第275話 崩壊(1)
気が付けば、日が暮れていた。
塔を脱出し、俺達は無我夢中で森の中を逃げ回った。みんなで上手く逃げられたのは、幸いだと言うべきなのだろうか。
念のために二階の窓など、塔からの脱出路をあらかじめ決めておいて良かった。速やかに脱することができ、俺が広間でザガンの相手をしていたのも、ごく短時間で済んだ。僅かな間でも、奴の力を嫌と言うほど実感させられた。
それから、逃げるにあたっては、奴らの目を欺く煙幕も役に立った。
煙玉、と呼んでいた、桃川の作ったアイテムだ。ヤマタノオロチ戦では必要のないものだったが、これから先、長い脱出行をするにあたって、モンスターから逃げたりすることもあるだろうと。そう言って、アイツはこういう物もコツコツ作っていた。
そんな地道な努力さえも、俺達を欺くための演技だったのだろう。
けれど、アイツが作った煙玉の性能は本物だ。投げれば、濛々と白い煙が立ち込め視界を塞ぐ。
スムーズに塔から脱出し、奴らの追撃を早々にまけたのは、煙玉のお陰と言ってもよい。
そうしてゴーマの追手を振り切り、さらに日の高い内は少しでも奴らから離れるために移動を続け————最終的に辿り着いたのは、切り立った崖に開いた洞窟である。
ここは崖や急斜面の目立つ険しい山で、洞窟はそこかしこに、不自然なほどに多く見受けられた。俺達はその中の一つに身を潜めて、今日はここで夜を明かすことにした。
「お腹空いたね。早くご飯作らなきゃ」
双葉さんの能天気な声が洞窟に虚しく響く。今だけは、心を失い、現状を認識できない彼女のことが羨ましかった。
「あの、蒼真君……」
「すまない、姫野さん。双葉さんのこと、頼めるかな」
「分かったよ。どっちにしろ、夕飯は作らないといけないもんね」
あはは、と苦笑いと言うにも苦しい表情で、姫野さんは「なににしようかなぁ」とつぶやく双葉さんの手を取って、俺達から離れていった。
幸い、この洞窟は広い。少し離れたところで、火を起こして食材を調理するくらいのことはできるだろう。
「あっ、わ、私、外を見張って来るね!」
「そうね、頼むわ、美波。食事が出来たら連絡するから、それまではお願い」
「うん、任せてよ」
夏川さんが見張り役を買って出てくれて、そこで始めて見張りの必要性に気づくなんて。どうかしている。ダメだ、とてもマトモに考えられない。今の俺は、冷静なフリをしているに過ぎない。
苦しい。耐えられない。どうにかなってしまいそうだ。
「……う、うぅ……」
暗い沈黙に満ちる洞窟に、小さなうめき声が上がった。
「ジュリ! 起きたの? しっかりして!」
「芳崎さん、あまり刺激しないように。野々宮さん、大丈夫ですか? 私のことが、分かりますか?」
洞窟の床に敷いた寝袋、その上に寝かせているのは重傷を負った野々宮さんだ。
目を覚ました彼女を、真っ先に芳崎さんが覗き込み、次いで桜が優しく声をかけている。
両腕を失い、胸に深い傷を負った彼女は、とても自力で歩くことはできない。ここまで背負ってなんとか連れてくることはできたが……
「い、痛い……痛い、よ……」
「おい、蒼真! 早く治癒魔法かけろよ!」
「もう、出来る限りの治癒はかけました。血は止まり、傷口も塞がっています。これ以上は、私にはどうしようもありません」
聞くに堪えない。
取り乱す芳崎さんの気持ちも、どれだけ治癒魔法をかけても、完全に治し切ることができないと悟ってしまった桜の気持ちも。どれほど辛く、苦しいか。
そして、どんなに痛ましい思いを彼女たちが抱いたところで、俺にはどうすることもできない。
そうだ、俺がどうにかできる段階を、とっくに過ぎてしまっているから。
「……マリ、いるの……?」
「いるよ、ジュリ! 私はここにいる!」
「なんか、寒い、ね……ねぇ、マリ、手ぇ、握ってよ……」
「あっ、あ、あぁ……」
虚ろな目で、うわ言の様に野々宮さんがつぶやく。手を握って欲しいと、あまりにも悲しく、残酷なお願いだ。
