第370話 ダークリライト
葉山理月は、幸せな少年だ。楽観的で能天気な性格は、そう育てられるだけの恵まれた環境があってのこと。
良い家庭に生まれた。良い友人に恵まれた。これまで生きて来て出会ったのは、素晴らしい人々ばかりであった。
だからこそ、その分だけリライトは人に優しくなれた。人を信じることができた。ともすれば、それは残酷な悪意によって害される危険性もあるけれど、間違いなくその心根は善良と呼ぶべき尊いものであろう。
そうして、リライトはクラス丸ごと異世界召喚という特大の不運に見舞われても、良き縁に結ばれた。
キナコ、と名付けた野良の熊。何故か話が通じる、ウサギのような耳を持つ、着ぐるみのような熊である。
人間と熊型モンスター。不思議な縁で結ばれて、二人は共に困難を乗り越え親友となった。それは正しく『種族を越えた絆』。
故にこそ、この別れは悲劇となった。
もしもキナコがただの使い魔だったら、こうはならなかった。戦いの最中で失ったとて、どこかで諦めもついたことだろう。
けれどキナコはどうしようもなく、掛け替えのない存在で、
「あっ……あ……あぁ……」
その親友が淡い光となって消えてゆくのを、リライトはただ無為に両手を伸ばすことしかできない。
この手に触れていた柔らかな毛皮の感触が、淡い燐光と化して消える。必死に両手で留めようとしても、光に触れることなど叶わず、虚しく指の間をすり抜けて行くのみ。
助けられたと思った。救えたと思った。ようやく、取り戻せたと思った。
けれど、その苦労も希望も、全てが消え去って行く。目の前で、自分の力では止めようもなく、消えてしまう。
「あっ……キナコぉ……」
葉山理月は、幸せな少年だった。
幸せであるが故に、その身に悲劇的な不幸が起こったことはない。
いいや、きっとリライトがすでに両親との死別、あるいは友人や恋人といった者との別離を経験していたとしても、耐えることはできなかっただろう。
こんなに残酷な別れ、とても耐えられない。心優しいリライトには、耐えきることができない。
この感情を、なんと伝えれば良いのだろう。この感情に、どんな表情をすれば良いのだろう。
これほどの絶望。後悔。悲哀。言葉にしてみても、どれも違う気がする。
リライトはなんと思うべきかも分からないまま、親友が光となって消えて行くのをただ見送った。
あれほど大きなキナコの体は、とうとう全て消え去ってしまった。
「見ろ、葉山。凄い高純度のコアだ。これがあれば、天送門を起動できるぞ」
ただ一つ残されたキナコの残滓である大きなコアを、蒼真悠斗が拾い上げる。
その様子をリライトは一言も発せず、瞬きもせずにただ見つめていた。
「ああ、やった、やったぞ! ついに俺は、ここまで辿り着いたんだ————さぁ、俺達の希望の扉よ、開け、天送門!」
歓喜の声を上げる蒼真悠斗を、どこか他人事のように眺めていた。どうしてその手からコアが消えたのか、その結果に何が起こったのか、よく分からない。分かろうとも思わなかった。
ただ、これでキナコが残したモノも、全て消えてしまったのだなと。その現実だけは不思議と理解していた。
「けど、済まないが葉山、少し待っていてくれないか————出て来い、桃川小太郎。ここでケリをつけよう」
もう、蒼真悠斗の声も聞こえない。
何も見えない。目の前は真っ暗で、月明かりもない真夜中の森の中にいるかのよう。
見えず、聞こえず、全ての感覚が遮断された暗闇の静謐。
今はただ、その静けさにだけ身を委ねようと————
「……い?」
声が聞こえた。
誰の声だ。
けれど誰かの声は、全てを拒絶したいリライトの頭に、確かに届いた。
「……憎い?」
はっきりと聞こえた声は、聞き覚えのある声音だ。
何も感じないはずの暗闇の中で、右手を握られた柔らかい感触を覚える。
「桃、川……?」
暗闇の中に浮かび上がる白い顔。すっかり見慣れた幼い中性的な容姿は、どこまでも穏やかに、慈母のような微笑みを浮かべて語り掛けて来る。
「僕が力を貸してあげる」
「ち、力……?」
「うん、だからね、もっと自分の気持ちに、素直になってもいいんだよ」
「俺は……」
優しく手を握られて、微笑みかけられて、リライトは初めて自分の気持ちに気が付いた。
「君は優しいから、すぐに理解できないのも無理はない。でも、いいんだよ、こんなに優しい君だって————」
ああ、そうだ。この気持ちは、そういうことなのだ。リライトはようやく理解する。
