第28話 湖のカエル
「あっ、ここは――」
双葉さんが蛇を狩った休憩地点から出発し、十分ほど進んだところである。不意に木々が途切れ、視界が開ける。
「わぁー、湖だ」
双葉さんの口から観光客のような感想が漏れた通り、そこは、森のど真ん中にある湖であった。
「近くで見ると、凄く綺麗だねー」
白い光を照り返してキラキラ輝く水面は静かで、透き通って底が見えるほど綺麗な水質もここから見て分かるほど。近くで見れば、より一層に幻想的。本当に観光地にでもなっていておかしくない眺めだ。
「できれば、水辺には近づきたくなかったんだけど。どんな水棲モンスターが潜んでいるか、分からない」
妖精広場で安全確実に飲料水を無限に確保できる以上、僕らが他の水辺に接近する必要性はない。
「なるべく湖に近づかないように、迂回して行こう」
それ以外に方法はない。双葉さんを先頭に、僕らは右手に湖を臨みながらグルっと回り込むように歩き始めた。
「……あれ」
しかし、すぐに異常は起こる。
「どうしたの、桃川くん?」
「コンパスが、湖を指したままだ」
湖の畔を進んでほどなくして、僕は何となく魔法陣のコンパスを確認してみれば、そうなっていた。
「気のせいかもしれない。もう少し、進んでみよう」
だが、僕の淡い期待はあっけなく撃ち砕かれる。コンパスは相変わらず湖の中心を指したまま。
てっきり、湖の反対側へ進めという意味だと思っていたのだが、どんなに歩いてもコンパスは湖を指し続けるのだ。そこには進むべき道などないというのに。
「魔法陣がおかしくなってる、ってことは……ないよね……」
双葉さんがそう言ってしまうのも無理はない。事実、最初は僕もそう思ったし。
「魔法陣がバグったりするのかどうか分からないし、今のところ、確認する方法もないからね」
もし本当に魔法陣のコンパス機能が狂っていたのだとすれば、僕らのダンジョン攻略はここで詰みだろう。
「これは、覚悟を決めて湖を調べるしかなさそうだ」
ここはただの大自然ではなく摩訶不思議なギミック満載のダンジョンである。ならば、湖のど真ん中から、さらに先へ進む道が隠されていてもおかしくない。できれば、鍵やら石版やらのキーアイテムを幾つも集めてこいだとか、くだらないナゾナゾみたいな暗号解読とかの、面倒くさい仕掛けがないことを祈ろう。
「水の中に、何かないかよく探そう」
そうして警戒態勢をとりながら、僕らは慎重に湖へと近づいていく。改めて見れば、やはり綺麗な湖にしか思えない。透き通る水の中に、小さな魚が群れになって泳いでいるのが見えた。
一旦、来た道を逆戻りするように、湖の縁にそってゆっくりと歩き出す。
「どう、双葉さん、何かある?」
「うーん、別に何も――あっ」
と、双葉さんは早々に発見をしたようで、声を上げて指をさした。
「あそこ、建物みたいなのが沈んでるよ!」
示された方向を注意して見てみるが……うん、僕には何も見えない。まだ眼鏡が必要なほど目は悪くないんだけど、どうやら視力は双葉さんの方が良いようだ。あるいは、『狂躯』によって視力も強化されているのかもしれない。
「よし、行ってみよう」
勿論、水の中ではない。双葉さんの見つけた建造物が、僕でも見えるような場所へと移動する。幸い、それほど離れていない。というより、ちょうど僕らが最初に森から湖に出た地点である。
「うわっ、なんでこんなのに気付かなかったんだろ……」
思わず、そんな感想を漏らしてしまうほど、ソレははっきりと湖の中に存在していた。
一見すると、それは水に沈んだ橋である。ただし、沈んだといっても橋の通路は水深30センチほど。この学校指定のペラペラの上靴がズブ濡れになることを覚悟すれば、問題なく歩いて行ける。
幅は二車線道路くらいあって、結構な広さである。歩いたとしても、橋が崩れない限り、足を踏み外すことはないだろう。
そんな水中橋は、どうやら湖を横断しているように真っ直ぐ伸びている。ここからでは、本当に対岸まで届いているかどうかは見えないけれど。
「ねぇ、これ、渡ってみる?」
「正直イヤだけど、コンパスが真っ直ぐこの先を指してるんだよね……」
どうやらここが、正規ルートのようである。覚悟を決めて、行くしかない。
