第1話 二年七組
九月二十日、平日。私立白嶺学園の巨大な校舎は、三連休明けで気だるげに登校する生徒達を飲み込んでいる。
始業のチャイムがあと十分もすれば鳴ろうかという時刻。僕の所属する二年七組の教室には、すでに半数以上の生徒が席に着き、あるいは席を立って、クラスメイトと談笑しつつ朝の時間を楽しんでいた。
「ぶはははは! ウケる! それでどうしたのよ、小太郎?」
この下品な笑い声を盛大に上げている恰幅の良い丸顔の男子生徒は、僕の中学時代からの友人である、斉藤勝。
「どうしたもあるか、そのまま二人に任せて帰ったよ」
僕はちょっと太めの眉を僅かにしかめながら、昨日あった出来事を話していた。
「なんだよぉ、勿体ねぇな。折角そんな美味しいイベントだってのによ、もうちょっと頑張ったらフラグ立ったかもしれねぇのに!」
「蒼真君と天道君が現れた時点で、どうやったら僕の方に好意が向くのさ。大体、あんなリアルヤンキー目の前にしたら、イベントがどうとか考える余裕なくなるって」
やや興奮気味の友人をジト目で睨みつつ、至極真っ当な意見を述べる。
「いやぁ、でも四人だろ? 四人くらいなら、俺なら何とかなったかもしれねぇのに、かぁーホントに勿体ねぇ、昨日は俺も小太郎に付き合えば良かったぜい」
よほど女の子を助けるシチュエーションが惜しいのか、勝はさっきからこんなことばかり言っている。彼は今日も絶好調だ。
妄想武勇伝全開の友人へ生暖かい視線を向けつつも、この身長はそこそこだが横幅が尋常じゃない力士のような体型をしている勝なら、実際に喧嘩沙汰になった場合、少なくとも僕よりかはずっと善戦するだろうとは思えた。
彼が護身用と言い張って、常にリュックへ忍ばせている小太刀の木刀もついに活躍の時となるかもしれない。もっとも、勝が常日頃から実戦でも使えると豪語する格闘漫画由来の技が役に立つとは思えないけど。
「僕としては、殴られずに済んで良かったと思うだけだよ。それに、やっぱりあの二人も無事に救助されたみたいだしね」
視線を教壇の前辺りに男女混合で寄り集っているグループへと向ける。その面子はどれも容姿が整っており、彼らが爽やかに談笑する姿はまるで学園ドラマのワンシーンのようである。
蒼真悠斗はそんなメンバー中にあって尚、顔も存在感も抜きん出ており、文字通り光って見えるほどの魅力を振りまいている。その姿は正しく主人公とでも呼ぶべきか、傍から見ても彼こそが中心人物であると一目で分かることだろう。
「流石は蒼真、女の子を二人も助けるなんて、休みの日もヒーローしてんな」
「そんな立派なものじゃないよ。偶然通りかかっただけだし、龍一も一緒にいたから、何とかなっただけだ」
「でも、蒼真君が一人でも助けられたんでしょー?」
「うーん、まぁ、確かにあれくらいなら、木刀無しでも勝てるかな」
少しばかり聞き耳を立ててみれば、そんな会話の内容が届いた。
蒼真君が言った「勝てるかな」という言葉は、女の子を助けた実績があるので、勝とは比べも物にならないほどの説得力がある。
ちなみに、彼が木刀云々と言っていたのは、誰かさんのように護身用と言い張って木刀を持ち歩いているわけでは断じてなく、剣道部に所属しているからという真っ当な理由がある。通学鞄と一緒にいつも持っている竹刀袋には、素振り用の木刀も入っているらしい。
徒手空拳よりも木刀という武器を握った方が強いのは当たり前だが、それが全国大会の上位入賞確実、優勝さえ狙えるレベルの蒼真君であれば、その戦闘能力は圧倒的だ。オマケに、彼は幼馴染である天道龍一に付き合ってよく喧嘩沙汰に巻き込まれているようなので、リアルな実戦経験も豊富なのだった。
「ぐぬぬ……ま、まぁ、蒼真はかなり強い部類だし、不良四人組如きじゃ相手になんねーのは当然か。流石に俺も、まだアイツには敵わねぇしな」
「やめなよ勝、蒼真君と張り合うのは分が悪すぎる」
腕を組んで訳知り顔で頷く勝。ここらで突っ込んであげるのが友人としての役目だろう。
「羨ましいのは分かるけどさ」
再び目と耳を蒼真グループに向けると、実際に羨ましい状況が現在進行形で行われているようだった。
「もう、兄さんから目を離すとすぐにこれです、少しは自重してください」
「あはは、そんなに心配するなよ桜。俺は大丈夫だって」
蒼真を兄、と呼ぶその女子生徒は、彼と並んで白嶺学園では有名人である。それは単に同じ蒼真姓を持つ双子の兄妹だからではなく、妹である蒼真桜もまた、兄と同じように魅力に溢れる人物だからである。
艶やかな長い黒髪に、雪のような白い肌。彼女の身を包むセーラー服は、細身ながら出るところは出ているセクシーなラインを描いており、紺色のプリーツスカートからはスラリと長い足が伸びている。
