第45話 鎧熊(1)
「……この部屋、何もないね」
注意深く通路から室内を覗いたメイちゃんの感想である。見れば、確かにそこは何もない。最初のスケルトン部屋みたいな石造りの空部屋、というよりも、荒野のような平らな土が広がるだけの造りだった。壁はブロックではなく、洞窟みたいに荒い岩肌が剥き出し。
「コンパスは真っ直ぐの道を指してる」
「じゃあ、あっちの入り口は行かなくてもいいんだね」
この洞窟部屋はそれほどの広さはない。面積は体育館の半分くらいで、ほぼ円形のホールみたいな感じ。何もないから、岩の壁際はここからでも全て見渡せる。コンパスが指し示す、ちょうど向かいの通路と、三時と九時の方向にそれぞれ開いた通路が見えた。僕らがやってきた道を合わせれば、綺麗に十字路ということになる。入り口はどれも同じで、コンパスがなければ正解は導き出せない。
「多分、ここを抜ければ妖精広場があるはずだ」
「うん、結構進んできたし、そろそろだよね」
けど、こういうところがボス部屋として設定されてたりするんだよな。パっと見でオルトロス部屋のような感じではないし、明らかに誰もいないから、本当に何もない空部屋なのかもしれないけど。転移魔法陣らしきものも、見当らないし。
「ボスは……やっぱり、いないのかな」
「どうだろう。土になってるし、いきなり地中から飛び出してくるかも」
音に反応して襲い掛かる、凶悪な地中モンスターと戦う映画を見たことある。ファンタジーでも、モンゴリアンデスワームみたいな巨大なミミズの化け物なんかは定番だし。
「どうするの?」
「レムを先行させよう」
こういう時に、囮人形ってのは便利だよね。僕は躊躇どころか、本格的に泥人形が役に立って喜んでいる。
命令には絶対服従、とあの説明不足な脳内説明文でも明記されている通り、レムは僕の囮指令を即座に実行。トコトコと何の気負いもなく、レムは洞窟部屋へと歩き出した。
僕は使命を果たすレムを満足そうに見守るけれど、メイちゃんはちょっと可哀想かも、なんて風な憐みの視線を送っていた。あんまり酷い命令すると、ひょっとして軽蔑されるかも? いやでも、背に腹は変えられないし。
そんなことをグルグルと無駄に考えつつ、歩き続けるレムを眺めていると、
「ゴォアアアアアアアアアアアっ!」
その巨大な咆哮に、僕はビクリと体を震わせた。大きい音にビビった? いいや、違う。これくらいの声量なら、オルトロスも同じだ。けれど、僕はこの雄たけびを聞いた瞬間、明確な恐怖を抱いた。何故か。その答えは簡単だ。
だって僕は、この声の主を、すでに知っている。
「よ、鎧熊だ……」
九時方向の通路から、のっそりと姿を現したのは、巨大な鈍色の体躯。刺々しい鋼の甲殻装甲で武装した、現状で僕が知る限り最強の魔物だ。
鎧熊は悪夢の続きとでもいうように、あの時と全く同じ姿、全く同じ威圧感を持って、再び僕の前に現れた。
「小太郎くん、あの魔物って――」
「僕が倒せたのは奇跡だ。できればアイツとは、戦いたくない」
鎧熊との死闘は、最初に出会った時に話している。その分かりやすい特徴的な姿から、初見のメイちゃんでもすぐにピンと来たのだろう。
僕は出来る限り刺激しないよう、その場でレムを停止。糸が切れた人形のように、部屋の真ん中あたりでピタリと止まって見せた。
「引き返した方がいいかな」
