第10話 双葉芽衣子・1
崩壊を始めた教室は大混乱を極めていた。双葉芽衣子が覚えているのは、そんな騒然とした雰囲気と、あ、と思った時には真っ暗闇が広がる空間に放り出されていたことだけ。
「ん……うぅ……」
目が覚めると、薄暗い場所で横たわっていた。硬くて、冷たくて、おまけに少し湿っている、最悪の寝心地。自室にある、自分の巨体を受け止めてくれるキングサイズベッドの柔らかく温かな感触を思い出そうとした矢先、意識が現実に戻ってくる。
幸いにも、記憶はしっかり残っていた。見ず知らずの場所で目覚めた不安と恐怖でひと泣きした後に、すぐ現状把握をすることができた。
どうやら、本当に異世界へやって来たらしい。自分が寝ていたここは、苔の蒸した石造りの祠のような建物の内部。扉のない開けっ放しの入り口からは深緑の森が覗き、その反対側には、地下へと続く長い螺旋階段が続いている。
何処へ行けばいいのだろうか。みんなは、何処へ行ってしまったのか。またしても、大きな胸の内に不安が膨れ上がっていく。二度目の涙が溢れそうになった時、芽衣子は閃いた。
「あっ、そうだ、魔法陣! 桃川くんの!」
頭に思い浮かんだのは、黒板に浮かんだ不気味な白い光の文様と、救世主が如き隣の席の小さな男子の可愛いらしい顔。
そっけなく渡された桃川小太郎直筆の魔法陣が書き込まれたノートの一ページは、単なる落書きのように見えるが、今はこれが唯一の希望である。ありがとう桃川くん、と仏様に祈るような心持ちで、芽衣子は魔法陣を発動させた。
「天上の神々よ、我を助け導く、奇跡の力を授け給え。ここに天命を果たすことを誓う――きゃあっ!?」
呪文を唱え終わった瞬間、手の甲に浮かび上がる光の魔法陣。眩しい、と同時に、熱を感じた。
「きゃぁーっ! なにこれ、あ、熱っ、熱いよぉ!」
実のところ、言うほど熱くもないのだが、体に起こった異変に混乱の極致にある芽衣子は叫んでいた。泣き叫んでいた。
うるさいくらいに自分の甲高い声が反響する祠の中にあったのだが、その時、声が聞こえた。
「――与えましょう」
自分の声ではない。紛れもなく第三者の声が。気のせいではない、はっきりと耳に届く。
「貴女に力を、与えましょう」
それは、優しい女性の声だった。恐怖と不安で高ぶった感情が不思議と落ち着いてくる。もし、本当に女神という存在がいるのなら、きっとこんな声をしているだろう。そんな響き。
「――ええと、てん、しょく?」
気が付けば、手のひらの発光も消え、女神様らしき声も聞こえなくなり、とりあえず冷静さを取り戻した芽衣子は、ノートの魔法陣に文章が浮かび上がっているのに気付いた。
それを読んで、段々と状況が見えてくる。天職、ダンジョン、天送門。とても納得しがたいものだが、それでも、理解しなくてはいけない。
「が、頑張らないと……頑張って、みんなで元の世界に、帰らなきゃ」
いささか以上の時間を要して、双葉芽衣子はついにダンジョンを進む決意を固めた。
震える両手で勇ましく握るのは、分厚い刃の肉切り包丁。特徴的な長方形の刃は、ピカピカに磨き上げられており、コレがあれば牛一頭分の肉だって捌いて見せるという気概が伝わってきそうな迫力がある。
芽衣子は私立白嶺学園において、料理部に所属している。彼女の趣味は料理。それは作ることと食べること、両方が含まれる。
幼くして美食の求道者と化した芽衣子は、めきめきと料理の腕前を上げて行き、同時に、ぶくぶくと体も育っていった。沢山作って、沢山食べる。当然の結果である。
ともかく、九月二十日、三連休明けの月曜日に登校してきた芽衣子は、休日の間に自宅へ持ち帰り手入れをしたマイ包丁セットが鞄の中に入っていた。今日の放課後も、この鋭く研がれた愛用の包丁達を使って美味しい一品を仕上げる予定だったのだが、何の因果か、今は彼女自身の身を守る武器として使われることとなっていた。