頭は小さく輪郭は細く、顔を形成するパーツは神という名の職人が心血を注いで造り上げたかの如く精巧に整っている。特に、切れ長で大きな目の完成度は格別。その漆黒の瞳には魔性と呼ぶべき魅力が宿っていた。
優れているのは容姿だけではない。頭脳明晰、運動神経抜群と文武両道を地で行く。所属する弓道部では、剣道部の兄と同じように全国大会の常連となっている。
それでいて、自分の容姿や能力を鼻にかけることなく、同年代には優しく接し、目上の者には敬意を払って――そんな品行方正を絵に書いたような人物像だ。
彼女は正に学園のアイドルという呼び名こそ相応しい。男なら憧れないものはいない、理想の大和撫子なのである。
だが、蒼真桜に浮いた噂が入学以来一度もないのは、兄貴にべったりであるからだ。
「大体、兄さんはいつもそうやって――」
今、僕の目の前で兄に詰め寄る彼女の姿は、適切な男女の距離とは言いがたい密着スレスレの至近距離。ここだけ見ても、二人の距離が物理的にも心理的にも近いことを察するに余りある。パーソナルスペースとは、何だったのか。
「はぁ……」
そんなラブラブしているようにしか見えない美形兄妹の姿に、溜息を吐きながら視線を逸らすが、相変わらずその会話は耳に飛び込んでくる。
「――全く、少しは心配する私の身にもなってください」
「ごめんごめん、次からは気をつけるよ」
と、見れば普段から表情変化の激しい勝だが、いつにも増して、歯ぎしりの音が聞こえてきそうな嫉妬の顔芸を披露していた。
いや全く、あの蒼真桜に惚れるとは、勝も報われないな。恋の勝負が始まる前から敗北確定な友人に、僕はかける言葉が見つからない。
勝は入学当時、彼女に一目惚れしてしまった。けれど、その話を聞いて僕はとても笑うことはできなかった。なぜなら、蒼真桜の一目惚れ患者はあまりに多すぎるからである。故に、彼女を追いかけて弓道部へ入部する男子生徒が去年と今年で激増する現象が起こっており、その一因を成す弓道部員・斉藤勝のことも、やはり笑うことはできないのだった。
もっとも、今やすっかり幽霊部員だが。
諦めろ、と言うのは簡単だけど、そうもいかないのが人の心ってものか。
そんな達観したようでいて意味のない思考をしつつ、勝の視線を追いかけてみると、その先には兄に「ごめんごめん」と頭を撫でられて、頬を朱に染めて俯く妹、桜の姿があった。
やっぱり、諦めろって言った方がいいのかな。
美しき兄妹が織り成すあまりの桃色空間ぶりに、僕も残酷な現実を突きつける覚悟を決めかけた。
蒼真桜という女は危険だ。アレは数多の男の人生を狂わす。アンダーグラウンドで蒼真桜ファンクラブを名乗る輩がどうなろうと知ったことではないが、自分の友人がダークサイドに身を落とす危険性があると思えば、止めることもやぶさかではない。
「あーっ! 桜ちゃんだけズルいっ、ユウくん、私のことも撫でてよぉー」
だが、ここで兄妹の間に割って入る第三勢力が現れた。
酷く小柄な、身長百五十二センチの僕と比べても確実に小さいと言えるほどの、中学生にしか、いや、下手すれば小学生か、そんな一人の小さな少女が、キンキンとその姿に見合った甲高い声をあげながら、強引に蒼真悠斗の体へ飛びついていた。
まぁ、このタイミングで武力介入されるだろうことは何となく予測がついていたし、僕の可愛げのない猫目も冷めた視線を寄越してしまうというものだ。
「な、なんだよレイナ、しょうがないなぁ」
「えへへーもっと撫でてぇー」
「兄さん、あまりレイナを甘やかさないでください」
桜の小言を全く意に介さず、飼い犬のように蒼真悠斗から撫で回されて喜んでいる少女は、二人の幼馴染であるレイナ・アーデルハイド・綾瀬。
彼女はハーフだかクォーターだか、正確なところは知らないけど、苗字の通り、ともかく西洋人の血が流れており、やや日本人離れしたフランス人形のような顔立ちで、蒼真桜とはまた違ったタイプの美少女である。
頭の上で元気に揺れる金色のツインテールは完全に自前の色合いで、瞳が綺麗な空色をしているのも、決してカラーコンタクトを入れているからではない。
「くはー蒼真マジで許さん、俺もレイナたんを撫で撫でしたいよぉー」
「勝、お前は諦めろ」
ロリータ趣味の気質も見せる勝。お前は本当に、美少女なら誰でもいいのか。
しかしながら、レイナ・A・綾瀬に思いを寄せる勝をあまり変態呼ばわりすることもできない。これも蒼真桜と同じく、彼女の魅力にとり憑かれる男子が多数いるからだ。
確かに、その明るく元気な天真爛漫としたキャラクターに、男の庇護欲を堪らなくそそる小さく細い少女は、ロリコンではない僕をしても魅力的だと思える。
