第105話 アラクネの巣
「痛ってぇ……」
アラクネに捕まり、糸にくるまれた上から噛み付かれた僕は、そのあまりの痛みに気絶……したのはほんの一瞬で、自分がズルズルと地面を引きずられていることに、すぐに気が付いた。
幸い、分厚い糸が繭のように僕の全身を守ってくれているようで、洞窟の中を引きずられても痛くはない。ついでに、痛くないのは別に僕の体が麻痺しているからでもなく、きちんと五感は働くし、手足が動くことも分かっている。噛まれた背中がジンジンと鈍痛を放っている以外は、全くの無事である。
どうやら、僕を噛んだのは殺すためではなく、毒を流し込んで身動きをとれなくするためのようだ。
でも、僕が全然無事でいられるのは、『蠱毒の器』があるからに違いない。あのバジリスクのアシッドブレスだって防いだのだ。蜘蛛の麻痺毒くらい、無効化してくれるだろう。
僕がそんな毒耐性スキル持ちなんて、アラクネが知るはずもない。ジっとしていれば、僕に毒が効かなかったとは気づかないはず。
それで、恐らく普通だったら、毒と糸で身動きを封じたまま生かして、捕まえた獲物を新鮮に保存するのだろう。
僕の推測を裏付けるように、しばらく引きずられた後は、ミノムシみたいにどこかへ糸の繭ごと吊り下げられた感覚がした。それきり、アラクネが動く気配も感じなくなった。まぁ、奴は静かに歩くし、ちょっとジっとされたら気配なんて分からないけども。
僕は糸の中でモゾモゾと身を捩って手を動かし、まずは外の様子を把握するべく、慎重に目元の糸をかき分けた。繭と化した糸はベタベタしている上に結構な厚さもあり、ほんのちょっとの隙間を作るだけでもえらい苦労した。生身のままだったら、脱出するのは難しいだろう。
「やっぱり、ここは蜘蛛の巣か」
隙間から覗き込むと、予想通りの光景が広がっていた。
ルーク・スパイダーの縦穴洞窟とは異なり、森林ドームのような場所に、このアラクネは巣を構えているようだ。下の方に、巨大な蜘蛛の巣が床のように張られていて、その向こう側には、木々の頭が緑の絨毯と化しているのが見える。かなり高い位置に巣を張っている。天井があるから、森の真上にも巣を張れるのだ。引っかかる奴いるのか?
もしかしたら、アラクネにとって蜘蛛の巣は餌を捕らえるトラップではなく、ただの生活拠点でしかないのかもしれない。高い位置にあるのは、単純に外敵の侵入を防ぐためで。
僕を蜘蛛糸で一本釣りしたのは、そういう方法で獲物を狩るのが主流なのだと考えれば、納得も行く。あの面子の中で僕を餌に選んだのは、一番弱いと判断したからか。だとすれば、アラクネの目は確かだ。他のメンバーだったら、噛み付く前に反撃されてやられてしまう可能性は高い。
「はぁ……まさか、またはぐれることになるなんて」
折角、いい感じにチームワークが生まれてきたところだったのに。
前衛のジュリマリコンビに後衛の蘭堂さんで、普通に強いパーティ構成。その上さらに、気分屋だけれど、どんなボスでも楽勝できそうな天道君という秘密兵器まで抱えているんだ。恐らく、今の天道ヤンキー組は蒼真悠斗の勇者パーティに匹敵する戦力だろう。
離脱するには、あまりに惜しいパーティだった……
「合流は、無理だろうな」
今から戻っても、どうしようもない。そもそも、道も分からないし。
地底湖のボスを倒し、ジーラの大群も殲滅した以上、彼らがあそこに留まっている意味はない。
僕は不意打ちでモンスターにやられた哀れな犠牲者として、助けに来ることもないだろう。ちょっとくらい、僕の死を惜しんでくれればいいのだけれど。
まぁ、僕がこうして生きている以上、またソロで頑張るしかない。レムを再召喚すれば、それほど寂しくもないし。あ、でも折角、豪華な素材で強くなった体を失うのは勿体ないな。でも、しょうがない、あれはボーナスみたいなものだったと諦めよう。
こんなにあっさりと割り切れるのは、野生に生きる魔物の仕業だということ。そして何より、一回似たような経験をしているからだろう。
もっとも、魔物相手にはさして恨まないけど、人間相手なら普通に呪ってやるけどね。
「それじゃあ、まずは脱出だな」
少しずつ隙間を広げて、周囲をグルっと見渡したところ、やはりアラクネの姿は見えない。再び狩りに出かけているのだろうか。それとも、僕からは死角になっている巣の真上に陣取っているのか。
どちらにせよ、いつまでも繭の中にいても仕方がない。今回は一噛みされるだけで済んだけど、次は本格的な食事が始まるかもしれないのだ。物理的に肉体を食い千切られてしまえば、無敵の毒耐性スキルなんて意味はない。やっぱり、物理防御が欲しいよね。
ないものねだりをしても仕方ない。とりあえず、噛まれた背中の傷を治す薬もあるだけ、呪術師の能力で良かったと思おう。
