第3話 魔物
「やった! 薬草ゲット!」
喜び勇んで、足元に生えているタンポポの葉のようなギザギザした緑の草を採取する。花は咲いておらず、一見すればそこらの雑草と見分けはつかない。
「ちょっとした止血効果だけ、か……いや、でも何もないよりマシか」
薬草と一言でいっても、そのまま効能を利用できるものもあれば、加工したり、エキスを抽出しなければ薬用効果を発揮しないものと、様々な種類がある。
薬品を調合・生成する知識も技術も道具もない現時点において、今採取した薬草のように、そのまま使えるタイプは重宝する。
まぁ、この薬草……ニセタンポポ、でいいや、これを使うなら、磨り潰してペースト状にしておくくらいの加工はしておいた方が良さそうだが。すり鉢と乳棒が欲しいところだけど、無い物ねだりをしても仕方がない。今は手持ちの道具でやりくりするより他はないのだから。
現在、僕の所持品の中で最も期待できるのは、カッターナイフである。よくある黄色ベースに黒のパーツが組み込んだ、太めのアレ。正直いって、筆箱の中に入っているコイツは邪魔者以外の何物でもなかったけど、今や植物の採取は勿論、いざという時は武器としても使えそうという、文房具界のエースである。
さらに、鞄の奥底に眠っていた、替刃(十本入り)が存在するという、心強い補給も確保されているのだ。
しかしながら、カッターというのはあっという間に切れ味が落ちる。出来る限り温存しておくべきだ。だから、このニセタンポポみたいに素手で引き千切れるようなものには使用しない。
「よし、こんなもんでいいかな」
片手で握れる一束分を摘み終え、例によって鞄の中へと放り込む。中には、最初に採った赤い毒キノコ、通称、アカキノコが三本入っているだけで、まだまだ余裕がある。
「えーと、次は……うん、やっぱりこの獣道を進んで行けばいいのか」
そう確信をもって歩いて行けるのは、決して僕が渡り鳥並みの方向感覚を持っているからではない。僕の手には、魔法のコンパスがあるのだ。より正確にいうなら、コンパス機能、である。
ノートの魔法陣には、メッセージが送られてくるだけでなく、進むべき方向を矢印で指し示す機能もあったのだ。円形の魔法陣の内側に、白く光る大きな矢印が浮かび上がっている。
このコンパス機能と、何より、矢印が示す先の目的地が何処であるかというのは、つい先ほど新たに更新されたメッセージによって説明されていた。
その情報によると、僕らは人里から大きく離れた森林地帯の中にある、古代遺跡、いわゆる『ダンジョン』と呼ぶべき場所にいるのだそうだ。
文脈から察するに、生徒はこのダンジョンで目覚めている前提での書き方だった。けれど、僕が森の中で目覚めたのは、恐らく教室からフライングで飛び出していったために、放り出される地点が少しズレたのだろう。
思い返せば、あの男は「合図したら出ていけ」と言っていたし、半ば事故とはいえ、合図を待たずに落ちていった僕がこういう結果になるのは仕方ない。
というか、こういうワープみたいな現象で、適切なタイミングからズレて飛び込んだりすると、どこに放り出されるか全く分からないとか、時空の渦だが次元の狭間だかに飲み込まれて消滅する、みたいな設定がよくあるから、現地から僅かにズレただけですんだのは、凄まじい幸運ではないだろうか。逆に、これで全ての運を使い果たしたとも考えられる。
ともかく、これから僕が向かうダンジョンについてである。
蟻の巣のように地下深くまで広がっているというダンジョン。その最奥には、別の場所へ一瞬でテレポートする『天送門』という設備があるらしい。原理などの詳しい説明は書かれていなかったが、それでも、何を言わんとしているのか、察することができる。
つまり、この『天送門』を使って脱出しろ、ということだ。
説明には、転移の先が僕らを助けるために行動している国となるよう、設定しているとのことだった。
国名は『アストリア王国』。より詳しい転移先は、王都シグルーンにある神殿である、と説明されていたが、それ以上のことは書かれていなかった。ただ、「我々は人間の国家で、君達のような異世界人を受け入れ、保護する用意がある」と身の安全を保障する文面は明記されていた。