だからと言って、勝を応援する気持ちはこれっぽっちもないが。せめて本命をどっちか一人に絞る誠実ぶりを見せて欲しい。
そして、そんな嫉妬の炎に焼かれる僕の友人を他所に、蒼真悠斗は桜とレイナの両手に華の状態を満喫――いや、本人にとっては小うるさい妹と甘えたがりな幼馴染の板挟みで困っているのだろう。だが、結果としては極上の美少女二人にくっつかれ、おまけに心許せる仲の良い友人達に囲まれ、実に楽しそうに騒いでいる。ああいうのを正しい青春って言うのかな。
僕は蒼真桜に惚れてるわけでも、レイナ・A・綾瀬に思いを寄せているわけでもないが、今の蒼真悠斗のように男女問わず慕われている姿を見ると、少なからぬ劣等感を嫌でも覚えさせられる。
いや、やめよう、下らない考えだ。ヨソはヨソ、ウチはウチってね。
あれは特殊な例に過ぎない。同じクラスだから毎日あの薔薇色の仲良し空間を目の当たりにしているせいで、その特殊性を忘れそうになっているのだ。小学生の時も中学生の時も、ここまで圧倒的な優劣の差を感じさせるほどの存在はいなかったじゃないか。
僕にはちゃんとクラスに友人がいて、毎日下らない雑談をして笑って過ごせている。文芸部では部誌の締め切りに追われながら中二病要素満載のライトノベルを書くのも楽しい。自分の学生生活は、十二分に恵まれたものであると再認識すると、無意味で醜い劣等感はあっという間に霧散した。
もっとも、可愛い女の子と仲良くなりたいとは思うけど。それも、日本全国の大多数の男子学生が持ち得る悩みだと思えば、それほど苦しいものではなかった。
「ん、もうすぐチャイム鳴るね」
ふと、教室の壁掛け時計に目を向けてみれば、始業チャイムが鳴る一分前の時刻に針が差し掛かっていた。
チャイムが鳴る直前あたりに担任の教師が現れる場合もあるし、もう自分の席に戻ろうと立ち上がりかけたその時。ガラガラと盛大な音を立てながら教室のドアが開かれ、二つの人影が転がり込むように現れた。
「だぁー、そんな引っ張んなよ、涼子! 別にいいだろ、ちょっとくらい遅れたってよぉ」
「うるさい龍一、さっさと席に着く」
そんなやり取りをしながら、我が二年七組のクラス委員長である如月涼子は、天道龍一の腕を掴んで、肩口で切りそろえられた黒髪をなびかせドシドシと黒板の前を横切っていった。
女性としては高めの長身はスラリとスレンダーで、クールな目つきに縁無し眼鏡をかけたシャープな美貌の如月さんは、大柄な美男子である天道君と並んで全く見劣りしない。いや、むしろ彼女こそが、彼の隣に立つに相応しいと思えるほど。
「おはよう龍一、また委員長に捕まったのか」
「おう、残念ながらな。お陰で朝の一服を邪魔されたぜ」
爽やかな笑顔で挨拶をする蒼真君の台詞に、如何にも不機嫌ですと言わんばかりの渋面で天道君が応える。
「一服? なに、煙草持ってたの? 出しなさい、龍一」
「お、おい、待てって、この間にまた煙草値上がりしちまったし、まだ開けてないヤツをそのまま没収てのは勘弁――」
「はい、没収」
一箱ウン百円もする未開封の煙草が学ランの胸ポケットから、如月さんは白魚のような指先で軽やかに抜き去った。
抵抗虚しく嗜好品を強奪された天道君は、諦めきれないのか文句を垂れているが、如月さんは能面のように冷たい無表情で全く訴えを聞き入れていない。
くそ、今日はツイてねぇ、と不運を呪う彼を、幼馴染にして親友の蒼真君が慰めの言葉をかけていた。やはり、爽やか笑顔で。
「好きでやってるとはいえ、毎朝ご苦労なことだな、委員長も」
どこか呆れた口調で言う勝に、僕も頷いて同意を示すより他はない。
この始業チャイムギリギリに、生真面目なクラス委員長が最強不良生徒を引きずって教室に登場するのは、この二年七組ではほぼ毎朝見られる日常の一幕だ。何かとサボりがちな天道君を、どこからともなく如月さんが見つけ出し、強制的に出席をさせている。
本人は委員長の仕事で仕方なく世話を焼いていると言い張っているが、どう考えてもクラス委員長の仕事の領分を逸脱しているのは明白。だからこそ、彼女が『好きで』やっているというのは、本人のみが知らず、二年七組では公然の事実として受け入れられているのであった。
それはともかく、この世話焼き委員長が金髪の不良を伴って現れたことで、始業チャイムが鳴り響く前に、白嶺学園二年七組のクラス全員が、教室に集った。
再び時計に目をやると、ちょうど、長針がカチリと小さな機械的な音をたてて、チャイムが鳴るその時刻を示す。休みの日以外は毎日何度も耳にする、キンコンカンコンという学生なら誰もが聞きなれたメロディーはしかし――
ギ、ギギギッ、ギィイイイイイイっ!
