第266話 呪術師VS食人鬼(1)
「す、すまねぇ、桃川……もう、限界だ……」
葉山君が倒れた。
どうしようもない、ということを嫌でも理解してしまう。僕にも、魔力枯渇でぶっ倒れた経験があるからね。アレはマジで気合や根性でどうにかなるようなものじゃない。
最後に一言発せられただけ、葉山君は頑張った方である。
「プガァアアアアアアアッ!」
「ウォオオオオオオオオン!」
霊獣化した時と同じ輝きを放ちながら、キナコとベニヲの体が急速に縮んで行く。
あっという間に元の姿へと戻り、そして、ご主人様と同じくその場にばったりと倒れ込んだ。
恐らく、霊獣自身にも相応の負荷がかかっているのだろう。効果時間が過ぎれば、問答無用で倒れてしまう諸刃の剣といったところか。
「フゥ……フゥ……ブフッ、ぶふふふぅ、倒れやがったかぁ、この根性ナシ共がぁ」
霊獣の猛攻を受け散々に血濡れとなった横道は、けれどいまだ健在の巨躯を振るわせて笑った。
片眼が潰れ、牙がへし折られ、デカい鼻も半分が引き裂かれた巨大な豚面が大口を開くと、舌先にいる横道が顔を出して僕を見下ろした。
「これでぇ、やっと邪魔者がいなくなった……二人っきりだよぉ、小太郎きゅん」
まずい、倒し切れなかった。絶対行けると思ったのに。
いくら満身創痍でも、完全変態横道を倒すだけの攻撃力が僕にはない。グレネード一発ぶち込んだくらいでは、倒れてはくれないだろう。
ど、どうする……最後の手段、『痛み返し』のカウンター戦法を使うか。上手い具合に怪我を返せれば、横道は倒れ、僕は治療して復活できる。
いや無理だ。一口で食い殺される自信がある。
よし、逃げよう。
「や、やっと……やっとぉ、食えっ————ぇええがぁああああああああああっ!」
僕へと向けて一歩を踏み出したその時だ。
踏み出した豚足の蹄が割れ、さらに大きく裂傷が走って行き鮮血が噴き出る。
そこから体勢が崩れ、巨躯が傾く。
すると、その拍子に腹が破れた。バリバリと皮が裂かれる音を立てながら、深々とキナコが刻み込んでいた爪痕から、一挙に血肉が溢れ出ていく。
「んぎぃいぁああああっ!? ぼぉえええええええぇ————」
きっと、横道の肉体もとっくに限界を超えていたんだ。
そこから、もう体中から次々と血飛沫が上がり、苦痛の絶叫を上げて怪物の巨体はついに地面へと横倒しになった。
夥しい量の血を流し、大きく避けた傷跡からはドロドロと内臓が零れ落ちてゆく。
醜悪な豚面が血涙と鼻血を噴き上げながらも、大きく開いた口の中から、滝のような吐血と共に、横道が吐き出された。
赤黒い舌の肉片を纏わりつかせた横道が、元の人間の体となって、自らが作った血の海へ落ちる。
「んぐぅ、ううぅ……い、痛ってぇ……俺の、最強ボディがぁ……」
うめき声を上げながら、よろよろと横道は立ち上がる。赤黒い血肉に塗れたその姿は、怪物の腹から生み落とされたばかりの忌み子のようにも見えた。
「へ、へへっ、けど、生きてる……生きてるぞぉ、俺はぁ……生きてさえいりゃあ、まだ食えるぅ、まだまだ、食えるんだよぉ!」
横道が吠える。
『完全変態』の肉体は完全に崩壊したが、それでもまだ、本体には獲物に喰らい付くだけの力は残っているようだ。
けど、ここまで削りに削って力の大半を失った今なら、残った僕だけでも倒し切れる!
