ペットの話
その日、私は魔王陛下の使いとして、ある魔族を呼びに行った。その魔族は気紛れに人間の大陸に降り立っては、気紛れに人間を蹂躙し、殺すのが趣味のような奴だった。その日もどうやら人間の大陸で趣味を満喫していたらしく、私はそちらまで呼びに行った。
その場には二体の屍が転がっていた。血に濡れ、まあ見るも無残な死体だった。魔族には時々、そういう奴がいる。人間を苦しめ、より惨たらしく殺す事に心血を注ぐ奴だ。自身の力を誇示する事もでき、魔族は喜んで人間を殺す。
レドはちょうどその魔族に片手で持ち上げられ、今にも命を奪われようとしていた。別に、その魔族が彼を殺してから陛下の元へ連れて行ってもよかった。ただ、少しだけ気になってしまったのだ。暴れるでも逃げようとするでもなく、さりとて命乞いもしないその人間の子どもが。
何故抵抗をしない、と話しかければ、虚ろな目をしたレドはぼんやりと私を見上げ、うっすらと笑った。そのまま涙を流し、ケラケラと笑いながら口にしたのだ。
『父さんも母さんも殺されて、死んだ方がましだよ』
ああ父さん母さん置いていかないで僕を置いていかないで一人にしないで早く僕もそちらに行きたいこんな怖い世界で一人ぼっちで生きるくらいならいっそ父さんと母さんもその方が寂しくないでしょう?
私には彼の言葉がまるで理解出来なかった。気持ち悪くて、ある種の恐怖さえ抱いた。なぜ、父と母が殺された事が、自分の命に関わってくるのか、意味が分からない。両親の死の代わりに、生き長らえたと喜ぶならともかく。
『笑うな、気持ち悪い』
思わずそう正直に口に出せば、レドは見事にぴたりと笑いを止めた。虚ろな目のまま無表情となり、地に両手両足をつけ、まるで首を差し出すように頭を下げた。
私は、彼が気持ち悪かった。脆弱な人間の子どもに、その得体の知れなさから恐怖さえ抱いた。けれど、同時に強く思った。羨ましい、と。彼には、死への恐怖をまるで感じられなかった。
私は、レドに興味を持った。恐怖を感じない術があるのなら、理解出来ないかもしれなくとも、ぜひ教えて欲しいものだと思ったのだ。私は彼を殺そうとしていた魔族を制して彼を連れ帰った。
それからしばらく、レドは話しかけても突いても、殴っても蹴ってもまるで反応をしなかった。腫れ上がった顔こそ人間のそれであっても、まるで物言わぬ人形のようだった。食事を摂る事はなかったが、力尽きて眠る姿は何度か見掛けた。彼は眠るときだけ、まるで自分が人間である事を思い出したかのように涙を流していた。
それが、いつからか、気付けばレドは能動的に動き、家の仕事をし、私の世話を焼くようになっていた。無表情のまま、あの陽気な性格でふざけたことばかり口にして、基本的にはよく働いてくれた。
そんな中、一度だけ聞かれた事がある。
『あのときの魔族は息災ですか?』
質問の意図は分からなかったが、嘘を吐く必要もなかったので、私は正直に告げた。
『死んだよ。あの後すぐにな。陛下のお怒りを買った』
『ああ、そうですか』
軽く、レドはそう呟いた。何かを思い出すように、ここではないどこか遠いところへ視線をやって、少しだけ呆れた調子で。
『軽率な感じのする方でしたものねえ』
かつて、自分を殺そうとした者の死を喜ぶ訳でも無く、そう呟いた。その話は、それきり繰り返される事はなかった。
レドはいつでも私のペットだった。私の世話をし、よく仕えてくれている。しかし、結局今日に至っても、私は彼が死を恐れなかった理由を、未だに理解出来ないでいた。
「あ、目が覚めました?」
異様に重い瞼を何とか持ち上げると、視界一杯に逆光となっているレドの顔が映った。彼の後ろには目に痛いほどの青空と、太陽の光が覗いている。ここはどこだか一瞬分からなくなりかけたが、すぐに気付く。今、私達勇者一行は、聖剣の鞘への手が掛かりを求めて船に乗っているのだった。
「お加減はいかがですか?」
「………最悪だ」
気遣う言葉に、正直な感想を告げた。生まれて百年ほど経過しているが、初めて人間の造る『船』という乗り物に乗った。先に感想を述べよう。こんなもので移動する人間の気が知れない。