今は、この言葉を信じて進むより他はない。疑ったところで、この大森林に放り出された事実は変わらないし、日本から助けが来るとも思えない。
だから僕は不安を押し殺して、ただ前へ進むことしかできない。
「はぁ……はぁ……つ、疲れた……」
だがしかし、何とも情けないことに、前へ進み続けることさえ僕の貧弱な身体スペックではままならなかった。
ニセタンポポを採取してから、歩き続けてどれくらい経っただろうか。まだ一時間も経ってないような気もするが、これほどまでに息が上がるのは、それだけ道が険しいからに他ならない。
僕が進んできた獣道は、多少なりとも地面は踏み固められ、足元の小枝や植物もすっきりと排除されている。けれど、この森は中々に起伏が激しく、おまけに、大木の根が壁のように遮ったりしていて、これをよじ登って乗り越えたりもしなければならず、余計に体力を消耗するのだ。
「す、少し休もう」
そう決断を下すより、他はなかった。ついでに、キューとお腹の虫も泣いている。一度気になれば、空腹感というのはどうしようもなく意識してしまう。少し早いかもしれないけど、お昼にしよう。
魔法のノートを鞄に仕舞い込み、それと入れ替えるように、弁当箱を取り出す。
だが、母が昨晩の余りモノを詰め込んだだろう黒いプラスチックの弁当箱の蓋を開いた瞬間に、手が止まった。
果たして、これをいつもの如く残さず全部食べてもよいのかと。
魔物の襲来という最も危険な可能性は、天職というこの異世界特有の不可思議な能力によってある程度の対処ができる。だが次点において、必要な装備も経験も知識もないただの学生が、如何にして過酷なサバイバル生活を生き抜いていくか、という現実的な問題が立ちはだかっていた。
水、食料、火、寝床の確保、などなど、素人の僕でも不安要素はいくらでも思いつく。森といっても人間が食べられるモノがあるかどうかは分からない。あったとしても、僕がそれらを首尾よく入手できるとは限らない。
となれば、頼みの綱は現在所有する唯一の食料である、この米とオカズが半々に詰まった弁当のみ。あとは、この飲みかけのスポーツドリンクが入った五百ミリのペットボトルか。
食料も不安だけど、これじゃあ水も心配だ。こんなペースで動き続けたら、あっという間に飲み尽くす。どこかで飲み水を補給できなければ、脱水症状まっしぐら。
「や、やっぱりもう少し我慢しよう……」
あまりの先行きの不安さに、膝の上で開かれた弁当箱の蓋をそのまま閉じようとした、その時だった。
ガサリ、と目の前の茂みが音を立てながら揺れた。そう認識した次の瞬間には、
「……え?」
鋼鉄のような鈍い灰色をした、大きな熊が現れた。
丸太のように太く逞しい両腕、その手の先にはナイフと見紛うほどの大きく鋭い爪が並んでいる。凶器そのものといえる両手を地につけて、ずんぐりとした四足で歩く姿は、一見すれば熊だと思える。
だが、シルエットこそ熊のように見えるものの、その巨躯は金属質な光沢を宿す、蟹のような鋭い棘を持つ甲殻で覆われていた。
二足で立ち上がれば、恐らく三メートルには届くだろうと思える巨体。そんな大熊が、鋼鉄の鎧兜で武装しているような格好である。野生から最も縁遠い生物である人間をしても、即座に本能が「勝てない」と警鐘を鳴らすに違いない、あまりに恐ろしき外見。
僕は悟った。この目の前で蠢く獣こそ『魔物』と呼ばれる存在であると。
「ひっ……あ……」
僕の小さな体は完全に恐怖で震え上がる。その拍子に、膝の上にある弁当箱が転がり落ちた。
冷凍食品の唐揚げとソーセージ、キンピラゴボウ、そしてふりかけのかかった白米。貴重な中身が地面へぶちまけられる。
次の瞬間、熊の魔物は荒い鼻息をあげながら動き出した。
その赤色に光る鋭い目は、僕ではなく弁当箱の中身へと向けられている。
ここにあるのは、自然界では決して存在しえない味付けの濃い食物。そこから発する香りも、大いに魔物の食欲を刺激したのだろう。熊は夢中になって、その魅惑の食べ物に鼻先を突きつけた。
い、今だ……逃げるなら、今しかないっ!