「行けぇ! ロイロプス!」
「ブルゥウォオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
唸りを上げるロイロプスが、全速力で横道へと突進してゆく。通常の人間サイズに戻った今なら、その体当たりは強烈な破壊力となって襲い掛かる。
「ふんっ! ぬぅうおああああああああああああああああああっ!」
しかし、人型に戻っても尚、横道の人外パワーは尽きない。
真正面から突進を受け止めた。ズルズルと押されてゆくが、それでも、見事に衝突を受け切っている。
力の秘密は、やはり腹の中にまだ多少の獲物が残されているのだろう。横道は肩と脇腹から、野太い人間の腕を生やした6本腕と化して、ロイロプスを止めたのだった。
「レムっ!」
返事の代わりに、鋭く風を切る音が響く。
黒角弓より放たれた矢が、真っ直ぐに横道へと疾走し————今度こそ、その体へと矢じりを突き立てる。
「うがぁあっ!? 舐めんなぁ、今更、矢ぁ如きが効くと思ってんのかぁ!」
二射、三射、と続けて剛弓から放たれる矢を、横道は受け切った。6本の腕を盾の様に翳して、その肉体に矢が突き刺さっても倒れる様子はない。
ちいっ、弓矢だけじゃ倒し切れないか。
それなら、倒せるだけの攻撃を叩き込んでやる。
「俺は諦めねぇ……絶対ぇ、諦めねぇからなぁ……最後の力と根性振り絞ってぇ、俺は小太郎きゅんを喰うんだぁ!」
叫ぶ横道の体が、さらなる変化を始める。
おいおい、勘弁してくれよ、まだ変形できるほどの力が残されているのかよ。
メキメキと音を立てて、生やした6本腕に毛皮や甲殻が形成されてゆく。それらは長い爪が生えたり、蜘蛛足みたいなのに変化したりもする。
さらに、頭からはウゾウゾとあのミミズ触手が生え出し、メデューサ頭みたいになった。
そして極めつけは、何故いまだに残っているのか不明なブリーフから、でっかい紫色の蛇が這い出て来た。おい、その蛇はどこが変形したやつなんだよ。
最後の最後までおぞましさ極まる変化を見せる横道を前に、僕は改めて決断を下した。
「倒すのは無理だ。撤退するぞ」
僕は迷わず、取り出した煙幕を最後の変身を果たした横道へと投げつけるのだった。
「————チイッ、また煙かよぉ」
濛々と煙る煙幕を前に、横道はギラついた目つきで周囲を見渡す。
「絶対に逃がさねぇ……」
あれほど広がっていた感覚が、今は酷く鈍い。まるで、昔の自分に戻ったかのようだ。
遠くまで見通す鷹のような視力に、獲物を追う鋭い嗅覚。小さな足音を聞き逃さない聴覚に、敏感に空気の流れすら感じとる触覚。さらには、人間の五感にはない、熱源感知や超音波探知なども、今の横道は持っていた。
けれど、半身形態を丸ごと切り離し、さらには『完全変態』も崩れ去った今となっては、横道を支える数多の『捕食スキル』は失われた。あれだけ喰らいに喰らって獲物を溜め込んでいた『底無胃袋』の中身が尽きかけている。
食わなければ。すぐに食わなければ。
失ったモノが多すぎるが故に、感じる空腹は『食人鬼』と化してより最大級。
足りない。肉が足りない。血が足りない。魔力も、生命力も、力も、何もかもが足りていない。
気が狂いそうなほどの飢餓感を覚えながらも、横道は歓喜にも似た気持ちが湧いてくるのは、ようやく追い詰めた極上の獲物がすぐそこにいるから。
桃川小太郎。
あの血を味わった瞬間、世界が変わった。
これまでの価値観を全てぶち壊すほどの衝撃。人生で起こる、全ての幸せを足してもまるで及ばない程の快楽。
そう、それは正に、運命と呼ぶより他はない。
だから、探した。ずっと探し求めていた。
他の獲物など、所詮はただ生きるために食つなぐだけの餌。小太郎の味に比べれば、どんな血肉も無味乾燥に過ぎる。
「食わせろぉ……喰わせろよぉ……」
失いすぎた能力と、鈍りきった感覚の中にあっても、横道はかすかな魔力の気配をたどって進む。
小太郎は、遠くへ逃げてはいない。
この教会のような建物、その中にある妖精広場へ向かっていったということは分かっている。
ならば、もう逃げ場はない。確実に追い詰めた。
シャァアアアアアアアアアアアアアアッ!
確信をもって歩みを進める最中、唸りを上げて赤色のラプターが煙の中から襲い掛かってきた。
見覚えのある奴だ。ついさっきも見た奴。
小太郎が騎乗していた赤いラプター。恐らくは召喚獣とか、そういう類のものだろう。
「無駄な抵抗ってぇ、こういうことを言うんだよなぁ」
高速で振るわれるノコギリ状の尻尾を受け止め、続いて繰り出される爪も牙も、全て防ぐ。
いくら力を失おうとも、今更、この程度の相手に後れを取るほど弱ってはいない。
「退けよぉ、俺ぁ腹が減ってんだよぉおおお!」
六本腕でタコ殴り。バキバキに鱗を砕き、尻尾を掴んで放り投げる。
トドメを刺しに行く余裕はない。殺せる力はあるが、小太郎を喰う以外のことに気持ちを向けられない。
そうだ、彼を前にすれば、どんなことだって後回しになる。
「ふぅ……ぶふぅ……やっとぉ、追い詰めたぜぇ……」
煙幕を抜けると、ちょうどそこは教会の中になっていた。
エントランスホールのような広間で、奥には妖精広場が続いているのが見えるが、横道にはそんな光景は目に入らない。
欲に濁った瞳に映るのは、たった一人の少年の姿だけ。
「来いよ、横道」