そんな、不快な金属音のような音となって、教室中に鳴り響いた。
「うあっ!?」
思わず耳を塞いだのは、僕だけでなく教室にいる生徒が全員行った反射的な行動。女子の中には「きゃっ」と可愛らしい悲鳴をあげる者もちらほら。
たまに放送事故的に鳴り響くマイクのキィーンという音なのか――いや、それにしても、この響きはあまりにキツすぎる! くうっ、気持ち悪い……
この教室の外、三百六十度全方位から響き渡ってくる甲高い不協和音は、吐き気を催すほどの不快な音色。僕の短い十七年の人生の中にあって、ただの一度も聞いたことのない、腹の底から震え上がるようなおぞましい響き。
だが、実際に吐くことも体調を崩すこともない内に、ふいに音は鳴り止んだ。
今の音は一体なんだったんだ、そういうニュアンスの疑問を誰もが口々にし、教室はザワザワと声が飛び交い始めた。
その時、異変は再び起こる――ふっと、まるで蝋燭の灯りを吹き消すかのように、教室から全ての光が消えた。
「えっ、停電!?」
突然の暗転、一切の光を失い、目の前にいる太めの友人の顔すら見えない闇に包まれる。
停電、とは自分であげた台詞だが、この完全な闇に閉ざされた状況を鑑みて、即座に否定することとなる。
なぜなら、今は朝だから。時刻は八時四十五分。天気は昨日に引き続き、見事な秋晴れの空。夏のように窓こそ開けてはいないが、白いカーテンはかけられておらず、その大きな教室の窓から燦々と陽の光が差し込んでいたのだ。つい、二秒前までは。
それが、どうして、外まで真っ暗になってるんだ?
教室の中は、いよいよ騒然となった。飛び交う悲鳴は女子だけでなく、男子のものも混じっている。あるいは怒号か。
僕は第一声の他に言葉が続かない。それでも異常事態にあることを認識し、嫌な汗が頬を伝った。
「お、おい、小太郎、なんだよこれ、なんでこんな暗くなってんだ? ドッキリか?」
勝の声は明らかに不安で震えているが、それを指摘して馬鹿にできる余裕などない。僕だって同じビビりだ。
「わ、わかんないよ……けど、ドッキリってのはないんじゃないの」
実際に停電を起こすくらいなら、現実に起こりうる範囲。だがしかし、自然の陽光が差し込む窓を一瞬の内に全て抑えて、完全な暗闇を教室内に作り出す方法というのは思いつかない。すなわち、それは全く想定しえない異常である。
無論、その異常が何なのか、原因も解決法も分からない。分かるはずもない。この騒ぎようから、クラスメイトの誰かに心当たりがあるとも思えなかった。
いよいよ教室の中が恐慌状態に陥ろうかという時に、今度は不意に光が灯った。
天井に設置された蛍光灯が、スイッチを入れて当たり前に点灯したかのように、その人工的な白い光を放ち始めた。
「あ、電気ついた」
思わず、そんな間の抜けた台詞を口にしていた。
しかしながら、そのリアクションは他のクラスメイトも概ね同じようで、とりあえず教室内に光が満ちたことで暗闇の恐怖心を回復し、そこそこに落ち着いた様子が見て取れた。
だが、どうやら全ての異常はまだ終わったわけではなさそうだった。
「おい、窓の外、見てみろよ!」
その言葉は誰のものだったか判然としないが、その声がなくとも、すぐに異変に気づくことができただろう。
「真っ暗、だね」
そうだな、と勝が応える。廊下側の席に集っている僕らは、他のクラスメイトと同じように、ただ何もない真っ黒い闇の空間を映し出す窓を呆然と眺めていた。
「なんだよ、何も見えねーぞ」
「窓開けてみっか?」
「馬鹿、やめとけって、なんかヤバそうじゃん」
窓際に陣取る男子の一団がそんなやり取りをしている。窓は開けないべき、というのは恐らくクラスの総意ではあっただろう。
教室の窓は黒一色のペンキに塗られたように、全く、何も、一切のものを映していなかった。
そのはっきりと分かりづらくはあるが、確かな異常を認識しはじめたクラスは、再び不安に駆られてざわつき始める。
雑多な声が満ち始める教室内――だが、その喧騒に混じって、何だ、この音……そうだ、チャイムや校内放送を流すスピーカーから、砂嵐のような音が流れ始めている!
