第12話 双葉芽衣子・3
快進撃、であった。ただでさえソロでも探索がはかどっていた如月涼子に、新たな仲間として盗賊の夏川美波と、射手の佐藤彩が加わったのだ。向かうところ敵なし、である。
美波は元から高かった運動神経に天職の能力が合わさり、抜群の近接戦闘能力を誇る。彩の方は、その見た目と同じく凡庸な才能しか持ち合わせていなかったが、天職の能力は彼女を即戦力の射手に仕立て上げてくれた。
『一射』:よく狙いを定めることで、弓の威力と命中率が上がる。
『精神集中』:心を乱さず、弓を引ける。
『矢作』:上手に矢を作れる。
飛び抜けて強力な効果ではないものの、弓さえ手に入れれば攻撃と矢の確保、両面においてつつがなく実行できる堅実な初期能力構成である。
最初にして最大の難関である弓そのものの入手という点において、彩は早々にクリアできたのは幸いであった。彩が美波と出会ったその時、ちょうど彼女が弓を装備したゴーマを倒すところだったのは、正に弓の神の加護としか思えない。
しかし、そんな彼女はドームを後にしてからおよそ一時間後、たどり着いた妖精広場でヒステリックに声を荒げていた。
「――えっ、ちょっと待ってよ、それじゃあ三人しか助からないってこと!?」
「お、落ち着きなって、大丈夫、きっと大丈夫だから!」
危険なダンジョン探索中でも終始笑顔と気楽な態度を崩さない美波だが、その声音には確かな焦りと不安の色が混じっている。
「ど、ど、どど、どうしようぅ……」
人一倍デカい体を震わせて、双葉芽衣子は早くも目から涙が零れて落ち始めていた。
彼女達がここまで混乱するのも無理はない。なぜなら、ここで休憩がてら確認した魔法陣での更新情報に、衝撃的なルールが判明したからである。
ダンジョンの最深部にある天送門は破損が激しく、最大で三名までしか転移することができない――つまり、脱出人数の制限だ。
「この情報が本当かどうか、まだ分からないわ。今はこれについて、考えるべきじゃない」
四人の中でただ一人、如月涼子だけが冷静に、皆を諭すような口調で言った。
「考えるなって、それじゃあこれから、どうするのよ!」
どうやら『精神集中』は弓を引く時限定で、平素においては何ら鎮静作用を与えてくれない。そんな効果を実証してくれるかのように、すっかり取り乱した彩が反論する。
「この転移門とやらを動かすためには、もっと沢山の魔物からコアを手に入れなきゃいけない。今は楽に倒せているけれど、これから先にはどんな危険な魔物がいるか分からないわ。余計な不安を感じたまま、戦うのは危険よ」
「でも、だからって――」
「私達に必要なのは、希望よ」
真顔でそんなことを言いだす涼子に、彩は変質者でも見た、とでいうような顔でクラス委員長の怜悧な美貌を凝視した。
「こんな状況で……よく、そんな綺麗事を言えるわね」
「綺麗事じゃない。だって、私達には本当に、希望があるんだもの」
涼子の穏やかな微笑みには、絶対的な自信、いや、確信、とでもいうべき雰囲気が滲み出ている。あまりに堂々とした反論に、彩は少しだけ面喰らった後、「その希望とは?」という当たり前の質問を投げかけた。
「蒼真悠斗と天道龍一。あの二人なら、こんな、ええ、こんなふざけた状況だって、必ず打ち破ってくれるわよ」
その解答を、馬鹿な、と笑える者は一人もいなかった。恐らく、二年七組のクラス全員がいたとしても、異を唱える者はいないだろう。
「私達だって、天職のお蔭であんな化け物と戦えるのよ。あの二人がこの力を得たら、それこそ、本物のヒーローになれるわ」
涼子の言葉は、荒唐無稽にして情けない他力本願のものではない。彼らを知っていれば、誰もが納得する。信じられる。
「向かう先は同じなのだから、このまま進んで行けば、必ず蒼真君と合流できるわ。そしたらきっと、貴女も、クラスのみんなも、彼なら救ってくれる」
「そ、蒼真君が、私を……」
