第425話 新しい朝、希望の朝
「こ、これは一体……何が起こったんだ……?」
朝、マルコムがニューホープ農園へと出勤してくる。
やけに荒れた入口周辺に、妙な静けさに違和感を覚えつつも、屋敷の前に立った瞬間に、明らかな異常を目にした。
屋敷の正面扉が破壊されている。
まず頭に過ったのは、事故。爆発物を誤って暴発させてしまった、だとか。
人は異常を目にすると、まず自分が納得できる原因を考えてしまうものだ。ましてマルコムのように荒事とは無縁のインテリにとっては、尚更。
自らを安心させるための無為な推測は、直後に打ち切られることとなる。他でもない、異常の真実を全て知る者の登場によって。
「おはよう、マルコム君。朝、早いんだね」
まるで親しい同僚のように気軽な声をかけながら、壊れた正面扉の奥から、小さな人影が姿を現す。
一瞬、何者か分からなかった。
黒い髪に、どこか怪しい紫紺の輝きが宿った瞳は猫のよう。あどけない中性的な幼い顔立ちと、小さく華奢な体。
その容姿に確かな見覚えはあれど、明確に発せられる言葉と、何よりも身を包む衣装が決定的に彼の知る存在と印象を異にしている。
身に纏うのは、濃紺のブレザー。
それはウォンタが進学する予定の学校の制服である。気が早く用意されていたその制服は、マルコムが手配したものであるが故に、すぐに分かった。
だがしかし、今その新品の制服を身に纏っているのは、
「呪い子、モモカ……ど、どうしてここに……」
「改めまして、呪神ルインヒルデの御子こと、桃川小太郎でーす。でも、アストリア人にこの発音は難しいようだし、モモカでいいよ」
昨日までは確かに、古い奴隷のイメージそのものである粗末な麻の服を着ていた。
けれど今、目の前にいるモモカ、否、小太郎がこの恰好をしている意味を、マルコムは瞬時に想像する。
どうか、それだけは違っていてくれ、と内心で神に祈るも、願いは虚しく散る。
「君のこと、待ってたんだ。さぁ、上がってよ。遠慮しないで、僕の屋敷だから」
笑顔で歓迎する小太郎の隣に、無言で威圧感を発する女の巨体が立つ。
清潔な白いエプロンの給仕服を身に纏っているのは、褐色肌のディアナ人女。どれほど鞭を打たれようとも、鉄の仮面を被っているかのように無表情を貫く、この農園で最も強い奴隷戦士リザだ。
さらには、いつの間にか自分の背後に、警備兵の衣服を着込み、ライフルを担いで完全武装したディアナ人の男達が音もなく立ち並んでいた。小太郎の無邪気な笑顔とは裏腹に、無言を貫く彼らからは、絶対に逃がさないという意志を感じた。
「わ、分かりました……」
と言う以外に、マルコムに選択肢などあるはずもなかった。
すでに自分の生殺与奪が握られている恐怖を覚えながら、マルコムはいつもの執務室へと案内される。
「まぁ、座ってよ」
「……どうも」
促されるまま、ソファに座る。
リザが給仕らしくすぐにお茶を出すが、毒でも入っているのか、と悪い方向ばかりに考えを巡らせてしまう。
落ち着かない。落ち着くはずもない。命を握られて交渉の席につくなど、マルコムのそれなりの人生経験の中でも一度も無かったのだから。
「まずは安心して欲しい。僕は君に危害を加えるつもりはない。これから一つの依頼をすることになるのだけれど、もしソレを断ったとしても、君は無事にここから帰ることができると、約束しよう」
「それは、お気遣いいただきありがとうございます……それで、まずは状況から説明していただければ、大変助かるのですが」
「察しの通り、昨晩、僕らは反乱した」
「そんな……デイリック隊長は……」
「鎧熊と接戦するくらいの実力じゃあ、僕の精霊戦士には敵わないよ」
チラとリザの方へ小太郎が見るだけで、マルコムは察する。
聞いたことはあった。リザが元精霊戦士であったこと。そして精霊戦士は御子と呼ばれる者から力を借りて、天職に匹敵する強力な戦闘能力を発揮すると。
もっとも、小太郎とリザが御子と精霊戦士の関係でなかったとしても、銃を持った奴隷に睨まれるだけで、マルコムに抵抗などできはしないのだが。
「けれど、僕らはこのまま逃げるつもりもなければ、農園を占拠して立て籠もるつもりもない」
