永遠にさようなら
急がなければ。
早ければ早いだけ良い。その分だけ、リアが助かる可能性が上がる。フラム達は、鞘を手に入れれば、すぐにでも魔界に向かい、リアを助けようと考えていた。しかし、それは、いくらなんでも無謀というものだろう。
リアの命さえ助かれば、少なくとも彼らが今すぐ死地へ足を踏み入れる必要はなくなるはず。もっと力を付け、万全の態勢を整えてから立ち向かう事もできるはずだ。
共に魔界へと戻る道すがら、珍しくレドもそう無駄口を叩かなかった。私のことなど、彼はいつだってお見通した。そんな私の決意を感じ取り、さすがにふざけるのを止めたのかもしれない。
「なあ、レド」
「何でしょう、ヴィオラ様」
呼びかければ、すぐに返事が届く。まるで動物が毛繕いするように私の髪を撫でられるが、今に限ってはそれがそう不快では無かった。
「私は今だって、死にたくはないんだ」
何を捨てても、地を這う事になっても、どれほど無様で見苦しくても、一瞬でも長く呼吸をしたい。私が私である為に必要な本能は、憎らしいほど揺らがない。せめてあとほんの少し揺らいでくれれば、気も楽になれたかもしれないのに。
「貴女の願いが、望む形で叶うと良いですね」
気休めの言葉だった。けれどレドのその言葉をわざわざ否定する気にもなれなくて、私は髪を梳く彼の手を払うように身を翻した。
それは、今にも朽ちそうな魔王陛下の居城のそばに咲くには、余りに不釣り合いな白い花。煎じて飲めば、リアに根を張るあの呪いの花を枯らす事が出来る。
私はそれを摘んで、リアに届ける。そうすれば彼女は生き長らえるだろう。同時にそれは、陛下への明確な裏切りだった。
朝陽が昇ってから魔界に足を踏み入れ、瓦礫や植物で身を隠しながら城を目指す。魔族は、夜活動する者がほとんどで、朝に他の者を見掛ける事はまずないと言っていい、レドを置いて空を飛んで行ければ速いが、万が一誰かに見咎められれば厄介だと、結局彼を連れて歩く事を選んだ。
久しぶりに人の擬態を解いた魔族としての姿は、妙に身体が軽い。それなのに、焦りからか息が上がっている。
「城の外周を回れば、すぐに咲いている」
あまり私の家の外に出た事のないレドにそう口頭で説明した。説明などしなくても彼は大人しく着いて来ただろう。それでもわざわざ口出したのは、ただ単に私が気を紛らわせたかったからに他ならない。そんな私の考えを察しているのだろう。彼は特に返事らしいものを口にする事がなかった。
急いで、急いで、急いで。その場所を目指す。大した運動量でもないはずなのに、大量の汗が私の顎を、背中を伝った。
そして、ようやく辿りつく。早く摘んで帰ろう。一輪だけでいい。一輪あれば十分だ。そうすれば、きっと。
「おかえり、ヴィオラ」
きっと―――――――――
ぞわり、鳥肌が立った。脂汗がじわじわと滲み、指先が震える。喉がからからに乾く。その途端に突き飛ばされて、頭が真っ白になった。地面に両手を突くと手のひらが擦れて痛い。些細なそれに、今この状況であるが為に異常に動揺した。
すぐに振り返れば、私を庇うようにレドが腰を低くして立っていた。その向かいには、悠々とした様子で魔王陛下が立っている。
陛下は笑っていた。いつもの優しく、無邪気とさえ取れるような微笑みで。まるで慈しむように目を細める。
「何をやってるのかな?僕の意図はちゃんと分かっていたはずだよね?ヴィオラはいい子だものね。そして賢い子だ。だから余計に分からないなあ。それは、悪い子だよ?」
ひっ、と短い悲鳴を漏らす事すら許されない。呼吸をする事さえ恐ろしく、息が止まりそうだった。全身が、笑えるくらいぶるぶると震えている。
今すぐ縋りついて命乞いをしたかった。膝をついて、大地に顔を擦りつけて、許しを乞いたい。
「ヴィオラ様?」
けれど、けれど、もうそんな事をする為にここに来た訳では無かった。覚悟は決めたはずだろう。生きる為だけに全てを懸け続けた人生を、棒に振る覚悟を決めた、つもりだ。
腹の底が気持ち悪い。中でぐるぐる渦巻いて息苦しい。この腹を裂いて、その気持ち悪いものを全て取り出してしまいたかった。
「下がれ、レド」
震える膝を叱咤して、何とか立ち上がる。彼を前に立たせて陛下と戦ったところで、殺されるのは確定だ。戦おうと思ってはならない。何とか逃げる方法だけを模索する。
私は、生きてこの場から逃げなければならない。私は死にたくない。そして、私がここで死ねば、リアが死ぬことと同義だった。
「申し訳、ございません……」
震える唇で、何とかそれだけの言葉を紡いだ。
「別に謝ってほしい訳じゃないよ。ただ、ヴィオラにね、良い子に戻って欲しいだけだよ」
