第426話 これが私の御主人様
リザが生まれた時、ディアナはすでにアストリアの侵略が進行していた。
両親は滅んだ部族と運命を共にし、赤子のリザだけが安全な大部族へと渡った。そのような子供の行く末などロクなものではないのだが……幸いにも、リザは精霊戦士としての素質があった。
そうして精霊戦士の名門、タイタニア一族の末席に加わったリザは、ひたすらに鍛錬の日々を送る。
タイタニアを名乗ることこそ許されるが、一族の血を引かないリザへの鍛錬は過酷を極め、気づいた時には笑い方を忘れてしまっていた。
どれほど辛く苦しくとも、毎日繰り返せば日常となる。戦士としての体を作るために、十分な食事があることも、恵まれていると言えよう。
15歳の成人を迎えると、リザは晴れて『精霊戦士』となった。
そして、そのままアストリアとの戦いへと送り出された。
「――――このぉっ、役立たずのグズがぁ!!」
御子の少女は、劣勢の戦場に立つなり、すぐに泣き喚き自身の精霊戦士達を罵倒した。
アストリアに占領された、とある町の奪還作戦。ディアナ側としても、色々な思惑があっての上での一戦であるが、リザの御子にとっては、自分が大部族の中で成り上がるために、戦功の一つでも欲しいという程度の動機。
御子の心中がどうであれ、精霊戦士は絶対服従。命を賭けて戦い、御子を守り抜く覚悟を持ってリザ達は戦場に臨んでいたが――――翌朝、御子は姿を消した。
腹心の精霊戦士だけを連れて、リザのような下級の戦士だけが戦場に残された。
失望したが、絶望はしなかった。
御子を現人神が如く信奉するような教育こそ受けてきたが、所詮は同じ人間だと分かっている。同じように飯を食い、眠り、様々な欲望を抱えていると。
自分の御子が俗物なのは百も承知。それでも全身全霊、誠心誠意、尽くすのが精霊戦士。御子がいなければ、自分達もただの人に過ぎないのだから。
「諦めないで。皆さま、どうか私に力をお貸しください!」
平気で配下を見捨てる御子もいれば、信じるに相応しい素晴らしい御子もまた、存在した。
リザの御子を始め、劣勢と見て続々と逃げ帰る御子が続出する中、ただ一人の御子が残った。
小さく、儚く、美しい。誰もが理想とするような御子の少女は、見捨てられた精霊戦士達を束ねて、戦線を立て直す。リザもその内の一人として、死に物狂いで戦い続けた。
奇跡の逆転勝利は目前――――だが、全てがひっくり返された。たった一人の男によって。
それは剣士だった。
戦場に現れるや、真っ直ぐに突き進む。ただ一振りの剣を携えて。
立ち塞がる精霊戦士を斬り伏せ、あまりにもあっけなく、御子は男の前に屈する。
「――――ちっ、こんなメスガキ一匹のために、この俺を使いやがって」
その男、『剣聖』。
アストリアが誇る勇者パーティ、その一角を担う最強の剣士である。
そう知ったのは、仲間達と共にリザが捕まった後のこと。アストリアの英雄が現れたこと、そして噂以上の圧倒的な強さに、アストリア兵の誰もが興奮して語るのを、嫌でも耳に入った。
そうして、あっけなく偉大な御子も捕まり、リザも奴隷として売り払われ、このニューホープ農園へとやって来た。
奴隷としての生活は、正直なところそれほど苦ではなかった。幼少の頃の過酷な鍛錬に比べれば、身体的な苦痛は少ない。
ただ劣悪な環境と乏しい食事が、少しずつ、けれど着実にリザから力を削ぎ落してゆく。
いつか自分も、やせ細った奴隷として枯れ行くのだろうか。精霊戦士となるために、全てを注ぎ込んだ自分の努力も消え去って。
そんな底なし沼に少しずつ沈んで行くような、鬱屈した奴隷生活も3年を迎えた、とある日。奇跡が舞い降りた。
「……なるほど、そして今に至る、と」
天使のように愛らしい顔をしたリザの御子、小太郎が真剣な眼差しで見つめてくる。
