親愛なる魔王陛下
この世界では、昔から人間と魔族が対立していた。
人間に比べ、圧倒的な魔力を持ち、暴力に特化した生態を持つ魔族は容易く人間を蹂躙した。人間からすれば理不尽な力で人間を虐げ、命を奪い、その尊厳を踏みにじり続けてきた。
対して、人間は魔族に比べ、思考力に優れていた。複雑で繊細な新たな技術と魔法を生み出し、嵐のように人間の土地を踏み荒らす魔族を撃退する術を身に付けた。もっともそれも、やはり魔族からすれば、そよ風のようにささやかな抵抗だった。
しかし、人間もいつまでもそよ風に甘んじてはいなかった。大昔に世界中の魔物を封じ込めた勇者が使用していたと言われる聖剣に、一人の少年が選ばれた。聖剣が選んだ者にしか引きぬけないと言われるそれを抜いたということは、新たな勇者の誕生を示していた。
「どうも、それが聖剣とは知らずに遊びで引き抜いたようだよ。無知とは恐ろしいね」
くすくす、とその方は軽やかに笑った。その無知を憐れむようでいて、実に楽しそうな声を上げる。まるで、愛しさすら含んでいるようだった。
「僕を殺したいんだって。ひどいなあ、僕だって生きているのに」
そう、口にしたものの、その方の言葉には恐れも悲壮感もまるで感じられなかった。それもそのはずだろう。この方が勇者などと謳われたところで、所詮は人間でしかない子どもに傷一つ付けられるはずがないのだ。魔族の中で、もう呆れるほど長く頂点に立ち続けるこの、魔王陛下には。
私の知る限りいつも微笑んでいる陛下は、自身の討伐を目指す勇者の話をするときさえ、まるで楽しそうに笑っていた。いっそ人間の言う、慈愛さえ感じられそうだった。私は知っている。陛下はいつも暇を持て余しているのだ。魔族の中においてさえ、圧倒的で理不尽とも言える力を持ち、魔族らしく残酷なこの方は、その力を振るう必要がない現状に飽いていた。
だから、きっと願っているのだろう。勇者の剣が、自身にまで届く事を、そして、その勇者の剣を折り、絶望に染まる人間の顔を。
「面白い試みだとは思わないかい?ヴィオラ」
「ええ、全くですわ、陛下。人間のなんと無知で愚かな事!」
陛下はそばに人を置く事を好まなかった。その為、手入れをされていない城は荒れ果て、埃と共にあらゆるものの残骸が広がっている。それは折れた柱であったり、錆びた武器であったり、陛下に逆らった愚かな魔族の死骸だった。遠からずこの城は朽ちるだろうが、きっと陛下はそれでも構わないのだろう。
背後にはレドを従え、そろって目の前で膝をつき、顔を上げる許可を得た私の顔を、陛下はにっこりと笑って見詰める。陛下の見た目は若い。否、幼い、と言うべきだろう。見た目は人間とそう変わらず、少年のようだった。短い黒髪も、柔らかな顔つきも、親しみやすさを他者に与える事だろう。
そんな陛下の金の目に見つめられ、私は全身に汗を搔いていた。陛下は気紛れな方だ。その気紛れがいつ私に向けられるか、と考えると恐ろしくて堪らなかった。媚を売る為に笑顔を浮かべる事には慣れていたが、陛下を畏れる心には一向に慣れられそうになかった。
「ヴィオラにお願いがあって来て貰ったんだ」
「まあ、何でしょうか?わたくしめに、何なりとお申し付け下さい」
震えそうになる身体を、必死で力を入れて抑える。従順であれ従順であれ従順であれ、心の底から陛下を慕い、それを行動として示せるよう、私は何度も繰り返しそう唱えた。
「人間のフリをして、勇者一行の様子を探って欲しい。君は擬態も上手いし、それにそれは、人間なんだろう?きっと役に立つんじゃないかい?」
それ、と示されたのはレドだ。その為に彼も呼ばれたのか、とようやく私は陛下の意図を察した。私が人間を飼っているのはそこそこ知られている話だが、陛下は私の子飼いに興味を示されるような事はなかった。それがとうとう、処分でもされるのかと、正直戦々恐々としていたのだが、そうではなかった事にわずかばかりの安堵を覚える。
