すでに死んだもの
私と一緒に眠るようになって以来、リアは同室である女性三人の内、一番早くに目覚めるようになった。以前はどちらかと言うと寝覚めが悪く、一番最後まで眠っていたのに。
早起きをするようになったリアが、私とユノを起こすようになった。相変わらず騒がしい彼女はじゃれつくように声を掛けて来るので、少しは落ち付けと宥めるのが常となっている。
リアは朝一番に起きる。けれど、着替えを済まして部屋を出るのは、いつも決まって一番最後だった。私とユノが身支度をする間中どうでも良いような事をひたすら話し続け、私達が身支度を終えた頃に、自身が着替えていないことにさも今気付いたというような声を上げる。その後、リアは私達に先に食堂へ行っているように促し、あとから遅くなってごめんね、といいながら皆と合流していた。
それに対し、わざとらしいな、と思っていた。いつものリアらしくない。どうにも含みがあるというか、違和感があった。
今朝も同じく私とユノが先に宿の部屋から出て、一階の食堂へ向かった。そこにはすでにアルバとレドがいて、寝起きの悪いフラムとヘリオドールを待っているようだった。
「ヴィオラ様、袖口のボタンが一つ足りませんが、おとされましたか?」
レドにそう指摘され、自身の両腕を確認する。左腕のボタンが確かに一つ無くなっていた。朝身に付ける時には着いていたように思うが、周囲の床を見てもそれらしきものは落ちていない。着替えて、ここに至る道中で落としたのかもしれない。もしくは、寝泊りをした宿の部屋か。
「落ちてないか、探してくる」
一言そう断りを入れて、来た道を引き返す。結局道中でボタンを見付ける事は出来ず、寝泊まりした部屋まで戻って来てしまった。
「リア、入るぞ」
まだ室内にいるだろうリアに一声かけながら扉を開ける。
「わっ!ちょっとヴィオラ!返事をする前に開けないでよ!」
慌てた様子のリアと目が合った。どうやらちょうど着替えをしている最中だったらしい。頭から被る型の服に両腕だけを通した状態で、彼女の腹は素肌を晒していた。
「すまな…………リア、それ」
流石に申し訳ない事をしたと、一言謝罪しようとして、私の目は彼女の腹に奪われた。正確には、彼女の腹から伸びるその、花の苗の紋様に。
「えっああ!そうそうそうなの、ちょっとね、育ってるでしょ?なんか不思議だよね、絵みたいなのに、ほんとにちゃんと育つんだね。さすが魔界の植物だよね」
リアはそう軽快に口にしながら、腕だけ通していた服を頭から被って着用した。彼女らしい、翳りのない笑顔を浮かべている。私はきっと今、怪訝そうな顔をしているだろう。どうして彼女は、そう軽々と笑って口に出来るのかが分からなかった。何故ならその苗が育つという事は、彼女の命の終わりがまた一歩近付くという事ではないか。
「リア」
「なあに、ヴィオラ」
彼女らしい、少し甘えたような返事だった。
「どうして、君は……怖く、ないのか?死ぬことが、どうして………」
思わず呆然と呟いた。信じられなかった。死ぬ事は恐ろしい。死を恐れないヘリオドールやユノの話を聞いても、それでも私にはまだ、死を恐れない、という感覚が信じられない。けれど、リアもまた、いつでも笑っていた。その命が絶望的に危ぶまれている今でさえ、常と変わらず、明るく、恐ろしい事など何もないかのように笑っているのだ。
驚愕から、思わず漏れた言葉だった。
「………よ……」
俯きがちに問い掛けた私は、聞き取りづらいリアの返答に、思わず顔を上げた。そして、言葉を失う。リアの顔にはもう、先程までの笑顔はその面影すら残っていなかった。
あ……泣、く。
「怖いよぉ!怖いよ、ヴィオラぁ。怖くない訳ないじゃん。これが咲いたら死んじゃうんでしょ?毎日毎日怖くて堪らない。笑ってなきゃ気が変になりそう。夜になって眠ったら、明日目が覚めないんじゃないかとか、そんなどうしようもない事考えちゃうし、本当に、本っ当に、育ち始めるし、怖い。怖い怖い怖い」
リアは顔を自身の涙で濡らす。大粒の涙がまるで雨のように降り注いでいた。頼りない足取りでこちらまで歩みよると、腰が引けている私に構わず、彼女はこの胸に縋りついた。