そうして、渋々ながらも水面へと一歩を踏み出したその時だ。
ブクブクと水面が俄かに泡立つ。どうみて自然現象ではない。そこに、水の中で空気を吐き出す何者かが潜んでいることの、この上ない証拠である。
「何かいるっ!? 下がって!」
双葉さんがその巨体にあるまじき鋭いバックステップを刻み、一方の僕は転びかけながらあたふたと無様に走る。這う這うの体で森の木に手をかけたところで、けたたましい水音を立てて、湖から巨大な影が飛び出した。
「うわわっ、カエル! 桃川くん、大きいカエルだよ!」
ちょうど湖の水中橋の上に、通せんぼするように降り立ったのは、確かに双葉さんの言う通りデカいカエルに見える。そう、本当にデカい。だってコイツ、僕を丸飲みできるくらいの大きさなんだから。
全長はもしかして、鎧熊より大きいかもしれない。けど、地球産のカエルと同様に滑った皮膚をしているから、鎧熊よりは柔らかいし、刃も通ると思いたい。
見た目はズングリとして、皮膚の表面にデコボコとイボが浮かぶウシガエルみたいだ。一滴で致死量となる猛毒なんて持ってなければいいけれど。
「双葉さん、静かに。もしかしたら、僕らを狙ってるわけじゃないかもしれない」
「ええっ、でもこのカエル、桃川くんを狙ってるよ!」
「えっ、マジで!? そんなの分かるの!」
「分かるよ! えっと、何か、そんな感じするのっ!」
これも狂戦士の能力か。三つの初期スキルの内に『気配察知』みたいなモノはなかったから、ひょっとして隠しステータスか何かだろうか。ともかく、今は彼女の言葉を疑うよりも信じるべきだろう。
そしてそれは、戦うしかないということを意味する。
「双葉さん、いける?」
「大丈夫! ウシガエルみたいだから、きっと食べられるよ!」
いや、食用かどうか聞いてるんじゃないんだけど……まぁ、双葉さんは問題なく戦えるようだから、それでよしとしよう。
「行け、泥人形! 逃げ足を絡め捕る、髪を結え――『黒髪縛り』っ!」
いつもの『黒髪縛り』で身動きを封じるコンボに加えて、今回は少しでも敵の注意を逸らすために、泥人形を先行して走らせる。
正直、この三十センチほどの脆い泥人形に巨大カエルが気づきもしない可能性もあるけれど、一応は使ってみる。効果があればいいけれど――
「うわっ、これはダメだ……」
そこら辺で拾った木の枝を槍のように構えて、勇ましく駆けだした泥人形二等兵であるが、巨大カエルの立つ場所は水中橋。水深はちょうど三十センチほど。湖に突入した瞬間、頭の先まで水を被った泥人形は、正に泥団子を投げ込んだように、真っ黒いシミのように水中に広がり、分解した。水面には、槍代わりの枝がプカプカと浮かぶのみ。
ええい、この役立たず。僕の感覚的にも、泥人形の繋がり、みたいなものがプッツリ途切れて、完全に呪いが消滅したことが感じられた。
「頼んだ双葉さん! 縛りもあんまり持ちそうにないから!」
「うん、任せて!」
『黒髪縛り』の発動を待って、泥人形の無意味な突撃より一拍遅れて、双葉さんは力強くバトルアックスを構えて駆け出した。
彼女の先に、いまだドッシリと橋の上で座り込んだままのカエル。その不動ぶりは、丸太のように太い前足へ呪いの髪が束となって絡みついているのが理由ではないだろう。
相手の大きさと比べて、前足を封じる二房の黒髪は、あまりに頼りなく見える。
でも、これが今の僕にできる最大限の拘束力。そういえばこの呪術って、ちゃんとレベルアップして強力になってくれるのかな……なんて、今更ながらに不安感に襲われる。
「やまない熱に病みながら、その身を呪え――『赤き熱病』!」
そして、最後の支援技である微妙な効果の第一の呪術を放つと同時、ちょうど双葉さんが武器の届く間合いへと踏み込んだ。
「やぁああああああっ!」
可愛らしくも勇ましい少女の声で雄たけびを上げながら、十全に威力の乗った斧の刃がカエルの脳天に向かって振り下ろされる。
その直前に、巨大カエルは思いのほか素早い動作で後ろに跳び、斧の軌道から逃れた。
やはり、僕の『黒髪縛り』は何の拘束力を持たなかったようだ。というか、カエルって構造的にバックジャンプってできるのか?