二年七組にも料理部に所属する女子は、友達の北大路瑠璃華もいるし、他の部員もそれなりの人数がいるものの、マイ包丁まで持っている本格派は芽衣子のみ。日本の家庭で一般的に使われる文化包丁、魚を捌く出刃包丁、刺身用の柳葉包丁、骨付きの固い肉も難なく切れる厚刃の肉切り包丁。おまけに果物ナイフもついてくる、お得な包丁五点セットは、二年七組の教室において最も殺傷力を秘めた道具であったに違いない。
現時点で最強装備の芽衣子だが、刃を振るうのが自他ともに認める怖がりかつ泣き虫の自分であることを思えば、早くも心が挫けそうである。正直、肉きり包丁を握っているだけで精一杯で、とても魔物と呼ばれる狂暴な生物が出現しても、一太刀浴びせられる気がしない。例え相手がチワワサイズの野良犬だったとしても、芽衣子は包丁を振るえないだろう。
食材ならいくらでも切り刻めても、まだ生きているモノは無理。躊躇せずに刃を振るえるのは、魚やイカ、タコといった魚介類の活造りをやるときくらい。
「だ、大丈夫……だって私、騎士の天職があるから……大丈夫……」
双葉芽衣子が授かった天職は『騎士』である。ノートの説明を読む限りでは、戦闘能力において何ら不足はない、割とアタリの天職だ。
初期能力は『見切り』『弾き』『恵体』の三つ。
『見切り』:敵の攻撃に反応できる。
『弾き』:武器や防具を用いて、敵の攻撃を弾き返す。
『恵体』:怪我や病気に強い恵まれた肉体。
能力の簡単な説明は頭の中にいつの間にか入っていたことで、すぐに把握することができた。しかし、芽衣子にはこの三つの能力をどう生かして戦っていくか、という思考は全くできないでいた。
決して頭が悪いわけではない、むしろ学業成績は優秀な方であるのだが、如何せん、この異常な状況下で冷静に、論理的な最適解を導き出せるはずもないのだ。さらに言えば、芽衣子はRPGやアクションなどのゲームには疎い。女の子らしく、動物の村人達と心温かな交流をする人気のシミュレーションゲームや、プヨプヨした丸いゼリーを繋げて消す有名なパズルゲームといったタイトルが、数少ない彼女のゲーム経験である。
この『天職』という如何にもゲーム的なスキルシステムを見せられても、全くピンとこないのだった。
しかしながら芽衣子にとって幸いだったのは、薄暗い通路が続くダンジョンで最初に出会ったのが魔物ではなく、見知った顔のクラスメイトだったことだろう。
「――貴女、双葉さん? 良かった、無事だったのね」
細い十字路でばったりと出くわしたのは、双葉芽衣子とは対照的な細身とクールな美貌を持つ、我らが二年七組のクラス委員長、如月涼子である。
「き、如月さん! ふわぁー良かったぁ、良かったよぉーっ!」
ダンジョンの中にあっても、いつもの知的で落ち着いた雰囲気をまとった涼子の姿は、芽衣子にとってこの上ない安心感をもたらしてくれた。
「ちょ、ちょっと双葉さん、落ちついて」
迫り来る巨体に若干引きつつも、とりあえず涼子は泣きつく芽衣子をなだめてくれた。
「――私も、この状況にはまだ混乱しているのだけれど、それでも目的はハッキリしているわ。何が何でも、こんなふざけた場所から脱出して、一刻も早く元の世界へ帰りましょう」
コンクリートのように硬い灰色の通路を歩きながら、現状について話していると、芽衣子の心も少しずつ落ち着きを取り戻してくる。何より、涼子の力強い言葉は、不安に押しつぶされそうな暗い胸の内に、希望の光を灯してくれた。
芽衣子は如月涼子と特に親しくはない。これまで話したことは、片手で数えるほどしかないが、それでも、芽衣子は知っている。彼女が容姿端麗なだけでなく、学業成績も運動神経も抜群であることを。クラスメイトから「委員長」と呼び親しまれているように、そのリーダーシップも折り紙つき。おまけに、黒高のヤンキー十人を病院送りにした最強の不良である天道龍一を相手にしても全く物怖じず、むしろ尻に敷くほどの胆力も持ち合わせているのだ。
