第261話 愛を叫ぶケダモノ
「よ、横道……」
水槽の向こう側にいたのは、横道一だった。
その醜悪な面と体型は、そうそう見違えることはない。ないのだが、脳が理解を拒むのか、僕は一瞬マジで呆然となってしまったよ。
まず、この凍てつく湖の底にいるという、ありえない出現場所。そして何より、ブヨブヨのたるんだ裸体を恥ずかしげもなく晒し出していること。
お前、服はどうした。前はちゃんと着てただろ。湖で泳いでいるから脱いでる、なんて常識的な脱衣理由ではなさそうだと、僕は何となく思ってしまった。
「ぼぉおはははぁ! やっとぉ……やっと会えだぁ、小太郎きゅーん!」
「うわぁっ!?」
水槽の向こう側の水中にいるにも関わらず、何故かはっきりと聞こえてくるおぞましい叫びと共に、横道の顔面がベタァ! っと水槽にぶつかってくる。
半端に長い髪が、海藻みたいにユラユラと漂う。濁った眼で、黄ばんだ歯を剥き出しにして、横道は満面の笑みを張りつかせていた。こんなおぞましい笑顔を、人間が浮かべられるのか。
ただのガラス張りではない。そんなに簡単に破れるはずがない、と思っていてもつい悲鳴を上げてしまうほどの迫力がそこにはあった。
「お、おい、嘘だろ、ホントにコイツ、横道なのか……?」
「どうすんだ小太郎、横道はヤバいぞ!」
「わ、分かってる」
こんなおぞましい存在がクラスメイトだと信じられないのか、それとも同じ人類だと思いたくないのか、物凄く引きつった表情で横道を見る葉山君。
一方、杏子は前に遭遇したことがあるので、奴の危険性はすでに理解している。
人喰いの化け物と化している横道は、このダンジョンにおいて最も危険なモンスターと言ってもいいだろう。何といっても、コイツは僕を狙っているのだ。
そして最悪なことに、横道の能力は魔物を喰らって取り込む強力なスキル持ちであること。杏子が遭遇した時点では、天道君が楽勝で撃退できる程度だったようだけれど……あれから、どれだけの魔物を喰らってきたのだろうか。
少なくとも、今の横道はマイナス突破の超冷水の湖に潜っていても余裕な氷耐性と水中行動能力を獲得している。このエリアに住む数多の氷属性モンスターを喰らったことは間違いない。
「どうする、撃つか!?」
「待って、杏子、今の横道を相手にするのは分が悪い」
奴の危険度は未知数。メイちゃんに蒼真君と、エース級戦力を欠いた今の僕らがゴリ押しで挑むには危険が過ぎる。
ああ、ちくしょう、よりによって僕がクラスメイトからはぐれた時に遭遇するなんて。学園塔生活の時に現れてくれれば、クラス一丸となって討伐できたってのに。
これも女神エルシオンの操作が働いた結果なのか。クソ邪神め。いつかルインヒルデ様のお力を借りて、エロ同人みたいな目にあわせてやるぞ。
「ここは一旦、退こう」
「お、おう」
「ウチも賛成」
幸い、目の前に現れはしたものの、分厚い水槽越しに隔てられている。このまま逃げることはできそ————
「んんぅー、好きぃ、だいしゅきぃー、愛じでるぅううううううううう!」
ガツンッ! と横道の顔が水槽に叩き付けられる。
最低に気持ち悪い叫び声をあげながら、横道はヘッドバンキングのように顔を水槽にガッツンガッツンぶつける。
ま、まさか、そんなのでこの水槽、破れたりしないよな?