まだ完全に自分がターゲットになっていない。そう固く信じて、震える足をゆっくりと動かす。正面を向いたまま、すぐ目の前でソーセージを貪り食らう魔物から、一歩ずつ確実に遠ざかっていく。
大丈夫、熊は弁当に夢中になってる。今なら、逃げられる、逃げられるはず、逃げられますように!
ピンチの時だけ引き合いに出される都合の良い神様へ一心に祈りながら、僕は牛歩の歩みで熊の食卓から離脱する。
心臓が痛いほどバクバクと脈打ち、体は熱いはずなのに、背筋が凍って寒気もする。恐怖で頭が沸いて、もうわけがわからない。そのくせ、どこか現実感も覚えられず、フワフワとした足取りで後退を続けた。
思えば、そんな状態で後ろ歩きをして、よく転ばなかったと思う。十数メートルほど離れたところで、僕はようやく反転して、これまで辿ってきた獣道を足早に歩き始めた。
あっという間に熊の姿は並び立つ巨木の陰に隠れて見えなくなった。
「は……はっ、はぁ……助かった……助か――っ!?」
ほっと安堵の息を吐いたその瞬間だった。唐突に感じたのは直感薬学――ではなく、本当に、自分自身の直感だ。視線を感じた。圧倒的な気配を持つ、何物かの、視線を。
恐る恐る、振り返り見る。
大木の影から、あの魔物が、僕を見ていた。
「あ……あぁ……うぁああ……」
狙われている。
この異世界にやって来たばかりの僕が、魔物の習性なんて知る由もないけれど、それでも分かるのだ。あの熊が、僕を次なる獲物に定めていると。
警戒しているのか、焦らしているのか、遊んでいるのかは分からないが、幸いにも、一直線にダッシュして襲いかかってはこない。その代り、ゆっくりとだが逃げる僕との距離を一定に保ちつつ、つかず離れず、追いかけ続けてくるのだ。
確か動物の熊も、こんな感じで登山者を追いかけてくる、というような話を聞いたことがある。今はまだいいが、そう遠くない内に、僕をチョロい獲物だと判断して、襲い掛かってくることだろう。
走って逃げ切れる、とは思えない。あの魔物は固く分厚い甲殻をまとっているけど、人間以下の走力しかないとは限らない。
仮に、動物の熊と同じ素早さだったとしても、結局、人間の足では振り切ることは不可能だ。熊は確か、時速五十キロの速度で走れると聞いたことがある。百メートルを七秒ほどで駆け抜ける速さだ。人類の限界は百メートル九秒台。全く相手にならない。
逃走は不可能。助けも――ああ、そうだ、クラスメイトはスタート地点が最初からダンジョンなんだ。となれば、そのまま探索を始めるだけで、万に一つも森の方へ来ることはありえない。
助かる方法は一つだけ。あの魔物――鎧熊、とでも呼ぶべきか、アイツを倒すしかない。
「いや、無理……無理だろ、どう考えても……」
僕の手持ちの武器は、ちっぽけなカッターナイフが一本だけ。ショットガンを装備してたって、あんな化け物を倒せるとは思えない。
天職・呪術師の能力――『痛み返し』は、確かに鎧熊を確実に殺せるけど、それは僕と共倒れ。やはり、意味はない。
最も期待した直感薬学による毒だって……このアカキノコだけじゃ、どうにもならない。これは経口摂取しなければ毒の効果は発揮しない。イチかバチかで、鎧熊の大口に放り込んでみるか? 賭けるには、余りに分が悪い。
「くそっ、くそぉ……無理ゲーだろ、こんなの……」
考えれば考えるほど、可能性が潰えていく。
けれど、無情にも時間は流れ続ける。鎧熊が僕を襲うまでのタイムリミットは、あと、どれくらい残されているのだろうか。