ホールのど真ん中。見逃しようがない。桃川小太郎は、正々堂々と一騎討ちを望むかのように、ただ一本の剣を握りしめて、そこに立っていた。
「んぁあああー、嬉しいなぁ、小太郎きゅんの方から誘ってくれるなんてぇ!」
飢えた体に活力が漲ってくる。
ああ、堪らない。その目に映る、君の全てが愛おしい。
サラサラと流れる艶やかな黒髪。猫のような目をした中性的な美貌は、性別の概念を超越した美しさを秘めている。
小さく細い体は、大人でも子供でもない奇跡の瞬間を、永遠に形にしたようだ。
それでいて、学ランの襟から覗く白く細い首筋を見るだけで、生唾を飲み込むほどにそそられて仕方がない。
ドクンドクンと脈打つほどの激しい血流が、股間から生やした自慢の大蛇に流れ込んでいくのを感じた。
「もう、我慢できねぇ……」
クラスで見た時はただのチビだとしか思っていなかったけれど、今はこんなにも魅力的に映る。
神々しいほどに美しい少年は、その血肉がどんな美食にも勝る極上の快楽を味わわせてくれることを知っていれば、我慢などできるはずもない。耐える必要もない。
あの血の味を知ったその時から、自分はただ、桃川小太郎を食べるためだけに生きてきたのだから。
「いぃっ、たっだっきまぁああああああああああああああああああああああっ!」
無数の歯と牙、そして大きな鋏角の生える横道の口は、獲物を貪り喰らう『オオアギト』として小太郎の体に牙を剥く。
それだけではない。頭から生やした最後のワームヘッドも、一滴でも血を啜らんと湧き立ち、股間の大蛇は今にも破裂しそうなほどに猛り狂っている。
逃がさない。誰にも渡さない。独占欲にも似た感情が、6本腕で華奢な体を全力で抱きしめる。
ただ真っ直ぐ剣を構えた小太郎にそのまま抱き着いたせいで、その切っ先はぶっすりと自分の胴を貫いたが、たかが剣の一突きなど、もう気にもならない。
小太郎を喰った。
その事実に比べれば、他のあらゆることは些細な————
「————ぁああ?」
最初に感じたのは、味。
なんだこれは。まるで、味のしない、そもそも食い物でもない物体を食べてしまったかのような味わい。子供の頃、プラスチックの玩具の料理を本気で食べようとして口に入れた時のことを、不意に横道は思い出してしまった。
本物……だったはずだ。
囮の偽物は、事前に見ていた。見た目も匂いも本物だが、魔力の気配が薄いから本物ではない。本人の魔力を多少割いて形作られた分身のような存在だと、理解している。
だから、ここに立つ小太郎の魔力の気配、その濃さから本物だと断定した。囮の分身にはない、確かな魔力量を感じさせられた。
「ち、違う……コレはっ、小太郎きゅんじゃないぃいいいいいいいいいいっ!?」
これも、偽物だ。小太郎という極上の料理を、精巧に再現しきった食品サンプルのような存在。
どれだけソックリでも、中身は別物。食い物ですらない異物。
その異物は、ドロリと溶けるようにして、化けの皮が剥がれていった。
「誰だよテメぇはぁあああああああああっ!」
黒髪黒目の少年の顔が溶け落ちると、その向こうからは人形めいた銀髪と青い目の子供が現れる。
人形。そう、コイツは人形だ。人間によく似てはいるが、決して人間じゃない、ただの作り物。紛い物。
「レム、よくやった————」
今度こそ、本物。本物の桃川小太郎。
彼は、広間のそこら辺に転がっていた大きな箱————宝箱の中から、姿を現した。
隠れていたのだ。偽物と本物が並べば、必ず見分けがついてしまう。
だから、本物は宝箱に隠れた。古代の遺物をそのまま現代にまで保存する優れた容器は、外部からのあらゆる探知力をも阻害する。宝箱の中にあるものは、匂いも、魔力も、決して漏れはしない。
「————『黒髪縛り』」
本物の小太郎が唱えた瞬間、ジャラジャラと幾つもの鎖が蛇のように一斉に動き出し、偽物の人形に喰らい付いた横道を縛る。
『黒髪縛り』という技は、最初にダンジョンで出会った時に見ている。黒い髪の束を自在に動かし、相手を縛り上げる呪術。
本物の髪の毛のような繊維だから、容易く燃えるし、引き千切れる。とるにたらない拘束技。
しかし、横道を今まさに縛り上げるのは、頑強な鉄の鎖。それだけではない、厚い革ベルトのようなものや、丈夫に編み込まれた縄まで、あらゆる紐状のモノが横道の体を縛り上げる。
当然、その動く秘密は、『黒髪縛り』。
自在に操れる黒髪を鎖やベルトに絡みつかせることで、それらも一緒に動かしているのだ。黒髪触手そのものが耐久性に乏しいならば、本物の物質で補えばいい。
よく見れば、この広間には不自然過ぎるほどに物が散らかりすぎている。慌てて逃げ込んできたとしても、荷物の中身をわざわざ床にぶちまける必要性などない。
縛られた今だからこそ、ここにわざとらしいほどに、鎖やベルト、縄の類がまとまって転がっていたことに気づかされる。
だが、多少の不自然さがあったとしても、小太郎という極上の獲物を追い詰め、自らもまた力を失い飢え切った状態で、それを見抜けというのも無理な話だ。
故に、まんまと横道は捕まった。猪突猛進するだけの、獣のようにあっけなく。
「これで終わりだ、横道————転移魔法陣起動」
白く輝く光に包まれて、自分が立っていた場所が転移魔法陣の上だったことに、横道はようやく気付くのだった。




