第35話 オルトロス
「――九時だ。学校だったら、ちょうど一時間目が始まる頃だな」
平野君がGショックで時刻を確認してから、やや強張った口調で言い放つ。
「準備はいいな?」
その言葉に、僕らは揃って頷く。出来る限りの武装は整えた。作戦もしっかり立てた。後は、挑むだけ。
「よっしゃ、ボスに行くぞっ!」
オー、っと掛け声をあげて、僕らは妖精広場を飛び出した。
スケルトン共もボス戦に挑む僕らのために空気を読んだのか、ノコノコと通路へと飛び出してくる者は一体もいなかった。自然、さして長くもない通路をあっという間に通り過ぎ、すぐさまボス部屋、と呼ぶべき転移の魔法陣がある部屋の前へとやってくる。
「最後の確認だ、桃川、頼む」
「部屋に入ったら、まずは双葉さんの投石と西山さんのサギタで先制攻撃。一応、僕も熱病はかけるけど、効果は期待しないでほしい。向こうがこっちに距離を詰めるまで、とりあえず投げて、撃つ」
この先制攻撃で多少なりとも負傷させられればそれで良いし、牽制として向こうが警戒してくれてもいい。怖いのは、いきなり飛び掛かられて、あっという間に誰か一人が犠牲になることだ。伊藤君の二の舞だけは、何が何でも避けなければいけない。
「ボスが接近してきたら、平野君と双葉さんの二人がかりで止める。僕は動きの隙をついて、ボス犬を黒髪で縛れるかどうか狙ってみる。西山さんは、そのまま援護射撃に徹して」
魔力切れの心配は必要ない。西山さんは『風刃』だけならかなり撃てるし、僕も『黒髪縛り』だけに集中すれば、それなりに維持できる。
「一度接近を許したら、もう後はそのまま戦うしかないけれど……誰か一人が押し倒されたら、その時はピンチと同時にチャンスだから。敵は一体だ。双葉さんと平野君のどちからが倒されても、残ったもう一人が強力な一撃を叩き込めるはず」
伊藤君を失い、二人きりとなった平野西山カップルの弱みは、ボスの捕食行動時という隙をつけないことだ。先に平野君を倒された場合、強力な武技を持たない西山さんでは上手く仕留めきれないだろう。最悪、『風連刃』を撃ちこめれば勝機はあるけど、恐らく、広い効果範囲を持つというその魔法が炸裂すれば、下敷きになっている平野君も無事には済まない。
「もし、前衛を突破されて、僕か西山さんが押し倒された時は、僕は双葉さんが、西山さんは平野君が、先に一撃を入れて」
わざわざ順番を断っておくのは、土壇場になって二人が譲り合いみたいになったら困るからだ。テニスのダブルスで、ちょうどペアの中間地点にボールが来た時、どっちが打つか、みたいな判断がつかず、どちらもがラケットの届く範囲にありながらあえなくスルー、という現象はよくある。
この戦いでも、そういうロスは避けたいのだ。まして、今の僕らは急造パーティ。とても阿吽の呼吸での連携攻撃などできるはずもない。
それに、自分が助けるべき人、という役割をハッキリ決めておいた方が、いざその時になっても思い切って動けるはず。戦いの素人だからこそ、いざという時に「どうしよう、どうしよう」と頭が真っ白になったりするもんだ。
もっとも、こんなことを決めていても、立ち位置などの状況によってはいくらでも最善手は変わってくる。でも、それでも一応は決めておいた方が、マシなのかもしれないという判断だ。
「ボスが少しでも弱ったら、一気に畳み掛けよう。負傷者には悪いけど、倒すのが最優先だ。少しくらいの傷なら、僕の薬で治るはずだから」
作戦は以上だ。後は、自分達の力を信じて戦うしかない。頼れるモノなんて、他には何もないのだから。
