第22話 勇気と狂気
私は一体、何をしているんだろう。
「わぁあああああっ!」
無様な泣き声を上げながら、私はダンジョンの通路を駆ける。ドスドスと重たい体を揺らしながら。
「グェラァーっ!」
背後から、ゴーマの汚いダミ声が響いてくる。
私は今、逃げている。一人で。そう、命の恩人で、唯一の仲間で、あの、小さく可愛らしいクラスメイト、桃川小太郎を置き去りにして。
「はっ……はっ……あぁ……」
助けないと。今からでもいい。すぐに戻って助けないと――そう、彼がいないと気が付いてから思い続けていても、私の体は行動を拒絶する。足は止まるどころか、ますます加速。一歩でも早く、より遠くへ、決死の逃避。
最低だ。恩を仇で返す。私は、人として最低のことをしている。
桃川くんを見捨てて、一瞬たりとも助けに動こうともせずに、一目散に逃走を図って……今も、ずっと走り続ける私は、どうしようもない人間だった。
彼の安否が心配で、胸が張り裂けそう。あまりの自己嫌悪で、心が潰れてしまいそう。目から止めどなく涙が溢れてくるのは、追われている恐怖だけが全てじゃない。
それでも、私の体はどこまでも生存本能だけを優先させる。こうして自分の行いを省みる理性はただ、頭の中に存在するというだけで、体を動かす精神との接続はバッサリと切れてしまっているようだった。
私の体を支配するのは、どこまでも純粋な恐怖のみ。
それを弱い私の意志だけで覆すことができないということは……これまでの経験で、嫌というほどに証明されている。
そうだ。所詮、私は臆病な豚だったんだ。如月さんに、夏川さんに、佐藤さんに、見捨てられるのは当然のこと。いくら優しい桃川くんだって、もう、一人で逃げ出した私を恨んでいるに違いない。
ああ、呪術師の桃川くんなら、こんな私を呪ってくれるだろうか。それなら、呪い殺して欲しい。ゴーマに刺されるくらいなら、彼の呪いで報いを受けて死んでしまいたい――
「――あっ!?」
とりとめない罪悪感だけが巡る意識が、不意に現実へと戻される。体に感じたのは、一瞬の浮遊感。そして、直後に訪れる衝撃。
「いっ……たぁ!」
私は何かにつまづいて、盛大に転んでいた。足をとったのが石コロなのか瓦礫なのか、はたまた木の根なのか。分からないけど、どうでもいい。
ともかく、私の逃避行はここで終わった。
「……ひっ!?」
振り返った通路の先は、曲がり角。その向こうから、ゴーマの奇声が響き渡ってくる。もうすぐにでも、あの獣じみた荒い息遣いも聞こえてくるだろう。
「あ、あぁ……いや……」
私は、このまま死んでしまうんだろうか。
イヤだ。死ぬのは嫌だ。それは、ここまで無様に逃げてきた自分の本能が強く訴えかけている。
それに、理性で考えても、死にたくはない。私は答えた。まだ、死にたくないと、桃川くんに問われて。
死にたくない、死にたくない。でも、本当の望みは――助けたい。
私は、桃川くんを助けたかった。力になりたかった。私はまだ、彼になにも返せていない。
お腹の傷を治してもらって、仲間にしてもらって。赤犬にトドメをさす度胸もなくて、あの囮のゴーマを刺したのも、一緒にやってもらう情けない体たらく。
何が、騎士の天職だ。私はいつも、守ってもらってばかり。してもらって、ばかり。
でも、私がどんなに頭の中で悔いても、心の中で省みても、現実の行動には繋がらない。いざ、という時に、私の体は動かない。
勇気が足りない。
少し、ほんの少しでいい。恐怖で身を竦ませるのを、止めるだけの。我先にと逃げ出すのを、踏みとどまらせるだけの。
欲しい。勇気が欲しい。
それがあれば、きっと、私は――
「……あ」
涙でぼんやりと霞んだ視界に、ソレは映っていた。
私の右手。そこには、何かが握られている。汚れた茶色い皮袋。そこから、零れ落ちる白い粉。半分ほどは通路にぶちまけられ、もう半分は、私の手と、腕にかかっていた。
転んだ拍子に零れたのだろう。この、ゴーマの麻薬が。
