第354話 妖精の森(1)
「くっ、うぅ……」
小さなうめき声を上げながら、蒼真桜は立ち上がった。
「なんとか、無事に着地はできましたが————」
五体満足。体には痛みもなく、これといった異常も感じられない。
突如としてフロアが消失したことで、相当な高さから放り出されたが、小太郎が用意していた『エアクッション』と名付けられた風のマジックアイテムと、何より無敵の防御たる『聖天結界』によって、全くの無傷で階下へ降り立つことに成功した。
「————どうやら、みんなとははぐれてしまったようですね」
踏みしめる地面は青々とした芝生。ざっと周囲を見渡せば、麗らかな木漏れ日に照らされる緑の森と、可憐に咲き誇る野の花々が目に映る。どこからともなく、チチチと鳥のさえずりが響き渡り、そよ風がやさしく頬を撫でて行った。
森の中だ。けれど、これまでのダンジョンで通って来たような、いつ魔物が飛び出してきてもおかしくないような気配はなく、人が夢に描くようなただ美しい森の風景である。まるで、あつらえたかのような、否、ここがセントラルタワーの階層の一つであることを思えば、一か十まで全てが人工の森に決まっている。ここはいわば、巨大な庭園のようなものなのだろう。
そして、周囲にはクラスメイト達の気配は感じられない。
落下している最中、桜は自分だけでなく落ち行く仲間達にも意識を向けるだけの余裕はあったが、途中で眩い光が満ちたために視界を奪われてしまった。
感覚的には、転移魔法の光などではなく、本当にただ光り輝いていただけだというのは分かる。だがそのせいで、確認できていた仲間を見失ってしまったし、それは皆も同様であろう。
「スマホは……まだ、使うのはやめておきましょう」
連絡手段としていまだ持ち続けて入るが、そもそも小鳥遊の手によって使えるようになった代物である。これまでに問題が起こったことはないが、この期に及んでは何があるかは分からない。タワー内は小鳥遊のテリトリーでもあり、こうしてはぐれた時に探知されれば危険はある。
どうしても合流できず、連絡が必要になるまでは使わないのが吉だ。
「そうなると、頼みの綱は桃川の使い魔、ですか……」
あまり気乗りはしない、とあからさまに嫌な表情で、本人が見ているワケでもないのに浮かべる桜であった。
胸ポケットの内から取り出したのは、小さなテントウムシ。モノトーンカラーの白黒テントウは、これもレムの姿の一つ。
学園塔ではぐれて以降、双葉芽衣子にはコレがくっつき続けていたため、王国攻略の土壇場で小太郎の元へ駆けつけることができた、連絡役兼案内役である。
今回は念のために、クラスメイト全員がこのテントウを持たされている。こういった事態に備えてのことであるが……
「動かないじゃないですか」
テントウはピクリともしない。特に反応はなく、飛んで仲間の元へ案内を始めてくれるわけでもなかった。
どうやら、今は機能していないようだ。
「ひとまずは、自分で探すしかなさそうですね」
改めて注意深く周囲を観察しつつ、自分の装備も再確認。
早くも手に馴染んだが、新たな主武器である『桜花繚乱』を携え、桜は一人、歩き出した。
庭園として造られた森のためか、迷うような深さはない。足元には分かりやすく、土の道が敷かれており、視界もさほど悪くない。適度に木々の間隔が間引かれているためだろう。
まずは道に沿って、けれど堂々と真ん中を進むことはなく、常に木々の間を縫うように身を潜めながら歩いて行く。その歩行にも、足音は全くといっていいほど立てていない。
桜もまた、総合武術たる蒼真流を習得している。こういった気配を消して敵地を進むことを想定した、隠形術の心得もあった。
「むっ、ここは……妖精広場……?」