最後に僕はもう一度、三人の姿を見る。ついこの間まで、僕らは教室で顔を合わせても挨拶すらロクにしない、単なるクラスメイトでしかなかった。それが今、こうして命を預け合う仲間として、恐ろしい魔物に挑もうとしている。
何だか現実感が湧かない。けれど、それぞれの武器を手に、薄汚れた制服姿の僕らは、どこまでもリアリティのある格好。
ただのサバイバルを超えた、命がけの戦いが始まる。
「それじゃあ、行こう」
おっしゃあ! と力強い平野君の雄たけびと、双葉さんと西山さんの元気な返事が薄暗い通路に反響する。
そうして、人食いの獣が眠る、洞窟のようにぽっかりと空いた扉のない入り口を僕たちは潜り抜ける。
前衛は双葉さんと平野君。双葉さんの後ろに僕、平野君の後ろに西山さん、という二列縦隊のような陣形。後衛の僕らも、二人からは離れすぎない。狙われる危険性は高いけど、下手に遠いとヘルプが間に合わない。
これがきっと、最適の陣形のはず。
「……ボスは?」
「多分、あの上だ」
体育館ほどの広さの部屋だ。スケルトンの湧く部屋と同じように、左右に何本かの円柱が見える。神殿のような造りに思えるけど、円柱以外には何の装飾もない、殺風景な石の部屋。天井にはぼんやりとしか光を出さない発光パネルが数枚あるだけで、あまり視界はよくない。部屋の隅の方は暗くてよく見えない。
だが、部屋の四隅なんかよりも気にするべきなのが、平野君が示した『上』である。正しく体育館にある壇上のように、部屋の奥には一段階高くなっているステージがあった。両サイドに階段があって、ステージの高さはちょうど二階建てくらいか。恐らく、そこに転移の魔法陣も刻み込まれているのだろう。
そんなことを予測しながら、じっとステージを見上げていると……聞こえた。
グルル、という獣の呻き声。
「いる、やっぱり、アイツがいるぞ」
「……桃川君」
「待って、向こうから出てくるみたいだ」
嫌な緊張感の漂う中、僕はライトに照らされて天井に浮かび上がったボスと思しき影が動くのを確かに見た。どうやら、ヤツも僕らの存在に気づいているみたい。
予想した通り、ボスはステージの上から、新たなる獲物である僕らの姿を捉えるために、そっと顔を覗かせてきた。
見えたのは、赤犬と同じような、けれど、あの痩せ細ったヤツとは別種と思えるほどに大きく、精悍な、それでいて血に飢えた獰猛な顔つき。それは正に、犬というよりも狼と呼ぶべき面構え。そんな、恐ろしい真紅の狼の顔が――二つ。
「……え? 二匹いる」
二つの頭が、僕らを睥睨していた。
「違う、桃川くん、アレは――」
ありえない。ボスが二匹もいるなんて、あってはならない。双葉さんも否定したように、ほら見ろ、やっぱり、ボスはちゃんと一体だけだ。何故なら、獅子のように大きく筋肉質な体躯は、ちゃんと一つだし。
「な、な、何だよ、アレ……頭が、二つついてる!」
「嘘、あんなの、前に見たのと違う!?」
二つの首を持つ赤毛の狼。それが、僕らの前に現れたボスの姿であった。
「撤退だ!」
僕は一も二もなく叫んだ。
ビビってる? 当然だろう。今の僕らは、二頭を持つ赤犬、いわばオルトロスというべき姿のボスを前に大きく動揺している。このまま戦闘に流れ込めば、まず間違いなく悪い流れへ引き込まれるだろう。
そして何より、アイツが見かけ倒しなワケがない。少なくとも、想定していた大きな赤犬よりも高い戦闘能力を持つと考えるべき。
以前、平野君達が戦った時とボスが違っているのは、ダンジョンシステムの気まぐれで新たにコイツがボスとして召喚されたのか、それとも伊藤君を喰らって進化でもしたのか。ダンジョンにも魔物の生態にも詳しくないから、今はこんな予想はどうでもいい。
