第46話 鎧熊(2)
「メイちゃん、もしかして……『試薬X』を使ったのかっ!?」
それは、メイちゃんを暴走させたゴーマの麻薬をそのまま流用した、薬ともいえない、危険な代物だ。事実、今の彼女はゴーマを殺戮し、僕をも食い殺そうと暴走したあの時と、全く同じ気配を漂わせている。
ゆらり、と彷徨うゾンビのように力なく一歩を踏み出す。二歩、三歩、進む度に、ダランと下がったままの傷だらけの両腕から、血の雫が流れ落ちていく。
四歩。進んだところで、彼女は顔を上げた。
そこに、いつもの優しげな面影はどこにもなかった。眉は跳ね上がり、眉間に深い皺が刻まれた憤怒の形相。その瞳は煌々と真紅に輝きを放ち、最早、人というより鬼のそれ。
大きく息を吸い込み、狂戦士が吠えた。
「がぁああああああああああああああああああああっ!」
「ゴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
三度、彼女と鎧熊が激突する。
体から濛々と立ち上る真っ赤なオーラを残像のように残し、メイちゃんが急加速。人間とは思えない速さと、そして、土の地面が上靴の形で陥没するほどの強烈な踏込みを持って、瞬く間に間合いを詰める。
「うわあっ!?」
メイちゃんの進路上に座り込んでいたことを思い出した僕は、慌てて横に転がり道を開ける。けれど、僕がそんな間抜けな回避行動をとる頃には、もう彼女は僕の遥か頭上を通過していた。高らかにジャンプをして、直立した鎧熊の鼻先に、ということは四メートルのジャンプか。人間離れした跳躍を生かし、メイちゃんの靴底は強かに鎧熊の鼻っ面を蹴飛ばしていた。
「フガアっ!」
己の身長の半分にも満たない相手に、顔面に飛び蹴りをくらったのは初めての経験だろう。堪らず、鎧熊の巨躯が傾ぐ。
しかし、それだけ。軽く頭を振って、後ろ足を踏ん張り、鎧熊は力強い反撃の腕を振るった。
「ふんっ、はあっ!」
鋭い呼気と掛け声が響く。大振りの引っ掻き攻撃をかがんで回避した直後、上半身を跳ね上げ、メイちゃんは両の拳を順に繰り出す二連撃を鎧熊の腹に叩きこむ。インパクトの瞬間、僕の目の錯覚か、硬い皮膚に覆われた腹部が、衝撃で波打ったように見えた。
「ゴアっ!? グアアアアっ!」
信じがたいことに、人間の拳が鎧熊に効いていた。『痛み返し』で刻まれた腹の傷に叩きこんだから、というのもあるだろうけど、それでも、どれほどの威力があればパンチだけで四メートルの巨躯を揺らすことができるというのか。
腹の傷から、新たな血飛沫が噴くと共に、苦痛に満ちた鎧熊の悲鳴があがる。
「やぁあああああああああああっ!」
続く、メイちゃんの連打。一方的に乱れ裂きを浴びせられた仕返しのように、嵐のような乱打が鎧熊の体をサンドバックのように容赦なく打ち据える。
舞い散る血飛沫は、果たしてメイちゃんのものか、鎧熊のものなのか。彼女の両腕は血に塗れながらも、オーラはますます勢いを盛んにして炎のように噴く。その火炎のオーラを纏った拳に打たれて、鋼鉄の鎧は歪み、割れ、刻まれた傷口が開いていった。
「ガっ、ォオアアアアアアアアアアアアアっ!」
しかし、それでもタフな肉体を持つ鎧熊は押し切られない。恐るべきパワーを誇る人間を前に、魔物の意地とでもいうように、大きく振りかぶった、カウンターのような腕の一撃が放たれる。
対するメイちゃんも、一際に大きく右腕を引いて、渾身のストレートを放つ体勢。弓でも引くかのように、大きく、そして力強く、拳を振りかぶる。