「トゥルーラァーブ! スウィートラァーヴ!」
狂ったように打ち付けられる頭。水中でありながら、凄まじい速さで頭を振っているせいで、気づくのが遅れた。
奴の顔が、変化していることに。
口が裂けている。裂けた頬からは不揃いの牙が覗き、さらには、もみあげの辺りから大きな鋏角が生え出していた。人と獣と虫、全てを合わせたような口元は凶悪そのもので、ガチガチと顎を鳴らす。
そんな異形の大顎が、水槽に叩き付けられ————ビシリ、とついに悲鳴を上げた。
「まずい、破られるっ!?」
「んぁああああああああ! 愛がぁ、止まらないぃいいいいいいいいいい!」
バギィンッ!
高らかに広間に響き渡る、破砕の音。
ついに水槽は砕け、横道の顔がこちら側へと突き出る。ザァザァと湖からの浸水と共に、横道は突っ込んだ顔を僕に向けながら、鼻の穴を大きく開いて息を吸い込む。
「すふぅーん……に、匂うぅ、小太郎きゅんの豊潤な香りぃ……ああ、今、俺達は同じ空気を吸っているんだねぇ」
「杏子、撃てぇ!」
「キモいんだよ、このクソブタ野郎ぉ!」
構えたロックブラスターから、上級攻撃魔法『破岩長槍』がぶっ放された。
頼む、その気色悪い面を吹っ飛ばしてくれ!
「ギィイイイッ! ギギギ……危ねぇじゃないかよぉ、蘭堂ぉ」
「うっそ、アイツ止めやがった!?」
射出された大きな岩の槍を、横道は真正面から口で止めた。歯と牙と、鋏角によって鋭い先端をガッチリと挟み込み、喉を貫くよりも前に止めきったのだ。
そして、ギチギチと音を鳴らしながら鋏角がさらに引き絞られ————岩の穂先は噛み砕かれた。
なんて顎の力だ。いや、あの速さの攻撃を止めた、動体視力と正確な動作も脅威的である。
「なぁーんか、邪魔くせぇのが色々といるなぁ? この俺と小太郎きゅんの純愛を邪魔しようってんなら……先に、食っちまうとするか」
ゴーマよりも醜悪に顔を歪ませて笑う横道が、大きく口を開く。大きく、本当に大きく、顎が外れたのかというほどぽっかりと大きく口腔を広げ、その奥から、何かが飛び出してくる。
「くそっ、また舌を伸ばす技————」
ソレが横道の口から飛び出してきた時、僕はあの長く伸びる舌による攻撃だと思った。
けれど、直後にそうではないと見せつけられる。カエルの魔物を食って得たらしい伸びる舌は気持ち悪い技ではあったが、今、僕が見ているのはそれを遥かに超えるおぞましさだ。
「シャァアアア……」
「ギシギシギシ」
「シギャァアア!」
それは、ミミズの化け物だった。それぞれエイリアンみたいなうめき声を上げて、スパイク状の牙が並ぶ丸い口から涎を垂らしている。
直径は30センチほど。長さは何メートルまで伸びてくるかは分からない。そんな大蛇のようなサイズのミミズが、横道の大口から3、4、5……マジかよコイツ、何本出せるんだよ!