重要なのは、何よりもまず、この場を脱して仕切り直し――
「危ない、桃川くん!」
真っ先に踵を返して、入り口へ駆け出そうとした僕だったが、双葉さんの叫び声と共に、ガクンと体が大きく揺れる。どうやら、後ろの襟首を掴まれて、思い切り引っ張られたようだ。
「うわっ!」
と、叫んだ気がするけど、僕は自分の声も耳に届かなかった。
眩しいほどに瞬く紅蓮の炎と、耳をつんざく炸裂音。それは、目の前に赤く尾を引く光の玉みたいのがバツの字に横切った、と思った次の瞬間にやってきたのだった。
「うおっ! ちくしょう、何だよ今の、火ぃ噴いたのかっ!?」
「魔法、魔法だよアレ! 炎の魔法を撃ってきた!」
平野君と西山さんの叫びが聞こえた時には、僕は双葉さんの手を離れて、再び自分の足で立っていた。
「ありがとう、双葉さん」
「ううん、それより、あの狼……どうするの」
僕は再びボスのいる上を見やる。赤犬、改めオルトロスは、鋭い牙を覗かせる口元から、ぶっ放した火球の残滓のように、チロチロと火の粉を吐いていた。赤い軌跡が二筋見えたことから、どっちの頭でも火炎弾を吐き出せるようだ。
幸い、双葉さんのお蔭でちょっとだけ熱風を感じたくらいで済んだ。でも、結構ギリギリの距離で炸裂したことを思えば、爆発力はそれほど大きくはないのだろう。けれど、厄介なのはその燃焼力。着弾した火球はいまだ、油に火がついたように轟々と燃え盛っている。
そう、僕が飛びこもうとした、入り口の前で。
「おいっ、どうすんだよ桃川! お前が逃げようとしたから出口が潰されたじゃねーかよ!」
「なっ、そんなの僕のせいじゃないだろ!」
反射的に言い返してから、しまった、と思った。こんなことを言い争っている場合じゃない。けれど、僕の行動を我先に逃げ出した臆病者という風に平野君がこの瞬間に感じてしまった以上、その心証は一言二言で翻せるものじゃない。
あのボスは狡猾にも、僕らの逃げ場が壁の出入り口一つきりであることを理解した上で、まず真っ先にそこを潰しにかかったのだ。僕が逃げ出そうとしなくても、恐らくは同じタイミングで爆破されていたはずだ。
「でも、ボスを見て真っ先に逃げ出したじゃない」
ああ、そうだよ、僕が最初に逃げようとしたことは紛れもない事実。あのまま上手く撤退が成功していれば、正しい判断だったと落ち着いた上で納得してくれたと思うけど、この状況では、この通り。
「待って、分かった、僕が悪かった。けど今ここで言い争ってる暇はない。出口が塞がれた以上、あとはもう作戦通りに戦うしか――」
「ふざけんな、お前のせいだろが! なんとかしろよ桃川!」
「どうしてくれんの、逃げ場がもうないでしょ!」
くそ、くそっ! ちくしょう、ダメだ、二人はもう半ばパニック状態で、冷静に状況を把握できてない。というか、僕自身も冷静になれてるかどうか分からない。どうしようもなくマズい状況下に、心臓がバクバクして頭が真っ白になりそうだ。
ヤバい、マズい。何とかしないと。焦りばかりが募る。
「ちょ、ちょっと待って、落ち着いてよ!」
まず二人が冷静になってくれないと、戦いにならない。ならないけど、ボスはもう現れてしまっている。
「来るよっ、桃川くん!」
双葉さんの鋭い警告に、弾かれたように顔を上げる。左右にいる平野君と西山さんも、はっきり目に見えるほど、ビクンと体を震わせていた。二人だって、怖いのだ。混乱だってする。
「あ、ああ……おいおい、待て、ちょっと待てよ!」
「きゃぁーっ!」
