第361話 折れた双剣
ゴッ————と鈍い音と衝撃が突き抜けて行ったと感じた直後には、すでにうつ伏せで倒れ込んでいた。
鉄臭い血の味。潰された鼻の鈍痛と、脳が揺れて意識が朦朧とする。
テレビに砂嵐が走るようにチラつく視界の中で、剣崎明日那はただ湧き上がってくる恐怖に震えた。
体が覚えている。この苦痛を、この恐怖を、この絶望を。当然だ、これで二度目。
『狂戦士』双葉芽衣子に敗れたのは、これで二度目なのだから。
顔に喰らった拳の一撃で、気絶でもしていれば幸せだっただろう。この恐ろしさを思い出さずに済んだ。
そう、明日那は思い出していた。鮮烈に、鮮明に、あの無残な敗北の記憶を。
「うっ、あ……私、は……ごふっ!?」
何かを言いかけようとした矢先に、今度は腹部に強烈な衝撃が走る。これも、あの時と同じ。倒れたところに、間髪入れずに追撃の蹴りが飛んで来た。
とても女性を相手にするものではない。子供が産めなくなりそうなほどの威力が、腹のど真ん中に炸裂している。きっと一度敵と定めたならば、そこに老若男女の区別など、狂戦士にはないのだろう。
『聖天結界』の再生が間に合わずに追撃の蹴りが直撃した明日那の体は、再び地面をバウンドしながら勢いよく転がる。
数メートルほど転がり僅かに勢いが緩んだところで、止めようと体が動く————寸前に、ズン! と重苦しい音を立てて、明日那の体は強制的に止められていた。
「ぐっ、がぁああ……」
どうやら、うつ伏せの体勢で背中を踏みつけられているらしい。踏みつけた衝撃だけで背中が砕けそうなほどだったが、強靭な双剣士の肉体はそれも耐える。
しかし、鍛えられた自身の体ではない部分は、その限りではない。
メリメリと不吉な音が響く。音だけではない。踏みつけられた背中にかかる圧力が加速度的に増してゆき、肩の後ろが引き千切られそうなほどの力で引っ張られていた。
「ぐわぁあああっ! つっ、翼を————」
天使の翼を、芽衣子は両手で掴み取り、そのまま引き抜くように思いきり力を籠める。
万能の防御を誇る結界と、迅速な再生を行う治癒。装着者を守る絶大な力を発揮する聖天級兵装の破壊を優先するのは、真っ当な判断であろう。
「ぉおおおおおおお、ぬぅんっ!!」
雄叫びと共に、天使の翼は無残にも引き千切られた。
明滅する魔力の白羽が舞い散ると共に、肉体と融合するように装着されていた付け根は背中の肉ごと千切れ、鮮血を噴き上げる。
翼を自由自在に操作するために通わせている繊細な魔力回路は、本物の神経同様に反応を示し、痛覚を発した。もしも本当に人間に翼が生えていれば、それをもがれた時と同様の痛みとなるだろう。
ただ力づくで手足を千切られたのと同じほどの痛みとショックにより、明日那は更なる絶叫を上げた。
だが、その苦痛が過ぎ去るよりも先に、更なる暴力が降りかかる。狂戦士の拳が、脚が、情け容赦なく振り下ろされた。
天使の翼による守りを完全に失い、防御も回復もできない明日那の生身を、圧倒的な暴力が蹂躙する。とっくに二刀を手放し攻撃力を失った腕も、手首を踏み砕かれ、肘を蹴り折られ、肩を拳で貫かれ、指一本動かせない。
立ち上がろうとも、曲げた脚を逆方向に蹴り折られた上に、さらに掴まれ捩じられる。
完全に手足を破壊され、無様に転がることしか出来ない。激痛を超過し、痛みが鈍って来る一方、手足の感覚は完全に喪失している。生きているのか、死んでいるのか、それすら判然とせずぐったりした明日那を、芽衣子は片手で掴み上げた。
血の靄で赤みがかった視界に、いまだ憤怒の形相を浮かべる狂戦士が映る。
「よくも……よくも殺したな。愛してくれた人を、殺した」
芽衣子はそれほど、陽真と仲が良かったわけではない。仲間ではあったが、個人的な友人というほどでもない。それどころか、明日那に思いを寄せていることを、いつか重大な裏切りに繋がるのではないか、と警戒している面もあった。
それでも、いや、だからこそと言うべきか。彼の明日那へ抱く思いを、芽衣子はきっと誰よりも理解している。
報われて欲しいとは思わない。応援することも憚られる。
けれど、せめてその気持ちを伝える機会だけは、思いの丈を打ち明けるチャンスだけは、与えられるべきだと思った。
しかし明日那は彼の言葉を聞くどころか、その存在を認識すらしなかった。