「煙幕を張る、逃げろ!」
横道から吐き出されるおぞましいワームモンスターが、鎌首をもたげて飛び掛かって来そうな寸前に、僕はエアランチャーをぶっ放す。
炸裂した雛菊式煙幕は瞬時に濛々と白い煙を噴き上げて、視界を閉ざしてゆく。ボス部屋らしい大きな広間に、煙幕はあっという間に充満してゆく。
しかし、あのミミズ触手が視覚に頼って獲物を探すとは思えないが。でも横道自身の視界を閉ざせるだけでも、今は意味があると思いたい。
「喰らいやがれ、『岩砲』ぉ!」
僕が煙幕を張るのと同時に、蘭堂さんが範囲攻撃魔法をショットガンの如く放つ。
煙の向こう側で、ギィイイイ! というミミズの叫びと肉を引き裂くような音が聞こえたことから、ある程度は命中して、牽制にはなった。
こういう時、咄嗟で一撃を放てるところが、蘭堂さんと葉山君の戦闘経験の差だろう。
そんな葉山君ではあるけれど、ちゃんと素早く逃走の体勢に入っているので、行動力としては十分だ。
すでにボス部屋入口の方まで駆け寄っており、先にキナコを通しているところであった。
「桃川、蘭堂、急げ!」
「大丈夫だ、葉山君は先に————」
と、逃げられるだけの余裕はあると思っていた。
けれど、僕は直後に後悔することになる。もっと早く、もっと素早く、この場を離脱するべきだったのだと。
「————葉山君、避けて!」
煙る白煙の向こうから、涎をしたたらせたミミズ頭が飛び出してきた。それは、ちょうど葉山君のすぐ傍。なんでそんなところから、位置的にわざわざ回り込む様な奴が出てくるんだ。
背筋が凍る。と同時に、自分の迂闊さも呪う。
煙幕で視界を塞ぐべきじゃなかったとか、ミミズの数が見た以上に出ていたとか、奴らは恐らく自立行動で音に反応して敵を探すのだろうとか。
だが、全てが遅きに失する。
葉山君が振り向くと同時に、ミミズは大口を開けて飛び掛かっていたのだから。
ブヂィイ————
食い千切る音だ。肉も骨も諸共に。
おぞましいミミズの丸い口が食い千切ったのは、その瞬間、葉山君が咄嗟の防衛反応でかざした、右腕だった。
二の腕の半ばまで、ミミズに飲み込まれた。そこで、ミミズはあの円形に並んだ牙で噛み砕く。あっけないほどに、片腕がとれる。
腕から迸る血飛沫と、新鮮な肉を喰らってミミズの口元が大きく蠢動するところが、やけにゆっくりに見えた。
「えっ……あ、あぁ……うわぁあああああああああああああっ!?」
葉山君の悲痛な絶叫が響き渡る。
腕を一本、失ったのだ。ショックで叫ぶくらいはする。
けれど、それで相手が落ち着くまで待ってくれるはずもない。この煙幕の向こう側で、一体どれほどのミミズ触手が蠢いているのか、考えたくもないほどだ。
「レム、葉山君を抱えて行け! 杏子は入口を閉ざして!」
「もうみんな出たよな!? 『岩石大盾』っ!」
黒騎士レムが泣き叫ぶ葉山君を抱えて走り、僕が入口を駆け抜けると共に、杏子が防御魔法を発動。突き立つ岩の壁が入口を遮断する。
分厚い石壁の向こう側から、ガリガリと幾つもの音が鳴る。奴らが獲物を探し求めて牙を立てているのだろう。
けど、唯一の出入り口を封鎖したことで、今度こそ多少の時間が稼げる。稼げますように、と祈りながら、僕らは急いで来た道を戻り始めた。
「小太郎、このまま真っ直ぐ広場まで戻るのか!?」
「待って、葉山君の腕は止血だけはしておかないと、手遅れになる」
ボス部屋施設の入り口まで戻ってきたところで、一旦、止まる。ここで応急処置だけは済ませておきたい。
本物のポーションがあれば、と思ってしまう。アレなら、患部にかけるだけですぐに出血も止められただろう。流石に腕が生えてくるとは思えないけれど。
なんにせよ、ない物ねだりをしても仕方がない。ボス部屋から通路まで運んできた間だけでも、すでに結構な出血量だ。床には鮮血の跡がドロドロと続いている。
「急げよ小太郎、壁はそんなにもたねーぞ」
「分かってる。レム、そのまま葉山君をこっちに運んできて」
「プガガ! プガァ!」
「おい、キナコ、やめなって。心配なのは分かるけど、今は小太郎に任せな」