「やだ、いやだ……死にたくない……死にたく、ない」
必死に知識を総動員して思いついたのは、ただの時間稼ぎの手段だった。
歩きながら鞄のチャックを開き、中に突っ込んでいたジャージを取り出す。まずは上着。
「頼む……効いてくれっ!」
一縷の望みに賭けて、そっとジャージの上着を地面へと放った。そのまま数十メートル進んでから、チラリと後ろを振り返り見る。
「よ、よし……」
そこには、僕のジャージに鼻先を突きつけてフゴフゴしている鎧熊の姿がある。
野生の熊に追いかけられた時は、身に着けているモノを少しずつばら撒いて行けば、ソレに熊が気を取られて時間稼ぎができると聞いたことがある。あくまで一時的に注意を惹けるだけで、根本的な解決にはならないが。
喜ぶのも束の間。鎧熊は食べ物じゃないと判断したのか、紺色の学校指定ジャージを鋭い爪でズタズタに引き裂いてから、僕の追跡を再開したのだ。
稼げた時間は一分くらいか……ああ、やっぱりダメだ、これは完全に詰んだな……
「――うわっ!?」
その時、何かに躓いて僕は派手にズッコケた。身の丈ほどもある茂みに、頭から突っ込んでいき、ガサガサとやかましい音を立てながら、僕の体は地面に叩き付けられた。といっても、この草のお蔭で大した衝撃は感じなかったが。
「う、くぅ……」
情けない呻き声を上げながら、よろよろと立ち上がる。
鎧熊の恐怖と絶望に、足元が疎かになりすぎていた。木の根にでも足を引っ掛けたのだろうか――と、その原因を確認した瞬間、息を呑んだ。
「う、そ……死んでる……」
そこには、見知った学ラン姿のクラスメイトが倒れていた。
足がちょうど獣道に投げ出されており、これに僕が躓いて転んだだろうことは明白。しかし、そんなことよりも、彼が明らかに死んでいるようにしか見えないことが問題だった。
仰向けに倒れ込んでおり、傍らには通学鞄と……ちょうど魔法を使おうとしたんだろうか、魔法陣の書かれたページが開かれたノートが落ちている。
彼は高島……あ、名前は、分かんないや。中学の頃まではクラス全員の名前を憶えていたけど、高校では覚えきらなかった。顔と苗字を知っているだけで、特に話したこともない男子生徒だ。
それでも、彼は同じ二年七組の一員だった。
僕は倒れ込んだ高島君を前に、人工呼吸や応急処置を考えるどころか、脈拍を計ろうとさえしなかった。
だって、その顔は苦悶の表情で固まりきっているのだから。カっと見開かれた目からは血涙の跡が残る。さらには口、鼻、耳からさえも、同じように血が流れ出ていた。
顔の穴という穴から、溢れ出るように鮮血が流れ落ちたことは想像に難くない。今はドス黒く変色を始めて、血液が固まり始めているようだが。
高島君が死んでいるのは、一目瞭然だった。
「な、なんで……」
なんで死んだのか、どうやって死んだのか――その呟きは、どれに対するものなのか、自分でも分からない。
けれど、突如として目の前に現れた死体を前に、僕は否応にも想像させられる。もうすぐ、僕もこうなるのかと。
「お、落ち着け……落ち着け……考えるんだ、死なない方法を……僕はまだ、死にたくない!」
ここでパニックを起こしたら、全てが終わる。泣きわめいて命乞いしたって、鎧熊は本能に従って僕を貪り食うだけ。
まだ、まだ少しだけ、時間は残されているはずなんだ。最後の最後まで、生き残る方法を模索し続けるべきだ。
僕は根性ないし、負けず嫌いでもない。事なかれ主義で妥協の連続で生きてきたけど――自分の命だけは、諦めたくないっ!