一度そうと気づけば、そのザーザーという雑音ははっきりと聞き取れた。いや、音が次第に大きくなってるんだ。
「みんな、ちょっと静かにしてくれ、校内放送が流れている!」
その一声だけで教室を鎮めたのは、僕ではなく、蒼真悠斗であった。どうやら彼も僕と同じく、スピーカーから流れ出る音を耳ざとく察知したようだ。
もっとも、彼の右肩には美しい妹が寄り添い、左腕には可愛い幼馴染が抱きついており、太めの友人が傍にいるだけの僕と比べて随分と恵まれた環境であった。
ともあれ、彼の呼びかけによって、クラスメイトはみなスピーカーから流れる音に気づき、何か案内の放送が流れるのではないかという一縷の希望に縋って、耳をそばだて始めた。
シンと静まり返る教室、流れる音は相変わらず砂嵐のようにザーザーという雑音だったが、そこに混じって、かすかに人の声らしき音が聞こえ始めた。
「たし……こ……るか……」
何を言っているのか分からないが、それでも間違いなく人の声であることがはっきりと認識できた。ラジオのチューニングが合うように、少しずつ、だが確実に、その音声はクリアになっていった。
「私の声が、聞こえるか?」
男性教師のものだろうか。低めだが、穏やかな声音がはっきりスピーカーから響いた。
聞こえるか、と問われても、それに返事をする者は勿論いない。みな一様に押し黙って、男の声に耳を傾け続けた。
「よろしい、どうやら声は問題なく、聞こえているようだ」
まるでこちらの状況を見ているかのような台詞だ。けど、それで何か言うほど僕は空気の読めない男ではない。
「まず、落ち着いて聞いて欲しい。君達は今、とても危険な状況に陥っている。それも、常識的に考えられる、地震や嵐などといった自然災害の類ではない」
動揺が僅かなざわめきとなって教室内を駆け巡る。
性質の悪いドッキリではないと否定した僕としても、改めて異常事態であることを宣言されたことで、言い知れぬ不安感と緊張感に襲われる。鳥肌が立って、身震いした。
「君達は現在、地球の日本という場所から、全く別の場所、異なる世界へと飛ばされている途中にある」
「は?」
思わずそんな声が漏れた。だが、そのリアクションはまだ可愛いほうで、教室のざわめきはどんどん大きくなっている。
「魔法の存在しない世界に住む君達にとって、私の言葉は俄かには信じがたいだろう。しかし、今はとにかく時間がないのだ。危険な場所へ放り出される前に、私の指示をよく聞いて欲しい」
え、ちょっと、どんどん話がきな臭い方向に進んでいるぞ……
緊張で早鐘のように鼓動を鳴らしながら、全身に嫌な予感全開で震えが走る。
異なる世界? 魔法? 危険な場所? どれも日常からかけ離れた単語。普通に考えれば、学校が謎のレクリエーションでも突発的に行ったと思うだろう。けど避難訓練にしたって、もう少し現実的な原因を説明するはずだ。
しかし、窓の外に広がる漆黒の闇を目にすれば、今が日常からかけ離れた、何が起こるかわからない異常事態であるということを、嫌でも認識させられる。
この荒唐無稽な説明を、笑い飛ばすことなど誰にもできなかった。
「君達は恐らく、紙とペンを持っているはずだ。まずはここに描かれた模様、魔法陣と呪文を書き記してもらいたい」
その言葉に、誰もが一様にハテナマークを頭に浮かべる。この男が喋っているのは、スピーカーの向こう側、魔法のある世界の人物らしいので、果たしてマイクを通して喋っているのかどうかは不明だが、それでも、何らかの視覚的な情報を伝える手段はない。
だが、その疑問は即座に解消される。と同時に、僕を含めた二年七組の四十一人は、今この瞬間に、魔法の存在を目の前で証明されることとなった。
「うわっ、勝手に描かれてる……」
クラス全員の目は、学園生活において最も長い時間眺めることになるだろう黒板へと向けられている。
そこには、黒板特有の暗緑色の表面に白いラインが独りでに踊っているのだ。
誰かがチョークを使っているわけでもない。そもそも描かれつつあるラインは、ぼんやりと淡い光を放っていて、ブラウン管でも液晶画面でもない、ただの黒板に光りが宿っているというのは、如何にも魔法的であった。
誰もが言葉をなくして、ただ呆然と黒板を見ていただけだが、一分もしない内に魔法の板書は終わりを迎えた。
「さぁ、この魔法陣と呪文を書き記すのだ。これさえあれば、君達がどこへ行っても、私たちからの支援を受けることができる。使用法は三分後に説明する。今は正確にこの魔法陣と呪文を書き記すことに集中するといい」
そうして、スピーカーからの声は途絶えた。
「みんな、一旦席について、指示の通りノートにメモしよう」
どうするこうする、と考える間もなく、蒼真悠斗の落ち着いた声が響く。
いざ、こうして不可思議な現象を目の当たりにすれば、この謎の声の説明に対する信憑性は格段に高まる。変に勘繰って何もしないよりも、大人しく指示に従った方が良さそうである。
特に誰が反発することもなく、素早く座席につき、鞄から次々にノートを取り出して板書をする生徒達の姿は、如何にも迅速な集団行動に慣れた日本の学生らしい。勿論、僕もその一人。
そうして、定期テストでも受けている時と、全く同じ静寂が教室内を支配した。
僕は廊下側最後列の自分の席で、注意深く黒板に描かれた白い魔法の図形と文字を見ながら、まっさらなノートにペンを走らせた。