「アイツは鼻が利く。多分、もう僕らがここにいることに、気づいている」
鎧熊は僕がばら撒いた弁当やジャージの時と同じように、完全停止したレムに対して鼻先を突きつけてはフンフンしている。けど、視覚的にも嗅覚的にも、金属質の骨しかないレムが美味しい餌になりえないことには即座に気づく。鎧熊はすぐにレムからは興味を失い、そして――
「ああ、くそっ……これは、ダメかな」
通路に立つ僕らを見つけては、咆哮を上げた。
鋼の巨体を揺らしながら、ゆっくりと、ああ、あの時と同じように、これぞ王者の余裕とばかりに、悠然と近寄ってくる。
「私が止めるから」
「待って、できれば接近戦は避けたい――『腐り沼』」
僕は鎧熊が全力疾走で突進してこないのをいいことに、手早く猛毒の防衛線を展開させる。流石に鎧熊の体型で、ゴアみたいに何メートルも跳躍できるとは思えない。今のところの最大面積である五メートルの沼を張っておけば、奴が僕らへ近づくにはどうしても足を踏み入れざるを得ない。
ゴボリと血色の沼地が出現すると、鎧熊はもうすぐ目の前。突如として出現した怪しげな水辺を前に、流石に足を止めた。そしてやっぱり、鼻先を近づけてフンフンする。そのまま誤って飲んでくれれば、勝手に死んでくれそうなんだけど……
「ゴォアアっ!」
いくらなんでも、そこまで間抜けではないらしい。
けど、この沼が危険地帯だと理解しているなら、お前がどう足掻いても僕らには近づけないってことが――
「えっ」
鎧熊は、堂々と猛毒の沼へと足を踏み入れた。当然、凄まじい溶解力を誇る血色の水は、ジュウジュウと音をたてると共に、濛々と白い煙が噴き上がる。
「ガアっ!」
しかし、それだけ。鎧熊はこんな汚ぇトコロを歩かせやがって、と不機嫌そうに鋭い鳴き声をあげる。平然と、ヤツは必殺の『腐り沼』を渡って来た。
「部屋に出る!」
「うん!」
僕は右方、メイちゃんは左方、同時に入り口から飛び出す。ついでに、中央で止まっていたレムを僕の方へと呼び戻す。
通路を撤退ではなく、あえて部屋に飛び出したのには理由がある。
まず、『腐り沼』が鎧熊にあまり効果がない以上、接近戦は避けられない。通路を戻ったところで、執念深いヤツはどこまでも僕らを追いかけてくるだろう。鎧熊に追いかけられている状態で、ゾンビやゴアと鉢合わせたら、状況は最悪だ。その挟撃は、いくらなんでも僕らの戦力じゃあ対処しきれない。
だから、鎧熊と戦うなら確実にヤツ一体だけに集中できる場所がいい。そして、メイちゃんもリーチの長い斧を存分に振り回せるような、広いフィールドの方が戦いやすいだろう。つまり、この部屋でヤツと決着をつけるのが、最善であり、僕らが生き残る唯一の方法だ。
ちなみに、この先にあるだろう妖精広場に駆け込んだとしても、状況は変わらない。妖精広場はあくまで魔物が自主的に寄りつかないというだけで、目の前に美味しい餌が逃げ込んだなら、奴らは躊躇なく踏み込んでくる。妖精広場はゲームのように絶対的な安全地帯でもなければ、都合よくモンスターだけを排除する万能な結界機能なんてものもない。
ともかく、僕の決戦の意思を、メイちゃんは即座に汲んでくれた。理由の全てを彼女が理解しているかどうかは分からない、けど、何の躊躇もなく、僕なんかの指示に従ってくれるメイちゃんは、本当に得難い仲間だ。
やれる、彼女と一緒なら。鎧熊だって、真っ向勝負で倒せる!