芳崎さんには、手を握る、そんな簡単なお願いも叶えてあげることはできない。
だって彼女の両手は、どこにもないのだから。
「芳崎さん、肩に手を。彼女に、触れてあげてください」
「あ、ああ……ジュリ、私だよ、分かるか?」
桜の助言に従って、芳崎さんはボロボロと涙を零しながら、そっと優しく野々宮さんの肩に手を触れた。
「寒い……はぁ、寒いよ……パパ、ママ、どこにいるの……ここ、暗くて、寒いの……」
「ジュリ! そんな、やだ、しっかりしてよ!」
必死の叫び。けれど、どれだけ叫んでも、野々宮さんに声が届くことはないだろう。
彼女の暗い瞳には、目の前にいる友人の顔さえ、もう映ってはいない。
「……ジュリ? ねぇ、やだよ、こんなの、目ぇ覚ましてよ」
「芳崎さん、残念ながら、野々宮さんはもう————」
「うるせぇ! 嘘だ、嘘だこんなのっ! だって、こんな……ジュリ、いやぁあああああっ!」
そうして、しばらく芳崎さんは泣いていた。痛ましい姿の友人に縋り付いて。
どうしようもなかった。桜の治癒魔法をどれだけ重ねても、手の施しようがない致命傷だったのだ。
本当は、最初から分かりきっていた。助からないと、一目で理解できた。
今の今まで野々宮さんが死ななかったのは、天職『騎士』だからこそ。その高い生命力が、かえって余計に彼女の最期を苦しませてしまったのかもしれない。
だからといって、楽にしてやると、介錯なんて誰ができる? ああ、桃川、お前ならそんなことも出来るのかもしれないな。
「野々宮さんを、静かに寝かせてあげましょう。芳崎さん、こっちへ」
「うっ、うぅ……」
涙が枯れ果てるほどに泣く芳崎さんの肩を桜が抱いて、ゆっくりと、この場を離れていった。
「山田君、中嶋君、野々宮さんを向こうへ運ぶのを手伝って貰えるかしら。明日、夜が明けたら埋葬するわ」
「おう、そうだな」
「わ、分かったよ、委員長」
山田と中嶋の二人の手で、野々宮さんの遺体は搬送された。委員長の言う通り、こんな夜中に墓穴を掘るわけにもいかないだろう。
それから、すぐに三人が戻り、もう少しすると、桜も戻ってきた。
重い、あまりにも重すぎる沈黙がこの場を支配する。
誰も、何も言えない。何を言う。何が言える。大切な仲間が、死んだばかりのこんな時に。
「……みんな、聞いてちょうだい。この洞窟も、決して安全とは言えないわ」
ああ、委員長、流石だよ。やっぱり、最初に口を開いたのは彼女だ。
そして、それを言い出したからには、俺もいい加減、現実と向き合わなくてはいけないだろう。
「ああ、そうだな……これからどうするか、考えなければいけないな」
「どうするって何だよ」
棘のある言い方をしたのは、上田だった。
「どうなるって言うんだよ……中井、死んだんだぞ……下川も、いなくなっちまった」
野々宮さんの悲痛な最期を見届けたばかり。それでも、みんなに看取られて逝けた彼女はまだ幸せだった。
ザガンの一撃で体が真っ二つになった中井、彼の遺体を回収できる余裕など、あの時にあるはずもない。まず間違いなく、彼の死体はゴーマ達によって食われることになるだろう。
生きながら食われるよりも、苦しむことなく即死できただけマシだった。そうでも思わなければ、やっていられない。
「……俺、明日、下川探しに行くわ」
「おい、上田、無茶なことは言うな。俺達は今、ゴーマによって追い詰められているんだ」
「うるせぇな、探すんだよ! 下川はまだ生きてんだ! そうだよ、アイツ、たまに抜けてるとこあるからよぉ、ちょっとはぐれちまっただけなんだ」
「上田君、お願いよ。一人で探しに出ていくような真似だけはしないでちょうだい。これ以上、もう一人も死なせるわけにはいかないわ」
今までだって、そう思ってきたさ。
宏樹が死んだ時も、レイナの死を目の当たりにした時も。それでも、と乗り越えたつもりだった。
ああ、そうだ、きっと所詮は「つもり」に過ぎなかったんだ。あの二人の死は、全て俺がいなかったせいで起ったことだから。