オルトロスは、もう狩りは始まっているぞ馬鹿な人間共、とでも言いたげに、余裕たっぷりの軽やかな動作でステージから飛び下りた。二階相当の高さから、猫みたいにしなやかな着地を決める。犬のくせに。
やけに優雅に見えた飛び下り動作は、地に足がつくと一転。疾風のように、一直線に駆けだした。見た目に違わず、引き締まった四足は凄まじい加速力と走力を発揮する。疾走する姿は、正に猛獣。テレビで見たサバンナのライオンが狩りをする映像の何百倍もの迫力だ。もう、これだけで気絶しそうなほど。絶叫をあげる二人を、僕は馬鹿にできない。
でも、ここでやらなきゃ、殺られる。気をしっかり持て、桃川小太郎。まだ、勝負を投げるには早いだろう。
「双葉さん、投げて! 逃げ足を絡め取る――」
西山さんが作戦通り、サギタを撃ってくれるかどうか分からない。頼れるのは、僕を責めようとしなかった双葉さんだけと考えるべき。いざ戦闘が始まれば、いくら混乱していても否応なしに二人だって戦ってくれるだろう。
とりあえず、ボスが速攻を仕掛けてきたので、もう悠長に『赤き熱病』をかけている暇はない。選んだのは、物理的な拘束が望める『黒髪縛り』だ。
双葉さんの投石はなびく赤い毛皮をかするのみで、僕の黒髪に至っては、足元から噴き出したところを素早いジャンプでかわされた。そして、その飛んだ勢いのまま平野君へと飛びかかる。
「うっ、うわぁああああっ!? やめろぉおおおおおおおおっ!」
野太い悲鳴を上げて、平野君の体が仰向けにドっと倒れ込む。硬い石の床に、ロクに受け身もとれずに背中を打ちつけたようだ。苦しげなうめき声をもらしながら、すぐに立ち上がる様子はない。
ボスから見れば、伊藤君を食い殺した時と同じハメパターンに入れるチャンスだが、ヤツはそのまま平野君に圧し掛かるような追撃はしなかった。二つの首は揃って、真横を向く。
「やぁああああああああああああああっ!」
高らかに斧を振り上げた双葉さんが、勇敢にもボスへと斬りかかっていた。
だが、すでにボスは彼女の攻撃に反応しており、素早いステップでその場を飛び退き、余裕を持って双葉さんの振り下ろしを回避した。強烈に床を叩いた斧の刃先が、ガキンと音をたてて火花を散らした。
「しっかりして、平野君! 早く立つんだ――『黒髪縛り』っ!」
倒れた剣士に声をかけつつ、僕は双葉さんの援護に入る。といっても、非力な僕では手にした槍で接近戦に割って入るわけにもいかず、『黒髪縛り』を放つしかないけれど。
双葉さんは二度、三度、と切りつけるが、その斬撃を見切っているように、ボスは華麗に身を翻してかわしている。おまけに、ほとんど死角となる足元から噴き出る黒髪の束も、やはりヒラリとステップでよける。髪の毛一本たりとも、絡みはしない。
「それなら、これでっ――」
半ば反射的に、僕は右手を掲げる。手足の制御を手離すほど、僕の意識は呪術の行使に集中する。もっと、もっと正確に、鮮明に、イメージするんだ。
長い髪の毛を、三つの束に。そして、それを交互に、順番に、丁寧に、編む。ほら、出来る、出来た、綺麗な三つ編み。
「――どうだぁ!」
何度目かの『黒髪縛り』は、一本にまとまった三つ編みとなった黒髪が、大蛇のように地面から飛び出て来た。その刹那もボスは見切り、サイドステップ一つで回避。
けれど、この『三つ編み縛り』はリーチが長い。
僕は思い切り、掲げた右手を振るう。その動きに連動するように、三つ編みは足元を薙ぎ払う。髪の長さはおよそ三メートル。ボスがステップで逃れた範囲に、ギリギリで届く。
「とった! 双葉さん!」
ボスの左後ろ足。足首の辺りに、ヒュンヒュンと空を切って飛来した三つ編みが見事に絡みつく。二重、三重、と確かに巻きつき、その機敏な機動力を奪い取る。