アラクネが僕を着の身着のまま、丸ごと糸で縛ってくれたお蔭で、鞄も装備も失ってはいない。種々の傷薬と貴重な魔法武器レッドナイフ、あと僅かばかりの厳選素材とコアの欠片。全て手元に残ったままなのは、本当に幸いだ。
「うっ、くっ! 背中、届きにくい……」
繭の中で、背中の噛み傷に薬を塗るのに四苦八苦してから、いよいよ脱出を試みる。
「くそっ、やっぱ普通のナイフじゃ切れないか」
この蜘蛛の糸は、その粘着性もさることながら、結構な柔軟性も備えている。ちょっとくらい、刃物で切ったり突いたりしても、目だった傷がつかない。
「ちょっと危ないけど、レッドナイフで……」
どうか一気に燃えませんように! と祈りながら、僕は慎重に炎の刃で繭を切り裂く。思い切り振り回さなければ、炎も噴き出ず、ただ刀身に灼熱が宿るだけで、ゆっくりと切っていけば、かなりいい感じに糸の壁を焼き切ることができた。
縦に両断し、脱出路を確保。さらに視界も開けたところで、もう一度、周囲をよく見渡す。
「……よし」
アラクネの影はなし。その代りに、僕と同じような繭が幾つもブラ下がっていた。黒い手足が飛び出ているのを見ると、ゴーマの捕獲率は高いようだ。アイツらバカだからなぁ、アラクネにとっては、いいカモだろう。
さて、今の内に脱出しよう。かといって、この高さで飛び下りるのは……
「ああ、今ほど『黒髪縛り』があって良かったと思ったことはないよ」
これまで幾度となくお世話となった、呪術師のメイン武器といっても過言ではない万能呪術こと『黒髪縛り』を、僕の運命を全て預ける、命綱として使うのだった。
どうか、無事に下まで降りられますように!
「はぁ……つ、疲れた……」
恐怖の黒髪降下をようやく終えて、僕は地面に足がつくことの幸せを噛み締める。
いくら自在に操れる黒髪触手といえども、これを使って特殊部隊員みたいに華麗な動作でラペリングができるはずもない。地上まで届くほどの長さ、そして僕の体重を支える太さを備えたのを一本作るだけで、思ったより大変だった。そこからさらに、僕の体を固定するための支えなどを構築し……結果的に、この高さから安全に脱出するには、限界ギリギリの出力となった。ああ、今まで鍛えておいて、本当に良かった。
ともかく、恐怖の黒髪ラペリングも無事に終えて、地上へと生還することができた。
息を整え直したら、すぐに出発しなければ。アラクネに見つかれば、また巣に逆戻りか、今度こそトドメを刺されてしまうかもしれない。
「とりあえず、こっちか」
魔法陣を確認して、示す方向に向かって僕は歩き出す。今は少しでも遠くへ離れておきたい。レムを再召喚する時間も惜しい。素材がないから、大した性能にもならないし。
すぐに妖精広場まで辿り着ければベストだけれど、遠ければ、どこか適当なところで準備を整えたい。
「キシキシ」
緑の茂みの向こうから聞こえたその声に、僕の心臓は止まるかと思った。止まりはしない代わりに、鼓動は急速に高まっていく。
今の鳴き声は、まさか、もう脱走がバレて見つかったっていうのか!?
「キシャァーっ!」
「っ!?」
気配を隠すことなく、ガサガサと茂みを突っ切り、ソイツは姿を現した。
アラクネ……ではない、けれど、別の蜘蛛だ。蜘蛛型魔物というべきか。
サイズはアラクネよりもさらに一回り以上は小さいが、それでも虫としてはありえない大きさ。頭の位置は僕の腰よりも低い位置にあるけれど、長い脚は広げるとニメートルくらいありそうだ。
全体的な形はアシダカグモのようで、色はこの森林ドームに適応しているためか、緑と茶色のまだら模様で、迷彩柄のようだ。
そんな新たな蜘蛛型魔物の八つの目が、僕を見つめていた。
「『蜘蛛の巣絡み』っ!」
「シャアアアっ!」
早撃ち対決は、僕の勝ちだった。
逃げるか、戦うか、悩む間もなく。僕は黒髪で編んだ投網である『蜘蛛の巣絡み』を放った。戦うにしても、逃げるにしても、相手の動きを封じなければ、どうにもならない。
アシダカの奴も、僕をちょうどいい獲物と判断したのだろう。口から黄色い液に塗れた、太目の糸を放っていた。僕の『蜘蛛の巣絡み』が先に命中した結果、照準は大きくズレて、当たることはなかった。
外れた黄色い糸攻撃は、僕の代わりに緑の葉を生い茂らせた枝にかかり、ジュっという溶解音と共に腕くらいある太さの枝を両断していった。どうやら、あの黄色い液は強酸性らしい。当たってたら即死か、いや、もしかしたら『蠱毒の器』で無効化できるかもしれない。でも、試すつもりは毛頭なかった。
走って逃げて、後ろから酸の糸で撃たれたら堪らない。奴はここで始末しよう。
「くらえっ!」
レッドナイフを抜き放ち、黒髪縛りに絡めて飛ばす。樋口戦以来、しばらく出番のなかった飛刃攻撃だ。
「シャオ!」
黒髪の投網から脱する間もなく、アシダカの顔面に灼熱の刃が突き刺さる。触手でコントロールされているから、相手が動かなければ正確に狙える。でも、ここまで綺麗に決まったのは初めてな気がする。正に、会心の一撃!