「まさか、反乱を隠して、農園を乗っ取るつもりなのですか!?」
「話が早くて、助かるよ」
小太郎は乗っ取り計画を語る。
鎧熊の襲撃によって警備兵が全滅し、代わりに奴隷が立ち上がる。それに感銘を受けた会長が、ディアナ人奴隷を解放し、農園で正規雇用の扱いへと変えた。
被害者、死者は鎧熊という野生の魔物によるものだけ。ディアナ人奴隷は反乱奴隷ではなく、農園を救った功労者。そうすることで反乱の事実を隠蔽し、アストリア軍が動くことは無い。
「そこで、君には新しい農園主になって欲しいんだよね」
「何故、私なのですか。ウィンストン会長を捕らえているなら、そのまま立てれば良いのでは」
「彼自身も鎧熊に襲われて大怪我を負っている、ってことになっているからさ。もう一線を退かなきゃいけない。後を託すには、君以外に適任者はいないだろう?」
ニューホープ農園が以前と同じように存続するには、経営者の存在が必要だと小太郎が理解している、とマルコムは確信した。
奴隷からすれば、自分とウィンストンの違いなど無いだろう。一番偉いヤツか、二番目に偉いヤツか、程度の差である。反乱の現場に居合わせれば、当然のように狙われた。
「脅されてる奴を表立って動かすワケにはいかないでしょ。一緒に働く仲間になるなら、ちゃんと納得した上で協力してもらわないと」
今はウィンストンの命を一家丸ごと握って優位に立っているが、それでも僅かに自由を与えて動かせば、いつ反旗を翻すか分からない。
家族の命を盾に脅迫を続けても、その内に心が限界を迎えて、ふとした気まぐれで、後先考えずにアストリア軍基地に駆け込み助けを求めるかもしれない。あるいは、秘密裡に誰かへSOSを発信することだってありえる。
リスクの観点から、ずっとウィンストンを会長として利用するのは無理があった。
なるほど、確かにここで自分が小太郎へ全面的に協力すれば、彼の計画は一気に現実味を帯びる。
農園の経営は滞りなく続けられるし、自分が新たな農園主として表に立てば反乱の隠蔽も何とかなる。ウィンストン自身が生きていることで、上手く嫌疑も避けられるだろう。
「しかし、私が農園主となっても、実質的にここを支配するのは……」
「うん、だから君にはちゃんと、それなりの報酬を支払う準備がある」
自分を引き込む餌まで用意しているのか、とマルコムは驚愕と同時に恐れを抱いた。
普通は「農園をくれてやるのだから、それで満足だろ」と言われてお終いだ。これが反乱による脅迫じみた交渉ではなく、通常の商取引でも同様である。
マルコムはそれでも恐怖心から小太郎に協力はできない、この町を去ることになっても、断ろうと考えていたが――――ここで報酬まで用意する周到さに、自分の心の内を読まれていると気づかされる。
恐ろしいと思うが、小太郎が如何なる報酬を提示するのか、興味も湧いてしまった。
「それじゃ、入ってー」
「失礼いたします」
小太郎が一声かけると、すぐに一人の女中が入って来た。
「エリーゼ、さん……」
その女中は、住み込みで屋敷に働く者の一人である。ディアナ人ではなく、アストリア人の女性だ。
「昨晩、ここにいた住み込みの使用人は、鎧熊の犠牲になってもらう予定だ。まして彼女は、ただの給仕じゃない。ウィンストンの愛人だ」
「まっ、待ってください……彼女は、その……」
「ああ、勿論、待つよ。君にとっては、大切な思い人だもんね?」
知られている、全て。
エリーゼがウィンストンの愛人というのは、半ば公然の事実。妻でさえ黙認しているような状態だ。
パンドラ聖教の謳う夫婦にあるまじき関係性だが、少なくともウィンストン夫妻は互いにそれで上手くやっているのだ。夫は屋敷に若い愛人を抱え、妻は外でたまの浮気に遊びに行く。清い関係の維持に我慢するよりも、互いにストレスを発散できる環境にする方が、夫婦円満の秘訣といったところ。
エリーゼとて、タダで愛人などやっているはずもなく、相応の報酬を受け取った上での関係性。三者三様、他人が口を挟む事情ではない。
けれど、エリーゼに懸想するマルコムからすれば、心苦しい状況に違いは無かった。
「何故、それを」
「逆に何で知られてないと思ってんの?」