「陛下のご用命とあらば喜んで拝命致します」
「何故、と聞かない君は本当に可愛い子だね、ヴィオラ」
もちろん、疑問が無い訳ではない。何故そんな事をする必要があるのか。勇者など、容易に屠ってしまえるこの方が、何故そんなまどろっこしい真似をさせるのか。ただ、その疑問を口に出すほど私は愚かではなかった。陛下が是と言えば是、否と言えば否。私はそうあるべくして生きて来た。
変わらず微笑む陛下が、ゆっくりと地に膝をつく私のそばへ歩み寄る。恐怖で頭がおかしくなりそうだと思いながら、私は何とかそれを心の奥に押し込んだ。目の前で屈んだ陛下の両手が、私の頬を撫でる。
「君は、臆病だものね。惨めで見っともないからね。死にたくないからと、きっと君は僕の期待に応えてくれるだろう?」
人間が好む子守り歌のように吐き出される優しい声に、全身の血の気が引くようだった。唇が震えるのにも堪え、何とか笑みの形を象り、微笑みを浮かべる。
「ええ、もちろんですわ。魔王陛下、貴方様のお心のままに」
だからどうか、私を殺さないで。
レドを引き連れて自宅の玄関をくぐる。小さいがレドの手によって整頓された自宅は居心地が良く、他の魔族の目がないと思えば間違いなく心安らぐ空間だった。
その、玄関を閉じた瞬間、私はその場に崩れ落ち、両手を地に着く事で何とか倒れ込まずに身体を支えた。
「……はっ、はぁっはあ………」
犬のように荒い呼吸が止まない。全身は冷や汗でぐっしょりと濡れている。血の気が引いたからか、手先足先が異常に冷たい事が感覚で分かる。そんな私の背を、レドが労わるように撫でた。
「ヴィオラ様は、陛下とお会いになられた後はいつもそうですね」
こちらは苦しんでいるというのに、何が楽しいのかレドの声は非常に軽やかだった。その余裕が無性に腹立たしく、半ば八つ当たりするように吐き捨てた。
「むしろ、おまえはどうしてあの方を前にして平然としていられるんだ」
「いやだなあ、ヴィオラ様。俺は脆弱な人間ですよ」
いつもの無表情ながら、レドはどこか得意げに言う。
「魔王陛下ともなると格が違い過ぎて、その力の恐ろしさすらよく分かりません」
けろっとしているレドの軽さが、このときばかりは心底うらやましかった。
私は、死ぬのが嫌いだ。何があっても、例えこの先にどんな苦難があったとしても、一瞬でも長く呼吸をしていたい。死にたくない。それが、私を生かす全てだ。
生きる為なら何でもしよう。地に這って許しを乞おう。従順にして媚を売ろう。自分以外の命を生贄にしよう。命を脅かす全てをあらゆる手段を講じて排除しよう。
「ヴィオラ様は魔族なのに、戦いよりも生きる事に執着していますね」
分かりきった事をレドが言う。私はずっとそうして生きて来た。それを一番身近で見ていたのは彼であるのに、まるで確認するように口にした。
「ああ、そうだな。その為なら、おまえに同族を陥れる手伝いをしてもらう」
「そんな事をおっしゃるなんて、もしや俺が落ち込まないかと気遣ってくれているのですか?さすがヴィオラ様はお優しい」
白々しいレドの言葉が、異常に耳ざわりだった。まるでからかうような彼の言葉は、いつも不快だ。どんな理不尽な命令だったとしても、契約によって命を握る私に逆らえない奴隷の癖に、レドはいつも飄々としている。
「ご安心を。俺は人間ではありません。貴女の可愛いペットですよ」
無表情の癖に、妙に明るい声で彼は蹲る私を抱き起こす。腹立たしくて突き離せば、その反動でよろめいてしまった。無理はいけません、とレドにもう一度支えられてしまい、言いようのない不快感が私を支配した。