燃え盛る炎のようなオーラが、握りしめた拳の先で竜巻のように鋭く渦巻いていくのが、一瞬だけ見えた。
「――『鎧徹し』」
赤く渦巻く炎の拳が、鎧熊の胸をぶち抜いた。人間の素手が、頑強な鋼の胸部装甲を穿ち、貫く。ありえない、けど、僕は確かに、メイちゃんが深々と鎧熊の胸元に右腕を突きこんでいる姿を目にしている。
「ゴッ、ハァアアア……」
腕が引き抜かれる。胸元の甲殻は大きなドリルで穴を開けられたかのように、ぽっかりと丸い傷口が穿たれていた。そこから、ドっと滝のように血の塊を噴き出しながら、鎧熊はついに、その巨躯を地面へと投げ打った。
鎧熊は大口を開けた苦悶の絶叫のまま、動かない。胸の穴から止め処なく血を垂れ流し、自らを血の海へと沈めていく。
「はぁ……はぁ……やった、私……やったよ、小太郎くん」
ベットリと右腕を血色に染め、大量の返り血で真っ赤に汚れたメイちゃんが、僕を見て笑った。それはもう、いつも通りの優しい微笑み。そして、掲げた右手には、血塗れていてもギラギラと輝きを放つ、大きな真紅の結晶――鎧熊のコアがあった。
そして、彼女は糸が切れたように倒れた。
「メイちゃん!」
いけない、体力魔力、共に限界を迎えたのだろう。致命傷を受けずに鎧熊を倒し切ったけど、あのクスリを使った以上、生命に危険が及ぶほど消耗する可能性がある。一応『試薬X』は多少なりとも強烈な麻薬の効果を抑えるために、解毒の青花を混ぜてあるけど、それがどこまで効果があるのかは分からない。
「くそっ、とりあえず解毒と……いや、先に腕の治療が先か」
地面に仰向けに倒れたメイちゃんを前に、僕は鞄を引っくり返して急いで治療の準備をする。といっても、初めて彼女を妖精広場で見つけた時みたいに、綺麗に洗って、薬を塗ることしかできないけれど。
まずは血の海にドップリ浸したってほどに汚れた両腕を、ペットボトルに残った飲料水を使って最低限、洗い流す。やはり、メイちゃんは自前の傷薬Aで腕を回復する手間を惜しんで、『試薬X』を真っ先に使ったようだ。その判断のお蔭で、僕はギリギリでトドメを刺されずに済んだのだろう。生きるか死ぬか、運命の分岐点だったか。
ありがとう。感謝してもし足りない。見ろ、この酷い腕の傷痕を。幸いにも、腱が切れたり、骨が見えるほど抉れてはいないが、それでもかなりの出血量。こんな状態の腕で、鎧熊を殴り殺したのだから……メイちゃんはすでに、人間をやめてしまっているのかもしれない。
それでも、今すぐ治療が必要な重症であることに変わりはない。恐らく狂戦士の第二スキル『増血』があるから、多少は出血してもそう簡単に致死量には至らないはず。結構な血を流したはずなのに、気絶した彼女は顔色も血色も良い。
命に別状はない、と思いたい。
僕は神に、果たして呪いの神であるルインヒルデ様に祈るのは正しいのかどうか分からないけど、それでも、祈りながら、メイちゃんの治療を済ませた。
「はぁ……こ、これで何とか……」
大丈夫、だと思いたい。気が付けば、メイちゃんはスヤスヤと安らかな寝息を立てている。呼吸、脈拍、共に異常はない。両腕の負傷も、これだけ傷薬Aを塗っておけば、『恵体』持ちのメイちゃんならすぐによくなるだろう。
けれど、安心するのは妖精広場への避難が完了してからだ。今この状態で魔物に襲われれば、一たまりもない。僕一人だけでは、せいぜい、ゾンビ一体くらいが限界。ゾンビが群れだったり、ゴアが一体でも現れれば、そこでゲームオーバーだ。
ゴァアアアアアアアアアアアアアっ!