蘭堂さんが、荒ぶるキナコを止めてくれる。言葉が通じているのか、それとも気持ちを察しているのか。キナコはとても不安な様子でオロオロしながらも、黙って僕の行動を許してくれた。
「黒髪縛り」
止血の基本は縛ること。これは、指が落ちようが、腕がなくなろうが同じこと。
縛るだけなら、紐を探すよりも、黒髪でやった方が手っ取り早い。
「少しは傷口、塞がってくれよ」
それから、取り出したリポーションを半分ほど、切断面に振りかける。
下川の努力の結晶である劣化ポーションを復活させたリポーションは、本物には性能こそ劣るものの、治癒効果はちゃんとある。ヤマタノオロチ討伐戦でも活躍したからね。
ひとまず、今すぐこの場でできる応急処置はこんなもんだろう。
葉山君をちゃんと治療するには、妖精広場まで戻るべきだ。横道がいなくても、外には血の匂いに惹かれてモンスターがいつ現れるか分かったものじゃない。
「なぁ、桃川……俺、死ぬのか……」
「しっかりして、人間は腕一本無くなったくらいじゃ死なないよ。いいから、右腕は心臓よりも高い位置に上げてるんだ」
涙と鼻水でグシャグシャになった葉山君が弱音を吐くけれど、僕は強く言い聞かせる。腕を食い千切られたショックで半ばパニック状態なのだ。はっきりと命令するくらいの方が、今は伝わるはず。
「葉山君、かなり揺れると思うけど、我慢してね」
「ちくしょう、桃川ぁ……俺にまだ我慢させようってのかよぉ……」
「自分で歩いて広場まで帰れる?」
「む、無理ぃ……」
そんなやり取りをしながら、葉山君をロイロプスの背中に乗せた。乗せたというか、括りつけたというか。
片腕を失う重傷の葉山君を安全かつ迅速に搬送するには、背中の上に寝っ転がって乗せられるロイロプスの大きな体がこの中では最適だ。
「それじゃあ、行くぞ!」
「ちょっと待って」
と、止めはしたものの、これ以上ここで立ち止まっているのは危険だ。次の瞬間には、横道が湖からキモいことを叫びながら飛び出してきてもおかしくないのだから。
しかし、このまま妖精広場まで撤退したところで、事態が解決するワケでもない。
葉山君の治療に専念はできるが、横道は健在だ。アイツは野良モンスターではなく、一応まだクラスメイトの人間扱いではあるはず。つまり、妖精広場には普通に立ち入ることができるのだ。
それに、横道にはそれなり以上の追跡能力もあると思われる。どれだけモンスターを喰らったのかは知らないが、その中に嗅覚に優れる奴の一体や二体はいるだろう。犬並みの嗅覚を獲得しているだけで、ここから妖精広場まで僕らを追跡することは簡単だ。血の匂いプンプンだしね。
さらには、他の探知能力や移動強化なんかの力まで持っていれば、最悪、撤退途中に追いつかれるだろう。
ここで出会った以上、やはり横道からは逃げられない。
いや、あの妖精広場には転移魔法陣があるから、逃げることもできなくはないが……あの転移の行き先は、ランダム設定だ。それも、ダンジョン内でのフルランダムではなく、確実に魔力環境濃度2以下、つまり序盤から中盤あたりのエリアに限定されている。
僕が転移魔法陣を解読した限りでは、そういう転移設定となっていた。
安易にこれを使って逃げれば、折角、山越えをしてダンジョンをショートカットしたのが無駄になる。ここから戻されたりすれば、もう完全にみんなに追いつける可能性は潰えてしまう。
「……横道を、なんとかここで始末する」
どの道、アイツは僕を追いかけ続けるだろう。かなりの魔物を食ったと思われる横道は、どっか適当なところで野良モンスターに負けて死ぬ、というのも考えにくい。あるいは、クソ女神エルシオンの導きで、僕の元に送り付けられることだって、ありえなくはない。
横道は倒しておかなければならない。僕を食い殺したいだけの対話不能な怪物が相手では、交渉の余地すらありはしないのだから。
「おい小太郎、マジで横道と戦うのかよ?」
「やれるだけやる。でも本当にダメな時は転移使ってでも逃げるから」
よし、覚悟は決まった。横道討伐戦、やってやる。
 