「シャっ! キシャァアアアアアアアっ!」
突き刺さったレッドナイフが、刀身に秘める火炎によってアシダカを焼く。頭の中を焼き尽くされたのだろう、奴はビョンっとバネ仕掛けのオモチャみたいにひっくり返るなり、長い足先をピクピクいわせて、完全に動きを止めた。
「や、やった……上手くいって良かったぁ……」
出会いがしらに即戦闘に突入し、よく勝てたものである。何だかんだで、僕の戦闘能力も向上していると舞い上がってもいいだろうか。
いや、喜んでいる場合じゃない。コイツが二匹同時に出現すれば、もう僕の手には負えない。見たところ、岩や大きな木の根がボコボコしている上に、起伏の大きなこの地形では、僕が走るよりも、蜘蛛の方がよほど速く走るだろう。いや、平地で走っても蜘蛛の方が早そうだけど、こんな足場の悪い場所なら、尚更に追いつかれるのも早い。
思わぬところで機先を制されたが、さっさとここを離れなければ――
「いや待て、落ち着け……コイツで、試してみるか」
今すぐダッシュで逃げたい衝動を抑え込み、僕は倒したアシダカの死体へと向き直る。
「よし、間違いなく、死んでいるな」
頭から胴体にかけて、ほとんど黒焦げになっている。足先が動くこともなく、長い足を丸めるような形になって、死体は固まっていた。
そう、死体が相手なら、使えるはずだ。
「死出の旅路を祝い、晒される骸を呪う。黒い血。泥の肉。空っぽの頭。最早その身に魂はなく、ただ不浄の残滓を偽りの心と刻む。這い、出で、蘇れ――『怨嗟の屍人形』」
『怨嗟の屍人形』:無念の隙間を呪いで塞ぎ、ただ肉体のみをつき動かす、恩讐の人型。
そう、これは勝の体にレムをとりつかせて行使した経験から、新たに編み出された呪術である。文字通り、死体を操る呪いだ。
っていうかこれ、呪術っていうよりただの屍霊術なのでは。
「……よし、成功だ」
泥人形と同じような、黒々とした混沌の影が現れる。だが、そこに死体は沈まず、その代わりに、混沌が侵蝕するように、黒いドロドロしたモノが這い上がって、死体を覆い尽くしていく。
そうして、スッポリと全身が包み込まれてから少しすると、シャワーで汚れを流すように黒い泥のようなモノが落ちて行き――そうして、ついに死体が蘇る。
「キシ、キシキシ」
迷彩柄から、黒っぽいシティ迷彩みたいな体色に変化したアシダカは、素早く体をひっくり返して元に戻し、僕に向かって鳴き声をあげた。分かる。威嚇ではなく、恭順の声だ。
「これ、一応、中身はレムなんだよね?」
「キシ!」
頷くように、体が縦に揺れた。
やはり、泥人形二号と同じように、制御はレムが司っている。
「レム本体の方は、まだ動いてる?」
「キシ!」
「レムは、僕の居場所が分かる?」
「キシ!」
「こっちに向かってる?」
「キシ!」
「それじゃあ、もしかして……蘭堂さん達も、僕を助けに一緒に来てる?」
「キシシ」
悲しい否定の声である。いや、うん、分かってたけどさ、救助に来るわけないって。
「分かった、それじゃあとりあえず、レム本体と合流したい。行けそう?」
「キシ!」
任せろ、とばかりに僕へと背中を向けるアシダカレム。もしかして、乗れって言ってるのかな?
うん、小柄な僕なら、乗れないこともなさそう。こんなデカい蜘蛛の魔物なのだから、45キロの重りくらい乗せたって、平気で走り回れそう。
「よし、それじゃあ頼――うわぁ!?」
「キシャアアアーっ!」
蜘蛛の背中に乗った途端、アシダカレムは勢いよく発進した。長い八本脚をシャカシャカ動かして、思いのほかに速いスピードで起伏のある森を駆け抜けていく。
「うわっ、ちょっ、これは――わぁーっ!」
僕は必死になって、背中にしがみつくことしかできなかった。
ねぇ、レム、君は一体、いつ止まるの?