「えーと、なになに……吸引すると、精神を高揚させて疲労を吹き飛ばし、極度の興奮状態に、なお、極めて強い依存性――って、やっぱり麻薬じゃないかコレぇ……」
げぇーっ! という表情を浮かべる桃川くんも、可愛かった。いや、そうじゃなくて、呪術師の能力で、彼はたしかにこの麻薬の効能を言い当てていた。
使用法は吸引。効果は、精神高揚、疲労回復。そして、強力な興奮作用。
「ねぇ、桃川くん……こんな私でも、コレを使ったら……」
クスリ、ダメ、ゼッタイ。そんな標語が脳裏によぎる。
けれど、今の私には日本の法律も倫理観も、何の役にも立たない。何の役にも、立ってはくれない。だってここは、ダンジョンの中。命をかけたサバイバルと、クラスメイトと殺し合うことさえありうる、極限の環境。
「強く、なれるのかな……」
そうと気づけば、迷いはなかった。
この麻薬を、手に着いた白い魔性の粉を、ほんの一呼吸するだけで良いのだ。いくら私でも、それくらいの動作をすることは可能だった。
「桃川くん、私に、勇気を……ください……」
一心に祈りながら、私は右手を口元へ――
「――ぉおおおあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
え、何、なにこれ、凄い。凄い、凄いよ、コレっ!
う、動く、動くの、体が。湧き上がる、力。お腹の奥から、胸の底から。溢れるように、ううん、もう溢れてる、みなぎっている。体中に力が、爆発しそうなほどにっ!
「おっ、アアぁあっ!」
体が軽い。起き上がる。浮き上がる。私の体、風に舞う羽のように軽やか。
振り返る。ただそれだけの動作でも、体が吹っ飛んで行ってしまいそうなほどの勢いを感じる。制御できない、この力を。自分で自分を、抑えられない。
「ブゲッ! ゲッ、グェアァーっ!」
視界に飛び込んでくる、黒い、黒い、人の形をした、ああ、何だっけ、誰だっけ、コレ。
妙に明るい。ここ、こんなに明るかったっけ。見える、見える、さっきよりもずっと、鮮明に、クッキリハッキリ、目が映る。
だから見えた。黒い奴が飛び掛かってくるのが。手にしているのは何? ギラリと光るそれは。危ないよ、それは、鋭くて、危ないな。
「はぁ……ふっ!」
ハエが近くをブンブンしてたら、払うよね。当たらなくても、何となく、反射的に。あっちいってって。
それと同じ。でも、違う。当たった。ちょっとだけ、私の掌。
「ブゲっ――」
パン、と水風船が割れるように、弾けた。脆く、儚い。黒いヤツは、もういない。残っているのは、私の手にまとわりつく赤黒いものだけ。気持ち悪い、とは思わない。だって、血は慣れている。お料理にはつきもの。この生臭い匂いだって。
でも、こういうのはすぐに洗っておかないと。あれ、蛇口って、どこだっけ。
「――ガブラっ!? グエンゼラぁーっ!」
手を洗う暇もなく、ゾロゾロと黒いのは現れる。通路いっぱいに。ゾロゾロ、ドタドタ、うるさいうるさい。何、コイツら――
「あぁ……ぶ、うぁあああ……」
あ、思い出した。ゴーマ、ゴーマだ。桃川くんが呼んでいた。桃川くんが言っていた、ゴーマを殺そうって。
「ゴ、ぉオーマぁ……ころす、ごろす……」
桃川くんが言っていたなら、やらないと。私がやらないと。私が、やってあげないと。
「ゴォオアアアあああああああっ!」
叩く、叩く。叩いて、叩いて、潰す。できる、今ならできる、簡単に。ハンバーグのたねをこねるよりも、力はいらない。
通路が赤い。赤くなったら、ゴーマはいなくなった。
あはは、やった、私、やったよ桃川くん。
「も、もも、かぁ……く……」
どこ。ねぇ、桃川くん、どこ、どこにいるの? 私、やったんだよ。初めて、桃川くんの言った通りに、できたんだよ。
それなら、今度こそ喜んでくれるよね。笑ってくれるよね。私、桃川くんのこと、困らせてないよね。
だから、捨てないよね。一緒にいてくれるよね。
でも、桃川くん、どうして、いないの?