自らのピンチに颯爽と駆けつける蒼真悠斗の雄姿を思い描いているのだろうか。彩は薄らと頬を朱に染めて、思わずウットリした表情に崩れかける。
それを涼子が冷めた目で見ることはない。二年七組の女子の半分くらいは、こんな反応をするだろうから。
男子が蒼真桜の美貌に一目惚れするのと同じように、女子もまた、蒼真悠斗に惹かれるのだ。佐藤彩、彼女もまた、密かな思いを彼に寄せる乙女の一人である。
「ええ、そうよ、佐藤さん。蒼真君が、助けに来てくれるから」
「――ハッ! そ、そうね……確かに、蒼真君なら何とかしてくれそうよね」
あくまで論理的に納得してます、という体裁を今更ながらに繕いながら、彩はうなずく。
「うんうん、そうだよねー、蒼真君がいるなら絶対に大丈夫だよね! 何かゲームみたいな世界だし、ヒーローっていうより勇者様? みたいな?」
彼なら白銀の鎧にマントでも着こなせる、ということが、去年の学園祭の演劇で証明されている。演目は白雪姫。最後の最後で通りがかってキスするだけの役だが、本物の王子様以上に本物らしい姿に、劇の内容が忘れ去れるという悲劇的な結末を迎えることに。
「でも涼子ちゃんにとっての勇者様は、蒼真君より天道く――」
「ちょ、ちょっと、止めてよ美波! アイツはそんなんじゃないから!」
さっきの彩の反応と似たような、あからさまなリアクションをくれる涼子に、美波はいつものニコニコをニヤニヤに変える。こういうところは、クールなクラス委員長様も分かりやすい。
「にはは、そういうコトにしておいてあげる」
「だからっ――もう!」
「あ、痛っ! ちょっと、暴力反対! でも魔法を撃つのはもっと反対ぃ!」
綺麗な顔を赤く染めながら、友人に向かって猫パンチを繰り出す涼子の姿は、どこまでも頼れる委員長のイメージからかけ離れている。小学生レベルの反応。
ともかく、こうして脱出の人数制限という情報を知った彼女達だが、その時は大きく問題視することはなかった。そう、この時までは。
四人のダンジョン探索は進む。
妖精広場で仮眠も含めた休息を終え、気力、体力、共に充足させてから出発してからおよそ十分後。早くも魔物とのエンカウントが発生した。
現れたのは、燃えるように真っ赤な毛並みをした野良犬の群れ。柴犬以上、ゴールデンレトリバー以下といった大きさだが、荒い鼻息と血走った目つきは、どうしようもない野生の飢えを感じさせてならない。
「――ごめん! 三匹抜けたっ!」
美波が右手に握った、芽衣子から借りた文化包丁で犬の喉を横一文字に切り裂きながら叫ぶ。彼女の脇を合わせて四匹の犬が火の玉のような色と勢いで駆け抜けていくが、後ろ手に投げた左手のナイフが、一匹の背中に命中。結果、美波の言った通り、三匹の犬が後衛の二人へ向かった。
「双葉さん、止めて!」
涼子の鋭い指示が飛ぶ。後衛は氷魔術師の如月涼子と射手の佐藤彩。騎士の天職を授かった双葉芽衣子は、美波と共に前衛――を張れるほどの活躍はハナから期待されていないので、中衛、という微妙な配置になっていた。
騎士という最前線で敵を食い止めるべき天職能力でありながら、盗賊である美波の取りこぼしを一匹でもいいから抑えてくれればいい、という優しい配慮のフォーメーション。
「きゃぁーっ! わぁーっ!」
そんな仲間の心遣いを無に帰すように、芽衣子は全力で回避行動をとっていた。手にした肉切り包丁を一度たりとも振るうことなく、飛び掛かってくる犬を前にあっさり武器を手放して地面を転がる。その姿たるや、坂道を転がり落ちるビヤ樽。
「ちょっと、ありえないで――しょっ!」
怒りの声を上げると共に、『精神集中』で狙い澄ました彩の『一射』が炸裂した。鋭い牙を剥き出しに、涎をまき散らして迫り来る犬の眉間ど真ん中に、ゴーマ製の粗末な矢が深く突き刺さった。一発必中。そして、必殺である。
「……『氷矢』」
涼子が繰り出す氷柱は、矢よりも太く長いが、発射速度は本物の弓と遜色ない高速。天職による能力がなくとも、その狙いは正確で、見事に犬の胴をぶち抜いて見せる。