そこまで自分の態度は分かりやすかったのか、とショックを受ける。
つい数少ない彼女と接する時のことを思い返してしまうが、今はそんな状況ではないことを小太郎の声で思い出す。
「この子を君にあげるよ」
「……彼女を、モノのように扱う言い方は、やめてくれないか」
「今は僕のモノなんだよね」
この女性が奴隷となるか、殺されるか、決めるのは小太郎だ。それだけの力と立場があることは、リザを筆頭に黙って小太郎につき従っているディアナ人の様子から明らかである。
マルコムがそれとなく視線を向ければ、小太郎の隣に立たされたエリーゼが、かすかに震えていることに気づく。
彼女が怖い思いをしているのだと、どうしようもなく実感させられる。
同時に湧き上がるのは、自分が助けねばならないという義憤、否、これは、これこそが愛だ。
「そうだよ、エリーゼを助けることが出来るのは、君だけなんだ」
そんなマルコムの心中を覗き込んでいるかのように、小太郎は楽しそうな微笑みを浮かべて言う。
「彼女が奴隷として悲惨な末路を迎えるか、それともアストリア有数の大農園主の奥方として幸せになれるか、今この時が分水嶺。そして、それを決めるのは君だよ、マルコム君」
悪魔の囁き、とはこのことを言うのだろうか。
ウィンストンに農園に来いと誘われた時。エリーゼと初めて出会って言葉を交わした時。どちらも自分の人生においては、忘れられない言葉である。
けれど、これまでもこれからも、小太郎のこの問いかけは、何よりも鮮烈に脳裏に焼き付くことだろう。
選ぶのは、自分だ――――そして、マルコムは決断する。自分と、愛する女性の人生を。
◇◇◇
「よぉーうこそぉ、マルコムさん! お待ぁーちしておりましたぁ!」
「どうも、お久しぶりです、プリングルト会長」
その日、マルコムはイーストホープ一の奴隷商、『ベルベット・サーヴァント・サービス』を訪れた。
「この度はニューホープの会長就任、誠におめでとぉーうございまぁーす」
「ありがとうございます。まだまだ若輩者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「ウィンストンさんの具合の方は、如何でしょーうかぁ?」
「まだしばらくの間は安静にする必要はありますが、意識ははっきりしておりますので。プリングルト会長には、しっかりとお礼を伝えて欲しいと。その節は、お見舞金まで包んでいだき、ありがとうございました」
凶悪な鎧熊によるニューホープ農園襲撃のニュースは、イーストホープを震撼させた。
幸いにも件の鎧熊は現場で討伐されたが、農園の警備部隊が全滅した上に、農園主たるウィンストンも、片足を食い千切られる、という大怪我を負う、この町が開かれて以来の大惨事となっていた。
すでに討たれたと分かっていながらも、ここ最近では鎧熊への恐怖から武器の売買、傭兵の雇い入れなどが活発化し、さらにはアストリア軍の町周辺の見回り強化といった動きがあった。
ウィンストンの容体と、その辺の当たり障りのない世間話を中心に、マルコムとプリングルトはしばしの間、和やかな談笑を交わしていた。
「とぉーころでぇ、マルコムさんには聞いておかなければならなぁい、大ぁーい事なことがあるのですが――――」
「――――ああ、奴隷解放の件ですね」
タイミングを図って、いよいよ本題を切り出してきたプリングルトに、マルコムは如才なく笑みを浮かべて答えた。
「まず勘違いしないでいただきたいのは、ウィンストンさんが突然、『解放派』に加わった、などということはありません。例の解放宣言は、あくまでウチの農園に限った中での、雇用形態の変化に過ぎないのです」
「ほぉーう、そうなのでーすかぁ……いやはや、私はてっきり奴隷反対に目覚めてしまったのでは、なぁーんて心配をしてしまったものでぇー、ねぇ?」
「ええ、プリングルトさんの懸念は当然のものでしょう。そういう思想の団体というのは、何かと過激な行動に走りがちですからね」
アストリアでは当然の如く流通している奴隷。最も多いのは、やはり現地で仕入れることのできるディアナ人。次いで、犯罪や借金によるアストリア人奴隷だ。