あの瞬間の明日那が、正気だったかどうかなど、事ここに至ってはどうでもいいことだ。
中嶋陽真は、思い人に何も伝えることもできず、あっけなく斬り捨てられて死んだ。そして剣崎明日那は、これから双葉芽衣子に怒りのまま殺される。
その事実は決して覆ることはない。
だが最後だからこそ、思い知らせなければならない。自分が何をしたのか、どれほどの罪を犯したのかを叩き込む。何も自覚せずただ死んで楽になるなど、この女には許されない。
「こ、殺した、だと……私は、誰も殺してなど……」
「見ろ、剣崎明日那。そこで倒れている中嶋陽真を殺したのはお前だ。お前を助けるために、私の前に立った彼を、お前が殺したんだ」
「中嶋……私が斬った、のか……ならば、あいつも敵だったのだ」
陽真を殺した自覚がありながらも、悔いた様子は見られないことに、芽衣子は眉をひそめた。
「……敵?」
「そうだ、敵だ……私は常に、正義のために剣を振るってきた……裏切り者め。お前らは皆、裏切り者の悪なのだ」
元より、正気じゃないのは百も承知。だが事ここに及んでまでも、自らを正義と断じることで、芽衣子は理解した。この女は、どうしようもなく 歪んでいることに。
「なんて、なんて馬鹿な女。もっと早く、殺しておくべきだった」
剣崎明日那の、正義は決して揺らがない。なぜなら、自分自身こそが正義なのだから。
きっと、初めからそうだったわけではないだろう。道場の娘として、厳しい教育と鍛錬を課されてきたに違いない。そうでなければ、これほどの腕前は身につかない。
その生まれ、強さ、才能、美貌、恵まれた少女だ。少なくとも、ブタバと陰口を叩かれるような、料理しか取り柄のないデブ女の自分とは大違いだった。
けれど、剣崎明日那は道を違えた。
自分が狂戦士の力で、彼女を決闘でぶちのめしてしまったから。直接的な原因、心を歪ませたトラウマは間違いなくこれであろう。だが、芽衣子ではない別の誰かが同じように彼女を叩き潰しても、結果は同じになっただろう。
つまるところ、剣崎明日那は自らの敗北を受け入れることができない。自らの過ちを、認めることができなくなっていたのだ。
その結果がこれである。歪んだ正義を正すこともできず、一度でも敵と定めた相手を否定し続ける。
小太郎を、許そうとはしなかった。
小鳥を、許してしまった。
本当の裏切り者が誰だったのか明らかになったとしても、その現実を直視せず、自分にとって都合のいい思い込みをして正義を叫び続けた。
「剣崎明日那。お前は正義でも何でもない。自分の弱さも間違いも、認めることができない、どうしようもない大馬鹿女だよ」
「黙れぇ……私は、間違っていない……何一つ、間違ったことはしていない。お前らが悪い。桃川なんて、邪悪な呪術師についた、お前らこそが悪————がはぁっ!」
拳を顔に叩き込み、聞くに堪えない台詞を遮る。
もういい。もう充分だ。この女は死んでも罪は認めない。
「どう、して……私は、間違っていないのに……どうして……小鳥を、守りたかっただけ、なのに……」
血の入り混じった涙が明日那の目から零れ落ちる。
無残で哀れなその姿は、見るに堪えない。
ここで終わらせる。そう決めて、明日那の白い首筋を掴み、力を籠める。
「ぐっ、ううぅ……た、助けて……蒼真……」
「助けになんか来ないよ」
首を絞める。いや、そのまま捩じ切る勢いで、芽衣子は黒いオーラを纏う両手で明日那の首を軋ませる。
最後の抵抗とばかりに、体を硬直させる明日那だったが、狂戦士の力に抗うことなどできるはずもなかった。それこそ、勇者が助けにでも駆け付けない限り————
「助けて、蒼真ぁ……」
「蒼真君はきっと、小鳥遊の隣で寝ているからね」
「そう、まぁ……」
ゴキリ、という鈍い音と共に、ついに剣崎明日那は事切れた。
完全に首の骨を手折った感触。芽衣子がその手を離せば、一切の力なく地面へと崩れ落ちる明日那の体。頭は、真後ろを向くほどにまで捩じられていた。
目じりに血涙を溜めて、大きく目を見開いた明日那の死に顔は、最後の最後まで恐怖と苦痛と絶望に塗れたものだった。
それを芽衣子は汚いゴミでも見るような目で見下ろした後、視線を移す。
「……姫ちゃん」
「死んだの。剣崎」