この子が自分の話を聞いてくれる。自分を見てくれる。
ただそれだけのことで、得も言われぬ幸福感に満たされるような気持ち。
「つまらない身の上話をお聞きいただき、ありがとうございます」
「ううん、ちゃんとリザのことは知りたかったから。大変、だったね」
その一言で、これまでの苦労など全てが報われる。
精霊戦士になるための鍛錬も、屈辱の敗戦も、虚しい奴隷生活も。全て意味があった。
桃川小太郎。
自分が尽くすべき唯一無二の御子と出会えたのだから。
「それじゃあ、僕のことも話しておかないとね」
「いえ、それはまたの機会にお願いします。今はもう、ゆっくりとお休みになってくださいませ」
反乱を起こした夜は、そのまま徹夜となった。翌朝にはマルコムを引き込み、慌ただしく反乱隠蔽のために奔走したものだ。
それも過ぎ去り、今夜はようやく眠りにつける。少なくとも、この小さな御子にこれ以上の負担をかけるまいと、リザ含めた皆が思ったことである。
「ごめんね、先に寝かせてもらうよ」
「はい、どうぞ――――」
リザはいつものように、下着だけの姿となって、ベッドへ寝そべり小太郎を招く。
いつもと違うのは、屋敷の湯舟で入念に身を清めたことと、生まれて初めて身に着けたシルクの下着であること。
滑らかな絹の感触は心地よいが、リザの体格より劣るサイズ感のせいで、大きな胸が今にも零れ落ちそうなほどに、無理矢理に詰め込んである。
「……」
「どうしたのですか」
そんな恰好で迎えるリザを前に、小太郎はあまりにも大量の餌が差し出された猫のように硬直していた。パチパチと瞬きする目を、ベッドの上でたわむ褐色の谷間に向けながら。
「……一緒に寝ていいの?」
「無論です。万が一に備え、私は常に御子様のお傍におらねばなりません」
当然のことだ。すでに敵は無力化し、ディアナ戦士の監視下に置かれ厳重に拘束されているとはいえ、油断など出来はしない。多少の不便があったとしても、ここは我慢してもらうべき。
そして何より、自分自身がこの小さな温もりを手放したくない。
「うーん、じゃあ、いっかぁ……」
まるで今更ながら恥ずかしがっているかのような素振りで、おずおずと小太郎はベッドに入る。
その遠慮がちな様子に、胸が焼け焦げるような感覚で、リザは反射的に小太郎を抱き寄せた。
「んんーっ」
己の胸に小太郎を抱えると、ようやく充足感で満たされる。
もう手放せない。一度覚えてしまったら。感じてしまったなら。
「お休みなさい、私の、御子様」
鋼の無表情も、今ばかりは柔らかな微笑みに溶けていた。
◇◇◇
「このニューホープ農園を、僕らの砦とする」
翌朝、とてもスッキリした顔で目覚めた小太郎は、屋敷の前にディアナ人全員を集めて、演説を始めた。
濃紺の制服に身を包み、隣に給仕服のリザが立つ様子は、如何にもお屋敷のお坊ちゃんといった風情。しかしここにいる誰もが、その小さく幼い姿を侮ることはない。
「所詮、ここは力で奪い取った場所に過ぎない。どこからか情報が漏れて、アストリア軍が動くとも限らない、不安定な状況にある。かと言って、今すぐ全員でディアナに帰ることも出来ないだろう」
リザには小太郎へついて行く以外の道など無いが、他の者はその限りではない。
多くの者は、一刻も早く故郷へ帰りたいと願っているだろう。
だがしかし、そもそも奴隷としてここへ売られてきた者は皆、部族ごと滅びたか、切り捨てられた者達である。
たとえディアナの地に辿り着いたところで、快く彼らを迎え入れてくれる場所はない。財産も生活基盤もなく、着の身着のままやって来れば、待っているのは奴隷とそう変わりはない、誰かの下でこき使われる貧しい生活だ。
「ディアナへ帰りたい者は、必ず帰そう。約束する。けれど、今すぐは出来ない。ただ帰還するにしても、準備が必要だ」
