第410話 女勇者(3)
「――――ッ!?」
蒼真悠斗はその瞬間、弾かれたように席を蹴って立ち上がっていた。
「わぁっ!?」
「ちょっと、急にどうしたのよ、悠斗君」
そんな悠斗の反応に、同じ卓で朝食をとっていた夏川美波と如月涼子は、驚きながら問いかける。
「強い魔力の気配を感じる。これは、近くで戦いが起きているぞ」
「あー、言われてみれば、確かに……」
「私は何も感じられないから、まだかなり遠いんじゃないの?」
鋭い感知能力を持つ『盗賊』の美波は悠斗の言う気配を、僅かながらも感じ取れていた。しかしソレも、探りを入れるように集中しなければ感じないほど小さい。
『氷魔術師』である涼子も、魔力を察知する感覚は決して鈍くはない。それでも感じられない以上、それなりの距離があるに違いない。
少なくとも、この自分達がいるシグルーン大聖堂に魔物が襲ってきたワケではなさそうだった。
「俺は様子を見てくる」
「あっ、台風で田んぼを見に行くヤツ!?」
「まぁ、悠斗君なら危険はないでしょうけど、ここは大人しく警備の騎士に任せておけばいいんじゃないかしら?」
このシグルーン大聖堂は、アストリア王国が掲げる国教たるパンドラ聖教の総本山である。
大勢の聖職者が集い、そして神々の城を守るべく、王国から選び抜かれた精鋭たる『聖堂騎士団』が守護に就いている。
たとえサラマンダーが飛来して来ても、悠斗が『勇者』の力を振るう間もなく解決されるだろう。
「それはそうだけど、どうせ暇してたんだ。二人はそのままで、俺だけ行ってくるよ」
「じゃあ、何か分かったら教えてねー」
「美波は呑気すぎよ。こっちも一応、備えはしておくわ」
朝食のデザートに出された、クリーム山盛りのパンケーキを放り出す気は美波には毛頭なく、涼子もまた食後の優雅なティータイムを邪魔されたくはないようだった。
二人が気乗りしないのを承知したからこそ、悠斗は一人で現場へ向かうと言い残す。
気安い笑顔でヒラヒラ手を振って、悠斗は大聖堂の瀟洒な食堂を足早に抜けて行った。
「――――間違いない、この気配、俺と同じ『勇者』だ」
人気のない通路へ出た瞬間、二人に見せていた緊張感のない笑顔は鳴りを潜め、決闘を前にした剣士の如き表情へと変わる。
悠斗が感知した気配は、『勇者』のモノに相違ない。
そして何より、自分よりもその気配は遥かに強大に感じられた。
「これほどの『勇者』が力を解放しているとは……一体、何が起きているんだ」
このシグルーンで目覚めてから、悠斗は涼子と美波と共に、実に丁重に保護された。
すでに『イデアコード』による洗脳は十分だと、『聖女』サリスティアーネ、引いてはパンドラ聖教も判断しているのだろう。自分に対する精神的な干渉は、目覚めてから体が完治して、あの祭壇みたいな治療部屋から出て以降は一切ない。
自分は小鳥遊小鳥による強力な洗脳と記憶改竄を受け続けた影響で、その類の精神魔法には耐性が出来ていたことを、悠斗は自覚している。故に、自分はまだ自分のままでいられる。
クラスを裏切った小鳥のことは、全てを思い出した悠斗としても許し難い、許してはいけない罪だと認められるが……彼女の凶行が、こうして自分の心を守ることに繋がったことには、感謝したい気持ちだった。
そう、自分は洗脳耐性のお陰で平気だったが、涼子と美波の二人は、その限りではない。
治療部屋を出た後に、約束通りに二人との再会はすぐに叶った。
けれど会話を重ねる中で違和感を覚えた。そして、自分がその違和感を持っていることを誰にも悟らせないよう、話を合わせている内に、悠斗は気づいた。
桃川小太郎の存在が、完全に記憶から消されている。
ダンジョンサバイバルを攻略してきた大筋こそ変わらないが、小太郎が存在しないよう記憶が改竄されていた。
