第8話 遭遇・1
「やった! 妖精広場だ!」
このどん暗く陰鬱なダンジョンにあって唯一、白く眩しい安らぎを覚える空間を見つけるや否や、僕は甲子園でホームベースに帰還する高校球児が如き勢いで、その部屋へ滑り込んだ。
最初のところにそのまま戻ってきたのではないかと錯覚するほど、妖精広場は同じ景色である。等間隔で林立する妖精胡桃の木に、咲き乱れる色とりどりの薬草花畑。そして、やはりセーブポイント的な雰囲気漂う、可愛い妖精さん像の立つ噴水。水も食料も薬も、これなら存分に補給できる。
けれど、今の僕にとって何より重要なのは、この妖精広場にダンジョンのモンスターが近づかないという安全面である。当然だろう、このダンジョンには、あんな凶悪な人食い鬼が跋扈していると知ってしまったのだから。
思い返せば、アイツらは服も着ていたし斧という道具も扱っていた。猿以上、人間未満程度には知能があると察せられる。RPGに例えていうなら、ゴブリンとかグールとかいった人型モンスターのイメージだ。ゲームだったら序盤の経験値稼ぎにしかならない雑魚敵だが、いざ現実で似たような生物を目にすれば、感じるのは圧倒的な恐怖と危機感だ。恐らく、僕が目撃した三体の他にも、同族がいるはず。つまり、あんなのがウヨウヨしているのだ、このダンジョンには。
「もう……ここで一生を過ごそうかな……」
噴水の縁にリストラされたサラリーマンみたいにうなだれながら座って、そんな心が挫けた台詞を零す。いざ安全地帯まで逃れてくると、脱出口を求めて危険なダンジョン探索に繰り出すより、ここでジっとしてた方が良いんじゃないかと本気で思えてくるのだ。
いや、本当は理解している。そんなことは不可能だって。けど、少なくとも今すぐには、元気にダンジョンを歩き出すのは無理そうで――
「ん……うぅ……」
呻き声が、聞こえた気がした。僕が吐きだした盛大な溜息に混じって、そんな声音が自分の口から漏れたわけではない。
「だ、誰かいるの!?」
最初に覚えたのは危機感。もうクラスメイトと遭遇したところで、僕は阿呆のように笑顔で再会を喜んだりはしない。食人シーンのインパクトのせいで霞みつつあったが、樋口の胸糞悪いニヤケ面が瞬時に脳裏へ蘇る。
ここを脱出できるのは三人まで。一番の友人である勝にさえ裏切られた僕を、この数少ない脱出枠に入れてあげようなんて酔狂なクラスメイトは存在しないだろう。おまけに、僕の天職は呪術師。戦力的に何の期待も持てないときたもんだ。
「誰か……いるんだろ、出てこい」
僕は振るえる両手で、ポケットに入れていたカッターナイフを刃全開で構えつつ、脳に刻まれた呪術の呪文を幾度も思い返す。『赤き熱病』に加えて、新たに授かった呪術を使えば、多少なりとも足止めできるはず。無いよりもマシ、という程度だろうが。
「出てこいよ!」
ただでさえ甲高い僕の声が、緊張で裏返って微妙なソプラノボイスになってる情けない問いかけが、妖精広場に反響する――やはり、さっきから相手から返事の一つもない。
隠れているのなら、こっちから見つけるしかない。と言っても、この部屋には人一人が身を隠す場所など、たかが知れている。
部屋の両サイドに並木道よろしく生える木をチラリと窺うが、うーん、幹の裏にいたとしても、完全に体は隠せるほどの太さはない。見る限り、木陰には誰もいない。
だとすれば、残るは一つ。立ち上がった僕の目の前に鎮座する、噴水の裏だ。ちょうど反対側の縁に寝そべっていれば、今の立ち位置から完全に死角となる。
よし、と覚悟を決めて、僕はソロリソロリと忍び足で、噴水を回り始める。ザバザバと流れ落ちる水の音だけが、耳に届く。緊張の時は、ものの十数秒で終わりを告げる。そもそも小さな噴水だ、ゆっくり歩いても一周するのに三十秒もいらない。半周なら尚更。
「――あっ!?」
果たして、そこにクラスメイトはいた。ついさっき、扉の隙間から覗きこんだのと同じく、セーラー服に身を包んだ一人の女子生徒が、そこに倒れていた。
しかし、その印象はまるで違う。名前の分からなかったあの女子生徒と比べ、今、僕の目の前で仰向けに倒れている少女は、彼女の倍くらいデカい。そして、そんな巨体を誇るクラスメイトの女子など、たった一人しかいない。
「双葉さん!」
双葉芽衣子。僕の隣の席の、体の大きな女子。けれど、魔法陣が書けないほど恐怖で身を震わせていた、乙女らしい気の小さい人だ。そんな彼女が、ぐったりと仰向けに倒れていた。
僕は彼女と特別に親しくもないし、今朝の教室で、魔法陣のメモを渡してあげたのだって、ほとんど気まぐれみたいな小さな親切心に過ぎない。正直いって、それだけで心を許せるほどの間柄じゃない。今となっては警戒こそ先に立つべき――なんだろうけど、僕は咄嗟に倒れる彼女へと駆け寄った。投げ捨てたカッターナイフと一緒に、危機感と警戒心も心の彼方に放った。