二人の後衛は一瞬のうちに二匹を倒したが、向かってくるのは全部で三匹。まだ、一匹残っている。距離が近い。二本目の矢と氷柱は、間に合いそうにない。
犬は必殺を確信しているのか、ガチンと牙をかち合わせると、その口元から火の粉が舞った。
「うっ、これヤバ――」
「『氷盾』」
その時、音もなく現れた氷の盾に、大口を開けて飛び掛かって来た犬は間抜けにも正面から衝突した。キャイーン、と情けない声を漏らしながら、犬の体はどっと地面へと崩れ落ちる。
「攻撃魔法って、連射はできないけれど、防御魔法の方は即座に続けて使えるみたいね」
涼しい顔で彩に説明しながら、涼子は倒れた犬が起き上がるより早く、無詠唱の『氷矢』をぶち込んでいた。
「涼子ちゃん! 佐藤ちゃん! 大丈夫だった!?」
気が付けば、赤い犬の群れはそそくさと退散していくところであった。美波は追撃することなく、すぐに振り返って仲間の元へと心配の声を上げながら走り寄ってくる。
「はぁ……如月さんが仲間にいて、本当に良かったわ」
「佐藤さんだって、確実に敵を倒してくれるから、十分な活躍よ」
「倒した数はアタシが一番なんだからーっ! もっと褒めてよ涼子ちゃん!」
「分かってるわよ、美波が前で頑張ってくれるから、私達も安全に攻撃できるんだからね」
和やかに談笑する三人を、土埃にまみれた惨めな姿で、双葉芽衣子は眺めていた。昼寝をしていた牛が起きるようにのっそりと、その丸い巨体を地面から立ち上がらせる。
だが、三人の輪に戻るために、一歩を踏み出す勇気が持てなかった。
「……双葉さんは、大丈夫だった? 怪我はない?」
部屋の隅っこでおどおどしている芽衣子に優しい声をかけたのは、涼子である。
「え、あの……ごめんなさい、私、コアを取り出すから」
誰も、芽衣子の無様を表立っては責めていない。強いて言えば、佐藤彩はあからさまに軽蔑の眼差しを向けてはいるが、それでも怒り心頭で罵詈雑言を浴びせては来ない。
だが、もし自分の行動を非難されても、芽衣子にはそれに反論することなどできないだろう。分かっている、今の自分がどれだけ無能で役立たずであったのかを。皆は命を賭けて戦っているのに対し、芽衣子はいざ敵が目の前に現れれば、怖くて怖くて、逃げ出すことしか考えられないのだ。そして、実際に逃げる。戦う仲間のことなど忘れて、自分だけ。
「それじゃあ、お願いするわね。双葉さん料理部だから、捌くのに慣れているみたいだし」
「適材適所ってヤツ? にはは、アタシにはちょっと無理かなぁ」
魔物はただ倒すだけでは意味がない。ゲームのように経験値という確かな成長数値が蓄積されるわけでもなく、まして、煙のように死体が消えて、金貨やアイテムをドロップしてくれることなど、いくら魔法の異世界でもありえない。
その体内に宿すコアを摘出しなければ、目的は達成できない。転移門まで辿り着いても、起動させられるだけのエネルギー源がなければ意味はないのだから。
「ご、ごめんなさい……三個しかなかったの」
芽衣子は自前の包丁セットを駆使して、熟練の料理職人が如き手際で瞬く間に犬の死体を解体し、体内からコアを取り出してみせた。彼女のふっくらした掌には、赤いビー玉が割れたような小さなコアが、確かに三つある。
倒した犬の数は全部でちょうど十匹。芽衣子が七匹分のコアを見つけられなかったのは、彼女が見落としたからではなく、単純に、コアが存在しないのである。最初に倒した牙鼠などは、一匹もコアを宿してはいない。
ここまでの道中で魔物の死体を捌き続けた芽衣子としては、コアのあるなしはすぐに分かるらしい。毛皮を割いてみれば、何となく、気配のようなものを感じる。同時に、ソレがどの辺にあるのかも感じ取れるのだ。故に、コアの摘出は割と簡単。芽衣子並みの調理スキルなどなくても、素人が適当に漁っても取り出すくらいはできるだろう。
だからこそ、問題点はコアの入手率の低さに集約される。
