんが僕との関係を断とうとするなら、素直に別れ話をするだけだ。彼女はそういう人柄だし、逆に面と向かってお断りしなければ、僕がどこまでも未練がましく喰らいついて来る、ということも知っているのだから。
そんなメイちゃんが僕を前に初対面の反応だったってことは、本当に記憶が失われている、または改竄されていると見るべきだ。
「このテの精神操作には十分な耐性があると思っていたんだけど、見込みが甘かったようだ」
あの小鳥遊の洗脳スキルも打ち破って、僕の下へ駆け付けてザガンを倒してくれた『狂戦士』だ。そんじょそこらの精神系スキルで、どうこうできるレベルにはない。耐性値というステータスがあるならば、確実に僕の方が低い。
そんな僕でも、女神派による洗脳から自力で目覚めることができた。ならば当然、メイちゃんが同様の処置を受けていたとしても、さらに早く目覚められる、あるいは通じていない、と思っていた。
だが、僕が受けた洗脳よりもさらに強力な術を使われた可能性も考えるべきだったのだ。紫藤を含めて、女神派には熟練の『賢者』もいる。奴らの擁する最高レベルの洗脳魔法をつぎ込めば、今のメイちゃんの耐性を上回ることも不可能ではなかったワケだ。
これらの状況は少し考えれば想定されて然るべきだが、アストリアでの活動があまりにも上手く行きすぎて、僕も浮かれてしまっていた。それにメイちゃんへの信頼という名の無責任で、本当の最悪を見据えた対策を怠ったのだ。
拒絶されてショックなど受けている場合ではない――――そう考えられるのも、情けないことに理性が戻ってきた今になってからなのだけど。
「クランを辞めて屋台を始められる程度の自由が許されていることを鑑みると、忠実な奴隷にできるほどの強制力は無いと見える」
自称最精鋭の聖堂騎士団を蹴散らしたメイちゃんがいれば、口だけの雑兵なんぞ半分に減らしたっていいわけだ。僕にとっての飛車であり、大駒を奪えたならば、その能力を最大限に発揮できる使い道を選ぶはずだが……彼女をいいように扱っていないのは、それが出来ないことの証である。
「なら、どうにか目を覚まさせてやろうってことじゃな」
「いや、そこが僕にとっても悩みどころでね……正直、屋台をやってる今の方が平和で、彼女にとっては幸せなんじゃないかとも思うんだ」
昨日の僕は確かに取り乱しぶりが極まって、頓珍漢なことばっかり頭に浮かんでいたけれど、それでも冷静になった今でも頷ける考えもある。
メイちゃんはこのまま、アストリアの一般人として生きる、という道だってありえるのだ。彼女が正気に目覚めて僕の下へと戻って来たところで、待っているのは女神派と最強勇者リリスとの戦いだ。
きっとメイちゃんは僕のためにと迷うことなくこの戦いに身を投じてくれるだろう。しかし、僕のことなんか忘れた今ならば、そんな義理やら人情やらといった柵を抜きにして、彼女自身の望みを叶えられる。
そう、記憶を失った今だからこそ、彼女は大好きな料理の道へと何の憂いも無く進むことが出来るのだ。それを幸せと言わず、何と言おう。
「洗脳が解けるかどうかは、メイちゃん自身に任せようと思う」
元より、自然な解除が最も望ましいことに変わりは無い。僕だって何でも出来るワケじゃない。一発でポンとお手軽に洗脳魔法を解除できるような呪術も方法も、持ち合わせてはいない。
精神魔法系は火や氷といった属性魔法とは、また違った系統だし。テレパシーみたいな形の無い曖昧な力だと、錬成陣で弄ることも出来ないし。小鳥遊は死んだが、それによって術者本人が不在となり、研究する対象も存在しないということにもなっている。
洗脳から目覚めさせようと思ったところで、今の僕らに出来ることなど、正しい記憶を語って聞かせるか、当時の状況を再現した戦いをするとかのショック療法的な、リスクのある方法しかないワケで。
「では放っておくと?」
「まさか、人の記憶を弄るような外道連中が監視してるかもしれないのに、何もせず放っておくなんてありえないね」
今の屋台メイちゃんは平和な生活そのものだが、それを女神派が保障しているワケでも何でもない。奴らにちょっと不都合なり懸念なりが生ずれば、元より危険な敵であった女なんて、すぐに消すとか処すとか判断するに決まっている。今はまだ泳がせているだけ、なんて可能性も高いのだ。
あんな奴らの胸先三寸で、メイちゃんの平和が脅かされる状況になんてさせられない。
「だから僕は、メイちゃんのことはすぐ傍で見守ろうと思うんだよね」
◇◇◇
「あの子、何だったんだろう……」
人違いだった、と去って行った謎の子供のことを、クランハウスの正門を出る度に芽衣子は思い出してしまう。
あれから一週間は経過している。再びあの子供を見かけることは無い。
自分で人違いだったと言ったのだから、そうなのだろう。芽衣子は他人の空似であり、自分によく似た他人に思い当たる節も無い。だからあの時の自分に、何かができたということもなく、悔やむ理由など一つもありはしないはずなのに……あの子のショックを受けたような悲しい顔を思い返すと、何故だか酷く胸が締め付けられるような気分になる。
