Into ovlivion
一杯の濃いめのコーヒー
何だか分からない花の水やり
それから海辺の散歩
私の日課である。
これをしないと落ち着かないし、寝坊して出来なかった日なんかは、一日中ブルーな気分で過ごさなければいけない。
今日も妻を起こした後で、一人海の方へと向かった。
長い冬を終え、ようやく春を迎えた北国の海であるが、まだまだその冷たさを含んでいる。次第に濃紺の水面が山から昇る太陽を映しとり、光の粒を反射させてゆく。夜と朝が混じり合うほんの一瞬は、言葉では到底表しきれない粟立ちを感じさせる。そのひとときに立ち会うため、私はここにいるのだ。
「おや、先客がいましたか」
太陽が昇るまであと少し。ぼんやりと水平線を眺めていると、不意に声を掛けられた。
後ろを振り向くと、古っぽい帽子を被った男が立っていた。50代後半といったところだろうか。いかにも人好きのする様子で、ニコニコと笑っている。
「えっと、あなたは……」
この小さな町の中では見たことがない顔だった。戸惑う私に、男は近くの民宿を指差した。
「ああ、ちょっと旅をしていましてね。昨日からそこに泊まってるんです。いきなりすいませんでしたねぇ」
「この町は観光するところなんて何もなかったでしょう」
私の言葉に男は小さく笑った。
「なあに、観光だけが旅ではありませんよ。一本いかがですか?」
「吸いたいところですが、昨年やめたんです、煙草」
「それはそれは」
善いことですねぇ、と少しばかりつぶれた箱から取り出した煙草をくわえると、ゆるりゆるりと煙草を吐き出す。
「私はきっと、これだけは止められない」
にやりと笑った。
「私も最初はそう思いましたよ」
自分の禁煙を始めた頃の姿を思い浮かべる。しかし、当時の自分の姿が男の雰囲気とは決して重ならないことに気が付いた。その違和感が何なのかは分からない。
「ああ、そういえば今日はどこに行かれるんですか?」
「もっと北に行こうと。あの船が出港したら私も出ましょうかね」
男は目を細めて港を見やった。
一つの小さな漁船が網を点検している。
「北に、ですか。あてのない旅なんですか?」
「あてのない、と言ったらあてなどないんでしょうねぇ」
男の言葉は捉えどころがない。
「決して同じ人には会わないように旅をしているんです。決して」
また男はニヤリと笑った。
「毎日新しいページに日記を書いて、破って、書いて、また破る。それを永遠に繰り返す。私の旅ってそんな感じなんですよねぇ」
「そんな感じって……」
男の言うことが分からずに苦笑をするしかない。
「積もらないページの中で、煙草だけは変わらない。だから止められないんですよ、体に悪いとは分かってるんですけど」
男は短くなった煙草を消すと、二本目の煙草を取り出した。
相変わらず、私と男の空気のように、煙草の煙はゆらめいては消えていく。
「まあ、旅っていう非日常の中で、慣れたものがあるといいですよね」
「非日常、ねぇ」
適当に返した私の言葉に男は遠い目をした。
「非日常の繰り返しが日常というんだったら、はて私の状態は何なのか」
それは男の独り言だった。
「ああ、いつの間にか船が出港してしまったみたいだ」
その言葉に港を見ると、先程まで停泊していた小型漁船の姿はもうない。
潮風が船と船の隙間を吹いている。
男は横に置いていた凧布のリュックを背負った。
「では、失礼」
「ええ、お気をつけて」
小さく手を挙げて男は去っていく。
男が背を向けた途端、今までの出来事が全て嘘のように感じた。
あの男は本当にいたのだろうか。
私は本当に会話をしていたのだろうか。
その背中はまだ確かに見えるのに、男の存在はまるでまやかしのようだ。
私は家へ帰る。
二杯目のちょっと薄めのコーヒー。
新聞のコラム欄。
それから日記を書く。
そういえば、私の日記ははたして何冊目になっただろうか。
過去の日記を数えてみようと思った。