「はぁああああああああっ!」
決まった。ボスはもう一足飛びに回避はできない。
とんでもない勢いを乗せた刃が目前に迫ったその時、ボスはそれぞれ、別の方向を向いた。
右の頭は、真正面から斬りかかる双葉さんを睨む。左の頭は、大きく後ろを振り向くように、首を伸ばす。視線の先にあるのは、忌々しい黒髪の戒め。
ガチン、と一つ牙を鳴らす音。直後、左頭が炎を吹く。
「あっ」
と思った時にはもう遅い。金属でもなんでもない、ただの繊維でしかない黒髪はあえなく焼け落ち、一瞬にして拘束力が失われる。
左足が紅蓮の炎によって解き放たれると共に、再び機動力を取り戻したボスは紙一重で双葉さんの斬撃をよけきった。
今度は余裕を持ったステップではなく、半歩、よろけるように動いた程度。それでも、またしても斧は床を叩く。
そして、そのギリギリのところで回避したが故に、ボスはカウンターの機会を得る。手を伸ばせば届く距離に、斧を思い切り振り下ろして隙だらけの敵がいるのだ。
「ぐ、ううっ!」
双葉さんは呻き声と共に、その巨体が嘘みたいに吹っ飛ばされていた。腹部にオルトロスが放った痛烈な犬パンチが突き刺さったのだ。あっという間に何メートルもの距離を、双葉さんの体はゴロゴロと転がって行き、部屋の隅に立つ円柱に当たってようやく動きをとめていた。
「双葉さんっ!」
僕がそう叫んだのは、彼女の身を案じただけではない。強力な前衛である彼女が、吹き飛ばされたことで非力な後衛の僕と距離が空いてしまった。この立ち位置ならば、ボスはまだ倒れたままの平野君にトドメを刺すこともできるし、ターゲットを変えて、僕か西山さんを狙うことだってできる。
次はどう出る。『黒髪縛り』以外に有効な対抗手段を持たない僕には、ボスの出方を見ていることしかできない。そして、何者の邪魔も入らないボスは、この戦いにおいての最善手を打つ。
ガウっ、と吠えながら、二つの頭が牙を鳴らす。双口から、炎の帯が赤々と吐き出される。まるで火炎放射だ。
燃え盛る火炎は、不思議にも空中で緩やかなカーブを描きながら、起き上がろうとしている双葉さんに、いや、彼女の周囲をグルリと囲むように着弾していった。
「あ、くそっ……分断、された……」
その高度に戦術的な行動に、思わず息を呑む。双葉さんを最大の脅威と判断したのか、彼女の周りを炎で囲い、閉じ込めたのだ。半径五メートルほどの範囲で、部屋の隅に火炎の牢屋が形成された。
「う、うぅ……桃川くん!」
メラメラと勢いよく燃える炎の揺らめきの向こうから、双葉さんの声が届く。どうやら、豚の丸焼きみたいに全身を炙られているわけではなさそうなので、ひとまず安心か。
ボスはあのまま火炎放射を双葉さん本人に浴びせていれば、それだけでトドメを刺せたはずなのに、なぜかそうしなかった。舐めているのか。それとも、肉は生で食べたいのか。
双葉さんが無事なのは幸いだけど、それでも僕自身の置かれた状況に変化はない。
「待って、双葉さん! 無理に出ようとしたら危ない。もう少し火の勢いが弱まるまで待ってて。こっちは何とかするから!」
僕はチラリと最初に潰された出入口を見ながら叫ぶ。心なしか、出入口で燃える炎の勢いは弱まっているように見えた。炎の壁は永遠に持続するわけではない、何よりの証拠。
だからこそ、無理して双葉さんが炎の壁を突っ切って火達磨になる必要はない。彼女が大火傷を負えば、ボスを倒すための攻撃力を失うことになる。だから、ここは耐える場面だ。何としても、双葉さんが戻って来るまで時間を稼ぐんだ。