学園塔にクラスの生き残りが集まった時は、委員長が全て仕切っていたし、ヤマタノオロチは桜がトドメを刺したことになっている。ゴーマ王国もみんなで力を合わせて崩壊させた。
そして小鳥遊小鳥は強力な『賢者』の力に溺れて、愛する蒼真悠斗を独占するために、クラスを裏切り暴走した――――というコトになっていた。
本物の覚悟と犠牲をもって、自分を止め、小鳥を打ち倒したというのに。今はいい思い出、とでも言うように笑って偽りの記憶を語る二人の姿に、悠斗は吐き気を催すような嫌悪感と同時に、強い怒りが湧いた。
だが、今の悠斗に正義感に任せて剣を振るうことは許されない。
正しい記憶を保持しているのは自分だけ。そして今のところは、サリスティアーネに悟られてもいない。
パンドラ聖教は『勇者』の自分に、女神エルシオンが与えた使命、とやらを遂行させようとしている。要するに勇者の力をいいように利用しようという魂胆なのは、悠斗でも分かった。
重要なのは、二人を無事に救うこと。
自分が洗脳されていないと気づかれれば、パンドラ聖教がどう動くか分からない。
危険だと処分されるか、再洗脳しようと捕らえられるか。少なくとも、二人を平気で人質にとることが出来る連中だ。
自分の真意を気づかれるワケにはいかない。
けれど今は、敵の腹の中にいて、右も左も分からない状況である。ひとまず話を合わせて、協力的な姿勢で進めることで、ここ一ヶ月は何の問題もなく平穏無事に過ごせているが、悠斗はパンドラ聖教の魔の手から逃れるための手段も同時に、模索しなければならなかった。
そんな中で、今朝に起こった勇者の戦いの気配。
この大聖堂の近くで、何かが起きている。それも奴らの思惑通りではない、何らかのイレギュラーと思しき事態が。
この機に乗じて脱出のチャンスが、とまで早まっていないが、少しでも情報と変化が欲しい悠斗は、二人にはただの興味本位のように話しながら、意を決して席を立ったのだ。
「俺以外の『勇者』も、確かめておかないと」
話には聞いていた、アストリアが誇る大英雄。生ける伝説。女神の使徒。
もう一人の『勇者』が存在することは聞かされていたが、まだ会ったことは無かった。
この機会に、いつか大きな脅威として立ちはだかるかもしれない存在を、今の内に確認できるチャンスだ。
その勇者の技の一つでも見られれば儲けもの。情報の大切さというのは、小太郎を見ていれば嫌というほど思い知らされたものだ。
「気配は……『神授塔』の方か」
大聖堂から広大な庭を抜けた先に突き立つ巨大な塔は、神授塔と呼ばれている。
すでにアルビオンダンジョンを知る悠斗にとって、その神授塔が古代遺跡であることは説明されるまでもなく理解できる。
最下層の天送門から飛ばされて、出てきた先が神授塔であったとも、後でサリスティアーネから聞かされている。
大聖堂の庭に出るのは初めてではないが、塔の方まで自ら向かうのは初めてだ。
とはいえ、いくら広い庭であってもダンジョンほどではない。接近することで、より明確に察知できる、強い勇者の気配を辿って、悠斗は庭園を駆け抜けた。
そして、その先に『勇者』はいた。
◇◇◇
「さぁ、私の胸でお眠りなさい」
リリスは倒れ込んできた小太郎を、その白い大きな胸で受け止めた。真っ白い乳房に黒髪の頭が埋まるほど、強く抱きしめる。
互いに衣服は全て弾け飛び、全裸となっている。触れ合う全てから、確かな熱を感じる。
『勇者』である以前に、女神に仕える敬虔な修道女として、リリスは清らかな乙女で在り続けた。
初めて感じる人肌の温もりに、思わず艶やかな吐息が漏れる。ともすれば、状況も立場も忘れて、ずっとそれに溺れていたくなるほどの甘美な時間は、唐突に終わりを迎えることとなった。