「あ、あ……アァああー」
探さないと。見つけないと。
ああ、そうだ、違う。それは違った。何で、忘れてたんだろう。こんな大事なこと。
思い出した。桃川くんを、助けないと。
「フッ、ハッ――」
走る走る。走って、走って。息は切れない。苦しくない。全力で、どこまでも走って行ける。今の私は、こんなに速く走れる。
だからだろう、うん、だから、すぐに見つかった。
「や……やぁ……あぁ……」
桃川くんは、泣いていた。ボロボロの姿で、地面に這いつくばっている。
ねぇ、何で、どうして泣いているの? どうしてそんなに苦しそうなの、悲しそうなの、寂しいの?
「グゲェーっ!」
ゴーマが、桃川くんを蹴っていた。
見て、それを見て、彼の泣いている顔を、苦痛にうめく顔を、見て、見たら、もう、考えられなくなった。眼の前も、頭の中も、赤く、赤く、真っ赤に染まって。
ぶっ殺す。
「ぉおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああああっ!!」
死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね。みんな死ね、全部死ね。桃川くんを泣かせるヤツは死ね。殺す、殺す、私が殺す。一、二、三、何人でも何匹でも何体でも、全員、ぶち殺す。
「――ゴォアアアアアアアアっ!」
死んで、死んで、殺して殺した。徹底的に、目に映る全ての黒を、赤に変える。
どこ、どこにいる。桃川くんを泣かせるヤツ、苦しめるヤツ。ソイツは許さない、絶対に許せない。桃川くんを、私の、桃川くん、を――
「フッ、フッ!」
気がつけば、誰も居なくなっていた。誰かはみんな、真っ赤になって地面にまき散らされている。
ああ、良かった。これでもう、桃川くんに酷いことをするヤツらはいなくなったよ。みんな死んだよ。みんな、私が殺してやったよ。
「フゥ……う、あぁ……も、ももか……く……」
「ふ、双葉……さん……」
あれ、桃川くん、まだ泣いている。まだ、震えている。どうしたの、怖いの? 何が? 誰が?
大丈夫、大丈夫だよ――
「もも、かわ、くん」
もう、大丈夫だよ桃川くん。私がいる、私がいるから。私しか、いないから。
だから、いいよね、私が慰めても。
「も、もも……か、あぁ……」
「ひいっ!?」
怯えている。可哀想な桃川くんが可愛らしい。慰めたい、抱きしめたい。離したくない――彼が、欲しい。
「もっ、あぁああっ!」
「うわぁあああああああああああっ!」
捕まえたっ! やった、ああ、うわぁ、小さい、小っちゃいな、桃川くん。手を離したら失くしちゃいそう。目を離したら見失っちゃいそう。
でも大丈夫、私、絶対に離さないから。私、もう逃げないよ。だから、桃川くんも、逃げないでね。ずっと一緒だよ、ギューっ!
「ふっ、はぁあああ……ふ、たばさん! やっ、やめてっ!」
あっ、見えた。今、見えた。学ランの襟元から、桃川くんの白い首筋。細くて、儚くて、ああ、何て、美味しそう。
「ぶぉああああああっ!」
美味しい。美味しいよ、桃川くん。今まで食べた中で一番、美味しい。桃川くんの味。
「ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああっ!」
欲しい、もっと欲しい。一口ごとに満たされて、一口ごとに、更なる餓えを覚える。
足りない、もっと、もっと、ちょうだい。
桃川くんを全部、ちょうだい。
「――赤きっ、熱病ぉおおおおおおおおおおおお!」
貴方の、全てを……私……に……
「欲しければ、己が力で手に入れろ」
薄れゆく意識の中で、私は最後にそんな声を聞いた。
「双葉芽衣子、これより貴様の天職は――」
誰だろう。桃川くんの声じゃないのは、確か。彼は声も可愛いけれど、こんなに色っぽい女性の声音はしていない。
そこまで考えて、私の意識は途切れた。
「――『狂戦士』だ」