そんな僕の決心を嘲笑うかのように、ボスは余裕ぶってグルグルという楽しそうな唸り声を上げて、二つの頭をしきりに動かして僕等を睨む。誰から食ってやろうか、考えているのか。
僕は槍をぎこちない動作で構え、隣の西山さんは呆然と杖を握りしめるだけ。獣の呻きだけが響く、奇妙に静かな時間が過ぎ去る。
「う、ぐう……ちくしょう……」
結果、ボスが選んだのは再び立ち上がろうと膝をつく平野君であった。
二つの頭は獰猛に牙を剥いて、今度こそ彼の体を押し倒しにかかった。
「う、うわぁああああっ!?」
「きゃああああああああああああああああああ!」
平野君と西山さんの絶叫が轟く中、僕はとりあえず黒髪縛りでの拘束を試みる。
「縛れっ!」
さっきよりも、さらに集中。今回は二本の三つ編みを呼び出すことに成功した。ちょっと進歩してる、と喜ぶ余裕もなく、叩きつけるように地面から生えた三つ編みの蛇をボスの頭へとふるう。
「があああっ! 痛っ! 熱っ、くそぉ!」
しかし、僕の成長した『黒髪縛り』も、やはり炎の前では無力。二本とも、再び吐き出された火炎放射によってあえなく焼失。ボスの平野君へ加える追撃は、いささかも弱まらない。
「う、う……うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
僅かな逡巡を経て、覚悟完了。ここで平野君をみすみす失うわけにはいかない。僕は使えない呪術を諦めて、手にする槍で直接攻撃をする決断をした。
情けないほど甲高い悲鳴みたいな雄たけびを上げて、僕は震える両足でボスに向かって駆け出した。ああ、近い、近い。近くで見ると、マジでデカいよ。
「でやぁあああああああああっ!」
ボス部屋に入る前に飲んだパワーシードの効果で、多少なりとも力強さの増した一撃を放つ。平野君に圧し掛かるボスの脇腹を突くように狙う。まさか、この近距離で、ボスのデカい体を外すわけがない。
しかし、無情にも僕の渾身の一閃は空を切る。
なんてことはない、素早い身のこなしを誇るボスが、ヒラリと飛び退いて回避したに過ぎない。
「ぎ、いいぁああああああああっ!」
重さを感じさせない軽やかな着地と共に、平野君がいよいよ死にそうな叫び声を上げた。見れば、首筋から勢いよく血が噴き出ている。
ボスが回避する寸前、かなり深く牙が首を裂いたようだった。
「平野君!」
まずい、今すぐ止血しなければ確実に死ぬ。幸い、僕の鞄の中にはそれなりの傷薬Aが常備されている。コレを塗りたくれば、一命はとりとめられるだろう。
けれど、そんなことをしている暇はない。だって、これは現実の戦いで、ゆっくり次の一手を考えた上で実行できる、ターン制のRPGではないのだから。
「うっ、うわぁーっ!?」
ボスの逆襲が始まる。すでに瀕死な平野君は放っておこうという判断なのか、次は攻撃を仕掛けてきた僕を狙ってきたのだ。
勿論、剣士でも狂戦士でもない、最弱な呪術師という天職の僕に、この距離、このタイミングでの反撃に、打つ手など一つもない。
どうしよう。考える間もなく、凄まじい勢いでボスの体が迫っ――
「――ぁああっ!」
女の子みたいに情けない悲鳴を上げながら、僕はドっと床へと倒れ込んだ。痛い。肺の中の空気が全部抜けていったような苦しさだ。
けれど、そんな痛みなど序の口。すでに、オルトロスの餓えた凶悪な頭が、僕のすぐ目の前で涎を垂らしていた。
「うわっ、わぁああああっ!?」
牙を剥く狂暴なアギトを前に、僕ができたことといえば、反射的に腕を掲げるだけだった。当然、槍なんてとっくに手離しているし、サブウエポンのカッターナイフかゴーマの短剣も、引き抜く余裕などありはしない。