「双葉さん、大丈夫!」
彼女が、負傷していたから。黒地のセーラー服は胸元あたりまでまくり上げられ、露出した樽のように豊かな腹部が、赤黒く染まっているのが真っ先に目に入る。その傷痕は、鎧熊に一撃を喰らった僕と被るが、腹を裂く創傷が一筋であることから、刃物で切り付けられたように思える。
服がここまでめくれているのは、男に体目当てで襲われたってワケじゃなく、傷を治療するために、自らやったのだろう。
だがしかし、彼女にはこれほどの重傷に対する手当の手段は、一切なかった。そして、この有様に至ると。
「あ……も、もかわ……くん……」
彼女の丸い目が薄ら開き、傍らで呼びかける僕を見つめた。その目元には涙の跡がある。死にゆく恐怖で、どれだけ泣いたことだろう。今はもう、涙を流す気力もない。
「しっかりして、双葉さん!」
「た……たす……けて……」
「助ける! 今すぐ助けるから!」
「一人に……しない、で……置いて、いかないで……」
それだけ言って、双葉さんの瞼は再び閉じられた。
「双葉さん!? 双葉さーんっ!」
返事はない。ないけれど、まだ、息はかすかにある。咄嗟の判断で脈も確認してみた。手を伸ばしたのは、彼女の手首ではなく、真っ白い首筋。その方が近かった。でも、触れてみれば乙女の柔肌の感触に驚く。柔らかい、真っ白なもち肌。でも太い。
全く、男の本能が先に立つことに自分でもうんざりするけど、触れた指先は、確かな鼓動を伝えてくれる。
双葉芽衣子、彼女はまだ、事切れてはいない。
「頼む……効いてくれ!」
祈るような気持ちで、最初の妖精広場で呪術師素人の僕が丹精込めて作り上げた薬が詰め込まれた鞄を引っくり返した。
真っ先に手に取ったのは、ニセタンポポと妖精胡桃の葉っぱ、あと白百合みたいな花の薬草を磨り潰して混ぜ合わせた生薬、名付けて『傷薬A』だ。勿論、他の薬草と組み合わせを変えたBとCもある。けど、今はどうでもいい。
傷薬Aは、僕の命を救った高島君の弁当箱代わりのタッパーに、これでもかと詰め込んである。そして今度は、双葉さんの命を救おうとしている、奇跡のタッパーだ。
「あぁーえっと、塗る前に消毒……いや消毒液はないし……いやいや、その前に傷口を洗って、ああ、僕の手も洗っておいたほうがいいのか!?」
救急隊員が見たら憤慨モノの、どうしようもないほど段取りの悪い処置である。
とりあえず、噴水で手をキレイキレイしてから、本当に引っくり返した鞄から転がり落ちていたペットボトルを手に、急いで蓋を捻る。これは僕が持参していた、飲みかけのスポーツドリンクが入っていたヤツだけど、最初の妖精広場の時点で、中身を飲み干し、代わりに噴水の水を入れておいた。結局、ここに来るまで一口も飲まなかったので、摺り切り一杯ってほどギリギリまで水が入っている。
「し、失礼します……」
何故か謝ってから、僕は双葉さんの豊満極まるお腹へ手を伸ばした。血塗れのせいで色気も何もあったもんじゃないが、触れてみれば思わず唸ってしまうほど温かく柔らかな感触が伝わる。思い切り揉んでみたい、という衝動に駆られつつ、傷口をこれ以上開かないよう、慎重にペットボトルの水ですすぎ洗う。
多少なりとも血痕は洗い流されていくが、負傷してから時間経過しているせいか、凝固している箇所もある。このペースで洗い続けても、らちが明かない。ほどほどで切り上げて、いよいよ傷薬Aの出番だ。
幸いにも、腸が飛び出るほど傷は深くない。しかしながら、ヘソのすぐ下に横一文字に走る創傷からは、未だにジワジワと血が滲み出てきている。失血死の危険性が、一番高いだろう。
「大丈夫だ……絶対、絶対に効くはずだ……」
止血効果オンリーのニセタンポポだけで、僕は一命を取り留めたのだ。今や立派な生薬としてグレードアップしたこの傷薬Aなら、これくらいの負傷、すぐに治してくれるはず。そう一心に信じて、僕はタッパーから青臭い野草の香り漂うペースト状の傷薬を掴み、双葉さんのお腹に塗りつける。
これで間違いなく血は止まるだろうけど、もし、今の段階で致死量が流れ出いてれば……いや、やめよう、こればっかりは悩んでも仕方ないことだ。そうは思っても、双葉さんの血の気の失せた青白い顔色を見れば、どうしても「手遅れ」という単語が浮かんでしまう。
「あとは……祈るしかない、か」
タッパーの半分くらいを豪快に消費して、打てる手はなくなった。包帯もなければ、勿論、輸血パックもない。ついでに、安静に寝かせておく清潔なベッドもない。可哀想だけど、彼女はこのまま芝生の上で横になってもらうしかない。
「これでダメだったら……双葉さんに、呪われるかも……」




