第369話 闇の誘惑
「————い、行けるっ、コイツは行けるぞぉっ!!」
闇精霊の力全開で、俺は黒一色の右腕でキナコの洗脳リングを掴む。
白銀のリングに、ジワジワと墨汁が染みていくように黒々とした色が掴んだ先から広がって行く。見た目的にも感覚的にも、闇精霊が干渉していっているのは明らかだ。
「このパチモン精霊共が、さっさと消えやがれ!」
そうして闇精霊の力が、リングに宿る謎の偽精霊を上回った瞬間、ボロボロと風化したように掴んだ部分が崩れた。
多分、これでリングの効力は完全に失われているはずだ。少なくとも、半ば以上の輪が崩れ去ったせいで、自然と耳から嵌っているリングは外れた。
「このままもう片方も行くぞ!」
すぐに反対側の耳に嵌められたリングを握り、闇精霊の力を借りる。
果たして、これで二つ目のリングが外れた時に、キナコが本当に元通りに戻るかどうかは分からない。けれど、今の俺に出来ることはこれしかない。
ここまで上手く事が運んでいるのだ。後は最後まで成功することを、祈るしかない。
「これでっ————どうだぁ!」
バキン、と音を立てて強引に黒く染まったリングを外す。脆くなった黒い破片と、白銀の金属片が入り混じって飛び散りながら、ついに二つ目のリングも解放された。
「おい、どうだキナコ! 俺のことが分かるか————おわぁっ!?」
キナコの大きな唸り声が響いた瞬間、頭が揺れる。頭の上に陣取っていた俺は、不意打ちのような大揺れに耐え切れず、無様にキナコの毛深い顔を転がり落ちていく。
「うっ、ぶっ————ぐえぇ!」
柔らかい毛皮の上を転がっていく感触の最後に、冷たく硬い石畳に叩きつけられて、俺は間抜けな声を漏らして痛みに悶えた。何とか頭を打つのは避けたが、普通に背中を強打している。痛ぇ……けど、今はそれどころじゃねぇ!?
「き、キナコ……」
「プグォァアアアアアア……」
俺が落っこちたのは、伏せるキナコの鼻先。大きく口を開けて唸りを上げるキナコは、そこに蠢く舌を伸ばすだけで、俺を容易く口中に放り込めるだろう。
あっ、これ死んだか……瞬間的にそう察した。けれど、俺の体は逃げるために後ろへ下がることはなく、何故だか前へと踏み込んでいた。
「いい加減に、目ぇ覚ませよ馬鹿野郎ぉ!」
握りしめた漆黒の右拳で、俺はすぐ目の前にあるキナコのデカい鼻先を殴りつけた。
それでダメージなんかあるはずもない。分厚いゴムタイヤでも殴りつけたかのような感触。自分でも、この土壇場で何やってんだと、思ってしまったが、
「プッ、グゥウウ……リ、ライト……」
どうやら、寝ぼけた親友を起こす程度には、効果があったようだ。
「キナコ……」
見上げれば、そこには凶悪に血走った魔獣の目はない。
それは雄々しい野生の熊でありながらも、同族でもない人間の俺を友と認めてくれる、優しい理性の眼差しだ。
「やっと、目ぇ覚めたかよ」
見れば、キナコの毛色は耳の方から、元の茶色へと変わり始めている。まるで見えないエアブラシでもかけているかのように、無機質な白染めになっていた毛皮を艶やかなブラウンへと塗り替えていく。リングが破壊され、キナコが自我を取り戻したことで、全身に行き渡っていた怪しい白い光の力が失われて行っているのだろう。
「プフゥウウウ……ハラ、ヘッタ……」
「まったく、一言目でソレかよ。でも、そう言うと思って、ちゃんと用意してきてやったぞ!」
俺は目から溢れ出て来る涙を気に留めることもなく、ズリ落ちそうになっていたリュックを下ろし、急いで中に突っ込んでいた重箱を取り出す。
揚げたてでもなければ、温まってもいないけど、それでも腹が減ってるなら美味しく食えるだろう。
「ほら、唐揚げ作って来てやったぞ。好きだろ、お前」
「カラアゲ……ウマソウ……」
ペロリと大きな舌が、口元を舐めていく。遠慮しないで、全部食っていい。そうさ、もうみみっちく二人で一個を分け合うような真似は、しなくていいんだからな。
「今はこれしかねぇけどよ、帰ったら腹いっぱい、食わせてやるぜ、キナコ」
「リライト……アリガトウ……」
そうして、俺は唐揚げを開かれた口に入れてやろうとして、だから気づけなかった。
「逃げろっ、葉山君!!」
折角、真っ先に気づいた桃川が声を張り上げて叫んでくれたというのに。俺がその降り注ぐ白銀の閃光に気づいた時には、全てが終わっていた。
「————『光の聖剣』」