「絡めとれ――『黒髪縛り』」
鎧熊はゆったりと振り向き、のそのそと沼から戻ってくる。
メイちゃんを見て、僕を見て、そしてやっぱりメイちゃんを見て、ターゲットを彼女に選んだようだった。そんなに肉が喰いたいか。
卑しい奴め、という感想は置いといて、鎧熊が真っ当にメイちゃんと対決する構図となり、援護に徹したい僕としてはありがたい限りだ。そういうワケで、僕は一も二もなく『黒髪縛り』を全力で放つ。今は最大で三つ編み五本。一本だけでゾンビ一体を足止めしきるパワーを誇るし、長さだって五メートル以上伸ばせるんだ。
僕が今出せる最大出力で、五本の黒髪触手は鎧熊を縛り上げる。両手と両足、そして首元、それぞれ一本ずつ絡みつかせて全身を拘束。ギリギリと軋みを上げながら、鎧熊の歩みは止まった。
「はぁあああああああああああっ!」
そして、この絶好のチャンスを逃すことなど、今やすっかり狂戦士が板についてきたメイちゃんにはありえない。僕の援護を待っていたかのように、拘束が決まる完璧なタイミングで、渾身の振り下ろしを炸裂させ――
「ガアアアッ!」
鋭い咆哮が響いた瞬間、僕の呪術は全く無意味であることを悟った。気が付けば、鎧熊を縛っていたはずの黒髪は全て、ズタズタに寸断されて儚く舞い散る。
「ぐうっ!?」
兜ごと脳天を叩き割るように迫った斧を恐れることなく、鎧熊は自ら突っ込んだ。それはちょうど、カウンターのタックルとなって、メイちゃんの体を弾き飛ばしていた。
いくら大柄なメイちゃんといえども、直立すれば身長四メートルを超すほどの巨躯を備えるモンスターを相手に敵うはずもない。彼女は本当にか弱い女の子になってしまったかのように、フワリと体が宙に舞った。
「あ、くっ……斧が……」
結構な勢いで吹っ飛ばされ、土煙をあげて地面を転がりながらも、素早く起き上がったメイちゃんの第一声はソレだった。痛い、と喚くでもなく、ふぇーん、と泣くでもなく、彼女は自分の身よりも何よりも、武器の喪失にショックを受けていたようだ。
「うわっ、ま、まずい……」
メイちゃんの女子力について思うところはあるけど、やっぱり僕も彼女と同じく武器を失ったことに焦りを覚える。
凄まじい勢いで振り下ろされた斧は、鎧熊が自ら突っ込む勢いと正面衝突した結果、あっけなく敗れ去った。刃が命中したのは、一際に太い棘の生えた、かなりの厚さを誇る肩の装甲。太いスパイクを粉砕し、鋼の甲殻にヒビを入れたが、そこで限界を迎えた。
斧の刃はバッキバキに砕け散る。おまけとばかりに、木の柄も半ばから折れてしまった。もう武器として機能しないことは、一見して明らか。メイちゃんの手には、ただの棍棒以下に成り下がった木の棒しか残らなかった。
「メイちゃん! 剣をっ!」
装備変更が裏目に出た。まだ鎧熊相手に多少は通用しそうな鋼の長剣は今、僕が持ってしまっている。メイちゃんが持ったままなら、すぐに反撃へ移れた。
彼女に残された装備は、あまり切れ味のよくない鉈とナイフが一本ずつ。この長剣と比べれば、品質の差は明らか。そして、その差が直接、生死に結びつくほど際どい相手と戦っているんだ。
だから、僕は迷わず剣を渡すべく、走り出していた。
「だめっ、小太郎くん!」
「僕はいい! 熊はまだメイちゃんを狙ってる!」
心配してくれるのは嬉しいけど、ここは僕だって命をかけなきゃいけないところだ。沼の毒が通用せず、全力の黒髪拘束も破られた時点で、僕の呪術で援護する意味はなくなった。ならばせめて、マトモな武器を彼女に渡すくらいの行動は必要だろう。