大聖堂から、真っ直ぐにこちらへ向かってくる気配をリリスは察知した。
「ふぅ、もう気づかれてしまいましたか……『煌の霊装』」
人前に裸で出るような、はしたない真似をするワケにはいかない。
黄昏るような溜息を吐きながら、勇者の固有スキルを発動。『煌の霊装』は輝く純白の大きなマントとなって、全身を包み込む。
リリスは小太郎を、小さな子供を抱っこするように抱え直してから、その身をマントで覆った。
「驚きましたね、まだ意識があったのですか」
そこでようやく気づいたように、リリスは足元を見降ろした。
それは殺意が目に見えると錯覚するほど怒りを燃え上がらせ、血走った目でリリスを睨む狂戦士。
固く口に巻かれた光の帯は、食いちぎらんばかりに歯が食い込み、滴る鮮血に汚れている。ギリギリと全身を拘束する帯もはち切れんばかりに唸り、今も凄まじい膂力によって光の戒めを脱しようともがいていることが分かる。
しばらく動けない程度には痛めつけたし、身動き一つとれないほど固く縛ったはずなのだが……と、狂戦士の恐るべき才能に嘆息した。
「悪夢は再び闇へと眠れ――――『白の秘石』」
蠢く狂戦士をさらに多くの光の帯が巻きつき、ミイラのように全身を隙間なく覆いつくされてゆく。
それと同時に、白い棺も形成されていく。
浄化するような輝きと共に、狂戦士を閉じ込めた真っ白い棺桶が完成すると、今度こそ一切の反応は途切れた。
そうして『呪術師』と『狂戦士』の二人を下した『勇者』の元へ、もう一人の新たな『勇者』は現れた。
「こんにちは」
「……貴女が、『勇者』リリス、ですか」
にこやかな挨拶をするリリスに対して、蒼真悠斗は警戒感を露わにした表情でそう問うた。
実際、警戒どころか臨戦態勢を取っている。腰を下ろし、どこから攻撃が飛んで来ても対処できるような構え。
その気になれば、瞬時に腰に下げた剣を抜き、『光の聖剣』を発動させるだろう。
「はい、私がリリス・ゴッドランド・アストリアでございます」
「俺は蒼真悠斗、です」
「存じておりますよ、新たな勇者様」
すでに自分のことを見知っているのか、と驚くような反応。
あるいは、目隠しをしているのに、正確に見られている、と悠斗が感じているからこそか。
「貴女はここで、誰と戦っていたのですか」
勇者である自分が戦った気配を察して、この場へやって来たことは明白だ。
そしてリリスが抱える子供一人分ほどの体と、足元に転がる白い棺の存在を、悠斗に見ないフリをしてくれと言うのは無理な話である。
「私は女神に仕える者として、嘘を吐くことが出来ません」
抱っこした小太郎は頭まで包まれているので、その黒髪が覗くこともない。
棺の内に閉じ込められた、芽衣子の姿も隠されている。
しかし悠斗は、今リリスの前に倒れる者達の正体を確信しているかのような問いかけをぶつけてきた。
嘘を吐き、はぐらかすことは出来るだろう。けれどリリスは一人の信徒として、それを封じている。
「ですので、答えることはできません」
リリスの拒否に、悠斗の視線は険しさを増す。
まるで今にも斬りかかってきそうなほどの気迫。
対するリリスは、ただ解答拒否の黙秘を貫いたまま、自らに戦意はないことを示すような微笑みを浮かべていた。
「――――ユート様っ!」
異様な緊張感の漂い始めた静寂を破ったのは、第三者の声であった。
「サリス!? どうしてここに……」
「それはこちらの台詞ですわ、ユート様」
慌てて駆け付けるようにやって来たのは、『聖女』サリスティアーネ。
聖女であると同時に、本物のお姫様である彼女は出会った時から優雅にして、お淑やかな姿を崩したことは無かったが、流石に今ははっきりと焦りの感情が垣間見えた。
「俺は強い魔力の気配を察知して来た。誰かが戦っているのは明らかだったからな」