逆立ちしたって、彼女のようにはなれないと憧れと諦めの感情を同時に抱かせる。それが、如月涼子という少女である。
「ねぇ、双葉さんは、この天職という能力を試したかしら?」
「え? あの、えっと……まだ、だよ」
「そう、私もまだ説明を読んだだけなのだけれど、どうやら、今ここで試さざるをえないようね」
涼子と連れ立ってダンジョン探索をすること数十分後、早くもその時はやってきた。
場所は幾つかの通路が合流する円形の広間。これまでの殺風景な石の灰色とは打って変わって、そこは緑の空間だった。壁面には無数の蔦が生い茂り、妙に捻じれた歪な木々が、円柱の代わりに床から天井まで立っている。
しかし芽衣子としては、この様変わりした広間よりも、そこにいる住人達こそ目を引いた。
「わ、あっ……なに、あれ……ネズミ、だよね?」
薄暗闇の向こうから、真っ赤な目を不気味に光らされて現れたのは、日本でもお目にかかれるなじみ深い動物、ネズミの姿をしていた。強いて言えばその大きさが、およそ人がイメージするものよりも大きい。一回りとか二回り、なんてものではなく、桁外れに、という形容詞がつくほどに。
薄汚れた灰色の毛並みに、毛のないミミズのような細長い尻尾。どう見てもネズミだが、その大きさは猫に近い。窮地に立たなくとも、猫を噛めるサイズ。
そして、このネズミは実際に猫を噛み殺すことができるだろう。その口からは、齧歯類特有の出っ歯の代わりに、サーベルタイガーが如き鋭い二本牙が生えているのだから。口元から大きな牙と、鋸のような歯列をガチガチ鳴らして威嚇音を上げる。
そんなモンスターネズミが、芽衣子と涼子の前に姿を現したのだ。大群で。
「やだ……い、いっぱいいるよぉ……」
大きな体を目いっぱいに振るわせて、芽衣子の体は恐怖で完全に硬直していた。今の彼女は、反撃は勿論、逃げることさえままならない最高に美味しい獲物である。おまけに肉付きも良い。ネズミ共は今から涎が止まらないだろう。
我慢する理由など、何もない。特に示し合わせたワケでもなく、目と牙をギラつかせて、ネズミの大群は一斉に動き始めた。
「――『氷矢』」
その時、芽衣子は背筋が凍る気持ちの中で、本当にひんやりした冷気を肌で感じた。直後、キィンと甲高い音が耳に届く。そこで、ようやく彼女は目の前で何が起こったのかを認識した。
「凄い……本当に、魔法が使えるのね」
クールな委員長をして感嘆の台詞を漏らさせる。それほどの現象であった。
真っ直ぐ右手を延ばした涼子、その先に一本の氷柱が突き立っている。ネズミを二匹まとめて貫いて。
芽衣子はソレが発射された瞬間を目にしていなかったが、それでも簡単に想像がつく。涼子が、氷柱を撃つ魔法を放った。そして、ネズミの体は透き通った氷の矢にぶち抜かれ、薄汚い灰色の毛を、赤黒い血でさらに汚したのだと。
思わぬ反撃を喰らったことで、ネズミは警戒したのだろうか。群れは突進を中断した。波が引くようにサっと身を翻し、距離をとる。それからさらに、左右に素早く散って、涼子と芽衣子を円形に包囲するように動き始めた。
「凄いけど、これだけじゃ埒が明かないわね」
涼子は冷静に自分の能力と、敵の実力を図っているようだった。この窮地に置いて、そこまで頭が回る、それでいて、行動に移すことができる。凄まじい度胸と対応力。
ついでに言えば、如月涼子、彼女は魔力も凄かった。
「الجليد الباردة تجميد انتشار النار――『氷結放射』!」