やっぱり、困った時はいつも桃川が教えてくれる。
「————誰かを、憎んだっていいんだ」
憎悪だ。
それに気づいてしまえば、もう後戻りはできない。とても抑えられない。この身に降りかかった不幸を、到底許容することはできない。
どうしてキナコが、死ななければならなかった。
どうしてキナコが、殺されなければならなかった。
誰が殺した。
誰が死なせた。
許せない。許してなるものか。
憎い。憎い。キナコを殺した奴が、憎くて堪らない————
「それほどまでに憎いのならば、大丈夫。君ならきっと、僕の全てを受け入れられる」
そうして真っ赤に燃えるような憎悪にその身を焦がすリライトの右手をとって、そっと薄桃色の唇を落とした。
瞬間、暗闇の世界は弾けて消えて、現実の色が戻って来る————
「ハァアアアア……ソーマァ……」
見える。恨むべき怨敵が。青白く輝く、勇者の姿が見える。
視界はただ真っ直ぐに憎き仇を捉え続けて、自信の変化には気づきもしなければ、気にも留めない。
闇の精霊の力を示す漆黒の右腕。その艶のない黒染めが、右腕を越えて拡大してゆく。
移植した右腕。その繋ぎ目である肘を越え、二の腕を越え、瞬く間に肩まで至る。右腕の全てを黒一色に塗り替えても尚、闇の力は止まらない。
漆黒は首筋を登り始め、胸元にまで染みわたってゆく。
さらに勢いは増してゆき、ついに顔の全ても黒々とした闇に塗りつぶされ————双眸には、その深い憎悪を示すように、禍々しい真紅の輝きが灯った。
「……コロス」
刹那、ドス黒いオーラがリライトの全身から迸る。凄まじい魔力の気配と共に、濃密な殺意の奔流が解き放たれた。
「何だ、これは……葉山なのか……?」
そのあまりにも急激な変化に、蒼真悠斗は素直に驚いた表情で振り向き、
「ォオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
耳をつんざく絶叫を置き去りに、リライトが飛び掛かる。それは飢えた猛獣よりも凶悪にして狂暴。漆黒の憎悪と暗闇の殺意にその身を染め上げた黒きリライトは、瞬く間に間合いを侵略した。
速い。その速度は移動強化系の武技を発動させた『盗賊』さえも凌駕する。常人の限界を軽々と超えた、正しく超人の動き。『精霊術士』として身体能力強化の恩恵を受けていないリライトには、本来宿るはずのない速さである。
しかしリライトは黒い疾風と化したように、瞬間的に蒼真悠斗との間合いを詰め切った。
予想外の行動。想定外の速度。『勇者』たる蒼真悠斗をしても、この瞬間のリライトの動きを、完全に目視で捉え切ることができなかった。
「————『天の星盾』」
だが不意を打たれても尚、蒼真悠斗は揺るがない。これまでに培ってきた経験と、何よりも勇者の力がその身を守る。
掲げた左手には眩く輝く光の盾が瞬時に形成される。勇者の第二固有スキルはヤマタノオロチのブレスさえ真正面から防ぎきる、無類の防御を誇る。少しばかり強化を果たしたところで、拳一つで破れるほどヤワではない。
「ぐうっ————」
闇の拳が光の盾に突き刺さった瞬間、思わず悠斗も唸るほどの強烈なインパクトが駆け抜ける。轟音を上げながら、激しく青白い燐光と黒煙のような魔力が散る。
「なんて力だ……いや、闇の力が光を浸食しているのか」
たった一撃受けただけで、聖なる勇者の盾はボロボロと表面が剝がれるように砕けていた。完全に砕け散るには至らないが、この威力の攻撃を受け続ければ、確実に破られる。
スキルによって顕現している魔法の盾であるため、魔力を注げば元通りにすることもできるが、連続攻撃をかけられればそれも間に合わないだろう。
リライトは満を持して放った大技を使ったわけではない。ただ真っ直ぐ突っ込んで来たパンチ一発で、『天の星盾』にこれほどのダメージを通したのだ。下手に受ければ、そのまま拳のラッシュによるワンコンボで盾を砕かれかねない。
そして恐らく、リライトの発する禍々しい闇の力が、勇者の光の力に対して特効的な威力を持っていることを、悠斗はこの一撃を受けて確信する。
「すまないな、葉山。それほど強力な力を持つならば、俺も加減はできそうもない」
キリリと表情を引き締めて、悠斗はリライトへと剣を構えた。
そこには救うべきクラスメイトへ刃を向けることへの躊躇は感じられない。さりとて、見切りをつけて殺すという意思もない。