考えたくないことだが、このガラスの破片みたいな小さなコアなんて、どれだけ集めても無意味なのではないか。そんな予感さえ抱かせる。
「弱い魔物だったから、仕方ないわね」
涼子は不満を漏らすこともなく、そのまま芽衣子から三つのコアを受けとる。逆に言えば、礼の言葉もないということでもある。
「このペースで戦ってれば、すぐレベルアップできるよ! そしたらコアもザックザク!」
「これ以上、強いのと戦いたくなんてないわよ……はぁ、矢一発で倒せないのが現れたら……ちょっと、考えたくないわ」
鬱だ、とばかりに不安げな表情の彩に、また美波があっけらかんとした笑顔で楽観的なことを囁く。それを涼子が微笑んで見ながら、何となく、その場は出発となった。
芽衣子は自責の念に潰されそうになりながら、三人の一歩後をついていった。
その時が訪れたのは、赤い犬の群れとの遭遇から、さらに三度の戦いを経た、四度目の戦闘であった。
現れたのはゴーマ。場所は真っ白に枯れた木々が乱立する通路。美波達と合流を果たした森林ドームよりは視界が開け、かつ、明るいが、それでも四人の死角をつくには十分だったようだ。
「――あっ!」
と、叫び声を上げた芽衣子。その立ち位置は最後尾だった。すでに戦闘では全くの役立たずだと判断された彼女は、最早、中衛にさえ置かれることはなく、後衛である氷魔術師と射手のさらに後ろという、完全に守られるだけのポジションに自然と収まることになっていた。
しかし、それはあくまで敵が前から現れた時に限った話である。ゲームでも、敵に背後から奇襲された、という設定のバックアタックシステムなんてものもあるのだ。リアルに魔物が襲い掛かってくる本物のダンジョンにおいて、背後から襲われないなんてことは、あるはずもなかった。
「きゃぁああああーっ!」
白い枯れ木の木陰から飛び出したのは、大きな爪をそのまま刃に用いたナイフで武装した、一体のゴーマであった。
芽衣子は突如として現れたゴーマを、その場で振り向いて確認した瞬間、その悪魔よりも醜悪な姿を前に、逃げる事さえ忘れて全身が硬直していた。
「グォーブビバァ!」
謎の雄たけびを斬りかかってくるゴーマ。その太刀筋は大振りの横一文字。芽衣子ははっきりと、その攻撃が見えていた。
騎士の能力『見切り』によって、余裕をもって避けられるほど、迫り来る斬撃の軌跡が見える。芽衣子の目には、その先に描かれるだろう剣閃が、薄らと白い光となって確かに見えていたのだ。
その斬撃予測ラインは、見事に自分のでっぷりした腹部を捉えていることも、分かっていた。分かり切っていた。
回避、あるいは、防御の余地はあった。
『弾き』の能力は、手にした肉切り包丁で、難なく迫り来る一撃を弾き飛ばせる技量をもたらしてくれる。発動すれば、芽衣子の太い腕から繰り出されるカウンターによって、小柄なゴーマは攻撃どころから自らの体ごと吹き飛ばされて、あっけなく地面へと倒れ込むことだろう。
しかし、その実現しえたはずの未来はない。ひとえに、双葉芽衣子、彼女自身の心の弱さによって。恐怖が身を竦ませる。技を、縛る。
「ぎっ、いぃぁあああああああああああああああああああああああああっ!!」
腹部を切り裂かれた。真っ直ぐ水平の一閃。剣の心得などあるはずもない素人剣術のゴーマでも、その狙い通りに、命中してしまった。
爪の刃は、深々と芽衣子の白い腹を斬る。セーラー服の生地は厚めだが、とても防刃性には期待できない。分厚い脂肪の層もまた、刃を防ぐには足りないというのは、これまで幾度となく霜降り肉を切り、捌いてきた芽衣子自身がよく知っていることだろう。
激痛、というより攻撃を受けた衝撃と心理的ショックによって、芽衣子は狂ったような絶叫を上げながら、仰向けに倒れ込んだ。
「バッ、グルア――ゲバァっ!」
ゴーマがそのままトドメを刺さんと刃を振り上げて、芽衣子に馬乗りになろうと飛んだ時、その醜く歪んだ顔面に、凍てつく氷の矢がぶち込まれた。
「双葉さんっ!」