「死にたくない、死にたくないよぉ、ヴィオラ。私、死にたくない。もっと生きたい。生きたいよぉ…っ」
感情のままに嗚咽を漏らす姿は、もっと幼い子どものようだった。ただ我武者羅に生を求め、死を恐れる。なんて、生き物らしい姿だろう、と思う。本能に準じた、当たり前の欲求。そうだ、それが生き物として正しい姿だ。彼女がようやく理解出来る存在になったような気さえする。
では、そんな当然の生存本能を持つ彼女は、何故今も危険な旅路に参加し、恐怖を見せる事なく笑っているのか。
「ごめんね、ごめんねヴィオラ。心配させちゃったよね。すぐに落ち付くから、少しだけ、少しだけぎゅうってさせて」
私の背に腕を回して、涙を流しながら抱き付いてくるリア。死の恐怖はありとあらゆる事を覆すだろうに、それでも彼女はまるで私を気に掛けるような事を口にした。
「ぁ………」
自分でも聞こえないほど、小さく漏れた声は、きっとリアにも届いていないだろう。
不意に、理解した。リアがその命を脅かされながら、それでも笑い続けられる理由。心配をさせたくないからだ。自責の念に駆られているフラムやユノの心を軽くし、案じるアルバやヘリオドールの心を安堵させる。その為にリアはいつも笑っているのだ。
死にかけているのは自分の癖に、他人の事ばかり考えていたのだ。
何て、愚かだろう。自分のことだけを考えていればいいのに。人の事ばかりを気にして。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい、のに。どうしてだか、鼻で笑う事も出来ない。首を絞められたみたいに息が苦しい。空気を取り入れる事ができなくて、私まで目尻に涙が溜まってしまいそうだった。
リアが落ち着くまで彼女を抱きしめて、連れだって一階の食堂へ向かったが、気分が悪くてほとんど食事を摂る事が出来なかった。そこそこにだけ付き合って、未だ談笑している彼らを残し、散歩をしてくると断って宿を出た。
「お供しますよ、ヴィオラ様」
「いらん」
「そうおっしゃらず。最近ずっと顔色が悪くていらっしゃるので、心配をしているのです」
鬱陶しがる私の心情など意にも介さず、レドは勝手に私の後を着いて来た。今は彼の気配すら煩わしく感じているのに、レドは腹立たしいくらいいつも通り身勝手なままだ。
「最近リアさんはこれまで以上にヴィオラ様にべったりですからね。さぞ心労も溜まっている事でしょう」
「うるさいぞ」
歩きながらも、レドは何かと話しかけて来る。早朝の町にはまだ人通りが少なく、嫌になるほど彼の声が私の頭に響いた。
「まあまあ、落ち付いて下さい。良いではありませんか。どうせ彼女はすぐに死――――」
「黙れ!」
聞き捨てならない言葉に、思わず足を止めた私は自分より背の高いレドの胸倉を掴んだ。レドはいつも通りの変わらない無表情で私を見下ろす。
「詰まらない事を言うな」
「………失礼しました」
苛立つ感情をそのままに口に出せば、レドは存外素直に頷いた。胸倉を掴まれて抵抗する事もなく、彼の指が私の頬に伸びる。まるで、レドがまだ私のペットになったばかりの頃のようだと思った。すっと撫でるように触れた指先は、リアのものよりもずっと冷たい。それなのに、彼女と同じ何かを感じられるような気がして、心臓に爪を立てられるような心地だった。
「貴女が、リアさんに泣かされたのかと思いました」
「馬鹿を言うな。そんな訳ない」
レドの人差し指が私の頬を撫でる。それにしては、と彼が口を開く。絶対に聞きたくない言葉だと、それだけで確信してしまった。
「今にも死にそうな顔をしています」
まるで全て見透かすようだと思った。私の中で渦巻く、とんでもない思考を。
私にとって、大切な物はこの命だけだった。それは両親が陛下によってその命を絶たれたときから、一度として変わる事はない。私が生きる為なら、私以外のありとあらゆる全ての生き物を踏みつけ、蹂躙しよう。その事に、一欠片の躊躇いもなかった。
人間だって、勇者一行だって同じ事。リアだってユノだってフラムだってヘリオドールだってアルバだって、私はおくびにも出さずに願おうじゃないか。どうか私の為に死んでくれ!