どうなってんだちくしょう! と内心、色々と悔しく思ったその瞬間。
「うわっ!?」
目の前に、ヌラヌラと不気味にテカった桃色の肉塊が迫っていた。
それが、巨大カエルが大口を開けて飛ばしてきた長い舌であると気付いた時には、僕の貧弱な胴体をグルリと一周して捕えていた。
「桃川くんっ!?」
何ら抵抗らしいことはできず、僕は武器である槍を振るう間もなくカエルの口中へと引き寄せられる。その牽引力は、僕でなくとも人間が踏ん張ってどうにかなるような強さじゃない。
正しくモンスターパワーとでもいうべき力に引かれて、僕は自分の絶叫と目に映る風景を置き去りに宙を舞った。
僕は記憶が走馬灯のように蘇ることもなく、ただ「あ、死んだ」と思いながら、カエルが目いっぱいに開いた口の中をボケっと見ただけ。
デカい口は唾液でヌメヌメしていて、妙に赤く光って見えた。まるで、地獄の入り口みたい――と思った矢先に、地獄のふたは閉じられる。赤が、黒に塗りつぶされた。
「ぶわぁああああっ!?」
瞬間的に冷たい水をぶっかけられた気分と同時に、坂道の下りをチャリで爆走している時にウッカリつまづいて放り出された時の衝撃を感じる。つまり、カエルの舌で引き寄せられた慣性をそのままに、水面橋を勢いよくゴロゴロ転がったのだ。
打ち所が良くてそれほど痛みはなかったけれど、ちょっと溺れかけた。あんな風に突っ込んだら、人間ってのは水深30センチでも溺れることができる、と僕は水が鼻に入ってツーンとする嫌な感覚に苦しみながら、そんなことを悟った。
「桃川くん、大丈夫?」
「な、なんとかぁ……」
ズブ濡れになった長い髪を犬みたいにブルブルと頭を振って視界を確保すると、そこには油断なく斧を構える双葉さんと、その先でオゲゲーっ! と舌の先から緑の血飛沫を上げて苦しみもがいている大カエルの姿があった。
どうやら、双葉さんがすんでのところで舌を切断し、僕が丸飲みされるのを防いでくれたようだ。理屈としては納得できるが、本当についこの間まで普通の女子高生だった子が、そんな達人みたいな一撃を刹那の間で繰り出したことは驚嘆に値すべきだろう。げに恐ろしきは天職『狂戦士』か、それとも彼女自身の才能か。
ともかく、助かった。呑気に僕がそう確信できたのは、何てことはない、次の瞬間にあっけなく決着がついたからだ。
先手は、舌切断の痛みから立ち直った大カエル。怒り心頭といった様子で、ゲーゲーと実にカエルの鳴き声らしい重低音を響かせながら、よだれをまき散らす大口を開けて突進を仕掛けてきた。
折りたたまれた長い後ろ足を生かしたジャンプ、というカエルのアイデンティティーを放棄するように、象みたいにドタドタと四足を忙しなく動かして水面橋をひた走る。
対する双葉さんは、僕を大きな背中に庇うように不動の姿勢で待ち受ける。いくら双葉さんが女性の平均身長・体重を大幅に上回る豊満巨体を誇ろうとも、モンスタークラスの大カエルに比べれば、その差は歴然。
さながら軽自動車と正面衝突するような交通事故を連想させるインパクトの瞬間、彼女が手にするバトルアックスが閃く。
「ふんっ!」
それがどういう風に繰り出されたのかは、とても平均的な動体視力しか持たない僕には分からなかった。正しく、目にも止まらぬ速さ、というやつだ。
けれど、それによって引き起こされた結果はしっかりと見届けられた。
突進したはずの大カエルが、無様に吹っ飛んでひっくり返っているのだ。
そんなカエルくんの様子に、僕はとても共感を覚える。
「騎士の第三スキル『弾き』だっ!」
そう、双葉さんを仲間に引き入れてから最初に行った能力発動実験の時に、僕はこの『弾き』を喰らったのだ。その結果は、水面橋の上で情けなく仰向けでもがいている大カエルと同じ有様である。
けれど、まさか大カエルほどの巨大さであっても、適切に発動する……いや、真正面からブッ飛ばすだけの効果があることが、最も驚くべき点だろう。
「やぁあああああああああああああっ!」
そうして双葉さんは、ひっくり返ってジタバタしているという動物としてはあまりに致命的な隙を逃すことなく、今度こそ渾身の一撃を叩き込んでいた。
大振りな斧の刃は、柔らかそうな白い皮膚に覆われたカエルの喉元をぶち抜き、盛大に気色悪い緑の鮮血シャワーを噴き出させた。
「うわぁ、ごめんね桃川くん、やっぱりこのカエル、食べられないかもしれないよ」
たはは、と苦笑いする双葉さんの圧勝で、水面橋の決闘は終わりを迎えた。