しかし他にも、海を越えた大陸から輸入される様々な人種の奴隷も存在している。
奴隷はアストリア建国時から存在する。王城、首都、大都市、いずれもその礎は数多の奴隷によって築き上げられたものだ。
誰もがあって当然のものとして認識しているアストリアの奴隷文化だが、ここ十数年の間に、奴隷制度に反対し、奴隷解放を訴える思想の団体も現れ始めた。
中でも『解放派』と呼ばれる団体は近年、大きく勢力を伸ばし、パンドラ聖教の中でも影響を及ぼすほどになっている。
如何なる主義、宗教的思想があろうとも、奴隷商人であるプリングルトにとって、そのような連中が幅を利かせては商売あがったり。まして大口優良顧客であったニューホープ農園が、奴隷反対の立場となってしまっては、最悪イーストホープ支店の撤退も考えなくてはならない。
「ディアナ人を劣悪な環境で酷使、いわば最低コストで運用するのが最も利益があると考え、そうしてきました。しかし、ある程度の設備投資と、奴隷扱いをしないことによるディアナ人のモチベーション改善によって、従来の奴隷労働よりも効率的な経営が可能になることが明らかになりました」
「なぁーるほどぉ、警備と監督を廃止すれば、随分とコォーストカットになりますからねぇ」
「流石、耳が早いですね。すでにご存じだったとは」
奴隷の反乱を恐れるが故に、それを制圧する戦力と日常的な監視が必要不可欠だ。しかし、奴隷が反乱するリスクが無ければ、警備も監督も不要。
警備兵と監督役が何人いようとも、収穫物や生産物が増えることはない。彼らの人件費を削れるだけで大きな利益となるし、同じ人数を作業員へと変えれば生産性が上がる。
単純な話であるが、奴隷文化の根付いたアストリアで、ディアナ人相手にソレを実践する者は皆無であった。
「大切なのは、信頼と利益、ですよ」
「ほぉーう」
「この二つで結びつく限り、ディアナ人だってついて来ます。そして、私と貴方も信頼と利益があれば、快く取引を続けられるでしょう」
「マルコムさん、我が『ベルベット・サーヴァント・サービス』に、こぉーれからも奴隷をお求めになってくれる、とぉ?」
「むしろ、今まで以上に必要になりますよ。プリングルトさんには、是非とも今後は、一人でも多くのディアナ人奴隷をお願いしたい」
マルコムの言葉に、満足したようにプリングルトは笑い声を上げた。
「そぉーれでは、マルコムさんのためにぃー、働き盛りの上物を仕入れて参りましょぉーう」
「いえいえ、選別せずとも結構ですよ」
「ほぉ?」
「私はディアナ人であれば、傷病奴隷、老齢奴隷、幼い子供も、喜んで買い取ります」
自信満々に言い放つマルコムの言葉には、流石のプリングルトも驚きの表情を浮かべた。
病気や怪我、あるいは高齢か幼年の奴隷は、価値が下がる。主人が求める労働を、十全にこなせない体である以上、当然のことである。
軽度であれば多少の値引き価格で売れるが、重度となると捨て値でも残ってしまうのが奴隷商の常。抱えるコストと見合わぬ、と判断された段階で処分されてしまう負債が、傷病・高齢奴隷である。
「それはそれはぁ……慈善活動としての、アッピィールにでもしようというコトですかなぁー?」
「そういう奴隷にも、仕事がある、とだけ言っておきますよ」
どうやらただのパフォーマンスではなく、確かな利益があると確信しているようだ。マルコムの表情から、嘘やハッタリの気配をプリングルトは感じられない。
「そういったご要望であぁーれば、数を重視して、ご用ぉー意いたしましょーう」
「よろしくお願いします」
商談成立、と言うように満面の笑みで両者は握手を交わした。
互いに抱いていた懸念が晴れたことで、その後は再び和やかな談笑の時間となった。
その中で、プリングルトは何気なく問いかける。
「そぉーういえばぁ、モモちゃん、元気にしてますぅ?」
その名を出した瞬間、マルコムの表情に……変化は無かった。
ただ、穏やかな微笑みを浮かべて答える。
「ええ、とても元気になりましたよ。今度、ここへ一緒に連れてきましょう。会えばきっと、驚かれますよ」
「ほっほぉー、それはそれは、楽ぁーのしみですねぇ……」