「――そうだ、弁当だ」
閃いた瞬間、僕は身を起こして、高島君の鞄へ手を伸ばした。
お願いします神様、ようやく思いついた作戦なんです。だから、どうか――
「あった!」
ビニール袋に包まれた透明のタッパー。それが、高島君の弁当だった。
彼はそこそこ大柄で、確か野球部に所属していたスポーツ少年だ。普通の弁当箱ではなく、あえて、この大きなサイズのタッパーに昼食を詰め込んでいるのも納得いく体格。
半分は梅干しの乗った白米、もう半分は、デミグラスソースのかかったハンバーグと卵焼き。あとは申し訳程度にサニーレタスとミニトマトが添えられている。
「いける、これだけあればっ!」
僕は高島君、ではなく、この弁当を作った高島ママに対して感謝の祈りを奉げながら、タッパーの蓋を開いた。
同時に、僕の鞄のチャックを全力で解放し、中身を全てぶちまける勢いで、目的のモノを取り出す。
手にしたのは勿論、アカキノコ。現状で唯一、鎧熊にダメージを与えられる毒アイテムである。
「三本全部……いや、この大きさじゃ一本が限界か……」
アカキノコはカッターナイフと同じくらいの十数センチといったサイズ。二秒ほど悩んだ結果、一本と半分を使うことに決めた。
きのこ鍋に投入する時のように、縦に引き裂く。千切ったアカキノコは、とりあえずハンバーグの上に置いておく。
次に手にしたのはご飯。やはり結構な量がある。片手ですくいきれずに、白米の塊がポロポロと零れ落ちる。まぁいい、握りは適当でいいんだから。
そう、僕が作るのは、おにぎりだ。アカキノコ入りの、毒おにぎり。
鎧熊にアカキノコが効く以上、純粋にそれだけでは食べることはないだろう。臭いなりなんなりで見分けて、回避するはず。
だから、強烈な肉とソースの香りを発するハンバーグに混ぜ、さらに、白米でコーティングすることで、視覚的にも目立たなくしようという作戦だ。
上手くいくかどうかなんて分からない。けれど、今の僕にもう、この作戦に賭けるより他はないのだ。
三分、もまだ経ってないと思う。その時、ガサリと音を立てて背後の茂みが揺れた。
「――っ!?」
気のせいでもなんでもなく、僕の前に再び、鈍色の巨躯がのっそりと姿を現した。あまりの迫力に、再び体が震え始める。
ついさっき弁当箱を落としたのと同じように、今度は、握っていたおにぎりが地面へと転がった。
けど、それでいい。この毒キノコおにぎりはすでに完成している。ブルって落としてしまったけど、どうせ投げる予定だったのだ。むしろ、自然に落とすことができて、余計に警戒されることもないだろう。
さぁ、ここからが勝負だ。
「お、お願い……」
小さく呟きながら、僕は自分の鞄をギュっと抱えて、足を動かす。鎧熊の方を向きながら、ゆっくりと後ずさる。さっきと同じように、刺激しないよう、決して背中を見せて走り出したりはしない。
鎧熊は、やはり僕の弁当を食べた時と同じく、鼻をフンフンと鳴らしながら、真っ直ぐおにぎりと、傍らにあるひっくり返ったタッパーを漁り始めた。
赤々とした長い舌が、ベロリとソースのついたタッパーを舐める。馬鹿野郎、そっちじゃない、もっと美味そうなメインディッシュがあるだろ。
「食べろ……食べろ……」
瞬間、ゴァアアアっ! と鎧熊が野太い鳴き声を上げた。開かれた口から、人の指ほどもある大きな牙が剥き出しになる。
「うわぁ、ごめんなさいっ!」
反射的に叫んで謝ったが――その直後、鎧熊はペロリと一口で、食べた。
おにぎりを。アカキノコを混ぜた、毒入りおにぎりを!