「まさか魔族の貴女が船酔いをするとは……」
妙に楽しそうな調子でレドがそう言った。無表情が板についていなければ、不快な笑みを浮かべていたに違いない。自分の羽で飛ぶときも結構な揺れを感じるはずだが、まるで自分で操作できない船では勝手が違うようだ。内臓を全て滅茶苦茶にかき混ぜられたように気持ち悪かった。いっそ中身を吐きだしてしまえば楽になるのではと思ったが、どうにもそう簡単に出て来てくれる気配はなく、看板の日陰に座りこみ、風に当たってひたすら堪えるしかないようだった。
「フラム達は?」
「他の方々は船室で、今後の作戦を練っているようですよ」
「そうか」
本来なら、その話し合いにも混ざりたいものだが、とてもじゃないが今は立ち上がれる気がしない。魔族であるのに、これでは人間のように脆弱だ。今命を狙われてしまえば、人間にだって私は容易く殺されてしまうだろう。そう想像して、余計に血の気が引いてしまう。
隣に座るレドは、薄い板で私を扇いでいた。ささやかな風だが、今は何よりも有難い。しばらく、風に煽られながら沈黙していたが、やがて私の方から彼に声を掛けた。
「懐かしい夢を見た。夢だが、あれは記憶だな」
「ほう。どのような?」
「幼いおまえが出てきた」
そう告げれば、レドは一度、私を扇いでいた手を止める。しかし、すぐにその動きを再開して、いつもの彼らしいふざけた調子で言葉を続けた。
「それはそれは。さぞかし愛らしい事でしょう」
レドは自信満々に答えた。不意に、いつも無表情の彼の感情を読み取れるようになったのはいつからだろう、と考える。流石にそんなことまで、思い出せそうになかった。
「今よりはな。レド」
呼びかければ、何でしょうか、と軽やかな返事が届く。薄っすらと目を開け、それ以上瞼を持ち上げる事さえ億劫だったが、何とか堪え、無理矢理開いた目で彼を見つめた。
「おまえは言ったな。人間であるならば、両親を失ってしまった私は哀しみと悔しさと憎しみに彩られるべきだ、と」
「ええ、言いましたとも」
「それなら、」
あのとき、彼にそう言われたときはそれどころではなく、気付かなかった。目の前の状況を掴む事に集中していた。しかし、よくよく考えればそれは、
「おまえは、魔族を恨んでいるのか」
彼が私の境遇として語ったそれは、私にとってもけして嘘ではないが、それ以上にレドの境遇そのものだった。目の前で両親を殺され、自分一人だけが生き残った人間の子ども。そして、泣いていた彼は、あのとき少なくとも哀しみには彩られていたのではないか、と思う。
レドはすぐには答えなかった。私を扇いでいた木の板を地面に置くと、私の右手を取り目を合わせて来る。
「ご冗談を、ヴィオラ様。俺は人間ではありません。貴女の物です。貴女の可愛い可愛い、ペットですよ」
いつの間にか私よりも大きくなった手のひらが、この手を包む。人間など非力なものだが、そのまま握り込まれて潰される想像をしてしまった。
「俺の肉体は確かに人間でしょう。けれど、貴女はそんな事、忘れてしまっていいのです。俺を人間だと思う必要はありません。そんな事は望んではいないのです。俺は、」
レドの唇が、私の手の甲に寄せられる。好きにさせて様子を観察すれば、彼はそのまま意味深に私をじっと見つめて来た。
「俺は、貴女の虫けらになりたかった」
…………………………。
意味が分からなくて反射的に彼の手を振り払った。虫けらになりたいとはなんだ。人間の気持ちが理解できない私でも、それが人間にとって不可思議な思考だと分かるぞ。
「………それはおまえ、あれか?被虐趣味とか、そういうことか?」
「そういうつもりではありませんが………いや、鞭を振るうヴィオラ様………」
「やめろ変な想像をするな!私をおまえの妄想で歪めるのはやめろ!」
見たこともないような真剣な表情で考え込むレドにぞっとしてそう叫べば、冗談ですよ、と軽く口にする。しかし、彼のいつもの無表情からは冗談かどうかなど読みとれるはずがない。
警戒心を露わにする私に、レドは無表情のままはっはっは、と笑い声を立て、再び私を扇ぐ為に木の板を拾い上げた。