けれど今回は違う。俺はその場にいたのに。目の前に、いたというのに————俺は、守れなかったのだ。
俺のせいで、二人死んだ。もう、桃川のせいにもできはしない。
「探そうぜ、なぁ、みんなでよぉ……下川はまだ生きてるんだ、仲間を見捨てたりしないよな?」
「……残念だけど、下川君の生存は絶望的よ。たとえ生きて逃げ延びていたとしても、今の私達にすぐに彼を捜索できる余力はない。上田君、本当は貴方だって分かっているでしょう」
いっそ冷酷とも言えるような委員長の言葉に、上田は眉を吊り上げて怒りの表情を浮かべたが……何かを叫ぼうとして、けれど、ついに怒声が出ることはなかった。
「ちくしょう……なんで、なんでこんなことになったんだよ……」
委員長の言う通り、上田も本当は、ちゃんと現実を認識していた。現実逃避で怒り散らすこともできず、ただ、二人もの友人を僅か一日で失うという、残酷すぎる事実に打ちのめされるしかない。
その場に座り込んで、すすり泣きを始めた上田に、誰もかける言葉は見つからなかった。
「上田君、辛いなら、貴方ももう休んだ方がいいわ」
「いい、俺のことは気にすんな……話、続けてくれよ」
そう答えられた上田は、男としての意地を張った、といったところだろう。
虚勢だろうがなんだろうが、今はそうしてもらえる方がありがたい。どうであれ、今の俺達にはただ仲間を失ったことを悲しんでいるだけの余裕すらないのだから。
「ひとまず、奴らから身を隠せる場所を見つけないと」
「ええ。幸い、このエリアは広大だわ。まだ遠くへ逃げられるわね」
寝床も確保できなければ、戦わずして野垂れ死ぬだけだ。拠点はなんとしても必要となる。
それに、食料の問題も。今はまだ保存食をそれぞれが持っているので、何日かは持つ。水魔術師である下川はいないが、水を出すマジックアイテムは用意してある。飲み水に困ることはない。
「食料がある内に、隠れ家を探さないといけないな」
「今は、それしかないわね」
反対意見は出ない。こんな状況下では、仇を討つべきだ、と後先考えずに叫べる奴はいないだろう。
俺達はあのヤマタノオロチを倒して、ここまで来た。自信があった。もうどんなダンジョンの魔物にも負けたりはしないと。みんなで力を合わせれば、乗り越えられると。
だが、一瞬で二人失った。下川も含めれば三人だ。
俺達は成す術もなく、三人もの仲間を失ってしまった。上田の気持ちは、俺にだって痛いほどよく分かる。つい昨日までは、当たり前のように一緒にいたというのに。
そうして、きっと俺達は思い出したんだ。ここはダンジョン。常に死の危険が隣り合わせの地獄のような場所だと。
それは、純粋な恐怖。自分も、大切な仲間達も、みんな死んでしまうのではないかという、シンプルにして絶対的な恐怖である。
だが、その恐怖に屈するわけにはいかない。目の前の過酷な現実を受け入れ、今どうするかを考えなければならない。俺達はまだ生きている。絶対に、生き残ってみせる。
「なぁ、悠斗。あの巨大化したゴーヴのことだが」
明日那が俺に問いかけてきた。きっと、他のみんなも気にはなっていることだろう。
仲間を殺した張本人。恐ろしく強力なゴーマの力を。
「ザガンだ」
「なんだと?」
「ギラ・ゴグマのザガン、とアイツは名乗っていた」
恐らく、普段はゴーヴの姿だが、ゴグマを超える巨大化能力を持つ奴のことを『ギラ・ゴグマ』と呼ぶ。
ゴグマはそれだけで大勢のゴーマを率いる力を持つ上位の魔物だ。それのさらに上となれば、ゴーマの軍勢でも最高位か、それに近い身分であろう。
ならば『ザガン』という個人名を持っていてもおかしくない。
もしかすれば、ゴーマにも普通に名前があるのかもしれないが。それでも、アイツは自らをザガンと名乗るだけの立場にある特別な奴だというのは間違いない。
「俺一人では、アイツを倒せそうにない。四本腕のゴグマを遥かに上回る強さだった。それも、ただデカくて力強いだけじゃない。確かな剣術の腕もある」
「ならば、再びそのザガンが襲って来れば」