ほどなく、森の中でも開けた場所へと出た。
そこには色とりどりの花畑が広がっており、その向こう側に綺麗な円い泉があった。
噴水ではなく、泉だ。
だがその泉の中央には、白い円柱が伸び、その上にすっかり見慣れた妖精像が備えられていた。
「ここも荒れ果てた広場なのでしょうか」
この最下層エリアでは、妖精像も噴水も壊れて、すっかり機能を失った妖精広場ばかりであった。
泉と花畑の周囲には、あちこちに円柱や石壁が壊れた跡が残っている。気になるのは、妖精像が真ん中の一つだけでなく、他にも転がっていることだ。
まるで花畑で遊び回る妖精をイメージしたかのように、点々とそこからに配置されている。原型をとどめているものもあれば、ニケの女神像が如く腕と頭の欠けたもの、足しか残っていないようなものと、様々であった。
複数の妖精像が配されているのは初めて見た。どことなく不気味な印象を抱くのは、本来の妖精像が凶悪な殺人ビームを放つ兵器だと知ったからか。
少なくとも、泉に立つ妖精像をはじめ、どれも目を光らせて攻撃してくるようなことはなかった。光の微精霊を先行させて確かめたので、間違いはない。
「ん、あれは————」
そうしてざっと妖精広場跡地らしき場所を観察したところで、桜は気づいた。
泉の水面に、プカプカと浮いているモノがあること。
それはただの流木や魚影などではなく、まるで人の背中のような、
「まさかっ!?」
ソレが人間である、と悟った瞬間には、迷わず花畑を突っ切り泉へと駆けだしていた。
やはり浮いているのは人間で、その黒い布地は間違いなく白嶺学園の制服である。
ジャブジャブと泉へと踏み込み、急ぎつつも、冷静に水深を確かめた。
幸いと言うべきか、それとも人口であるが故か、深さはそれほどでもない。水底はなだらかな坂になっており、一定の間隔で深度が増して行くようだ。
完全に頭を水につけて漂っている人影は、十分に足が付く範囲内にある。
「大丈夫ですかっ! 今、助け————」
大声で呼びかけながら、ついにその背中へと手をかけ、まずは頭を水面から上げるために態勢を入れ替え、
「————も、桃川」
桃川小太郎の蒼褪めた顔がそこにあった。
目にした瞬間、呆然としてしまう。恐らく、クラスメイトの誰であっても、死しか連想できない表情を見れば、思考も停止してしまいそうになるのだろうが————あの誰よりも憎らしく生意気な、あれほど心の底から憎悪した男の顔が、生気を失い完全に停止した表情を浮かべているのが、どうしようもなく信じられなかった。
死んだ。
桃川小太郎が。
あの憎き『呪術師』桃川小太郎が、死んだのか。
そう認識した瞬間、蒼真桜の心に湧き上がった感情は、
「ふっ、ふざけないでください!!」
歓喜、あるいは安堵の感情が湧くはずだった。
死ねばいいと思った。死ぬべき人間だと思った。
『呪術師』桃川小太郎は、クラスのみんなを騙した大罪人である、醜い己の欲望のみを優先する利己的な悪人————たとえそれが小鳥遊小鳥によって偽られた陰謀であったとしても、小太郎が人殺しとなってしまったことには、何の変りもない。
その小さな手で何人も殺した。幼馴染の、あのレイナすら殺した。
それだけで正しく悪魔のような、最低最悪の人間と呼ぶには十分すぎる。
死ななければならない。こんな大悪党が、のうのうと生きていていいはずがない。
彼は明確に、正義に反した悪なのだから。
「なに勝手に死んでるんですか!」
あまりの衝撃で混乱する頭と心とは裏腹に、桜の体は確かな救助に動いていた。制服の襟と肩口を掴み、そのまま岸へと引っ張る。
小太郎はすでに何の反応も示さず、溺れたパニックで暴れることもない。いつかやった水難救助の訓練で、水面から引っ張られていた人形のように無抵抗で無反応だ。