私が生きる為なら、私以外の全てが犠牲になってくれて構わない。でも、だけど、だけど――――
リアは、笑った顔が似合うんだ。
フラムは、悪戯っぽい顔がいい。ユノは楚々と微笑む顔が美しく、ヘリオドールは意地の悪そうな顔が存外似合う。保護者然とした顔で皆を見守るアルバには、安心感があった。
哀しみや恐れや怒りではなく、揃いも揃ってそういう顔が、彼らにはやけに似合っていた。恐怖に歪む顔など見たくないと思えるほどに、笑った顔でなければ気持ち悪い。
「ちくしょう」
絞り出すように口からそんな言葉が出た。
「ちくしょうちくしょうちくしょう」
腹立たしい、憎らしい。どうしてだ、許せない。そんな言葉が全部、自分自身へと突き刺さる。ほんの少し、笑顔が似合うと思った。ただそれだけの事で、私は。
「私は死にたくない。死にたくないんだ。生き残る為なら何だってする。他の奴などどうでもいい。それなのに、なあ。何故、笑って欲しいと思ってしまったんだ」
泣きじゃくるリアに、そう思わずにいられなかった。笑って、生きて欲しい。リアだけではなく。フラムも、ユノもヘリオドールもアルバも。死ぬところが想像できなかった。否、したくなかった。
「ヴィオラ様」
「ああ、なんて愉快なんだろうな。笑えて来る」
腹の底から笑いがこみ上げてきて、身体と唇を震わせながら私は笑い声を漏らした。声に出して笑うなど、一体何十年ぶりの事だろうか。記憶になかった。
「せっかくここまで、やってきたのに。生きる為だけに、全部台無しだ。こんな一時の情動で、全部全部無意味になるのか。ああ、くそ。笑える」
「ヴィオラ様」
「おまえも笑え、レド。私はさぞ無様だろう」
「笑いません」
まるで八つ当たりのように笑え、と命じれば、彼は妙にはっきりした声でそれを拒絶した。いつも従順なはずの彼のその態度に腹が立って、私は思わず声を荒げる。
「笑え!」
「出来ません」
笑わない、という意思ではなく、出来ない、という言葉が引っかかった。レドは続けて言葉を紡ぐ。
「………俺の父は、母は、俺の笑った顔が好きだと言いました。素直に泣き、笑い、怒る表情が愛しいと。だから、俺の表情は、あのとき両親と共に弔ったのです。いくらヴィオラ様の命令とはいえ、笑う事はできません。それはもう死に、この世にはないのですから」
一切の感情を感じさせない無表情で、レドはそう語った。ぉあ、と私の口から変な音が漏れた。それは声だったかもしれない、腹に溜まったただの空気だったのかもしれない。言葉にならなかったそれが、私の首を絞めるようだった。
「おまえ………おまえも、私を裏切るのか」
生きたいというこの本能を、私の浅はかな感情が裏切ろうとしている。そして、どんな時でも私の従順なペットであった彼までもが、人同士の絆を見せつけるような真似をして、私を追い詰める。それは、手酷い裏切りだった。
堪らず地面に座りこむ。まるで雨が降ったかのように、地面に丸いシミが出来ていた。




