第148話 リトルプリンセス
あれは確か、俺が幼稚園に入園にしてすぐの頃だった。桜が舞う小さなグラウンドの中を駆け回る園児たち、その中で俺は彼女を見つけた。
輝くような金色の髪に、澄んだ青色の瞳。初めて見た時、人形が動いているのかと思った。それか、テレビの中から出て来たのかと。それほど、現実離れをしていると感じたのだ。
「なに、見てるんですか、兄さん」
俺の視界を遮るように、ちょっと不機嫌そうな桜が横から顔を出す。
「なぁ、桜、あの子って外国人ってやつ? 俺、初めて見たよ」
アメリカ人なのかな、とか、当時は金髪碧眼の人種といえばそれしか名前を知らない俺は、全く無遠慮に勝手な感想を、面白くなさそうな桜を相手に語っていた気がする。
「……アーデルハイドさん、のことですか?」
「アーデ……なに? すっごい長い名前だな」
「レイナ・アーデルハイド・綾瀬、というそうです」
一度聞いただけでは覚えられないような、長い名前に、流石は外国人だと謎の感心をする俺だった。
「あの子のこと、気になるのですか、兄さん」
「だって凄いじゃん、本物のアメリカ人だよ!」
「ああいうのは、ハーフ、というそうです」
「おお、桜、よく知ってるなー」
「私も、ついこの間、知ったばかりです」
というのも、隣のクラスにいるレイナ・アーデルハイド・綾瀬について、俺より先に桜の方が色々と聞いていたからだそうな。あの容姿で、目立たないはずがない……という以上に、彼女が噂となる別の理由があった。
「あまり、近づかない方がいいですよ」
「えっ、なんで?」
「見て分かりませんか」
再びレイナへ視線を向ければ、彼女の周りには沢山の園児が集まって、何やら物凄い盛り上がりを見せている。
「大人気だな!」
「いえ、男の子ばかり、集まっているでしょう」
言われてみれば、確かに、レイナの周りには水色のスモックを着た男子しかいないようだ。ピンク色の女子は、それを遠巻きに眺めていて、あまり面白くなさそうな顔をしている。
「なんでだ?」
「さぁ、どうしてでしょうね」
「たまたまじゃないのか?」
「そうだと、いいのですけれど――そんなことより、兄さん、早く探検に行きましょうよ」
「おおっ、そうだ! よーっし、行くぞ桜! どんなモンスターが現れても、俺が倒してやるからな!」
「はい、兄さん」
その辺で拾った木の枝を愛剣として、まだほとんど見知らぬ幼稚園の敷地内への探検に、俺は張り切って出発した。
そうして、レイナのことはそれ以上、気にすることもなかった。毎日、桜と、同じハト組の友達と一緒に遊ぶことに夢中で、関わりのない隣のクラスの子のことなど、全く思い出すことすらなくなる――はずだった。
「うわぁーん、ああぁーっ!」
と、グラウンドの片隅で大泣きしているのは、ハト組の友人達だ。
「ここはレイナちゃんの城だから、お前らは入っちゃダメなんだからな!」
怒鳴り声を上げて、友達を泣かせている奴は、いいや、奴ら、というべきだった。何人もズラズラと立ち並んで、凄んでいる。
城、というのは、ちょうど春先に完成したばかりの新しい遊具のことだ。公園に置いてある大きなアスレチック遊具のようなもので、ファンタジックな城をモチーフにしたデザイン。一番高い場所には、尖った屋根がついていて、長い滑り台が伸びている。
園児の誰もが、この滑り台を滑ってみたくて堪らなかった。けれど、設置して以来、まだ誰もこれを滑ってはいない。
何故か。城の天辺には、いつもレイナがいるからだ。
不思議と、彼女は滑り台を滑ることなく、そこに居続ける。そして、彼女を押し退けて、滑り台を滑る者は誰もいなかった。レイナの周囲に常にいる、同じ組の男児達が決してそれを許さない。まるで、お姫様を守る騎士のように。
彼らのあまりの気迫に、他の園児たちは気圧されて手出しはできなかった。年長組でさえ、近寄らせなかったのだから、相当なものだろう。
だが、ハト組の友人達もとうとう我慢ができずに城に突撃した結果、レイナの騎士によってあえなく撃退。
こっちは高々数人。対して、向こうは本当に組の男児全員が揃っているような人数である。勝てる道理はどこにもなかった。
「いい加減にしなさい! そんな勝手なことは許しませんよ!」
しかし、友達全員が泣き出している中、一人だけ毅然と叫ぶ園児の姿が……案の定、桜であった。アイツは小さい頃から、気が強かったからな。
