同じ空の下で
『どうして帰った途端、泣くの?』
呆然と、ここではないどこかを見つめて小さな子どもがそう口を開いた。それは、私の家に連れてきて以来、初めての事だった。分かりやすく首を傾げていても、その表情が動く事はなかった。
私はそれに誰かの前で泣けるものか、と訴えた。恐怖で身が竦み、生き長らえた事への安堵で零れた涙を誰かに見られれば、それは確かな弱みとなる。家の外で涙を流すなど、そんな恐ろしい事が出来るはずもなかった。
『僕は、今ここにいるのに』
小さく、そう不思議そうに呟いていた。独り言のような言葉だった。私はその言葉を鼻で笑った。自惚れるなと前置いて、矮小な虫けら同様の存在に何故私が気を払う必要がある、と確かそう付き離した。
そのまま衰弱して死んでいくだろうと思っていた人間の子どもは、初めて自ら立ち上がり、栄養失調の為かふらつく足で私のそばまで歩み寄ると、人差し指で突くように私に触れた。
『そうなんだ』
そう呟いた彼の手は、簡単に潰れてしまいそうなくらい、小さくて脆かった。
最後の聖獣を倒し、白い石を手に入れた事で、ようやく勇者の聖剣の鞘を手に入れる為の鍵が揃った。鞘が納められた聖堂の場所は、ユノが所属する神殿の高位神官のみが口伝で受け継いでいるらしい。一旦彼らの出身国へと戻る事になった。
陛下に対抗する為、一刻も早く鞘を手に入れて魔界に向かう必要があった。そうしなければ、リアの腹を這う花は今すぐにでも胸まで達しようとしている。
しかし、鞘を手に入れたところで、フラムがどれだけ強くなれるかは分からない。少なくとも、現時点での私の見立てでは、これだけ力を付けて来た彼らが束になっても、未だに魔王陛下に太刀打ちできるとは思えなかった。
近くの町まで引き返し、一旦身体を休める為に宿を取る。無理に旅を進めても遠回りするだけだ、とは旅に慣れているらしいアルバの言葉だった。
レドはユノに回復魔法を掛けてもらい、傷は塞がったもののまだ完治してはいない。重傷を追った事による体力の消耗を回復させるために宿のベッドに押し込んできた。宿から出た所でアルバを見付けると、彼は目を細めて青い空を見上げていた。
「何をしているんだ」
こちらに気付いたアルバが、ゆっくりと視線を向ける。
「空を見ていただけだ」
「空?何か面白いものでも見えるのか?」
「いや、そうじゃない」
純粋な疑問を口にすれば、彼は苦笑して私に向き直った。彼の浮かべる苦笑は、不思議と悪い気がしない。
「俺には娘がいてな、今頃何をしているのかと考えていた」
「?それで何故、空を見上げる事になる?」
アルバを倣って空を見上げてみたが、冴え冴えとした青が広がるばかりで、とてもじゃないが誰か人間を想い起こせそうな様子はない。それなのに、よくよく考えてみれば、フラムやリア達も、人間はよく空を見上げている。
「空は、どこまでも繋がっているだろう。どんなに離れていても、同じ空の下にいる。そう思えば、自然と空を見上げるようになったな」
それは、私にはよく分からない感覚だった。私には人間のような感傷はない。そして、遠くにいてその存在を想うような相手もいなかった。
「泣いてはいないだろうか。雨に濡れていないだろうか、風に震えていないだろうか、心配が尽きなくてな、いつもつい見上げてしまう」
そう口にして、またアルバは青空を見上げた。その目には空だけではなく、彼の娘の姿とやらも見えているのかもしれない。
それに何の意味があるのか、私は相応しい言葉を見付ける事が出来ない。けれど、例え意味などなくとも、アルバにとって確かな慰めであるのかもしれない、と思った。それほどまでに、見慣れたはずの横顔には、言葉では尽くし切れない感情が詰まっていた。
「同じ、空の下……」
どんなに会う事が困難な状況でも、空だけは変わらず私達の頭上に鎮座し続けている。変わらないそれの、眺めた空が同じ色だという事は、揃いのものを好みたがる人間らしい発想だと思った。
私はもう、それをどうしても嘲笑う事が出来ない。
よく分からない感覚だったはずのそれが、もうずっと私の胸を内側から叩いている。
アルバを真似て、私も空を見上げる。彼が言うように、繋がっていればいいと思う。どんなに遠く離れても、リアにフラムにユノにヘリオドールに、アルバ。彼らが同じ空の下で笑っているならばきっと、私の今からの行いに意味が生まれる事だろう。
その日もリアは私のベッドに潜り込み、しばらくすると寝息を立て始めた。私は彼女を起こさないように絡まるリアの腕から逃れ、音を立てないように気を付けてベッドを降りた。素早く着替えて、必要最小限のものだけを身に付ける。
「ヴィオラ?」
寝惚けたような声で、リアが私の名前を読んだ。衣擦れの音と気配で少し目が覚めてしまったのかもしれない。私は同室のユノを起こさないように、小さく彼女に声をかけた。
「少し、喉が渇いて」
「あ、そっかぁ。引き止めてごめんねえ」
間延びした、再び寝入ってしまいそうな声が聞こえる。わずかに開きかけていた瞼は、またすぐに閉じられた。リアが眠るベッドの前に立ち、彼女の頬をゆっくりと撫でる。目は瞑ったまま、リアはくすぐったそうに身をよじった。
そのまま、彼女に聞こえないくらいの、小さな声で、呟く。
「リア。君は死ななくて良い」
彼女は人間だ。いずれその命を終えるときがくるだろう。しかしそれは、今では無い。もっとずっと先でいいはずだ。少なくともこんな、呪いなんかで絶たれる命ではないと思う。
その為に私が出来る事、考えれば考えるほど、恐ろしくて身体が震える。弱くて臆病な私には、出来る事など高が知れているだろう。その高がを、やりたいと、思った。
一方的に別れを告げて宿を出る。そこで私は、露骨に顔を顰めた。
「まさか俺を置いていく訳がありませんよね」
レドが立っていた。まだ傷も癒えきっていないだろうに、その癖いつも通りの平然とした無表情で、声だけはどこか楽しげにそこに立っていた。灰色の髪が、少しばかり風に揺れる。
どうしようもなく酔狂なやつだと思った。
「好きにしろ」
無視して歩き始める私の後に、彼がいつものように続く。ふと宿を振り返りたい衝動に駆られた。しかし、何とか堪える。振り返ってしまえば、きっともう歩き出す事が出来なくなってしまうから。
永遠の別れにしては味気なかったなあ、なんて少しだけ残念に思った。