今の蒼真悠斗にとって、葉山理月を救うことと、彼に剣を向けることは、どちらも矛盾しない。邪悪な闇の力に取り込まれたクラスメイトを救うには、勇者である自分が斬らねばならない。無傷では済まないだろう。だが、命を救うことはできる————少なくとも、蒼真悠斗はそう確信しており、暴走するリライトを救うのが自分の使命だと信じていた。
「その禍々しい闇の力を与えたのも、桃川なのだろう。だが、奴がどれほどの陰謀を巡らせようと、俺はそれを全て切り払ってみせる」
迷いは、剣を鈍らせる。そして蒼真悠斗に、迷いはない。
あらゆる不都合を、諸悪の根源たる呪術師一人に被せることで、一切の迷いを捨てて信じる正義に従える今の悠斗は、きっと最下層エリアで活動していた時よりも強くなっていた。
「かかって来い、葉山。俺がお前を救ってやる————」
キナコを殺されたことへの怒りは、当然ながら僕にだってある。
純粋に今まで一緒にやってきた仲間なのだ。そして、その大切な仲間を救い出す為に、僕ら全員が命を賭けて戦った。それを全て蒼真悠斗一人のせいで無に帰したことも、許しがたい。
けれど、ここで僕が怒り狂うことは許されない。直接的な戦闘能力でいえばいまだ底辺を彷徨っている僕が、キレて暴れたところで何の意味もない。冷静に理性的な判断を下し続けることが、今の僕に求められる能力であり役割なのだ。
だから、心のままに怒り狂うのは葉山君の役目であることは正しい————けど、流石にこれは予想外だった。
「まさか、本当にダークリライトに覚醒するとは……」
あっ、と思った瞬間には、葉山君の体は右腕から広がる闇に飲まれて、なんか漆黒に染まった絵に描いたような分かりやすい暴走状態となっていた。
恐らくはこれも『精霊術士』の力なのだとは思うが、親友を目の前で殺された怒りで闇堕ち覚醒とは、君は一体どこまで僕の想像を超えたことをしてくれるんだ。流石の僕でも、ダークリライト化は冗談だとしか思っていなかったよ。
「けれど、これはチャンスだ」
見るからに正気を失っている葉山君には、きっと蒼真悠斗に対する憎悪以外は何も考えられない状態であるに違いない。最悪のタイミングで勇者様登場となったことで、僕らの形成が一気に不利になった、などといった状況判断をしているとはとても思えない。
しかしながら、圧倒的なパワーを発揮して、あの勇者を一人で抑え込んでいるのは確実に追い込まれた僕らにとっての有利だ。少なくとも、疲労困憊のところを蒼真悠斗に一方的に狩られる状況は避けられた。
少なくとも、明確にダークリライトのヘイトは蒼真悠斗ただ一人に向けられている以上、僕らにとっての脅威とはなりえない。
最悪を回避し、形勢不利をイーヴンまで持ち込めた感じだ。
僕が最初に天井から現れた蒼真悠斗の存在に気づけたから、巨人化レムと『黒鎖呪髪』を回収するのが間に合った。キナコが光の粒子と化して消えて行くのに合わせて、それとなくレムの巨人化を解除して消し、『黒鎖呪髪』を引っ込ませた。無駄にキラキラ輝くエフェクトが、いい感じの目くらましになってくれた。
もしもそのまま出し続けていれば、キナコの首を落とした後、ついでのように切り刻まれてしまっただろう。この二つをここで失えば、莫大なリソースをつぎ込んだ存在が無に帰してしまう。
特にレムは、巨人化状態でやられてしまえば大量の魔力を一気に失った反動で、幼女状態での復帰もしばらく封じられる。それだけは絶対に避けなければならない。蒼真悠斗を捕らえるにしろ殺すにしろ、レムは作戦に必要不可欠なのだから。
想定外ではあったが、葉山君怒りの奮闘によって生まれたこのチャンスを活かし、今の内に何とか体勢を整えなければ、
「何をボンヤリしているのです、早くこちらへ隠れなさい!」
僕が冷静に葉山君と蒼真悠斗との戦いを観察し始めたところで、桜ちゃんに襟首を掴まれ力ずくで天送門の陰へと引きずられて行った。あっ、ちょっと、今いいとこなのに。
「涼子、美波、蘭堂さんも、私の近くへ! 『聖天結界』で守ります!」
「ありがとう、桜」
「助かったよ桜ちゃーん!」
桜ちゃんがみんなを呼び寄せ、天送門を遮蔽物としつつも『聖天結界』を展開し、全方位から攻撃を防ぐ防御態勢を取る。
破壊不可だろう天送門を壁にしているのだから、十分に安全だろうと思うのは慢心が過ぎる。桜ちゃんが即座に守りに入った行動が正しかったということは、直後に証明された。