眩い光の斬撃が通り抜けていく。巨大な光の刃が描く軌跡は、壁のように俺の前へとそそり立っていた。ああ、なんだ、なんだよこれ、眩しくて、よく見えねぇ……
「葉山」
一体、今何が起こったのか。俺がそれを正確に認識するよりも前に、聞き覚えのある声が、どこまでも平静に、教室の中にでもいるかのように、実に友好的な響きでもって俺の名を呼んでいた。
「そ、蒼真……」
蒼真悠斗が、そこにいた。神々しい蒼白のオーラに身を包み、その手に強烈な力を発する光の剣を握りしめて。
けれどその顔には優し気な微笑みが浮かび、真っ直ぐ俺を見つめる瞳には確かな喜びの色が映っているように見えた。敵意はない。殺意はない。蒼真悠斗が、俺にその光の剣を向けることはないのだろう。
じゃあコイツは、一体何に対して剣を向けたのか。
「良かった。お前、生きていたのか」
一歩、俺へと近づくその足が、グジャリと唐揚げを踏みつぶす。キナコの舌先に載せられて、今にも食べられるところだった、一つの唐揚げ。それが何故だか地面に転がり、蒼真が踏み潰していた。
「危ないところだったな。けど、俺がいればもう安心だ。これ以上、クラスメイトは誰一人として死なせはしない。何故なら俺は————」
吹き上がる血飛沫。
縦一文字に振るわれ、壁のようにそそり立っていた光の軌跡が消えると同時に、途轍もない量の鮮血が怒涛のように噴き上げた。
生臭く、熱い血潮が、真正面から俺へと降りかかる。瞬間的に土砂降りを浴びたような気分だ。
文字通りに真っ赤に濡れた血濡れの俺は、紅に染まった視界の向こうで、
「プッ……グゥ……」
キナコの首が、転がり落ちるのを見た。
「————『勇者』だからな」
「逃げろっ、葉山君!!」
最悪のタイミングだ。叫んだところで、間に合うことはないと察してはいたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
葉山君はついに洗脳から解放されたキナコを目前にして、蒼真悠斗の出現に全く気付いていなかった。
小鳥遊がいつ、洗脳勇者を投入するか。そのタイミングについて予測はしていた。けれど、今の今ままでは、当初の予想は悉く外れている。
僕らを殺すことを目的にしているならば、その戦力が最大になるタイミングを狙うはず。それはすぐ上の階層で大暴れしている、蘇りしレイドボスのヤマタノオロチ。あるいはこの聖獣キナコ。
どちらかと一緒に蒼真悠斗を繰り出していれば、苦戦は必至。単純戦力で勝てる目は十分にあるだろう。実際、オロチ相手に天道君はリベルタの力を借りても手一杯だし、僕らの方は切り札を切ってどうにかやりきったという有様。勇者様が出張っていれば、普通に負けていた。
けれど、小鳥遊はそうしなかった。
何故か。蒼真悠斗への洗脳がまだ完璧ではないという可能性。これは僕らにとって都合のいい状況であり、希望的観測に過ぎない。この場合は考慮に値せず、対策も必要としない。
ならば次点で考えるべき可能性は、勇者覚醒を促すための悲劇が成立するのを待っているパターン。
天道君がヤマタノオロチに敗れれば、親友の死を目の当たりにすることとなる。または聖獣キナコに僕らが蹂躙されれば、委員長ら友人と、そして何より大切な最愛の妹を失うこととなる。
けれど、天道君は苦戦こそすれオロチは倒し切れるだろう。そして聖獣キナコも今まさに、僕らの手によって取り戻すことに成功した。悲劇は回避された。故に、勇者が登場する余地はない。
恐らく、小鳥遊はここから仕切り直しを狙うのでは————という方向性で考えたのが、最大の過ちだった。言い訳をするならば、ホントに奇跡的にキナコの洗脳を葉山君が解いてみせた光景に、僕も浮かれてしまっていた。
これまでの努力が、苦労が、報われたから。あまりに感動的な光景に、こんな僕でも目頭が熱くなるほどだ。ああ、友情の唐揚げが、キナコの口に……
けれど、悲劇は起こった。それは小鳥遊が狙ったからではない。葉山君とキナコ、二人の間に本物の友情があったからこその結果論に過ぎない。
ああ、そうさ、小鳥遊の狙いは勇者を覚醒させるための悲劇の成立なんていう、不確定で面倒くさい状況の誘導ではなかった。これはもっと単純に、必要なモノを手に入れるためだけの『狩り』に過ぎなかったのだ。
「危ないところだったな。けど、俺がいればもう安心だ。これ以上、クラスメイトは誰一人として死なせはしない。何故なら俺は————『勇者』だからな」