妖精胡桃の枝さえ満足に折れない僕のか細い腕に、狼の牙が深く突き立つ。
「いぃっ、ぁあああああああああああっ!!」
恥も外聞もなく、絶叫を上げた。腕に走る痛みに、早々に我慢の限界はあっけなく突破する。
もうこのまま腕を食い千切られる、そう思ったが、逆にボスの口は腕から離れていた。ギャウ、というやや苦しげな呻きも同時に耳に届く。
「あ、は、はは……そうだ、僕を食えば……お前も、傷つくんだよっ!」
第二の呪術『痛み返し』は効果を発揮。僕の腕に穿たれた牙の一撃は、同じくボスの前足へと等しく刻み込まれる。
一瞬の怯みによって、僕は反撃の機会を得る。今度こそ、ベルトに刺したゴーマの短剣を引き抜いた僕は、そのまま何も考えず、目の前にある毛むくじゃらの赤い体を斬りつける。
思ったよりも、硬い。薄らと錆びた刃は、毛皮と少しばかりの肉を切り裂くに留まり、致命傷には遠く及ばない。
ちくしょう、こんな倒れた体勢じゃあマトモにナイフを振るえない。でも、なんとか突き刺してやらないと――
「ぎゃうっ!」
という悲鳴は、僕とボスの両方とも重なる。僕の斬撃を受けたことで危機感が増したのか、痛み返しのダメージを省みることなく、ボスは容赦なく爪を僕の肩口に食い込ませてきた。
「ぐ、がぁ……ば、バッカ、やろぉ……」
コイツ、そもそも痛み返しでダメージが自分に跳ね返っていることを理解してもいないのかもしれない。僕の肩には皮膚を破る爪の鋭い痛みと、かなりのパワーで前足が押し付けられ、そのまま肩の骨が砕けるんじゃないかというほどの重圧感を喰らう。ボスも同じだけの痛みを味わっているはずなのだが、コイツ、力を緩めようとしない。
しかし、まだ首筋を食い破るような致命的な攻撃も来ない。やろうと思えば、僕の細い首なんて一口で噛み千切れるだろうに。だとすれば、やはり痛み返しを警戒して、トドメまでは刺し切る踏ん切りがついていないのか。
僕とボスは共に同じ痛みを味わいつつ、一進一退の攻防を続ける。ジワジワと体を蝕む鋭い痛みと、息が止まりそうなほど重たいボスの体重。もしかして、このまま僕はボスを道連れに共倒れなのか、なんて思ったその時だ。
「に、西山ぁーっ! 撃てっ! 今だぁ!」
平野君の声だった。チラリと視線を向ければ、必死に出血する首筋に手を当てながら、ヨロヨロよ立ち上がる彼の姿が見えた。
「平野! で、でも――」
「いいから、撃てっ! 撃てよ! ブラストで桃川ごと撃つんだよ!」
背筋が凍りつく。いけない。先に逃げた臆病者のレッテルが、仲間ごと撃つ抵抗感を失わせる。ああ、ちくしょう。僕は間違った行動はしていない。けれど、こんなことなら、しなければよかった。
どうしようもないほど屈辱的な後悔を噛みしめながら、僕は目の前に迫るボスの牙を必死で抑えつけることしかできない。
「う、うん、分かったよ! العديد من ريش تبادل لاطلاق النار الرياح」
死へのカウントダウンが聞こえた。
くそ、くそっ! やめろよ、馬鹿、馬鹿野郎! ここで味方ごと撃つ馬鹿がいるかっ!
呪詛の言葉で頭の中が満ちていく反面、ああ、しょうがない、最弱の呪術師を犠牲にボスが倒せるなら、万々歳だろう。そんな冷めた思考も過る。
ボスはボスで、自分に向けられようとしている攻撃魔法の気配に気づいていない。僕を痛めつける度に自分も傷つくせいで、かえって冷静さを失い、ヤケになって襲い続けているといった感じだ。
どいつもこいつも、僕を含めて、もう、どうにもならない。
「――『風連刃』っ!」