全く聞き取れない謎の言語による詠唱と、恐らく魔法の名前であろう言葉を涼子は叫んだ。思い切り、両掌を前へ突き出したその瞬間、『氷結放射』は効果を発揮した。
吹雪を起こす魔法だ。それが、芽衣子の感想である。
涼子の手から、真冬の夜に吹き荒ぶ暴風雪のような冷気が迸り、次の瞬間には、眼前で蠢くネズミが凍りついた。まとめて、何匹も。数えきれないほど。
その魔法一発で、前方のネズミはほとんど全滅であった。汚らしい灰色の体は、一瞬にして真っ白い雪化粧が施され、二度と動くことのない氷像と化している。
突如として大量の仲間が殺戮された事実に、ネズミは適切な対応――つまり、逃げるという選択を即座にとることはできなかった。あるいは、涼子の追撃が早すぎたのかもしれない。
「これなら、いけるわね――」
続けざまに、もう一度『氷結放射』を放つ。今度は、左右に展開した群れを薙ぎ払う様に。地を這うネズミに、瞬時に体を凍てつかせる冷気の嵐を避ける術はない。
「す、すごい……如月さん……」
気が付けば、ネズミの群れは綺麗さっぱり消えていた。半分以上を氷漬けにされ、群れは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったのである。後には、気味の悪いネズミの化け物の氷像だけが残された。
「ふぅ、上手くいって良かったわ。こんな魔法が使えるなら、この先も何とかなりそうね」
穏やかに微笑む涼子は、どこまでも眩しく見える。そう、自分が何の役にも立たない、醜い豚に思えるほどに。
「さ、行きましょう、双葉さん」
窮地を脱した安堵感と涼子への信頼感。それと合わせて、心の内で芽生えたささやかな劣等感を胸に、芽衣子は先に進む。
「――なるほど、如月さんの天職は氷魔術師だったってことか」
マトモな天職を授かれば、ここまで戦えるものなのか。改めて嫉妬の感情を覚えそうになるが、もし僕が同じ状況に立って、いきなり氷魔法をぶっ放せるかといえば、甚だ疑問である。
恐らく、牙の生えた巨大ネズミ、この際『牙鼠』と命名しよう――その、牙鼠の群れを前に、ここまで見事な反撃ができたのは、ひとえに如月涼子という人物が優れているからに他ならない。
前から思っていた、それとなく感じていた、と言うべきだろうか。彼女は、蒼真君や天道君と同じ側の人間だと。優秀だとかリア充だとか、言葉にすれば何とも安直な表現に聞こえるけど、要するにそういうこと。顔も頭も体も、おまけに性格も優れている、万能人。
「氷の矢の単体攻撃に、冷気を放出する範囲攻撃。汎用性は抜群だな……そういえば、初期スキルは三つだから、まだもう一つ、何か持ってるのか。双葉さん、分かる?」
「え? あの……ごめんなさい、分かんない」
眉根を下げて困ったような、申し訳ないような、そんな顔でシュンとしてしまう双葉さん。別に責めてるワケじゃないから、そんな反応されるとこっちが困る。
ここで何か優しく気の利いたフォローでも言えれば男として完璧なんだろうけど、残念ながらイケメン力が足りない僕には無理な対応だった。数秒ほど返す言葉を探したけれど、結局、何も思いつかずスルーするに至る。情けない。
「……分からないってことは、常時発動型のパッシブスキルか、意図的に隠していたってことになるんじゃないかな」
僕の『痛み返し』と『直感薬学』は、特に呪文や特定の行動と関係なく効果が表れている、常時発動型である。双葉さんの『恵体』も同様だろう。
「ああ、ごめん、話の途中だったよね」
ここまでは、羨ましいほど順調に進むダンジョン攻略の話である。未だ、双葉芽衣子、彼女が妖精広場で無惨にも血塗れで倒れるシーンまで至っていない。
「うん、あのね、その後は――」
果たして、彼女の口からどんな事実が語られるのか。僕は、すでにしてあまり良い予感がしないながらも、大人しく双葉さんの言葉に耳を傾けた。