幸いにも、この時にちょうどゴーマ小隊との戦闘が終了していた、ということを、芽衣子には気づけるはずもなかった。
どちらにせよ、負傷した芽衣子の元へ、涼子が一番に、次に彩、最後に美波がすぐに駆け寄ってきた。
「はっ、はっ、あ……あぁ……い、たい……痛い、よぉ……」
「喋らないで! 今すぐ手当を――」
「そんなこと言ったって、包帯も消毒液もないわよ!」
「ば、バンソーコーならあるけどぉ……」
「そんなのじゃどうしようもないでしょぉ!?」
半ばパニック状態に陥る仲間達の喧騒。しかし、ショックで頭が真っ白になっている芽衣子には、グラウンドから響いてくる運動部の掛け声のように、ぼんやりとしか聞こえてこない。
「大丈夫、妖精広場でとってきた薬草があるわ」
涼子は冷静に、そう、こんな時でも冷静に、最善の対処を導きだしていた。
彼女が鞄から取り出したのは、ほんの一掴みほどの草。ハート型の葉が特徴的な、正しく四葉のクローバーと同じ形状の植物であった。
「薬草って……たったこれだけしかないじゃない!」
「それでも、これ一本だけでも効果はあったわよ」
涼子の左足には、ゴーマから受けた矢傷がすっかり消えている。この四葉の薬草一本を使うことで、見事に治癒したのだ。
妖精広場にたどり着いた時に得た魔法陣の情報によれば、この四葉のクローバー型の薬草が説明されていた。半信半疑で試してみたところ、驚くほど早く怪我が治ったことで、これも魔法の植物ではないかと誰もが思ったものだ。
使用法は単純そのもの。磨り潰して患部に直接塗りつけるだけ。
「だからでしょ! こんな重傷を治すなら、薬草全部つぎ込まなきゃ足りない、ううん、最悪、全部使ってもダメかもしれない」
「ええ、確かにその通りね。これで完全に治る保障は……ないわ」
「貴重な薬草を無駄に消費して、どうすんのよぉ!」
そう、この薬草は貴重品。あの草花が生い茂る妖精広場から、ほんの一束しか採取できなかったのだ。生えているのは三つ葉ばかり。薬用効果があるのは四葉のみ。発見できる確率は、地球のクローバーと同じ程度であることを、小学生に戻ったように妖精広場で四葉を探し回った四人は知っている。
「無駄なんかじゃないわ、このままだと双葉さんは――」
「じゃあこっから先、私らが怪我したらどうするのよ! 次の妖精広場で、薬草が見つかるかどうか分からないのよ? もし、私らより先に広場についた人がいたら、もう全部とっちゃってることだってあるでしょ!」
眼を血走らせ、唾を飛ばす勢いでまくしたてる彩は極度の興奮状態にある。しかしながら、その主張は確かに筋が通っている。涼子をして、完全に反論できないほどに。
「それじゃあ佐藤さん、貴女は……双葉さんを、見捨てろっていうの?」
究極的な問いを、涼子は発した。
「……その聞き方はズルいんじゃないの? 如月さんだって、分かってるでしょ、ホントはさぁ」
歪んだ笑みを浮かべる彩の返しに、思わず、涼子は目をそむけた。
「ち、違う、私は……」
「何が違うのよ! 私は悪くないわよ、だって、どう考えたって、そうとしか思えないじゃない! この先のこと考えれば、誰だって、私にだって分かるわよ!」
「けど、それは――」
「ちょ、ちょっと待って!」
負傷者を前に、醜い口論に発展しかけた二人を止めたのは、美波である。そういえば、絆創膏を全否定されたあたりから、全く姿を見かけなかったなと、今更ながらに気づいた。
「そんなに騒いだら、魔物が寄ってきちゃうよ。血の臭いもするし、あの犬みたいなヤツとか、すぐ気づかれるって!」
美波のもっともな主張に、彩は顔色を青ざめ、涼子は顔を白くする。ただでさえ仲間の一人が生きるか死ぬかの状況にあって、今度は自分達までも危機にさらされかねない現状に気づいて。
「そ、それじゃあ早くこの場を――」
「大丈夫、このすぐ先に妖精広場があるの見つけたから! ね、まずはそこに双葉ちゃんを運ぼうよ」