鞘からぎこちない動作で剣を抜き放ちつつ、僕は重ねて指示を叫ぶ。
「行け、レム!」
護衛任務を外し、メイちゃんの援護に投入。ゴーマ手製のしょぼい槍が、あの鎧を貫けるとは思えないけれど、少しでも注意を逸らせれば御の字。
「ゴォアアアアアアアアっ!」
僕が動く一方で、鎧熊は猛然とメイちゃんへと追撃を仕掛けていた。タックルで吹っ飛ばした後は、ついにドスドスと巨体を揺らして走り出し、膝をついた彼女を押し倒そうと突進。
「くっ……」
すでに体勢を立て直していたメイちゃんは、マタドールみたいに鎧熊の突進をヒラリと回避する。だが、武器の無い彼女に、無防備な背中を刺す手段はなかった。
鎧熊はそのまま反転し、今度はナイフのように大きく鋭い鉤爪が並ぶ剛腕を、嵐のように振り回す。僕なら一瞬でミンチにされる自信のある乱れ裂きだけど、メイちゃんは騎士の第三スキル『見切り』を十全に発揮させ、紙一重での回避を成功させている。
「ち、ちくしょう……隙がない」
メイちゃんの神業的な回避も、いつまで持つか分からない。終わりの見えない一方的な連続攻撃の中で、彼女は鉈かナイフを抜く暇もないほど、集中しきっている。
無論、そんな苛烈な攻撃の真っ最中に、僕がのこのこ飛び込んで、上手く剣を渡すことなどできるはずがない。レムがちょっかいをかけても、果たして微妙なところだ。隙もできず、無意味にレムが破壊される結果になりそう。
どうにも、あと一手が足りない感じ……
「こんなのでも、使わないよりマシか――『赤き熱病』」
一応、鎧熊に対してかけてみる。しかし、アカキノコを服用していないヤツにとっては、微熱効果はさして気にかけるべき変化足りえない。興奮して猛攻撃を繰り出しているアイツにとっては、僅かな体温の上昇など気づいてさえいないかも。
でも、いいさ。これはあくまで念のため。本命はこっちだから。
「熊の視界を一瞬だけ塞ぐから!」
多分、メイちゃんならそれが分かっていれば、対応できるはず。相手がモンスターだから、作戦を思いっきり叫んでも問題ないってのは、強みだよね。
そんなことを思いつつ、再び僕は『黒髪縛り』を発動させる。今度は五本ではなく、全ての力を一点集中で、より大きく、長い、一本だけの三つ編み――いや、繊維が一本ごとに規則正しく絡み合う、帯状に広げた。艶やかな光沢を宿す漆黒の帯は、いつも通りの触手染みた動きで、暴れ回る鎧熊の背後から襲い掛かる。
「ガウッ――」
僕の思うがまま、自由自在に動く触手は、狙い通りに鎧熊の頭に絡みつく。何重にもグルグルと巻きつけると、瞬く間にターバンのように膨れ上がっていく。
しかし、コイツは自分の鎧のスパイクを利用して、簡単に髪を切ってくる。両手両足の拘束がほとんど同時に破られたのは、甲殻に生えるトゲトゲを引っ掛けて上手く切り裂いたからだ。兜を被ったように、頭部までこの棘付き甲殻で覆われているから、この拘束方法も即座に脱して来るだろう。棘などなくても、牙でも爪でも、好きな方法で裂いてしまえばいい。
けれど、これで確かにヤツの視界は封じられ、メイちゃんへの攻撃の手を止めた。
「ありがとう、小太郎くん!」
素早く鎧熊から距離をとり、僕の方へ駆け寄るメイちゃん。
鎧熊は怒り心頭といった様子で、顔の前に羽虫を振り払うようにブンブンと腕を振り回して、あっという間に黒髪帯を寸断して振り解く。