それでも望郷の念を捨て去れない者は多い。理屈ではなく感情の問題だ。
そこを分かった上で、小太郎が帰還の望みを肯定しているのだと、リザは理解している。
見た目こそ小さな子供だが、その頭脳は大部族の長老や賢人の如き深謀遠慮を図っている。それが生来の天才的なものなのか、あるいは神の授けた叡智なのか。
どちらであっても、戦士の教養程度しか身に着けていないリザでは、滅多なことで口出しなどできないと弁えていた。
「準備をするには時間がかかる。そのための期間をここで過ごすためにも、この農園は僕らが安心して暮らせるよう、盤石なものにしなければならない」
故郷へ帰る、という最短でこの場を離れる者であっても、農園の拠点化は避けられない。要するに、そういう訴えである。
今ここで、帰りたいのだとすぐに出て行かれては、結果的に双方共に困ることとなる。不用意に出て行けば、逃亡奴隷として捕まるのがオチだし、帰り着いてもロクな生活は出来ない。対する農園に残る小太郎にとっても、貴重な人員が流出するだけの結果となってしまう。
ニューホープ農園にはディアナ人が最も多い人数を誇るが、それでも150人程度。頭数が減れば、それだけ出来ることは減るし、元々のコーヒー生産さえ維持できなくなってしまう。
「全員の力が必要だ。一致団結しなければ、まだ未来を切り開いていくことはできない」
小太郎は団結を訴える。
反乱の成功は、終わりではなく、始まりに過ぎないと。ここからだ。ここから、自分達の望む未来を掴むための戦いが始まるのだと。
「まずはこれまで通りの、コーヒー生産は維持しなければいけない。生きていくにはお金が必要で、このニューホープ農園が誰にも怪しまれずに存続するためには、ある程度の儲けがいる。けれど僕は、君達に今までと同じ過酷な労働をさせるつもりはない――――要はコーヒー豆が収穫できればいいんだ。無駄に苦しいことを、する必要はないからね」
口だけならば、何とでも言える。しかし、そうケチをつける者はいなかった。
何故なら、小太郎はすでに環境を変えている。自らも同じ奴隷でありながら、食事の量を増やし、温かい風呂まで用意してみせた。すでに十分過ぎるほどの改善が成し遂げられている。
これ以上を望むのは、身勝手に過ぎると大半の者は思っていた。
故に、これまで通りのコーヒー栽培を行うという小太郎の言葉に、反発は少ない。自分達を解放した御子様のためならば、今までと同じ仕事だって、喜んでこなしてみせよう。
「そのために、呪術を授ける」
すでに覚悟はできていただけに、その言葉は予想外にして、あまりにも衝撃的だった。
黙って小太郎の言葉に耳を傾けていたディアナ人達も、突然の宣言にザワめきを隠せない。
「呪術と言っても、恐れることはないよ。魔法と同じ、便利な力だと思って使えば、それでいい」
魔法は、神聖な力である。元をたどれば、それも全て神の力によるものだから。
本来、人間という生物には、何ら特別な力は無い。血と肉と骨。ただそれだけの肉体を持つだけの存在。
その人間を、魔力によって大いなる力を振るうことが出来るのは、全て神々がこの世界と人々を祝福しているから。神より特別に加護を授かった者が、より大きな力を行使できるのは当然のこと。
加護、魔法、武技。およそ魔力が関わる様々な技術を行使するにあたって、神への感謝と畏敬を忘れてはならぬ、とはディアナの全部族に共通する基礎的な教えである。
どれほど強い戦士も、卓越した魔術師も、魔力という神の祝福を失えばただの人へと戻ってしまう。我々は神々より力を借りているに過ぎないと、常に心得るべし。
ディアナ人ならば、子供でも知っている。
しかし小太郎は今、自ら授かった『呪術』を便利な力と言い切った。
御子が、神と直接通じるほどの高みにある存在が、そう言ったことにディアナ人達は動揺し、困惑した。