「くっ! 余波だけで、なんて威力……」
「『聖天結界』広げる練習しておいて、ホントに良かったね桜ちゃん」
姿は見えないが、結構な大技を放ったらしい勇者と、それを真っ向から葉山君が闇のパワーで迎え撃ったことで、凄まじい衝撃波というか、魔力のオーラが駆け抜けて行く。
光と闇、白と黒。正反対の二色で形成されるオーラは、それそのものが破壊の力を宿しているようだ。光の方は石や鉄も容易く焼き切るほどの灼熱。一方の闇は、どうやら触れると分解されるように粉々に砕かれる力が作用しているようだ。
二人の戦いの威力に耐え切れずに砕けて飛び散った、床の欠片が迸って来る闇のオーラに触れると、サラサラと崩壊する様を僕は確かに目撃した。
「呑気なことを言っている場合ですか! どうするのです、この状況を……それに、黒く染まった葉山君は一体……」
「もうこのまま葉山君が蒼真悠斗ぶっ殺してくれないかなぁ」
「桃川っ!!」
故意ではないかもしれないが、人の親友ぶっ殺しておいて無罪放免はありえないでしょ。僕はキナコに人権を認めているので、これはもう立派な殺人罪ですよ。
「とりあえず、あのレベルの戦いじゃあ、今の僕らにはちょっかいかけることもできないよ」
超人的な身体能力でこの広大な大広間を駆け回りながら、僕なんか余波だけで死ねそうな威力の魔法だか武技だかを連発しているのだ。光と闇が激しくぶつかり合う高速戦闘には、消耗した僕らでは手の出しようがない。
「悪いけど、本当に葉山君がこの勢いのまま蒼真悠斗を殺すなら、僕らには止められないし、僕も止める気はない。言っとくけど、桜ちゃんの『聖天結界』じゃあ、葉山君がぶっ放す闇の攻撃魔法みたいなのは止めきれないからね。いざって時は自分が盾になればなんとかなる、なんて思わないでよ」
「くっ……確かに、あれほどの闇属性の力が直撃すれば、耐えきれないでしょう……」
じっくりと『聖天結界』の耐久実験をした甲斐があったね、桜ちゃん。闇属性との相性の悪さというものは、しっかりと叩き込まれている。
メイちゃんの『黒凪』で結界が切り裂かれた時の桜ちゃんのビビリ顔、今思い出しても笑えるよ。
「けど、僕の見立てでは、葉山君の暴走状態はあまり長く続くとは思えない。対して、蒼真悠斗はあれでもまだ、どこか余裕がある。このまま凌ぎきるか、あるいは手札を切ってひっくり返してくるだろう」
僕が知る勇者の専用スキルは『光の聖剣』と『天の星盾』の二つ。どちらも非常に強力な性能を誇るが、その二つをすでにダークリライトとの戦いに費やしている。
だからこれで勇者は全力を振り絞っている、とはどうにも考え難い。小鳥遊が自信満々に送り込んで来たのだ。
恐らく、更なる勇者専用スキルは解放済みなのだろう。
今度は何だ。鎧かマントか、それとも聖杯みたいなユニークアイテム系か? 何であれ、今の葉山君の力なら、必ず勇者が抱える手札を引き出してくれるだろう。
「僕らは勇者が形成をひっくり返した後に、葉山君をフォローできるように準備するしかない。蒼真悠斗の消耗次第では、桜ちゃんの説得も通じるかもね」
「そうなるまでは、手出し無用ということですか」
「少なくとも、さっきは全く耳を貸さなかったでしょ。僕に操られている、って全部片づけられるだけさ」
「そ、それは……」
「だから、今はチャンスに備えるしか————」
「————チャンスなんか来るかよ、バァカ」
腐り切った性根が滲み出た、耳障りな甲高い声音が高らかに響く。
勇者の登場と同じように、白い輝きを放ちながら天より舞い降りる。輝く一対の白翼を羽ばたかせて宙に浮くその姿を、僕は決して天使のような、などと形容する気にはならない。
ドクズのクソビッチが羽生やして飛んだところで、ビッチなことに変わりはないのだから。
「やぁ、小鳥遊小鳥、会いたかったよ」
「桃川小太郎、適当なとこで野垂れ死んでおけば良かったのに」
今度こそ自らの勝利を微塵も疑わない自信に満ちた表情を浮かべる小鳥遊が見下ろし、半分は虚勢で不敵に笑う僕が見上げる。
これから体勢を整えなければならないところに、古代兵器の力を操る敵が襲ってきたことは単純に不利な状況だ。
けれど、そのリスクを差し引いても、十分なリターンが見込める可能性がある。
半分は虚勢の笑いだが、もう半分は明るい希望で笑えて来る。
「相変わらず、バカな『賢者』だなぁ。お前が姿を現した時点で、もうすでにチャンス到来なんだよ」