「う、うるせー、ここはレイナちゃんのなんだよ!」
「ハト組の奴らは帰れ!」
「帰れ! 帰れ!」
十数人もの相手から、悪意の籠った帰れコールを浴びせられ、流石の桜も、今にも泣き出しそうになっていた。
そんな時に、ようやく俺は城の前に駆けつけた。
友達がみんな泣かされ、桜も泣きそうで。そして、それをした奴らは、みんなに謝るでもなく、勝ち誇ったように嘲笑っている。幼心に、正義を燃やすには、それだけで十分だった。
「やめろ! 桜をいじめるなっ!」
「兄さん!」
すかさず割って入り、桜を庇うように立ちはだかる。
「なんだよお前」
「コイツもハト組だろ」
「あっち行けよ、滑り台は使わせねーぞ」
彼らの勝手な言い分に、俺の怒りもどんどん高まっていく。
「ふざけるな! ここはみんなのモノなんだぞ、勝手に独り占めするのは、悪いことだ!」
「うるせー、ここはレイナちゃんの城なんだ!」
「そうだそうだ、俺達が守ってんだぞ!」
「絶対、他の奴らには使わせねぇからなっ!」
子供らしい暴論、けれど、彼らの気持ちは頑なで、そして、俺達の我慢や悲しみは本物なのだ。
敵意をむき出しに怒鳴り散らす彼らのことが許せない。けれど、一番許せないのは、ただ一人、城の上に立ち続けるレイナだ。
彼女のために、組の男児は無茶を始めた。そして、他のみんなは困っている。たった一人のワガママで、幼稚園の園児全員を振り回している――だというのに、レイナは足元で繰り広げられている大喧嘩になどまるで気づいていないかのように、ただ城の高みから、ぼんやりと遠くを眺めているだけだった。
その姿に、俺は何よりも彼女が許せないと思った。まるで他人を省みないその姿は、さながら、当時やっていた特撮ヒーローに登場する、悪の組織の首領のような冷酷さを感じたからだろう。こうして、大勢の手下を従えている姿もよく似ている。
だから、理不尽を強いる彼女を倒そうと、俺は思った。
「このヤローっ! さっさと帰れよコラぁ! 死ねぇーっ!」
一歩も引かずに吠える俺に対して、とうとう痺れを切らしたのか、先頭に立つ男児が手を出した。
右の拳を握り、大きく振りかぶる。いくら幼稚園児といえども、それは人を殴るという明確な暴力の行使。
だが、すでに爺さんによる修行が始まっていた俺にとって、それは全く恐れるには足りない、あまりに稚拙な力だった。
「やあっ!」
向かってきた男児に対し、俺がとった行動はタックルだ。相手はあの頃の俺よりは大きな身長をしていたが、所詮は幼稚園児。まだまだ頭が大きく、手足は短い幼児体型で、立った状態ではバランスが悪い。子供が転びやすい理由の一つである。
そんな園児を相手に、俺はしっかりと腰を落として、肩からぶつかる。タックルの威力はそれほどでもない、けれど、幼稚園児を転ばせるには十分すぎるパワーだった。
「んぁあああーっ! いーたぁーいーっ!」
俺のタックルによって弾き飛ばされた男児は、転ぶなり盛大に泣き出した。転倒のショックに、手足が擦り剥き負傷もしている。この状態で喧嘩を続けられるガッツのある幼稚園児などいないだろう。
「おい、お前なにやってんだよ!」
「なに泣かしてんだ!」
俄かに殺気立つ、と言うほど鋭くはないが、騎士の園児達は仲間がやられたことで騒ぎ出す。痛い、痛い、と激しく泣き叫ぶ犠牲者がいるせいで、すぐに全員で襲い掛かってくる動きはないものの、ふとしたキッカケで攻撃に転じるか分からない、微妙な状況だ。
いくら俺でも、十人以上の相手に同時に襲われればどうしようもない。だから、先手を打つ。
「どけ! 滑り台は、みんなに返してもらうぞっ!」
もう後には退かないという覚悟を決めて、俺は近くにいた男児を突き飛ばす。拳は使わない、未熟な手でパンチをすれば、かえって手を痛める危険がある。
相手は幼稚園児、ちょっと転ばせればすぐに泣いて無力化できる。あっという間に、三人ほど地面に転がしてやった。
「うわっ、コイツ、強ぇぞ!」
「やべー、強ぇ」
次々と仲間を倒されたことで、他の男児は明らかに二の足を踏んでいる。最早、俺という敵に対して、怒りよりも、恐れの方が勝っている。こうなれば、相手の数は怖くない。
「おい、テメー、よくもやりやがったなぁ」
「くふふ、コイツ、殺しちゃうよー」
そこで、城から二人の男児が降りてきた。
一人は、もう小学生かと思うようなデカい奴。もう一人は、ズル賢そうな嫌な顔をした奴で、ソイツの手にはヒュンヒュンと音を立てて回される、縄跳びがあった。