「どうやら君達ディアナ人も、文明を気取るアストリア人も、魔法を神聖視し過ぎているようだ。力を授けてくれる神々への感謝は、人として当然だ。僕もルインヒルデ様を、心から信じているし、呪術を授けてくれたことに感謝と、大いなる力への畏怖がある」
小太郎は、ただの無知、文化の違いによる失言をしたのではない。彼らの魔法への認識を理解した上で、あえて言っているのだ。
「僕は御子。呪神ルインヒルデと直接、相対することを許された身だ。その上で言わせてもらおう――――本物の神とは、慈悲深く、寛容なんだ。君達が思っているよりも、ずっとずっと、懐が深い。たかが人間如きが、計り知ることなどできないほどにね」
その強く神への信頼を感じさせる物言いは、受け入れやすくはあった。
これほどの御子がそう断言するのなら、そうなのだろうと。小太郎の言う通り、御子は神と直接相対することができるのだから。
ならば自分達が想像し、信仰してきた以上に、神の真理を解しているに違いない。
「神々が授けた神聖な力だと、そう言って一部の者だけが魔法の力を独占するのは、神の望みじゃない。それは紛れもなく、人間のエゴだ!」
御子と精霊戦士。戦士と民。明確な階級差別があるのは当然のこと。そこに疑いを抱いたとしても、誰も表立って口になど出せないのが、固く制度として根付いた階級社会である。
魔法の才を持つ者は、特別な人間だ。強靭で優れた肉体を持つ者が、さらに魔法の才を併せ持てば、上位の精霊戦士となる。ただの人には、到底及ばない存在。
そして加護を授かる御子は、そんな精霊戦士を従える、さらに特別な存在だ。
頭脳と肉体。魔力の素養。神に選ばれし加護。それらの要素は、生まれながらに決定づけられた運命である。
故に、魔法の才を持たぬ者に、魔法は教えない。貧弱な者に、わざわざ剣を持たせないのと同じこと。
無駄だからだ。魔法を発現させるほどの魔力もないのに、魔法を覚えたところで使えるはずもないのだから。神の祝福たる魔法の力を、使えもしない無能力者へ教えることは冒涜的とも言える。
無能に教えるべからず。無能が教えを乞うべからず。
その思想は全く異なる文化・宗教を持つディアナとアストリアにおいては、共通する考えであった。それは何故か、という疑問への解答を小太郎は示す。
「でも、これが一番、支配しやすいから、そうしているんだ。ディアナ人もアストリア人も、持てる者だけが持ち、持たざる者には持たさぬままに。魔法の力や技術を独占し、万人に解放することは無かった」
今、自分達はこの世界のタブーに触れている。そんな気持ちに、彼らはなっていた。
もしかすれば、小太郎は反乱よりも大きな革命を起こそうとしているのではないか。
「けれど、それじゃあダメだ。僕は知っている、精霊戦士にも魔法使いにもなれない、何の力も持たないただの人である君達には、才能が眠っていると」
大きなものではないかもしれない。些細な、小さな力かもしれない。
けれど、ソレは確かにあるのだと、小太郎は語る。
「僕らには力が必要だ。もっと大きな力が。だから僕から『呪術』を教わり、是非とも自分の可能性を、皆には試して欲しい!」
「聞きましたね。御子様が、全員に力を授けて下さるとの仰せです」
リザの言葉に、全員が一斉に跪く。深々と頭を垂れて、望外の奇跡をその身に受ける栄誉に、震えた。
「そんなに畏まらなくていいよ。僕が教えるのは、ささやかな能力だ。けれど必ず役に立つ、僕らの力になってくれる、大いなる可能性だ――――」
小太郎が両手を広げる。
右の掌には、怪しい黒い靄が渦巻く。左手をかざした先には、地面に毒々しい紫の輝きを放つ魔法陣が描かれる。
「――――『錬成』と『召喚』。みんなには、これを覚えてもらいたい」