「探している人に、ちゃんと会えたらいいんだけど」
だがどんな感想を抱こうとも、所詮は赤の他人。消息など知りようもなく、探るべきでもない。
芽衣子にできるのは、ただあの子の望みが叶うよう、祈ることくらい――――そんなモヤモヤを抱えつつ、今日も完売した屋台を引いてクランハウスの正門を出た、その時であった。
「うっ、うぅ……」
パタリ、と小さな人影が目の前で倒れ込んできた。
それは白いエプロンドレスに濃紺のロングスカートを履いた、メイドの少女である。
「わっ、ちょっと、大丈夫!?」
すわ急病か、と慌てて芽衣子が駆け寄り、どこかぐったりした様子でうつ伏せに倒れ込んでいたメイド少女を仰向けに起こし、容体を確認する。
「お、お腹が……」
「痛いの!?」
「……空きました」
何かの冗談かと一瞬思ったものの、よくよく見ればメイド少女は随分と薄汚れた恰好となっていた。まるで飲まず食わずで何日も方々を彷徨っていたかのような有様である。
そして何より、彼女の愛らしい子猫のような顔には、本物の疲労感と飢えが浮かんでいた。
この様子は、とても一発ギャグの演技でやるものだとは思えなかった。
「大丈夫だよ、すぐ食べさせてあげるから」
「ああ、見知らぬ屋台の店主様、どうもありがとうございますぅ……」
後光が差す仏様が降臨したかのように、心からありがたい表情を浮かべたメイド少女は芽衣子を拝んだ。
一方の芽衣子は、自分の昼食用に取り置いておいた食事を、手早く消化に良いアレンジを加えてから、メイド少女へと与えた。
「本当にありがとうございました。貴女様は命の恩人です」
「そんな、大したことはしてないよ。それより、どうしてこんな事に……?」
一見すると、どこかの貴族のお屋敷に仕えていてもおかしくない姿である。ボロボロの浮浪者や孤児ならいざ知らず、明らかに良い所にお仕えできているメイドが、空腹のあまり行き倒れになるのは不自然だ。
「ううぅ、実は――――」
そうして、メイド少女は涙ながらに己の事情を語った。
なんでも、仕えていた商人が事業に大失敗の大爆死を果たし、ある日突然、路頭に迷う羽目に。
「それでも旦那様を何とかしようと、方々へ融資のお願いをしに駆けずり回っていたのですが……すでに旦那様の悪評は広がり、手を貸してくれる方は終ぞ現れず……」
「そっか、それでこんなになるまで……」
飲まず食わずで助けになりそうな心当たりを片っ端からあたる数日間。その間はロクに寝食もとれず、着替えすらできずに薄汚れて行くまま。それでも一縷の希望にかけて、メイド少女は走ったが……
「しかし今朝方、とうとう旦那様は奴隷として身売りされてしまい……ウチの商会は、もうっ……」
「そうだったんだ……辛かったね」
無駄な努力は、やはり無駄に終わってしまった。メイド少女の健気な行動虚しく、商会は完全に潰れ、当主も奴隷として辺境のコーヒー農園へと売り飛ばされてしまった。
「えっと、これから行く当てとかは、あるのかな」
「いいえ……この身は天涯孤独、幼い頃に旦那様が拾ってくださったことで、どうにか生き延びて参りました……しかし商会も旦那様も失った今、もう命運は尽きてございますぅ……」
もう自分も奴隷として身売りするか、スラム街の浮浪者となるか、そんな道しか無くなってしまったと、メイド少女は己の運命の悲しみに涙を零す。こんな年端も行かない少女が、人生に絶望してしまっている。
でもそんな不幸は、この世界でも元の世界でも、色んな場所にあったことだろう。そんなことは分かっている。
けれど、不幸などありふれているからといって、彼女を見捨てる理由にはならなかった。
強いて理由を上げるなら、これが自分の『縁』だと思ったから。
不幸なメイド少女は、今日この日この場所で、偶然にも彼女を拾い上げられる人物と出会えた。
「それじゃあ、良かったらウチで働いてみる?」
「ええっ、そんな、良いのですかっ!?」
ええんやで、と女神の如き微笑みの芽衣子に、メイド少女が流す悲しみの涙は、感涙へと変わる。
「そろそろ誰か一人くらい、お手伝いさんを雇おうかなと思っていたところなの」
「はいっ、よろしくお願いします!」
屋台越しに握手を交わし、契約は成立した。
ここにメイド少女は、新たな主を得たのだ。
「あっ、そういえば名前も聞いてなかったね」
「これはとんだご無礼を。こちらの事情ばかりを語ってしまい、申し訳ございませんでした」
それでは改めまして、とやけにキレのある動きで屋台の席から立ち上がり、メイド少女はスカートの端を摘まんで、丁寧なお辞儀を披露する。
「私、モモコと申します――――」
深々と頭を下げたモモコの表情は、「計画通り・・・」と邪悪な笑みが浮かんでいた。
2025年12月26日
芽衣子の前に現れた、謎のメイド少女モモコ。薄幸の美少女に見える彼女には、実は秘密の思惑が・・・? 敵か味方か、果たしてモモコの正体とは――――次回、呪術師は勇者になれない、第481話『女装分身』 呪術スタンバイ!
さて、早いもので今年も最後の更新となりました。
例年通り、年明けの金曜2日の更新になります。
それでは、来年もよろしくお願いします!