でも、鎧熊が再び視界を取り戻す頃には、もう僕の目の前にはメイちゃんがいる。すでに僕らは鎧熊の間合いの外。このままあと一歩踏み込めば、この手に握った長剣を安全確実に渡せる。
「ガァアアアアアアアアアっ!」
怒りの咆哮が耳をつんざくと同時に、僕の体に衝撃が走った。鈍い痛みが、体中を穿つ。
何が起こったのか、分からなかった。意味が分からない。突然、意味もなく殴り飛ばされたかのような感覚だ。
「う、あっ……あぁ……」
気が付いたら、地面に倒れていた。痛い。背中を打って、とかじゃなくて、体中が……いいや、左腕と、脇腹と、太もも、かな。そこが特にジンジンと鈍痛を発している。小学生の頃、雪合戦をした時に、中に石を入れた殺意に満ちあふれる雪玉を腹のど真ん中にクリティカルヒットしたのと同じ痛みだ。
ああ、そうか、これ、石だ。石が当たったんだ。バラバラっと、散弾銃をぶっ放されたみたいに。
土属性の魔法――なんて最初に思ったのは、僕がゲーム脳だからか。馬鹿だな。この口の中に感じる屈辱の味を思えば、ことはもっと単純だと分かるだろう。僕の口中には、錆っぽい血の味と、ジャリジャリと気持ちの悪い、土の味が広がっている。
そう、鎧熊は手が届かないことを悟って、土を投げて来たんだ。アンダースローみたいなフォームで、地面を抉ってそのまま土砂を浴びせかける。あの巨大な熊手は、たった一かきでも相当量の土を掘り起こし、そして、その内にゴロゴロっと埋まっていた石を含めて、僕へと投げつけた。
ヤツにとっては、八つ当たり染みた、大した意味のない行動だったのかもしれない。けれど、その物理的な攻撃は僕にとって効果は抜群だ。
「ゴアアアアアアっ!?」
思わぬ痛みに、驚いたような声をあげる鎧熊を見れば、どれだけ僕に深刻なダメージが通ったか分かるというものだろう。土壇場でお世話になってばかりの『痛み返し』は、こんな時でも効果を発揮して、鎧熊に打撃の痛みを教えていた。
「小太郎くんっ!?」
ああ、ごめん、メイちゃん……衝撃の余り、僕は剣を手離してしまった。拾ってくるには、ちょっと遠い。
「うっ、うぅ……痛っ、痛ったぁ……」
情けなくも、涙を滲ませながらヨロヨロと立ち上がる。何が「痛い」だよ、ここはせめて、「全然、大丈夫!」くらい虚勢を張れよ。あまりの痛みに、僕はどこまでも正直に苦しみながら、それでも、どうにか行動を再開。
けれど、すでにボロボロな僕でも動き出せるというのなら、タフな肉体を持つ鎧熊は、もっと速く行動を始めているということでもある。
『痛み返し』で僕と同じくらいの打撃を被ったはずの鎧熊だけど、もう痛みなんて忘れました、みたいな勢いで、ちょっとのけ反っていた体勢を整え、再び突進してきた。
「くっ……やぁああああっ!」
メイちゃんは一瞬だけ、転がった剣と僕と鎧熊、全ての位置をチラ見で確認すると、腰から鉈とナイフを同時に抜いて構えた。剣の回収を諦め、僕という足手まといが間合いのすぐ傍にいて、やむなく、その貧弱な武器で荒れ狂う鎧熊と正面から戦う決断を、彼女は下したのだ。
「ガァアアアアっ!」
嵐のような攻防が、再び始まる。すぐ眼の前で吹き荒れる錆びた刃と研ぎ澄まされた爪の剣戟。とても、僕のショボい呪術で割って入れるような領域ではなかった。そもそも、両者の激突はあっという間に終わりを迎えてしまう。
「――っ!?」