「そう、ですか……しかし、ご安心ください、すでに戦いは終わったようです」
悠斗とリリスの間を視線が行き来し、現状をサリスティアーネは察したようだ。
ふぅ、と自分を落ち着かせるように息を吐いてから、彼女は改めてリリスへと向き直った。
「申し訳ございません、お姉様。大変なお手数をおかけしてしまいました」
「いいえ、これもまた女神様のお導きですから」
「賊を捕らえていただき、ありがとうございます」
深々と頭を下げてから、サリスティアーネはにっこり笑って悠斗の方を向いた。
「ユート様、こちらがアストリアが誇る『勇者』リリス様にございます」
「ああ……もう自己紹介は済ませたよ」
「そうでしたか。お姉様がいれば、私達の出る幕などありません。どうぞユート様は大聖堂へお戻りになられてください」
「その、リリス、様は、サリスの姉なのか?」
このまま「はい分かりました」と即座に引き下がるワケにはいかないと思った悠斗は、とりあえず相手に疑念を抱かせないような、素朴な疑問をぶつけることにした。
お姉様、と呼ぶ以上は姉であると考えるのが当然。リリスとサリス、輝くような白い美女と美少女である二人が並ぶ姿は、本物の姉妹のように見える。
実の姉妹だろうが、従姉妹だろうが、正直なところどちらでも良い質問なのだが、
「リリス様のことは、実の姉のように慕っております。私だけでなく、パンドラ聖教の修道女は皆、敬意を込めてお姉様と呼ばせていただいております」
姉妹関係ではなく、一種の偶像的な呼び名ということに、悠斗は一応の理解を示すように、頷いた。
「賊と言ったが、何者なんだ?」
「正体については、これから調べることとなります。嘆かわしいことですが、パンドラ聖教と敵対する勢力は、幾つかございますので――――お姉様、そろそろ参りましょう」
悠斗とこの場で話し込むつもりはないのだろう。早々に切り上げるように、サリスティアーネはリリスへ移動を促した。
「賊の二人は私がお預かり致します。後の雑務は私の方で、お姉様はお休みになられて――――」
「お断りします」
「えっ」
リリスの明確な拒否に、サリスティアーネはつい声を漏らしてしまう。
「このお二人は、私が『処置』させてもらいます」
「いえ、しかし、お姉様にそのような事を……」
「それほど、危険な力を持つということなのです。全て私に任せてくれますね、サリス?」
「……はい、お姉様の御心のままに」
サリスティアーネとしても、想定外の展開だというのは、傍から見ている悠斗にも分かった。
王国の伝説的な勇者が、自らやるということは、それほどの相手なのだろう。
そして、もしかすればその人物は――――そう強い疑念が心を動かすものの、今の悠斗にリリスが隠す二人の姿を、強引に暴くような真似はできなかった。
ここでさらに一言でも、賊と呼ばれる二人の正体に言及するようなことを言えば、疑われる。
そして何より、リリスから強い圧力を感じる。自分が胸に抱える子供のような大きさの者の素顔は、決して暴くことは許さぬと。
「それでは、新たな『勇者』ソーマ様、ごきげんよう。女神様のご加護がありますように」
そうにこやかに挨拶を残して、リリスは白い棺を引きずりながら去って行く。
「私もこれで、失礼いたします。ユート様も、大聖堂へお戻りになってくださいね」
リリスを追うように、サリスティアーネも続く。
二人が向かう先は、関係者以外立入禁止とされる神授塔であった。
「くそ、一体なにが起こっていたというんだ……」
この場で何かが起こったことは事実だが、それが何なのかを掴むことはできなかった。
自らの無力感に苛まれながらも、一人残された悠斗は、大人しく大聖堂へと戻るより他はなかった。