そこまで複雑な図形じゃないから、書き損じる事はなさそうだ。呪文とやらも、ご丁寧に日本語で書かれている。
黒板の中央に大きく描かれているのは、円を基本にしたシンプルな魔法陣であった。中心には十字のような図形が描かれ、その四方と円の内周と外周に沿うように、アルファベットのような文字が連なっている。勿論、僕にはこの魔法陣に見覚えなどなかった。
一方、呪文と思われる日本語の一文は、
『天上の神々よ、我を助け導く、奇跡の力を授け給え。ここに天命を果たすことを誓う』
という、どう見ても神様に助けを求める他力本願な文面である。しかも中々の達筆。
ちなみに、全ての漢字にフリガナなど振っていないが、これらの漢字が読めない生徒は、進学校と名高い私立白嶺学園の生徒にはいないだろう。
そうして、さっさと魔法陣と呪文を書き終えた僕は、キャンパスノートを鞄へと仕舞いこんだ。
謎の男の放送は未だ再開されない。もう一分くらいは余裕があるのだろうかと、視線を時計に向けたが、針は八時四十五分を刺したまま止まっていた。かといって、わざわざ携帯を開いて時間を確認する気にもならない。ここは静かに待とう。
しかし、いざ何もせずに黙っていると、意識は自然と教室内に向けられる。どうやら、みんなもほとんど書き終わったみたいだ。
多くはすでに板書を終えて、ノートに向かっている姿は見えず、ひそひそと近くの者と会話をしたり、中にはスマホで黒板の写真を撮っているヤツもちらほら。
携帯電話を手にしたことで、当然通話も試みたようだが、画面には全て圏外のアイコンが示されていたことを、飛び交う会話から判明した。僕も一応、携帯を確認してみたが、やはり同様であった。ちなみにスマホではなく、ガラケーである。貧乏学生なので。
しかし、これは異世界ってのも、いよいよ信憑性を帯びてきた。
どんどん胸中で膨らんでいく不安を抑えながら、携帯を鞄の奥底へと仕舞いこんだ。どうせ誰かからかかってくることはないのだから、電源はオフにした。
その時、足元に白く小さいものが転がってきた。僕の上履きに当たって動きを止めたソレは、黒白青のストライプが描かれたスリーブの、自分も使っているメーカーの消しゴムであった。
隣の席からの落し物だろう。それ以上は何も考えず、反射的に消しゴムを拾い上げた。
「これ、双葉さんの?」
「あ、あ、ありがとう、桃川君」
やけに動揺した様子で落し物を受け取ったのは、隣の席に座る女子生徒、双葉芽衣子であった。
彼女はこの二年七組において『目立つ』という意味では、蒼真桜やレイナ・A・綾瀬と並ぶ存在感を誇るだろう。それは美しさからくる雰囲気的なものではない。もっと、こう、質量的な意味で。
双葉芽衣子は体の大きな少女であった。縦にも横にも、である。
今、僕から消しゴムを受け取った双葉さんであるが、すでにしてその大きさは頭一つ分近く高い。僕の身長が百五十二センチであることを思えば、彼女の身長は百八十に届かんばかりのものである。
その上、斉藤勝に匹敵するほど横幅が広いのだから、小さくヒョロい僕と並べば縮尺を間違えたかと思えるほどの差があった。
ふわっとしたセミロングの髪、体型に見合った丸顔に眉尻の下がった柔和な目、その容姿から何となく牛を想像してしまう。顔立ち自体は、それなりに可愛いんじゃないかと思う。
だがなにより、その肉付き以上に豊かに実った胸元も、乳を搾るほうの牛を連想させる一因になっていた。いざ目の前でセーラー服の胸元がパツパツになっているのを見ると、その巨大さを実感する。僕の頭くらいあるんじゃなかろうか――正直、かなりドキっとする。男はおっぱいには弱いのだ。特に僕のような、大きければ大きいほど良いという思想の持ち主ならば。
そんな不純な感想を振り払うように、僕はそれとなく視線を逸らす。それくらいの慎みはあるよ。この双葉芽衣子という女子生徒とは、席が隣同士のクラスメイトという以上の付き合いはないし。思えば、こうして消しゴムを拾った今この時が、初めて言葉を交わしたくらいだ。
彼女に対して思うところは胸以外には特にないのだが、いつだったかクラスメイトの女子が双葉芽衣子を指して「ブタバ」だとか、酷い仇名で呼んでいたのを聞いた事で、女って恐ろしいと思うと同時に、少しばかりの同情心というのを勝手ながら持ちえていた。
ともかく、そんな僅かながらの哀れみの思いもあったからか、僕は双葉さんの机の上に広げられているノートに、歪な魔法陣が幾度も消されては書き直されているのを見た瞬間に、思わず口を開いていた。
「あの、魔法陣、描けてないの?」
「えっ、あ……うん」
丸くはあるが、どこか愛嬌のある顔が悲しげに歪む。実際、その円らな瞳には薄っすらと涙が滲んでいた。
あえて追求するまでもなく、今の状況に混乱するやら怯えるやらの感情がない混ぜになって、平静を保てていないだろうことは明らかであった。体は僕の倍あっても、その心は年頃の少女のものであることに変わりはない。
彼女が不器用なこともあるかもしれないが、それでも黒板に描かれた見慣れぬ魔法陣を正確に書き記すことができないほどには動揺しているのだと察せられる。
「これ、あげる」
僕は鞄から再びノートを取り出すや、すでに魔法陣と呪文を書き記したページを破りとって、双葉さんへと差し出した。
「え、あの、これって」
「何が起こるかわかんないし、持ってた方がいいよ」