美波が指差す先は、枯れ木の通路が途切れるT字路の右。どうやら、その先を俊足でもって確認してきたようであった。
「ええ、そうしましょう。そこの妖精広場で薬草があれば、全ての問題は解決するわ」
「……ん、まぁね」
そうして、三人はすぐに移動を始める。
「ん、ぐっ……」
と、重苦しい呻き声を上げるのは、芽衣子ではなく涼子であった。
「んあっ! ちょ、重っ! アンタ、一体何キロあんのよぉ!」
女子三人で、芽衣子の巨体を持ち上げられたのは奇跡である。いや、正確には、芽衣子に肩を貸しているだけであるのだが。
押し潰されそうになりながらも、どうにかこうにか芽衣子を歩かせる。腹部の傷は、少しでも出血を抑えられるよう、涼子が自らのジャージを巻き付けるという応急処置が施されている。白嶺学園の紺色ジャージが、血が滲んでどんどん黒ずんでいくのを見れば、効果のほどは定かではない。
「はぁ……はぁ……やっと、ついた……」
息も絶え絶えに、彩はつぶやく。涼子は無言、流石の美波も、この苦行に言葉を失っている。
「薬草を、探しましょう……」
額に玉の汗を浮かばせる涼子の一声で、三人は妖精広場の草地に挑んだ。
噴水のすぐ脇に寝かせた芽衣子、彼女が時折あげる苦しげなうめき声をBGMに三人は黙々と探し続ける。
「……ダメね」
結果は、その一言に尽きる。一本。それが収穫の全てであった。
「はは……あはは……決まりね」
疲れた表情を浮かべながら、足を投げ出して芝生の上に座り込んだ彩が投げやりに言う。
「ね、ねぇ、決まりって……」
泣きそうな顔でオロオロしながら、美波は彩と涼子を交互に見やる。
「私に、言わせないでよ……ほら、どうするのか言ってよ、委員長」
流石の涼子も、眉間に深い皺を刻んで黙りこくる。彼女はうつむいたまま、どれだけ時間が流れただろう。正確に測れば、一分にも満たないだろうが、それでも、永遠に感じられるほどに、苦しい静寂だった。
「双葉さんは……もう、助からないわ」
苦渋の決断であった。
「ええっ!? 涼子ちゃん!」
「あははっ、もうそんな良い子ぶらなくてもいいじゃない、夏川さん」
「そ、そんなっ、私は――」
「だから、いいって。しょうがない、しょうがないことなのよ、これは。誰も悪くない」
彩は「悪くない」「私は悪くない」とつぶやきながら、乾いた笑いをあげている。普通の女子高生である彼女が、残酷な選択に直面して冷静でいられるはずがない。現実逃避して何が悪い。
「今の私達にとって、怪我を治す薬草は貴重品だわ。これから先、私が魔法を使えないほどの負傷をしたら、佐藤さんが弓を引けないほど腕を切られたら……何より、前で魔物と戦っている美波、貴女が一番、負傷の危険性は高いのよ」
これまで類まれな運動神経と身体能力、そして『見切り』によってあらゆる攻撃を回避し続けてきた美波の実力は、後ろからその戦いぶりを見ていた涼子はよく知っている。しかし、その回避能力も過信などとてもできない。強力な魔物でなくとも、もっと大勢のゴーマに囲まれただけで、対処はできないと容易に想像がつく。
「え、でも、私……大丈夫、だし……」
「ダメよ美波。貴女にもしものことがあれば、遠距離攻撃向きの私と佐藤さんは共倒れになる。薬草の配分、本当はもっと前に、決めておくべきだったのよ」
涼子は苦しみから逃れるように、美波から、勿論、芽衣子からも視線を逸らして、ただ緑の地面を見つめる。その視線の先に、都合よく四葉のクローバーなど、あるはずもなかった。
「よーするにさ、双葉さんは見捨てるしかないのよ。私達が生き残るには。役立たずの豚は切り捨てられる、当然の結果でしょ」
「やめて佐藤さん、そういう言い方は、よくないわ」
「じゃあどういう言い方すればいいってのよ。ブタバに泣いて謝れば、それで許されるの? そういうのってさ、偽善って言うんじゃないの?」
「でも、だからってそんなの、人として許されることじゃないわよ!」
それなら、役立たずだから、効率的だから、といって人間一人の命を諦めるのは、許されることだというのか。