視線の先にいる姫野は、変わらず俯きながら、ぼそりとそう問いかけた。
「うん、死んだよ」
「そっか」
無残な明日那の死体を見るでもなく、地面を見つめ続けるだけの姫野は素っ気なく呟いてから、その肩を震わせた。
「陽真くん、死んじゃった……」
「姫ちゃん、ごめんね」
「は、陽真くんの、バカ……あんな女なんかを、庇うから……バカ、ばかぁ……ぁあああああああああああああっ!!」
とうとう声を上げて泣き出す愛莉を、芽衣子はただ抱きしめることしかできなかった。
「————は?」
間の抜けた声が、小鳥の口から漏れる。
目の前に投影された映像には、ズタボロになって首が折られて転がる、無残な剣崎明日那の死体が鮮明に映し出されていた。
映像だけではない。彼女に与えた聖天級兵装『ガーディアンウイング』のリンクが切れ、死亡の反応を示している。
「明日那ちゃん……死んだの……?」
そう事実を認識する言葉を絞り出しながら、小鳥は震えながら小さな拳を握りしめた。
「はっ、はぁああああああああああああ!? なんで死んでんだよぉ! ふざけんなよ、羽まで使わせてんのに、なんでっ、なんで死ぬぅ!!」
小鳥の叫びが室内に響く。
明日那の死は、小鳥にとっても驚愕であり、衝撃でもあった。
自身も使っている聖天級兵装『ガーディアンウイング』は、強力な『聖天結界』展開能力を持ち、必要な魔力もセントラルタワー内においては自動で供給されるため、魔力切れの制約もない。
万が一、結界が破損しても即座に修復されるし、完全に破壊されても数秒で再展開が可能。さらには、負傷しても上級の治癒魔法が自動発動し回復もできる。
万全の防御と治癒を備え、翼による飛行能力と機動力。これを超人的な剣技を誇る『双剣士』の明日那であれば、今や大きな加護の力で絶大な戦闘能力を発揮する『狂戦士』双葉芽衣子にも勝てると、小鳥は確信していた。
「ああああああっ、使えねぇ……マジで使えねぇよ。クソがっ、なにが剣崎流剣術だよ、パワーだけの素人デブに負けるなんざ、とんだインチキ剣術じゃねぇか! なに負けてんだよ、ブタバくらいぶっ殺してから死ねやぁ!!」
何より、小鳥は明日那の強さを信じていた。
最初の決闘で惨敗を喫していたのは衝撃的だった。しかし、それは単純な身体能力の差によってのものだと考えた。狂戦士とのスペック差を埋めることができれば、明日那が負ける要素はない。
そう信じていたからこそ、芽衣子と一対一の戦いになった状況を許した。あの場で撤退するよう命じることなく、明日那が思うままに戦わせた。
その結果がこのザマだ。
「クソ、くそぉ……なんで……ホントに、死んじゃったの……明日那ちゃん」
怒り狂ったように喚き散らし、部屋の中を八つ当たりで散々に荒らしまわった後、出てきたのはそんな言葉だった。
そこで小鳥は、初めて自分の目から涙が零れ落ちていることに気が付いた。
「あ、明日那ちゃんの、嘘つき……小鳥を守ってくれるって、言ったのに……」
心からの親友、などというのは表向きの姿。
元々は打算の結果、仲良く近づき利用していただけのこと。そして蒼真悠斗の存在を知り、いつか蹴落とすライバルの一人に過ぎない————それが小鳥遊小鳥にとって、本当の剣崎明日那への評価である。
友情、なんて言葉には反吐が出る。
所詮は弱者の馴れ合いを綺麗に装飾しただけの、くだらない言葉。本気でこんなモノを信じる方が、馬鹿を見るのだ。そういう馬鹿を、この短い人生だけでもすでに何人も見てきている。
だから剣崎明日那も同じ。本気で小鳥を、自分が守るべきか弱い親友だと、思い込んでいる馬鹿な女に過ぎなかったのだ。
「明日那ちゃんだけが……小鳥のこと、本当に守ろうとしてくれたのに……」
剣崎明日那に、洗脳は必要なかった。
少々、『イデアコード』で感情を増幅させはしていたが、蒼真悠斗を洗脳する必要もあって、その出力は微々たるものに留まった。全ての悪事を自ら晒した上でも小鳥について来た明日那であったが、いつ心変わりして自分を説得するかも分からない。最悪、拘束して適当な部屋に閉じ込めておくことになるかもしれない————そう思っていたが、そうはならなかった。
明日那は、本当に小鳥の味方でい続けることを選んだのだ。