大きく欠けたナイフ、半ばから折れた鉈。いよいよ武器として使い物にならなくなった二刀を握りしめながら、メイちゃんの体が凄まじい勢いで吹っ飛ばされていた。宙に舞った血飛沫の量が、傷の深さを物語る。
鎧熊との切り合いは一瞬だったけど、少しは目で追えた。メイちゃんが繰り出す刃は、ほとんど正確に鎧熊の甲殻の切れ目、肩や腕の関節部などをなぞったが、浅い。彼女の持つ低品質の刃では、僅かに皮を切り裂くだけで限界だったんだ。
凶悪な乱れ裂きの合間を縫って、メイちゃんはそんな攻撃を仕掛けたのだから、今回ばかりは『見切り』で回避に徹しきれない。だから、当たってしまう。防御を捨てた決死の攻撃は、狂戦士の腕をもってしても、絶対的な能力差を覆すことはできなかった。
「メイちゃん! 大丈夫っ!」
「うっ、ん……」
地面を転がり、土まみれになった彼女の体が、僅かに動く。けれど、それだけ。さっきのように、即座に起き上がって攻撃の構えをとることはなかった。
見たところ、メイちゃんは両腕を深く傷つけられているようだった。爪の一閃を喰らう寸前、咄嗟に腕でガードだけはしたのだろう。
けれど、生身の肉体で鋭い爪を防ぎきることなどできるはずがない。袖ごとズタズタに裂かれた腕からは、流れ落ちる鮮血がはっきりとみてとれた。あんな負傷では、もう剣があったとしても、マトモに振れないかもしれない。
「時間を稼ぐから! 何とか回復して!」
メイちゃんにはそれなりの傷薬Aをはじめとした、各種の薬を渡してある。両腕の傷は酷いものだが、傷薬Aと『恵体』の回復コンボがあれば、ギリギリで使いものになるくらい治癒できるはず。
逆転するには、それしかない。呪術師の僕では、万に一つも鎧熊を倒す手段はない。こうして面と向かって戦闘が始まった時点で、毒餌のようなトラップも使えないのだから、当然だ。
鎧熊を倒せるのはメイちゃんしかいない。何としても攻撃手段を取り戻さなければ、戦いではなく一方的な虐殺、いや、鎧熊からすれば、単なる捕食行動に過ぎないか。
だから、僕は命を張ってメイちゃんが回復する時間を稼ぐしかないのだ。不思議と、逃げたいとは思わなかった。
一人で逃げたところで、生き残ることはできないと、もう本能レベルで理解してしまっているのだろうか。
「ガルルっ!」
「ひいっ!?」
しかしながら、怖くないわけではない。メイちゃんへの針路を阻むように飛び出したはいいものの、鎧熊に睨みつけられただけで、僕は恐怖で声が上ずり、体が震えあがる。圧倒的なモンスターの巨躯が眼前に立ちはだかり、すでに生きた心地はしない。奴の気まぐれで、僕の命はあっけなく散らされる。
「こ、こ……来いよっ! 僕が相手だクマヤローっ!」
倒れたメイちゃんを背中に庇うように、僕は鎧熊の前に立つ。ちっぽけなナイフを手に、哀れなほどの震え声で挑発の台詞を叫ぶ僕に、鎧熊は「なんだこのチビ、邪魔くせぇ」と言わんばかりに、荒い鼻息をつきながら、僕を睨み続けた。
一応、注意は僕に向いている。鎧熊は街中で黒高の不良とエンカウントした時みたいにガンを飛ばしているだけで、まだこう着状態。けれど、もう次の瞬間に、巨大な腕を振るわれて、僕の首が飛んでもおかしくない。
「どうした、やれよっ! できれば死なない程度に攻撃しろよ、お願いしますっ!」
賭けるならば、土壇場で頼れる『痛み返し』だ。爪で引き裂かれても、僕が即死しなければ、そのダメージは鎧熊に跳ね返る。ザックリと甲殻が抉れるほどの深手を負わせれれば、メイちゃんの勝率も一気に高まる。
だから、今の僕が狙うのは、捨て身の自爆攻撃しかない。