彼女の丸い目がパッチリと大きく開かれて、呆然としている。けど、問答している時間もない。双葉さんの机へ切り取った一ページを置くと、即座に自分の分の板書を再開した。
「あ、ありがとう、桃川君!」
座ったままだが、深々と礼をして謝意を示す双葉さん「うん」と、ペンを走らせたまま素っ気無い返答。女の子から素直に感謝されれば、悪い気はしない、というより、やや気恥ずかしい。
彼女の声が体格に見合わず随分と可愛らしいものであったことと、その太い胴回りがあっても尚、圧倒的に存在を主張する大きな乳が頭を下げた拍子にブルンと魅惑的に弾んだことも、僕の照れに拍車をかけた。
「さて、時間だ。まだ書き終えていない者がいれば、そのまま続けていても構わない。ただ、これからの説明は聞き逃さないよう注意して欲しい」
そうして放送が再開されると同時に、なんとか二度目の板書を書き終えた。あぶねー、ギリギリだったよ。
「この魔法陣の使い方は簡単だ。自分の手のひらを描いた魔法陣の上に重ねて、そのまま呪文を口にすればよい。今この場で試しても魔法が発動することはない。君達が完全にこちらの世界へと到着してから、初めて使用できるようになる」
すでに気の早い何人かが魔法陣に手を置いていたが、その注意によって、ちょっと恥ずかしげにノートを畳み込むのだった。
「この魔法を使えば、魔法陣の書かれた紙に、我々からの情報を文面で受け取ることができる。メールのようなもの、と言えば分かりやすいだろうか」
電話ではなくメール、ということは、直接的に音声での指示はできないということか。魔法といっても、万能ではなさそうだ。
「基本的には、指示に従って進めば上手く脱出できるだろう。しかし、君達を保護できる安全な場所へたどり着くまでには、恐らく幾多の困難が待ち構えている。その最たるものは『魔物』と呼ばれる敵の存在だ。だが安心するといい、すでにして君達は異世界の住人となる。故に、元の世界ではありえない力を得ることが出来る。魔法もその内の一つと言える。その力を駆使すれば、必ずや魔物を倒し、危機を脱することが出来るだろう」
そんな男の力強い言葉に、男子生徒の何人かが「おお、なんかRPGみたいで面白そうじゃん」と呑気にも浮かれている。
いやいや、そんなの無理ゲーだろどう考えても、力を使えなければ、死ぬってことじゃないか。
男の言葉は、魔物という人間を害する存在と必ずや遭遇する危険を暗示している。ただでさえ、見知らぬ土地でサバイバルしなければいけないのだ。その上、アクティブに人間を襲うモンスターなんてのがいれば……冗談じゃない。
これは、ゲームなんかじゃない。この先に自分達が向かうのは異世界であって、未だ実現していないバーチャルリアリティの世界では断じてないのだ。
攻撃するにはボタンを押してコマンドを選べば、自動的に繰り出されるはずもない。実際に動かすのは自分の意志であり、己の肉体である。
いくら力を得られると聞いても、そのパワーを実戦で百パーセント発揮できる保証もない。まして魔物という恐ろしげな存在を目の当たりにすれば、恐怖で動けなくなる可能性の方が高い。特に僕のようなビビりなら、尚更だ。
現実世界では、人を殴った喧嘩の経験すら、幼い小学校低学年の時期が最後だ。つい昨日では不良四人組を前に恐怖で震え上がったくらいだ。そもそも魔物どころか、本気になった野良猫一匹にさえ負ける自信が僕にはある。
だがしかし、これから先には、この戦いというものを、どうにも回避することができないものであるらしい。
やばい、僕、死ぬかも……
きっと、今の僕は顔面蒼白で、これ以上ないほど情けない表情をしているだろう。事実、人目がなければ泣き喚きたい。
でも、どうやらその思いを抱いているのは僕だけでなくらしい。気の弱い女子生徒がすでにすんすんと鼻を鳴らして泣き始めていた。その中には、隣の席で巨体を震わせている双葉芽衣子も含まれている。
「さて、いよいよ時間がなくなってきた。このまま君達がいる部屋に留まり続けるのは危険だ。自分の荷物を持って、旅立つ準備をしなさい」
男の言葉は、容赦なく事態の進展を語る。
こうなっては、いつまでも悲観してはいられない。震えだしそうな体をなけなしの気合で制御して、とりあえず行動を始める。魔法陣ノートを仕舞い込んだ通学鞄を手にした瞬間、気が付いた。
これからサバイバルにモンスターバトルしようってのに、教科書なんていらないだろう。
紙は貴重な火種になるかもしれないが、それだけの理由でこんな重いモノを持ち歩くのは気が引ける。魔物から逃げる時だって、身軽な方がいいだろう。
ただし、魔法陣や呪文の存在がすでに明らかになっている以上、情報を書き記すノートには利用価値がありそうだ。重荷にならないよう、ここは……よし、二冊だけを鞄に残そう。
ふと周囲を見れば、男が言う「旅立つ準備」をクラスメイトは始めている。
僕は文芸部なので、蒼真悠斗が持っている竹刀袋やら、妹の弓やら、野球部が持ち込んでいたバットやら、部活関係の荷物は一切ない。
くそ、格闘系の部活のヤツは有利だな。内心で毒づく。
徒手空拳よりは木刀やバットがあった方が心強いし、まして弓ならば遠距離から安全に攻撃できる。おまけに、毎日部活で練習しているので、彼らはそれを使いこなす技量をすでに持っているのだ。これは素人と比べれば圧倒的なアドバンテージである。