幼稚園一の巨漢に、喧嘩に武器を持ち出す卑劣漢。しかし、その力は園児としては最大級であろう。普通なら、まず勝てない。俺も、ちょっと泣きそうになった。
「兄さん、頑張って! 兄さんは負けない、みんなのために、必ず勝ちます!」
けれど、桜の声援が俺の情けない背中を押してくれた。そうだ、俺は妹のためにも、みんなのためにも、ここで負けるわけにはいない! なんて、子供のくせに使命感なんて燃やしていたりしたものだ。
「相手になってやる、さぁ、かかってこい!」
「うるせぇ、死ねーっ!」
まず、襲ってきたのはデカい方。俺よりも頭一つ分は大きい彼は、もの凄い迫力で突進してくる。流石に体格差、体重差が大きすぎて、真正面からタックルしても押し負けそうだ。
だから、ギリギリまで引きつける。衝突まで、あと三歩、二歩、一歩……
「ふっ!」
右に飛ぶ、と見せかけて、左に動くフェイント混じりのステップを踏んで、突進を回避。そのまま、奴の後ろに回り込む。
「はあっ!」
振り向くよりも早く、俺は彼のひざの裏に蹴りを叩きこむ。乱暴な膝カックンのような一撃は、見事にデカブツの膝を折ってみせた。
「うわぁっ!?」
体勢を崩したその隙に、さらに彼の大きな背中に渾身のタックルをかます。奴はそのまま、受け身もとれず、顔面から地面にぶっ倒された。
耳をつんざく、大きな泣き声を聞きながら、俺はすかさず、なわとび装備の野郎へと向く。
「へへっ、どうした、来なよ。怖いのか? あー?」
デカい相棒がやられたというのに、なわとび野郎は余裕の表情だった。それほど、武器に対する信頼があるのか、あるいは自信か。
頭の上で、思い切りブンブンなわとびを回している彼は、言うだけあって、こうして武器として使うことに慣れているように感じた。ああやって、何人も泣かせてきたのだろうか。
所詮はただのなわとび。鎖鎌のように、鋭い刃も、重い分銅もなく、くっついているのはプラスチックの持ち手だけ。けれど、思い切り振り回したまま体に当たれば、堪らず泣き出してしまうだけの痛みを与えるには十分な威力を持つ。
恐らく、一発勝負。リーチは圧倒的に向こうの方が長い。必要なのは、パワーでもスピードでもなく、相手の間合いに飛び込む勇気。
「行くぞっ!」
鋭い掛け声とは裏腹に、俺は慎重に歩を進めた。だが、その姿は相手からすると、ビビって及び腰になっているだけの、実に狙いやすい的に見えたことだろう。
「そりゃっ、喰らえぇーっ!」
凄い速さで飛んでくるなわとび。薙ぎ払うように弧を描いて、プラスチックの握りが俺に向かって飛んでくるのを、確かに目で捉える。予測通りの軌道に、まだ目で追える程度の攻撃速度。
ここだ、と確信をもって、俺は身をかがめながら、軽く手を上げた。
掲げた俺の右手に、なわとびのやわらかいビニール製の縄が引っかかる。瞬間、薙ぎ払われたなわとびの軌道は変わる。俺の手を起点として、半分に折りたたまれる様に、速度の乗った先端は戻って行く。そう、なわとび使いの彼に向かって。
「ひぎゃあああっ!」
割と悲痛な叫びを上げて、自分で投げたなわとびが、顔面にヒットしていた。うわ、痛そう、とちょっと同情したが、こんな無慈悲な攻撃をけしかけてきたのだから、自業自得ということだろう。武器を使う危険性というのを、きっと彼は学んだはずだ。
「俺の勝ちだ! まだ、他に相手になる奴がいるなら、かかってこい!」
大泣きに泣くデカブツとなわとび使いを背後に、高らかに叫ぶ。それに応える奴は、もう一人もいなかった。
全ての敵を排除し、ついに俺は城へと登る。
この城は彼らが占領していたせいで、滑り台どころか、近づくことすらままならなかった。だから、斜めに張られた縄の網を登るだけで、ちょっと楽しかった。
そうして、すぐに滑り台の最上階まで登り詰める。城といってもただの遊具、登ればあっという間だ。
「……だぁれ?」
そこで初めて、レイナは俺の方を向いた。
真っ直ぐ向けられた青い瞳は、吸いこまれそうなほど綺麗で、一瞬、見惚れてしまったのは桜には内緒だ。今でも内緒だ。
「そこを降りろ。みんな、滑り台を使いたがっているんだ」
どんなに可愛くても、コイツは悪の親玉だ。俺はそう気を取り直して、毅然と言い放つ。
「すべりだい?」
「そうだ、お前がさっさと滑らないから、みんな待たされているんだぞ」