陛下が求める事は分かっている。私に従順な下僕に戻れと言いたいのだろう。私だってそうしたい。叶うならば今すぐそうして許しを乞いたい。
それ、でも、
「申し訳ございません。私は彼女を死なせたくない」
生きて欲しい、と願ってしまった。苦悶の表情が似合わない、彼女に、彼らに。ああああちくしょう。そんな事は思いたくなかった。これまでのように無価値な人間として、死にゆく様を見て自分でなくて良かったと安堵したかった。
ずるいずるいずるい。彼らは本当に、どうしようもなく、憎らしいほどにずるい。
「がっ………」
しかし、そんなものは脆弱な私の儚い願いでしかない。詠唱しようと空気を吸い込んだ時点で、地に伏せた。背中と頭を地面に打ち付け、酷く痛んで息苦しい。目の前には私の上で馬乗りになって首を掴む陛下の姿。ぞっと、した。笑っていない陛下を、おそらくは初めて見た。
「酷いね、ヴィオラ。僕は君の事をとても可愛がってきたのに」
ああ、ああ、息が苦しい。レドは、どうしている。視界の端で、倒れているのが見えた。生きているのだろうか。生きているなら、どうかそのまま気を失っておけ。人間である彼に興味のない陛下は、もしかしたら私を殺しただけで、レドのことはすっかり忘れて見逃してくれるかもしれない。よかったなあ!羨ましい。
「どうして?」
その言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。どうして、どうして、だって。彼らは人間で、弱くて脆くて、それなのに他人の事ばかりで、ちっとも自分の為に生きる事をしなくて、とても馬鹿馬鹿しい奴らなんだ。放って置いたらすぐ死んでしまうような生き方ばかりをして、その癖それに満足して笑って死にそうだ。気持ち悪いくらい潔くて、他人想いで、誇り高い。全然、私とは違う生き物で。
ああ、だから。不意に悟ってしまった。
「彼らの生き方が、とても好ましかったから」
私とは正反対のその心のあり方や生き方が、気持ち悪かった。しかし、それを私自身に向けられる事自体は、それほど不快では無かった。いやきっと、戸惑いの方が大きかったとはいえ、居心地の良さすら感じていた。
人に頭を撫でられることが不快では無かった。人の頭を撫でることは思いの外難しかった。酔っ払いに気に掛けられる事にも悪い気はしなかったし、怪我を心配して手当てをされる事はむず痒かった。それに、誰かと眠る夜は、不安になるほど温かい。
それらを全て、気持ち悪いと切り捨て切れなかった事が、そもそもの過ちだった。
頭にリアの笑った顔が浮かぶ。すまない、と心の中で呟いた。彼女の命を助ける事が出来なかった。そう遠からず、リアの胸には赤い花が咲き、その命を散らせる事だろう。命を懸けておいて、何の力にもなれなかった。
「そう」
短く陛下はそう口にした。一瞬、私の首を掴む陛下の手に力が込められる。随分陛下らしからぬ殺し方だと思った。そう思わなければ恐怖で先に心が潰れそうだった。いつもの陛下ならば、一撃でこの身が消し飛んでいた事だろう。
「残念だね」
必死な想いで恐怖と戦っていれば、その言葉一つで陛下の手が私の首から離れた。突然空気が身体へ入り込み、大きく噎せる。陛下は私の上から立ち上がり、この腕を掴んで私の上体を起き上がらせた。
「いいかい、ヴィオラ。今だけ見逃してあげよう。ただし、この先一瞬でも僕の視界に入ったら、その瞬間に殺してあげる。ああ、あと勇者一行に合流してもいけないよ。そうすれば僕は今すぐ彼らの元へ赴いて、一人残らず僕が思う一番残酷な方法で殺してあげよう。その代わり、君が合流しないなら、彼らが僕の元へ辿りつくのを、ずっと待っていてあげるよ」
何を言われているのかが分からなかった。陛下はいつものように微笑む事もなく、冷たい顔でそう語った。それなのにどうしてか、いつもの微笑みよりはずっと恐ろしくないと思った。
「何故………」
見逃してもらえるのならば、下手に刺激しなければいいのに、余りの事に私の唇から思わず疑問の言葉が口を突いて出た。
「臆病で愚かなヴィオラ。死にたくないからと命を懸ける君の生き方が、とても懐かしかった」
陛下がそこでようやく、笑った。けれどそれは普段見ていた形ばかり優しいものではなく、どこかぎこちなくて不格好で、頼りないものだった。
陛下の両手が、私の両頬に触れる。しかし不思議と、生まれて初めて、それを恐ろしいとは思わなかった。
「可愛いヴィオラ。これで永遠にさよならなんて、寂しいね」
額の上に、陛下が唇を触れさせる。頬の触れた手のひらも唇も、人間とそう変わりない温度を持っていた。