それが、ただの現実逃避であることも分かっている。あまりにも罪を重ねすぎ、桃川の糾弾によってクラスメイトから絶望的なまでに信頼を失い、自らのアイデンティティを成す正義が揺らいでいた彼女の苦悩も、小鳥は理解していた。
そう、分かっているはずなのに————それでも、心を捻じ曲げなくても、小鳥を守ることを選んでくれた人間は、剣崎明日那ただ一人であったという事実に、今になって気づいてしまった。
「あ、ああ、明日那ちゃん……嘘、嘘だよね……明日那ちゃんが、死んだなんて嘘……だって、明日那ちゃんはとっても強くて、いつも小鳥のこと守ってくれる……」
自分でも、何を口走っているのか分からない。溢れ出て来る感情が、理性を越えていた。
剣崎明日那など、所詮はただの駒。頭の悪い暴力女。小鳥のために利用するだけの存在如きに、こんなに心が乱されることなどあってはいけない————そう必死に叫ぶ理性の声を押し流すように、彼女と出会った中学からの思い出が次々と蘇っていく。
「ありがとう……すっごく、怖かった……」
「そうだろうな。だが、もう安心しろ」
「それから……ごめんなさい」
「何を謝る必要がある?」
「小鳥、剣崎さんのこと……ちょっと怖い人、だと思ってたの……」
「むっ、そんなつもりはなかったのだが……いや、そうだな、そう思われても仕方がないところもあっただろう。すまない、剣術道場の娘のせいか、他の女子に比べて可愛げというものがなくて」
「ううん、小鳥が悪いの。勝手に怖そう、だなんて思い込んで……だから、ごめんなさい。そして、助けてくれて、本当にありがとう。剣崎さんは、とても勇敢で、とても優しい人だったんだね!」
「いや、その、当然のことをしただけで、そこまで褒められるほどでは、ないのだが……」
「ねぇ、剣崎さん、良かったら小鳥と————お友達になってください!」
「ああ、勿論だ。これからよろしくな、小鳥遊さん」
裏表のない、真っ直ぐな明日那の笑顔が、涙でぼやけて見えなくなるようだった。
「ううっ……うううぅ……」
自分でも抑えきれない感情に流れて、小鳥はただ泣き声を上げて蹲っていた。
どれだけの間、そうやって泣いていただろうか。
「————小鳥遊さん」
声をかけられた。泣きじゃくる迷子に、声をかけるように優し気な声音。
「う、うう……蒼真、くん」
「泣かないで、小鳥遊さん。俺がついている」
蒼真悠斗は膝を折り、優しく微笑みながら小鳥の頭を撫でた。
「蒼真くんは、小鳥のこと、守ってくれる?」
「ああ、俺が小鳥遊さんを守るよ」
「ずっと一緒に、いてくれる?」
「ずっと一緒にいる」
「小鳥の敵を」
「小鳥遊さんの敵は、俺が殺す。君を守るために、全て殺す」
「ねぇ、蒼真くん」
「なんだい、小鳥遊さん」
「小鳥のこと、名前で呼んで」
「ああ、分かったよ————小鳥遊、さん」
何て強靭な精神力か。とっくに記憶を改竄し、その感情も思いのままに操れるほどにまで洗脳は深まっているはずなのに……頑なに蒼真悠斗は、小鳥と名前で呼ばない。
命令への違反は、明らかに洗脳状態の不備である。完璧ではない。完全ではない。蒼真悠斗の心の奥底は、いまだ屈してはいないのだ。
「やっぱり、心から小鳥に味方してくれたのは、明日那ちゃんだけ、だったんだね」
いまだ、全てが手に入らぬ思い人。
そして、もう二度と手に入らない、本当の親友。
自分が本当に欲しかったのは、何だったのか。二律背反、矛盾した感情に、小鳥の心はどうしようもなく苛立つ。
けれど、今はそれ以上に、心の中にぽっかりと空いた、大きな、あまりにも大きな喪失感を埋めたくて仕方がなかった。
「抱いて、蒼真くん」
「分かったよ、小鳥遊さん」
「愛して、蒼真くん」
「愛しているよ、小鳥遊さん」
偽りの愛の言葉を囁きながら、そっと壊れ物を扱うように抱きしめてくれる悠斗を、小鳥は小さな体で体当たりするような勢いで、その場に押し倒した。
今はもう、何も考えたくなくて。どうでもよくて。失ったものが大きすぎて、その上、もう二度と取り返しがつかない————そうして、小鳥遊小鳥はただ、寂しさを埋めるためだけに蒼真悠斗を使った。
もうすぐそこの階層にまで、クラスメイト達が迫っているにも関わらず。
重なり合う二人の傍らで、ひっそりと点灯している投影画面には、白馬に蒼真桜と二人乗りをして駆ける桃川小太郎の姿が映っていた。