やった、と思う間もなく、鎧熊はゴクリと喉を鳴らして飲み込んでいた。
そうして、まだ食い足りないとばかりに、鋭い眼光を僕に向けながら、ゆっくりとこっちへ近づき始めた。
「え、あれ……もしかして……効かない?」
鎧熊に変化は見られない。相変わらず鼻をならしながら、太く逞しい四脚で一歩を踏み出す。
ま、まさか、アカキノコの毒は即効性じゃない!?
考えてみれば、ありえない話じゃなかった。サスペンスドラマなんかで、毒薬を盛られて、口にした瞬間に血を吐きながら苦しみもがいて即死なんていうシーンはよくあるが、全ての毒物があんな風に効果を発揮するとは限らない。遅効性、すなわち、摂取してから数日後、数週間後に発症、というパターンだってありうるのだ。
そこまでの時間がかからなくとも、もしアカキノコの毒性が、あと数分以内に効果を表す即効性でなければ、僕はこのまま飢えを満たされない鎧熊の餌食となる。
ああ、ちくしょう、とにかくキノコを喰らわせることに頭が一杯で、毒が急性であるかどうかなんて、全く考えもしなかった。直感薬学だって、所詮は「なんとなく分かる」程度だから、そこまでの情報も得られなかった。
「だ、ダメなのか……」
今度こそ諦めかけた、その時だった。鎧熊の足が、ピタリと止まった。
ガアっ! と鋭い咆哮を上げると共に、二足で立ち上がった――かと思えば、その場でゴロリと転倒する。
そしてそのまま、荒く息を吐きながらもがき始めたのだった。
「や、やった、効いた! 効いたぞ!」
毒が肉体を蝕んでいることは、その反応を見れば明らかだ。
鎧熊は、いよいよ激しくのたうち始めた。牙を剥く大口が苦しみの声をあげる度、止めどなく溢れるよだれがまき散らされる。我武者羅に振るった腕が、土の地面を抉り、木の幹に爪痕を残す。
しかし、それでもまだ獲物を求める本能が残っているとばかりに、視線を僕の方へ向けた。それは野生の執念か、よろけながらも鎧熊は再び四つ足で体を起こし、一歩を踏み出した。
今、背中を向けて全速力で逃げても――ダメだ、二歩目あたりで絶対に追いつかれる。それほどの勢いが、まだ、鎧熊から感じられる。
「くそっ、ダメージが足りないのか! これ以上は――」
いや、ある。鎧熊がアカキノコの灼熱の毒性によって、急上昇した高熱に苛まれているのなら、それをもう一段回引き上げる手段が、僕の手にはある!
「やまない熱に病みながら、その身を呪え――『赤き熱病』っ!」
叫んだ呪文は、第一の呪術『赤き熱病』。
相手を微熱状態にさせる呪いは、健康体であればささやかな効果でしかないだろう。けれど、もうあと一度か二度でも、体温が上がれば命に関わる高熱の最中でコイツを喰らえば、確実にデッドラインを超える!