見ろ、しっかりとヤツの攻撃を見切るんだ、桃川小太郎。ここで紙一重の回避を成功させれば、鎧熊を倒せる。だから、眼を見開いて、ヤツの動きを――
「あっ」
と、気づいた時には、巨大な爪が目の前にあった。爪はもう、僕の体をそのまま切断できるほど、深くかかろうとしている。肩口から食い込めば、この四本並んだ大振りのナイフに血と肉と骨と、そして内臓を全てまとめてズダズダに寸断されていくコースを辿るのは確実。
間違いなく即死のオーバーキル。
分かっていながら、僕の体はピクリとも動かなかった。動けるはずがなかった。呪術を除けば、貧弱な高校生男子の身体能力しか持ち得ないこの僕に、モンスターの一撃を凌げるわけがない。
考えが、甘かった。
「――ああっ!」
血飛沫が舞う。熱い物が体を撫でていく感触は、前と同じ。そう、鋭い爪で切り裂かれると、痛いというより、熱いのだ。
「あっ、あぁあああああっ!」
そして、一拍遅れて激痛がやってくる――けど、なんだ、僕の体、割と大丈夫。ちゃんと学ランを着た胴体がある。内臓も零れてはいない。
代わりに、僕の胴体には真っ黒い骨の残骸が、しがみついていた。
「あ、ああ……レムっ!」
そこで僕は、ようやく理解する。レムが咄嗟にタックルを決めてくれたことで、僕は鎧熊の一閃をどうにか潜り抜けたのだと。
そして、僕は助かった。代わりに、レムが犠牲になる。黒いスケルトンの体は、胸から上までしか残っておらず、そこから下はバラバラに砕けて、そこら辺に散らばっていた。
レムはピクリとも動かない。倒れた僕の胴体にしがみついた格好のまま、その機能を完全に停止させていた。
ごめん、ありがとう……よくやった、レム。
「ゴァアアアアアアっ!」
雄たけびを上げる鎧熊を見れば、その鋼の胴体に、四本の創傷が刻まれている。分厚い胸元の甲殻はザックリと裂け、その下にある腹部にかけて、傷痕は走っていた。どうやら、爪先は僕の体を上から下にかけて、わずかになぞっていっただけのようだ。
僕も鎧熊も、傷痕からドクドクと鮮血を流しながら、襲い来る苦痛に吠えた。
「ちいっ、やっぱり、傷が浅い、か……」
僕がこうして意識を保っていられる程度のダメージだ。甲殻が少しばかり裂けたとはいっても、鎧熊はまだまだ元気。
こんな雑魚に自慢の鎧を破られ、血を流すほどの傷をつけられたことが癇に障ったのか、血走った怒りの眼つきで、僕を睨みつけた。
振り上げられる、丸太のような、いや、鉄の柱みたいな鎧熊の右腕。これが振り下ろされれば、今度こそ僕は死ぬ。地面に倒れた体勢のまま、起き上がれてすらいない。
ちくしょう、追撃が速すぎる――そんなことしか考えられず、死への覚悟も固まらないまま、僕は涙目で振り上げられた熊の手を見上げていた。
「――ガア!」
けれど、鎧熊の一撃はいつまで経ってもこなかった。気が付けば、腕は何も切り裂くことなく降ろされていて、鎧熊は僕のことなど忘れてしまったかのように、遠くへ視線を送っていた。鋭い目つきは、警戒しているのだと、傍からみてもすぐに分かる。
鎧熊の大きな体が、一度だけ、ブルリと身震いしていた。
何だ、コイツを恐れさせるほどの何が、そこにあるというのか。疑問のままに振り返ると、ちょうどメイちゃんが立ち上がっていた。
両腕から滴る鮮血はそのままに、真紅のオーラを纏って、彼女はそこに立っていた。
「メイちゃん、もしかして……『試薬X』を使ったのかっ!?」
 