その方向が耳に届いた瞬間、僕の思考は氷りついた。
いや、嘘だ、ありえない。こんなの、あっちゃならない。現実逃避めいた僕の考えを嘲笑うように、ソイツは姿を現した。
二体目の鎧熊。ここで胸に大穴が空いて死んでいる一体目と同じように、通路からのっそりとこの部屋へと踏み込んできたのだ。
「あ、う、あぁ……」
目が合う。ヤツはお仲間の死骸になど見向きもせず、真っ直ぐに僕を見つめた。血塗れの人間が二人。さぞや美味しい獲物に見えることだろう。
ダメだ、もう、対応策が何も考えつかない。
逃げるのか。逃げよう、そう思っても、僕の足はピクリとも動かなかった。
ここで逃げて、僕が一人寂しく野垂れ死ぬくらいなら……ここで、メイちゃんと一緒に心中した方が、死に様としては魅力的かな。
心中? いや、何いってるんだ、僕には、一対一なら確実に相手を道連れにできる最強の呪術があるだろう。
「ふっ、はっ、はぁ……だ、大丈夫……できる……メイちゃん、今度は、僕が守る番だから」
二体目を『痛み返し』で道連れにして死んでやる。そしたら、もうすぐメイちゃんは目を覚ますかもしれない。彼女一人なら、このダンジョンでも進んで行ける。戦い抜ける。
そして、ダンジョンを脱出して、王国に逃げて、それから、どれだけ時間がかかってもいい、彼女が元の世界へ帰れたならば……こんな僕でも、生きていた価値はあるかもしれない。
女の子を守って死ねるなんて、素晴らしい。男としては、最高の死に様じゃあないか。
「はぁ……はぁ……はっ、ひ、ひはは……」
あまりの絶望感と緊張感に、変な笑いが漏れてくる。心臓の音がやけにうるさい。
何だよ、ちくしょう、死ぬときくらい、もうちょっとカッコつけさせてよ。こう、毅然として、俺は好きな女を守って死んだんだぜ、みたいな。
でも、こんなことになるんだったら、ぶん殴られてもいいから、一回くらい、メイちゃんのおっぱい揉ませてもらえば良かったよ。
頭に浮かぶのは、そんな下品で下らないことばかりで、走馬灯のように記憶が、なんてことは全くなかった。本当に、最後の最後まで、しょうもないヤツだな、僕は。
「ふふっ、あははは……来いよ、お前も道連れだ」
獰猛な咆哮が耳をつんざく。鎧熊は牙を剥いて、無力な餌でしかない僕に向かって、真っ直ぐ襲い掛かってきた――
「――『光矢』っ!」
白い光が弾けた。目がつぶれそうなほど強烈な、真っ白い光。うわっ、これ、僕もう死んだのかな。即死? 良かった、楽に死ねて。
「うぁああああああっ! 熱っ、熱っち!?」
生きてる、と実感したのは、肌を焼くような熱風を浴びて、無様に叫んで転げまわってからだった。
「大丈夫! 貴方たち、まだ生きている!」
「コイツが鎧熊というヤツか。大物だな」
「うわっ、この熊さん、なんだかすっごい硬そうだよー」
「み、みんな、頑張ってぇ!」
ワイワイと女の子の声が聞こえてくる。流石に、これを天国で遊ぶ天使たちの声だと錯覚するほど、僕は馬鹿じゃない。まだ生きてる。だから僕は、まだこの地獄のダンジョンに居続けることができる。
「助けて! 僕らにはもう、戦力がない!」
安らかな死に対する未練なんて、これっぽっちもありはしない。喜び。まだ生きていることに対する圧倒的な歓喜が、僕の意思を生存へと導く。さっきまで自爆しようとしていたことが、もう信じられないくらい、死にたくない。
どんなに無様でも、苦しくても、やっぱり、生きていたいんだ。
「ガウっ! ゴアアアっ!」
鎧熊は部屋に現れた新たな人間たちを前に、鋭い威嚇の声を上げたが……自身の不利を悟ったのか、身を翻して、元来た通路へと引っ込んで行った。
「はぁ……はぁ……や、やった……助かった」
気絶しそうなほどの安堵感の中で、僕は本物の天使の笑顔を見た。
「良かった、無事なようですね、桃川君」
そう言って微笑む蒼真桜は、ただひたすらに、美しかった。ああ、こんな風に笑いかけられたら、そりゃあ一目惚れもする。
でも、今の僕はただ生き残ったことの喜びだけで胸がイッパイで、特に恋愛感情を抱いたりピュアな思いでときめいたりもしなかった。ほら、僕はやっぱり、おっぱいがいっぱいじゃないと無理だから。
そんな失礼な感想を抱きつつも、僕はこうして、蒼真桜と、彼女の仲間達と出会った。