そう、キナコの首を切り落とした勇者は、誇らしげに言い放った。
なるほど、狂暴な巨大モンスターが、今まさに貴重な生き残りであるクラスメイトを喰らわんと大口を開けている。傍から見れば絶体絶命のピンチってヤツだ。
そこに颯爽と勇者様が現れる。この大広間の真上に待機させておいて、小鳥遊がタイミングを見計らっていたのだろう。離れた位置で見ていた僕は、確かに蒼真君は天井の方からいきなり降って来たのを目撃した。もしかすれば、タワー内でのみ通用する小鳥遊の転移によるものかもしれない。
どうであれ、蒼真悠斗は確かに今この瞬間に舞い降りた。
クラスメイトのピンチを救うために、手にした『光の聖剣』でモンスターを一刀両断。聖獣キナコの巨大な首も、たったの一太刀で切り落とす鮮やかな手際だ。
如何に巨大モンスターとはいえ、首を断たれてしまっては致命傷である。その口から断末魔を吠えることもなく、ただ血を噴いて倒れ伏す。巨体に見合った大きな切断面から噴出する膨大な血飛沫が、目の前に立ち尽くす葉山君に鮮血のシャワーとなって浴びせかけられる。
真っ赤なズブ濡れとなった彼の表情は、ここからでは窺い知れない。
「それにしても、よくここまで無事に来れたな、葉山。大変だっただろう」
そんな葉山君に、どこまでもにこやかに蒼真悠斗が語りかけている。その足で友情の唐揚げを踏みにじりながら。
「よくやったな、ここがゴールだよ。ほら、あそこに見えるのが『天送門』だ。あれを通って、外の世界に脱出できる。俺達はようやく、この地獄のようなダンジョンから、抜け出せるんだ」
鷹揚に語りながら、蒼真悠斗は血飛沫を上げるキナコの巨大な死骸へと近づく。葉山君はずぶ濡れなのに、何故か降りかかる鮮血は一滴たりとも勇者の体を汚すことはない。
防御魔法じゃない。思えば、その現象を僕が直接目にしたのは初めてのこと。けれど、話には聞いていた、恐らく『勇者』だけの特別なスキル————倒したモンスターの吸収だ。
そう、勇者はまるでゲームのように、倒したモンスターの死体を光の粒子に変えて消滅させ、その力を吸収し、新たなスキルを獲得するという。それは全てのモンスターに適応されるワケではなく、あくまで新スキルを獲得できる場合に発動しているらしい。
もう長らくダンジョンを進んだ今となっては、そこらの雑魚モンスター相手ではまず発動しない効果だが、聖獣キナコほどの存在になれば、それが起こらないはずがない。
その勇者に与えられた力によって、彼に振りかかって来る血潮は、全て淡く輝く燐光へと変わってゆく。
その輝きは徐々に拡大してゆき、やがて噴き出す血の全てが光へと変わり、白と茶色が半々と化していた巨躯も、その輝きへと包まれてゆく。
「あっ……あ……あぁ……」
真っ赤な血でベッタリと顔を汚した葉山君が、うわ言のように何かを呟きながら、両手を突きだす。その手はいつものように、キナコの顔を撫でていて————僅かな後に、断たれた生首も光となって、泡のように消えて行った。
キナコの亡骸は、完全に消滅した。まるで全ては幻であったかのように、跡形もなく————否。そこには一つだけ、確かにキナコという一人の友達が存在していた証が残されていた。
「見ろ、葉山。凄い高純度のコアだ」
真紅に輝くバレーボールほどもある、大きなコア。巨大さでいえばヤマタノオロチのコアが最大であったが、これほど綺麗な真球は初めて見る。磨き抜いたかのようにピカピカの表面が、美しい紅の輝きを放つ。
それを勇者はドロップアイテムを見つけたように気軽な動作で拾い上げた。
「これがあれば、天送門を起動できるぞ」
それこそが、小鳥遊の目的だったのだ。
キナコを連れ去ったのは、僕らにけしかけて襲わせるためじゃない。最初から戦力として数えてなどいなかった。
奴がキナコを必要としたのは、他でもない。ただ天送門を起動させるにたる、高純度コアを作り出すためだったのだ。
つまり、小鳥遊にとってキナコはただの家畜。自分達が移動するために必要なエネルギー源を確保するためだけに、培養されただけの素材に過ぎない。
暴れるキナコと僕らとの戦いの行く末など、最初からどうでも良かった。勝てばラッキー。負けても絞める手間が省けるだけ。
それだけの……そう、ただ、それだけのことだったんだ……