「……ごめんなさいね。死者に鞭打つような真似は、するべきじゃないもんね」
ギリリ、と涼子は歯ぎしりするほど苦い顔。言い返せない。彩の言うとおり。どれほど体裁を取り繕っても、芽衣子を見殺しにする以上、偽善にしかなりえないのだから。三人は最早、共犯者といってよい。
「ねぇ、早く出発しましょうよ。このまま死ぬまで見守ってるのは、いくらなんでも悪趣味じゃない?」
何より、自分達にとっても気持ちの良いものではない。彩は勿論、涼子も美波も、この罪悪感から逃れたいであろうことは、血の気の失せた顔色を見れば一目瞭然である。
「……ええ、そうね。ここに薬草が無かったのも、先客がいたからかもしれないし」
「自分が生き残ることしか考えないクズが先に天送門についたら、さっさと出て行っちゃうわよ。もし三人の人数制限が本当なら、取り返しのつかないことになる」
蒼真悠斗の力は信頼に値する。しかし、必ずしもゴールまで一番で辿り着くかと問われれば、流石にどうか分からない。このダンジョンには崩れた場所、通ることができない通路が存在しているのを、彼女達はこれまで何度か目にしてきた。運が悪ければ、かなりの回り道をしなければ天送門まで到達できない、最悪、完全に閉じ込められているという可能性もありえなくはない。
悠斗よりも幸運、かつ自己保身的な生徒がいれば、他のクラスメイトのことなど考えず脱出するのは火を見るより明らかだ。
「何より、これでちょうど三人になったじゃない。ブタバを捨てるのも、ちょっと早いか遅いかだけの違いでしょ」
「……もう、やめて佐藤さん。それ以上は言わなくていい、全部、分かっているから」
「そう、ならいいわよ。偽善に巻き込まれて死ぬのはまっぴら御免――だけど、二人は大丈夫そうよね。もうちゃんと、最善の決断ができたんだし、ね?」
そうして、ダルそうに彩は立ち上がる。パンパンとスカートについた草を払ってから、何気ない動作で芽衣子の元へ歩み寄る。そして、傍らに転がる彼女の鞄から、角ばった黒いケースを抜き取った。
「佐藤さん、それはっ――」
「コイツにはもう必要ないでしょ。ゴーマの錆びたナイフより、こっちの方が使えそうじゃない」
美波へ向かって真っすぐ差し出されたケースは勿論、芽衣子愛用の包丁セットである。切れ味鋭い刃物は、盗賊にとって心強い武器となる。主と共に死蔵させるには、あまりに惜しい一品。勿論、芽衣子が持ち歩いていた肉切り包丁も含めて回収される。
すでに美波は文化包丁を借りているが、予備があるに越したことはない。あるいは、護身用として涼子と彩の二人が持ってもいい。
「え、えっと、私……」
「いいわ、後であげるから」
目じりに涙を浮かべるだけで、すぐに受け取らない美波の気持ちを汲んで、彩は自分の鞄へと包丁セットを強引にねじ込んだ。結構な大きさになるが、教科書や参考書などのデッドウェイトを捨てた学生鞄には、ギリギリで入る容積は確保できていた。
「さぁ、行きましょうよ」
そして、今度こそ真っ直ぐに彩は妖精広場を出ていく。涼子と美波は、暗い表情でうつむきながらも、すぐに彼女の後に続いた。
「……ま、待って……助け、て……」
か細くも、その縋るような声は、確かに二人の耳に届いた。
「……ごめんなさい、双葉さん」
「ご、ごめんね……ごめんねぇ……」
二人は、それだけ言い残し、去ってゆく。一度も振り返ることなく。
そうして、双葉芽衣子は見捨てられた。役立たずの豚には、相応しい末路――そう、心の底から納得することなど、できるはずもない。
しかし、薄れゆく意識の中、芽衣子の心にあるのは、ただひたすらに恐怖のみ。自らの行いを省みることも、見捨てた三人に対する恨みもない。
ただ怖くて、恐ろしくて、寒かった。そのまま、冷たい冬の海にでも沈んで行きそうな心地になった、その時だった。
「双葉さん! 双葉さん、大丈夫!」
救世主の、声が聞こえた――