「全員で挑めば倒せる目はあるだろう。だが、アイツはボス部屋にいるボスモンスターじゃない。襲ってくるなら、また大勢を率いてくるはずだ」
「ザガンとゴーマの軍勢、どちらにも備えなければならない、ということか……」
今の俺達には、とても無理な戦い方だ。多勢に無勢と言うしかない。
あるいは、初めて遭遇したあの時が、ザガンだけを分断して倒す好機だったかもしれないな。
いいや、どちらにせよ、あのまま戦ってもさらなる犠牲を重ねなければ、倒すまでには至らないだろう。
「強くなるしかない。生き残るためには、もっと強くなるしかないんだ」
俺達はもう充分強いと思っていたが、足りなかった。
俺にもっと力があれば、こんなことにはならなかった。弱いから負けた。単純な結論だ。
「もしかすれば、ギラ・ゴグマはあのザガンだけじゃないかもしれないんだ。あんな奴が二体も三体も現れれば、今の俺達じゃ成す術もなく蹂躙される」
「そうね、ゴーマ王国の戦力はまだまだ未知数。ザガン以上に強いゴーマがいる可能性だってあるわ。もし、本当にこの最下層からの逃げ道が一つもないなら……私達が強くなって、突破するしか方法はない」
「……過酷な道、だな。ヤマタノオロチを倒すよりも、厳しい戦いになるだろう」
明日那の言う通りだ。最大の試練を越えたと思ったら、さらに大きな試練が待ち構えているだけだった。
けれど、諦めるわけにはいかない。こんなところで死ぬために、今までダンジョンを乗り越えてきたわけじゃないんだ。
「とにかく、今はゴーマから逃げ延びること。それができなければ、最下層からの逃げ道を探すにしても、強くなるために戦うのもままならない。明日も襲撃に備えて、長く移動することになりそうね。見張りの順番を決めて、早く休んだ方がいいわ」
素晴らしい打開策など思いつくわけもなく、俺達は委員長が言った通り、明日に備えて体を休めることしかできない。
実際、今日はもう休もう、眠ってもいいんだ、と思った途端に、疲労感が押し寄せてきた感じだ。それと同時に、空腹感も。
「腹、減ったな」
「うん、そりゃあ、朝から何も食べないままだったからね」
飯、まだかな、なんてつぶやく山田に心底同意する。中嶋の言う通り、食事どころじゃなかったからな。
ああ、せめて朝食を済ませてから襲ってきてくれれば、まだもう少しマシだったろうに、なんてことを考えた、その時であった。
「きゃあああああああああああああああああああああっ!」
洞窟の奥から、悲鳴が響いた。小鳥遊さんのものだ。
「まさか、敵襲か!?」
そこは双葉さんが料理の準備をして、それから、桜が泣き崩れる芳崎さんを連れていった場所だ。外から侵入されるような地形にはなっていないはずだが……もしかすれば、洞窟に潜んでいた魔物かもしれない。
なんにせよ、俺は途切れた緊張の糸を再び結び直し、すぐさま立ち上がって駆け出した。
頼む、間に合ってくれと、そう一心に願って、ごく短い距離を一瞬で駆け抜けた。
「どうした、何があったんだ!」
剣を手に彼女たちの元へ飛び込む。
ざっと見た限り……敵影はない。
悲鳴をあげた張本人の小鳥遊さんは、桜に抱き着いている。そのすぐ傍らには、目を真っ赤に張らした芳崎さんがいて、少し離れて、石で組んだ簡易の竈の前でぼんやりと立つ双葉さんと、姫野さんがいた。
俺の視界に入った限りで、敵の姿はないし、これといった異常も見当たらない。
「本当に、どうしたんだ? まさか、虫が出たとかじゃあないだろうな」
「兄さん……姫野さんを、よく見てください」
「なに?」
彼女がどうかしたのか。いや、どうかしたのだろう。実際、ここにいる彼女達の視線は全て、姫野さんへと向けられていた。
そこまで認識して、俺はようやく姫野さんへと注視し、
「えっ、なんだ、それは……角、なのか?」
「ち、違う! これは違うの、蒼真君!」
必死の表情でそう叫ぶ姫野さんだが、彼女の頭からは、確かに角が生えていた。
額の辺りから、鬼のような、二本の角が。