「ああ、やった、やったぞ! ついに俺は、ここまで辿り着いたんだ————さぁ、俺達の希望の扉よ、開け、天送門!」
歓喜の表情で高々とキナコのコアを掲げれば、天送門が脈動するかのように青白い光を放ち始めた。
ボンヤリと青い光のラインが走るだけだった天送門の各所から、煌々と強い発光と点滅を繰り返し、それに呼応するかのようにコアも眩い輝きを発する。
そして見上げるほどに巨大な門の内に、嫌でも見覚えがあるようになってしまった、転移の白い輝きが灯った。
点灯した瞬間にフラッシュのように瞬いて、薄暗かった大広間を明るく照らし出す。白い光を浴びて嬉しそうな笑みを浮かべる勇者の手には、もうコアは影も形も残ってはいない。
キナコの存在を示すモノは、これで本当に跡形もなく消え去った。
「けど、済まないが葉山、少し待っていてくれないか」
そう声をかけた相手を見向きもせずに、蒼真悠斗は剣を構える。どこまでも真っ直ぐな、蒼く輝く瞳が向く先は、
「出て来い、桃川小太郎。ここでケリをつけよう」
肌を突き刺すような濃密な殺意と共に、勇者は言い放つ。
なんだよその言い方、まるで因縁の魔王軍四天王の奴と決着でもつけるような感じじゃないか。
「……蒼真悠斗」
もう天送門の陰に隠れている意味はない。僕は堂々と歩み出る。
「聞かせてくれよ、小鳥遊に何て吹き込まれたのか」
「お前の悪事は、全て聞かせてもらった」
「やっぱ洗脳は完璧か……君には多少、同情の余地もあるとは思ったけれど、それも今、なくなった」
「桃川、お前だけは絶対に許さない」
これが洗脳の影響ってやつか、絶妙に話が嚙み合わないね。そりゃあ、僕の戯言を真に受けて戸惑うような仕上がりじゃあ、小鳥遊も怖くて出せないだろうし。
「兄さん!」
どんなに鈍い奴でも、僕と蒼真悠斗の間に一触即発をこの上なく表現した気配が漂っているのを感じ取れるだろう。ここで桜ちゃんが、ついに声を上げて飛び出して来た。
「お願いです兄さん、目を覚ましてください! 今の兄さんは、裏切り者の小鳥遊小鳥に騙されて、操られているのです!」
「ああ、桜……お前が無事で良かった。怪我はしていないようだな」
最愛の妹へ向けるに相応しい、優しい眼差しで蒼真悠斗は心底安堵したように言い放つ。
「けれど、やはり小鳥遊さんの言う通り、お前も桃川に操られているのか」
「そんな、違います! 私は正気です。操られているのは、兄さんの方なのです」
「正気なら、桃川を庇うはずないじゃないか。桜、お前どうかしているぞ」
そんなに桜ちゃんが、僕を背中に庇うように立っているのが気に食わないのかい。
今度は痛ましいものを見るような目で、蒼真悠斗は桜ちゃんを見つめた。
「だから言ったじゃん、桜ちゃんの説得なんて通じるはずないよって」
「くっ……あの兄さんが、ここまで小鳥遊の言いなりになってしまうとは……」
いやぁ、あの蒼真悠斗だからこそ、ここまで小鳥遊の言いなりになっているんじゃあないの?
なんて、桜ちゃんを煽っている余裕すら今はない。ここだけは予想通り、蒼真悠斗の洗脳は完璧だ。
「桜ちゃん、かなり状況が悪い。勇者参戦のタイミングが、あまりにも最悪だった」
「ええ、分かっています。皆、消耗していますから」
「時間を稼いでくれ」
「龍一と双葉さんが、ここへ辿り着くまで、ですね」
見ろよ蒼真悠斗、この妹の成長ぶりを。やっぱりお前が過保護だったのが、桜ちゃんを正義のワガママクソ女にしていたんじゃあないのかよ。
僕の下で社会経験を積ませたことで、桜ちゃんもこんなに立派になりました。頼れる前衛タンクとして生まれ変わった『聖女』桜の力を、存分に見せてやる、と思った矢先のことである。
「あっ、兄さ————」
「しっ、黙ってて桜ちゃん」
僕と桜ちゃんは気が付いた。立ち位置の関係上、先に気づいてしまったのだ。
そして、絶対殺すべき怨敵である僕と、絶対守るべき家族である桜ちゃん。目の前にいるこの二人に注目しているせいで、きっと蒼真悠斗は気づかなかった。
自分の真後ろで今、何が起きているのかを。
「ハァアアアア……ソーマァ……」
あまりに衝撃的な悲劇の結末に、ただ茫然自失として立ち尽くしていただけだった葉山君が、ゆっくりと背中を見せる蒼真悠斗へと顔を向けた。
感情が抜け落ちたような葉山君の顔の右半分が、艶のない漆黒に染まっていた。
「……コロス」
刹那、葉山君の体からドス黒いオーラが爆発するように迸り————