「許さない、こんなこと、許されないですよ……これだけみんなを振り回して、こんなところであっけなく死ぬなど……」
人の心を弄び、嘲笑う、邪悪な呪術師。それが桜にとっての桃川小太郎。
けれど同時に、彼は今のクラスメイトから確かな支持と信任を得て、ダンジョン攻略を指揮する立場となった。それも、学園塔を毒殺未遂によって追われたにも関わらず、ヤマタノオロチ討伐戦の時以上の信頼を勝ち得ているのだ。
あれほど蛇蝎の如く嫌っていたはずの自分さえ、今では小太郎の力を頼りにしなければならない状況となっている。
何のために、ここまで来たのか。何のために戦ってきた。まだ何も終わってないし、何も成せていない。
小太郎には償わなければならない罪があるし、果たさねばならない義務がある。
「みんなで生き残ると、そう大言壮語を吐いたなら————死んでる場合では、ないでしょうがっ!!」
ズブ濡れになりながら、ようやく小太郎を引き上げる。桜の細腕に、意識のない人間一人を動かす重みは感じられなかった。
自分よりも背が低い小太郎を、小さな子供のように軽々と引いて、花畑へと仰向けに寝かせる。
呼吸ナシ。脈拍ナシ。
閉じられた瞼をめくれば、瞳孔は開きっぱなし。体温もどれだけ下がっているのか、相当に冷たい。
生きていると思われる要素が欠片もない。
「起きなさい、桃川————」
流れるような動きで、心肺蘇生を桜は行った。
小さな胸を押す手は力強く。
あれほどに忌み嫌った男に、生命の息吹を吹き込むために唇を重ねることにも、何の躊躇もなかった。
同時に、治癒魔法も発動。最速かつ最大で効力を発揮するものを選び、小太郎にかける————だが、反応はない。
「起きなさいよっ、桃川小太郎ぉ!!」
「————なにやってんの、桜ちゃん」
「くそっ、やりやがったな小鳥遊め……」
こちらが一気に最下層へ近づくことも厭わず、フロア丸ごと落とし穴として利用するとは。おまけに、その隙をついて剣崎までけしかけて来やがった。
奴の目的はこの一手で確実に僕を仕留め、同時にクラスメイトを分断することで、再び悲劇の舞台を整えようとした、といったところか。僕の排除と、必要な生贄を確保する一石二鳥の欲張り作戦は、小鳥遊らしい発想だ。
「けど、これで僕はおろか、他の誰も始末できなかったのは失態だぞ」
全員の無事は、すでに再召喚を終えた幼女レムによって、確認できている。みんなには、あのテントウくっつけてるからね。
「近くに誰かいる?」
「すぐそこ、あっち」
「よし、まずは一人と合流だ」
体の無事と装備確認もほどほどに、僕とレムは動き出す。
この異様なほど綺麗に整った美しい森は、さながらセントラルタワーの中庭といったところか。見上げれば青空が映し出され、上階は見えない。
恐らく、ここは空間が拡張されかなり広大なフロアとなっている。レムが探知したクラスメイト達は、かなり広い範囲でバラけているそうだ。
自然に落ちてこの広がり方はありえない。やはりここへ落っこちて来る寸前に瞬いた転移のような光に包まれた時に、それとなく弾き飛ばされたのだろう。
蒼真君は、すでに小鳥遊の手によって覚醒のための悲劇を演じるよう動き出しているのだろうか。
次の瞬間にでも、「俺はまた、守ることができなかった!」とか叫んでいてもおかしくない。一刻も早くみんなと合流し、まずは安全を確保しなければ。
「メイちゃん、剣崎のことは任せたよ」
彼女の状況だけは、すでに分かっている。
空中で錐揉みしながらも、メイちゃんは僕へ飛び掛かって来た剣崎を迎え撃ち、そのまま戦い続けていた。間違いなく、あのまま二人は同じ場所へと降り立ち、今度こそ決着をつけるべく最後の決闘を演じているだろう。