それでも鎧熊は、突き進む。一歩。彼我の距離は約三メートル。
「やまない熱に病みながら、その身を呪え――『赤き熱病』っ!」
死ね。
もう一歩。距離、約二メートル。
「やまない、熱に病みながら、その身を呪え――『赤き熱病』っ!」
死んでくれ。
さらにもう一歩。一メートル。
「やまない、熱にっ、病みながらっ! その身を呪えぇ!」
これで、死んでくれ。
鎧熊の鋼の腕が、振り上がる。
「赤き熱病ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
呪いの叫びは、体を襲った凄まじい衝撃によって強制終了させられる。ギラつく爪を持つ手が、振り下ろされていた。
「――がはっ!?」
気がついたら、視界は茶色い地面で一杯だった。倒れたのか。転んだのか。いや、それよりも――熱い。
「あ、あ……」
お腹が、熱い。燃えてるみたい……けど、触ってみたら、濡れていた。
僕の右手は、鮮血で真っ赤に染まっている。ああ、これ、僕の血だ。
鎧熊が振るった一撃に、当たった。切れ味鋭いナイフのような爪が、僕の腹部を切り裂いたのだ。
ということは、これで発動したはずだ。第二の呪術『痛み返し』。
「は、はは……やった……」
僅かに視線を上げると、そこにはピクリとも動かなくなった鎧熊が仰向けで転がっていた。
腹部を覆うなだらかな曲線を描く鈍色の甲殻は、ざっくりと四筋の創傷が刻み込まれており、その内側からドクドクと赤黒い血が溢れ出ていた。
限界突破の高熱に、腹を裂かれたショックで、ついに鎧の化け物は死んだのだ。
ついにやった。僕が倒した――そう実感した瞬間、もう猶予期間は終わったとばかりに、激痛が襲った。
「あ、あぁああ……うあぁあああああっ!」
腹部に駆け抜ける灼熱の痛み。そして、命そのものが、血という物質となって流れでてゆく錯覚。ついに、本当の死が僕の身に降りかかろうとしていた。
「し、しぃ、死ねる、か……ここで……死んで、たまるかぁ……」
最後だ。頑張るのは、もうこれで最後だ。だから動け、動け、動いてよ、僕の体っ!
かろうじて動いたのは、血塗れの右手。必死に伸ばす。
その先にあるのは、すぐ傍らに転がった僕の鞄。チャックは全開で開かれていて、そこから使わなかったアカキノコと――ニセタンポポの束が、見えた。
ニセタンポポ、そこに秘めるのは止血の作用。使うしかない、今、ここで。これの効果に賭けるしか、ない!
血に濡れた右手でギザギザの葉っぱを引っ掴むと同時に、気合いを入れて、なんとか……本当になんとか、体を仰向けに起こした。
改めて転がって傷口を見れば……ああ、見るんじゃなかった。もう、何がどうなってるか分からないくらい真っ赤に染まっている。
それでも見ないわけにはいかない。震える左手で、学ランの金色ボタンを外す。その下のワイシャツは、腹のあたりだけボタンを外し、さらにその下に着込んでいたTシャツを強引にまくり上げる。
うわ、やっぱヤバい……いや、でも、傷口から腸が零れ落ちたりしていないだけ、まだ軽傷ですんだってことかも。それでも、この出血量を放っておけば、確実に逝ける。
「頼む、効いて……効いて、くれぇ……」
いやでも、このまま葉っぱを当てるだけで、本当に効果は発揮されるのか。ちくしょう、さっさと磨り潰しておけば――いや、まだ、間に合うか。
「う、うぅ……うぇええ、苦っ……」
口に含んだニセタンポポは、やっぱり、馬鹿な子供の頃にウッカリ口にした、タンポポの葉っぱと同じ味だった。苦い。食えたもんじゃない、そもそも、食いものじゃない。
それでも、僕は少しでも効果が上がるようにと、我慢してクソ不味い葉っぱを口で磨り潰し、患部に直接塗れるようなペースト状へと変えていく。
これで本当に効果が上がるか疑問だったが、直感薬学が「それで大丈夫」と保障してくれた。見つけた時にはそこまで察せなかったのだが、もしかしたら、呪神ルインヒルデ様がサービスしてくれたのかもしれない。
「こ、これで死んだら……神様だって……呪ってやるぅ……」
そうして僕は、口の苦みと腹の苦しみに苛まれながら、いつしか眠くなり……ああ、眠い……意識をもう、保って、られ……