しかし、だからと言ってこの場で蒼真君から竹刀袋を強奪するわけにもいかない。恐らく、僕と同じようなことに気づいているヤツはすでに何人かいるだろう。
天道龍一ほどあからさまな不良行為は働いていないが、何かと悪ぶる不良モドキのような生徒の樋口恭弥という男子生徒など、明らかに恨めしげな目つきで蒼真兄妹の方を睨みつけていている。まぁ、蒼真君相手に実際に襲うはずないだろうけど。
樋口恭弥はそこそこ身長も体格も良いほうだが、それだけで蒼真悠斗を腕力でねじ伏せるのは不可能だろう。
あんなDQNのことはさて置いて、ここは大人しく、着いた先で蒼真君とか天道君に守ってもらった方が懸命だろう。そのためには、変に彼らの、引いてはクラスの和を乱すような真似は避けるべきである。
そんなことを考えながら、僕は教室の後ろの棚にあるジャージの入った袋を回収した。これからサバイバル生活するかもしれないんだし、衣服はもう一着あった方がいいだろう。
通学鞄は教科書&資料集という最大のデッドウェイトを捨てたお蔭で、十分な空きが確保できている。そのまま袋ごとジャージを詰め込む。
そんな僕の行動を見てなのか、他の生徒も追従するようにジャージを持ち出していった。しかし、ジャージに加えて半袖半ズボンなサッカーのユニフォームとかは、果たして必要なのだろうか。
「これより、外へ出るための扉を開く。こちらが合図したら、この部屋を出て行きたまえ」
クラスが準備にざわめいている中で、男の放送が響くと同時に、教室の前後のドアがガラリと音を立てて開け放たれた。無論、それは自動ドアのように、誰が触れることもなく勝手に開いたのであった。
スライドした扉の先には、見慣れた学校の廊下はそこになく、窓の外と同じように一寸先も見えない闇が広がっている。廊下側最後尾席、つまり、後ろのドアに最も近い僕としては、その闇の深さを誰よりも間近で覗き込む位置に立つことに。
うわぁ……これに飛び込んで大丈夫なのか? せめてソレっぽく光の魔法陣とか描いてよ。
魔法陣云々はともかく、このあまりに不気味な闇に一抹の不安を覚えたのは、クラスメイト全員の共通認識のようである。
呆然と扉の外を眺めるだけで、率先して飛び込もうという勇気と無謀を併せ持つ者は誰もいなかった。
「なぁ、これ、ホントに入って大丈夫なのか?」
そう言って、後ろの出口に最も近い位置に立つ僕を心配してか、勝が話しかけてきた。
今やすっかり帰宅部の勝は僕と同じく通学鞄とジャージだが、その鞄には護身用の木刀が入っているだろう。まさか本当に小太刀二刀流が役に立つ時が来るとは……という突っ込みを飲み込んで、とりあえず目の前の不安要素である出口を再び覗き込んだ。
「うん、やっぱ何も見えない。あんまり飛び込んでみたくはないな」
そんな感想を伝えると同時。
「さぁ、急いで扉の前へ整列するんだ。もう崩壊が始まるが、決して慌てぬように、こちらの合図を待て」
不穏な内容の男の説明が響いた。
ほ、崩壊ってなんぞ……と思った瞬間、窓側の席に陣取っている生徒、男子も女子も関係なしに悲鳴が上がった。
「きゃあああああぁ! 崩れてる、何か崩れてるって!?」
「ヤベぇ! これマジでヤベぇよ!」
崩壊、とはまさにその通り。見れば、窓や壁、そして床に黒々としたヒビが入り、それが砕けて外の闇に飲み込まれていったのだ。窓のある壁は、瞬く間に崩れ去って行き、白いカーテンがバサバサとはためきながら、深淵の彼方へと消え去っていくのが妙に印象的に見えた。
ついに目に見える危険が発生したことで、不安と緊張が燻り始めていた教室が、一気にパニック状態となった。
特に窓際に近い生徒達は、我先にと廊下側への逃走を始める。
「くそっ、どけよデブっ!」
耳に、そんな一際大きな怒号が聞こえた。
窓側に近い席だった樋口恭弥が鬼のような形相でこっちを目指して駆け出しており、彼の前に立ちはだかる、いや、ただその危機を前に硬直してしまっただけだろう――ともかく、双葉芽衣子の巨体がそこにあったのだ。
樋口は双葉さんをゴミでも見るかのような目つきで、完全にただの障害物である彼女を勢いよく突き飛ばした。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴が聞こえると共に、彼女の体が一歩二歩と後ずさる。
彼女の立ち居地は、僕の席の隣。つまり、すぐ目の前である。そのまま後ろに下がってしまえば――
「えっ」
僕は迫り来る双葉さんの背中を前に、小学生の頃、交通安全教室で見た、十トントラックがダミー人形をブッ飛ばす、交通事故の恐ろしさを表現する映像が脳裏によぎった。
頭の中にはそれだけで、僕は突然のことに反応することができなかった。
ただ、自分目掛けて凄い勢いで突き出される大きなお尻がスローモーションのように見えただけ。
「ふぎゃっ!」
尻尾を踏みつけられた猫のように悲痛な悲鳴を挙げて、僕はあっけなく双葉さんの巨尻に吹っ飛ばされた。
「あっ、小太郎!?」
驚く友人の声が、やけに遠く聞こえる。そしてそれが、教室で聞いた最後の声だった。
僕の目には、凄まじい勢いで遠ざかっていく教室の光る出口が映る。それはあっという間に光の点となって、完全な暗闇に閉ざされる。
何も見えない、何も聞こえない。何も感じない。完全無欠の静寂の中で、僕はついに、自分の意識さえ、見失った。
2016年7月7日
第一章完結までは、毎日更新します。それでは、明日もお楽しみに。