メイちゃんなら、天使羽を生やした剣崎でも一人で倒せるはずだ。たとえあの羽が見掛け倒しのものではなく、奴と同じ聖天級兵装なる強力な古代兵器であったとしても。
『聖天結界』破りは、すでに完成しているからね。
「ここ、やけに妖精像が多いな……」
森の中には、ダンジョンでよく目にしてきた荒れた遺跡風の石柱や壁がいい感じのオブジェみたいに配置されている。そして、それらとセットのように、妖精広場でお馴染みの妖精像も設置されていた。
荒れ果てた遺跡風の場所は散々見てきたが、この妖精像を妖精広場以外で目にしたのは初めてのことだ。
「いや、このフロアそのものが巨大な妖精広場ということなのか?」
そう解釈すれば、森の中で遊ぶ妖精達のように、幾つも設置してあることに納得がいく。確かリベルタの話によれば、妖精像は本物の神の力を宿した特別な存在だ。
もしダンジョン各地に幾つも存在する妖精広場、そこに力を与える大元になっている中心地がこのフロアであるならば————さながら、妖精の住処とでもいうべき『妖精の森』だ。
「————っ!」
「声だ」
確かに、木々の向こう側から声が聞こえた。何を言っているのかは分からないが、切羽詰まったような叫び。
すでに戦闘状態で危機に陥っている可能性が高い。
「レム」
「グガガ」
すでに黒騎士形態へと移行し、僕は『愚者の杖』と『無道一式』を握りしめる。
この先にいるのは一人。僕とレムを加えたところで、大した戦力にはならない。強力なボスモンスターが相手であれば、いつもの如く捨て駒召喚で足止めさせて、即時撤退するしかない。
そうして、僕は声の聞こえた場所を、まずはそっと木陰から様子を伺い、
「起きなさいよっ、桃川小太郎ぉ!!」
「————なにやってんの、桜ちゃん」
なんか泉の畔で、僕が桜ちゃんに襲われてんだけど。性的な意味で。
桜ちゃんはズブ濡れで、上半身裸の僕に覆いかぶさって、なんかヒステリックに叫びながら熱いキッスを送っていた。
こんなの現行犯逮捕じゃん。立件されないだけで、男が襲われるケースもないわけじゃないんだからね。
「正直、引くわ」
「えっ……あ、これは違う! 違うのですっ!!」
何がちゃうねん、言うてみい。
桜ちゃんは今の自分がどれだけイカれた凶行をしていたのかようやく認識したように、違う違うと何も違わないことを叫びながら、慌てて倒れる僕の上から飛び退いた。
そこで『双影』を解除。
まるで泉で溺れ死んだかのように、全身びしょ濡れでぐったりと動かず機能停止していた僕の分身は、黒い粒子と化して消えていった。
もっとも、コイツが止まった理由は溺死ではなく、エアクッションもってないから、水面に叩きつけられた衝撃だろうけど。肉体が全損しなかったせいで、消滅は免れたけど、動けなくなっていたといった状態だ。珍しいケースである。
「へっ、変な勘違いしないでください! これは分身だと思わず、本当に桃川が溺れたと思って、仕方なく心肺蘇生を————」
「いやぁ、凄いショックだよ。まさか桜ちゃんが、僕のことをそんな目で見ていたなんて」
正直に言えば、ホントは僕が溺れたと思って助けてくれた桜ちゃんの姿を見て、ちょっと感動している。
たとえ今だけは僕の協力がなければ、蒼真君を助けることはできないという利害関係の一致だけであったとしても、あの桜ちゃんが短絡的かつ感情的に僕にトドメを刺して始末しなかった、というだけで感動を禁じ得ない。
そんなワケで、ちょっとした照れ隠しの冗談でそんなことを言えば、
「キェエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」
奇声を上げて桜ちゃんが襲い掛かって来た。