レイナがここを滑り終えれば、ようやく順番が回り始める。いくら悪い奴とはいえ、この高さから蹴り落としてやろうというほど、野蛮なことは考えなかった。
「……いや」
「な、なんで!」
「こわい。すべるの、こわい」
ギュっと目をつぶって、本当に怖がってそうな表情を浮かべる彼女に、俺は困惑した。
「じゃあ、何でここにいるんだよ」
「ここ好き。サクラ、きれい」
そこで初めて俺は気付いた。レイナは滑り台を占領しているのではなく、ただ、ここからグラウンドに生える桜並木を眺めていただけなのだと。
絶景、というほどではない。けれど、小さな子供が下から眺めるよりは、ずっと高い視点で眺められるここは、幼稚園児だからこそ魅力的に感じる風景なのかもしれなかった。
「そうか……お前が、滑り台を意地悪して止めていたんじゃないんだな」
「うん、とめてない。そんなの、しらない」
ということは、ここでレイナが並木桜を眺めているだけだったのを、他の奴らが勝手に勘違いして、城を占領し続けていたというだけなのか。
何で、誰も気づかなかった。どうしてこうなった。
レイナは何も悪くなかった。なのに、他の奴らが勝手に「彼女のため」と言って事を大きくして、みんなに迷惑をかけて、挙句の果てに、こんな大喧嘩だ。
「はぁ……バカじゃないのか……」
レイナの城、とあれだけ騒いでいた彼らの気持ちが、俺には欠片も理解できなかった。少なくとも、まだ幼稚園児の俺に察しろというのは、酷な話だったかもしれない。
けれど、城の上に立つレイナを見て、勝手に悪いボス認定した俺も、彼らのことは決して馬鹿にできないだろう。
「でも、良かった。お前が悪い奴じゃなくて」
そう、本当に良かった。俺はやっと、レイナも同じ子供なのだと理解できたから。
きっと、あまりに異質で、あまりに綺麗な、金髪碧眼の容姿のせいで、みんなが彼女の気持ちに気づかない。本当は、妹の桜と何も変わらない、ただの女の子なのだ。
「それじゃあ、滑り台は俺が滑るからな」
「うん」
レイナが桜並木を鑑賞しているだけなら、好きにすればいい。俺が滑れば、後に続いてみんなも滑れるようになる。ここにレイナが立っていようがいまいが、もう関係はない。
いざ、凱旋。俺は城の滑り台の初使用者として、ちょっと誇らしげに思いながら、身を乗り出した。
「……すべるの」
しかし、何故かレイナが凝視していて、気持ちよく滑り出せなかった。
「滑るよ」
「こわくないの?」
「全然、すっごい楽しいよ」
少なくとも、近所の公園にはない高さと長さを誇る、なかなか立派なお城滑り台である。自然と期待値も高まる。
「なんだよ、やっぱりお前も滑りたいのか」
「でも……こわい」
「でも滑りたいんだろ?」
「……うん」
どうやら、レイナはいざ他人が滑り台に挑戦するところを見ると、俄然、興味が湧いてしまったようだ。別に、滑りたいなら滑ればいい。だが、こんなところまで登っておいて、滑るのは怖いってのは、難儀な話である。
俺としては、滑り台に二の足を踏む彼女を放って、さっさと滑っても良かったのだが……何となく、放っておくのは躊躇われた。彼女は悪い子じゃない、ただ少しだけ見た目が違うだけの、普通の子。なら、普通に友達にだってなれるだろう。
「じゃあ、一緒に滑るか?」
「うん!」
初めて見たレイナの笑顔は、とても眩しかった。
彼女を前に、俺が後ろから抱え込むように座り、ようやく城を飛び出した。高く、長い、お城の滑り台は、けれど、滑ってみればあっという間だった。
「ねぇ、あなたのお名前は?」
滑り終わったレイナは、俺を真っ直ぐに見つめて、そう問いかけた。
ああ、そういえば、名前も名乗っていなかった、と俺は今更ながらに気づかされる。一方的に相手の名前を知っていて、向こうは知らない、というのはフェアじゃない、と子供心にも思った。
だから、快く答える。
「俺は悠斗、蒼真悠斗だ!」
「ゆうと……じゃあ、ユウくんだ!」
嬉しそうに「ユウくん」と叫んで、思いっきり抱き着いてきたレイナ。あまりの不意打ちに、俺は彼女を抱きとめることもできず、バランスを崩して後ろ向きに倒れ――ガンっ!
「うっ、あ、あぁ……」
痛烈に後頭部を滑り台に打った俺が、さっき泣かせた彼らを上回る勢いで泣き出したのは、言うまでもないだろう。まさか、最後の最後でレイナにやられるとは思わなかった。
何とも締まらないオチがついたけれど……これが、俺とレイナの出会いだった。
 




