だから死んでもいい
リアはそれからも宿を取る度に一緒に寝ようと声を掛けて来るようになった。私はその度に分かりやすく拒絶した。寝苦しいしいい加減にしてくれ、と言った。けれどそのどれもがリアには届いていないようで、寂しいでしょ、肌寒い気がするの、などとそんな事を言っては強引に私の布団に入り込んで来た。
私は、リアと同じベッドで眠る事が恐ろしかった。彼女に寝首をかかれるかもしれない、と思っている訳ではない。そんな危惧を欠片も抱かない自分自身が、どうしようもなく恐ろしかった。彼女が無理矢理布団に入ってくることだって、もっと力づくで拒否すればいい。それなのに私は、根負けしたような顔をして、結局彼女の強引さを許していた。
自分の何かが、決定的に変わってしまったことは分かる。けれど何が、どんな風に変わってしまったのかが分からなくて、それが堪らなく恐ろしかった。
その日もリアは私のベッドに潜り込んで来た。リアがやってくるのは決まって夜も深まり、ちょうどユノが寝入った頃だった。朝は三人の内で一番早くに起きるリアは、眠れないと言ってやってくる割に、私のベッドに入るとすぐに寝息を立てた。彼女の幼い寝顔を眺めながら、眠れないは私の台詞だと大きく溜息を吐く。
しばらく何とか眠ろうと目を閉じていたが、案の定一向に眠気は訪れない。堪える事が苦痛になり、散歩でもしようと決めて、リアを起こさないように静かにベッドを抜け出した。
宿屋は一階が食堂になっている。階段を降り、食堂を抜けて外へ出ようとすれば、そこで見知った顔と出くわした。
「よお、ヴィオラ。こんな時間に何をやってるんだ?」
「君こそ何をやっている……」
わずかなランプだけを頼りに、ヘリオドールが食堂の椅子に腰掛けて何かを呑んでいた。何か、というかまあ、酒だろう。ランプに照らされた顔は、ランプだけの灯では無く、少々赤くなっている気がする。
「ちゃんと許可は取ってるぜ。好きに使って良いってさ」
「君はそういう所が律儀と言うか、周到と言うか」
「褒め言葉として受け取っておこう」
全く褒めたつもりはなかったが、特に否定する気力も湧かなかったので、それ以上は何も言わなかった。ほどほどにな、と声を掛けて宿から出ようとすれば、ヘリオドールはグラスの中身を呑み終え、グラスを酒瓶の口に被せると、立ち上がって歩み寄って来た。
「どこかへ行くのか?」
「………散歩だ」
「では、僭越ながらエスコートして差し上げよう」
「酔っ払いは早く寝た方がいいぞ」
差し伸べられた手を無視すれば、釣れないなあ、という声が聞こえてきたものの、部屋に戻る様子はない。いつも以上に軽薄な様子に、酔っているな、と確信した。ヘリオドールは私の断りも意に介さず、勝手に付いてきている。
「付いて来なくて良い」
「そう言うなよ。俺も夜風に当たりたいだけだ」
私は魔族である為に夜目が利くのでこのまま外へ出ようとしたが、人間である彼は当然のようにランプを手にとって私の後に続く。今日は月明かりもあまり届かず、随分暗い夜だった。
人っ子一人見当たらない夜道を、二人で無言のまま歩く。すっかり騒がしい印象だったヘリオドールだが、こうしていると存外に無口で、自ら何かを口にする事はなかった。
頬を滑る夜風が心地良い。
「眠れないのか?」
歩きながらそう問えば、すぐに否定の返事が届いた。
「いいや。ただ、あまり眠る気分じゃなかった」
私の斜め後ろで肩を竦めているのだろう、と何となく想像がついた。その位置はいつもレドの場所だった。彼以外の人間が、その距離で歩いている事に違和感を覚える。そして、不意に血の気が引く。レド以外の人間に背中を見せて、私は何を暢気に歩いているのかと。何故、危機感を抱けないのかと。
「うわっ、びっくりした」
瞬間的に足を止めて振り返れば、少しばかり目を丸くしたヘリオドールと目が合う。とにかく今は、他の誰よりも自分が恐ろしい。自分の危機感の無さが、信じられない。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「あ。………ああ、すまない。大丈夫だ」
ランプを私の顔に近付けて、眉間に皺を寄せた彼の表情が私を案じているのだと分かる。いつからか、私は彼らの感情の機微をその表情で察せられるようになっていた。
「最近様子がおかしいな。何か悩み事でもあるのか?今なら聞いても酔った勢いで忘れてやっていいぜ」
悩みなどと殊勝なものとは思っていない。ただ、どうしても気になる事はあった。そして、それを尋ねるには今が絶好の機会だとも思えた。
「死、は………怖くはないのか」
夜道に二人突っ立って、私は裏返りそうな声でそう尋ねた。ヘリオドールはじっと私を見下ろして、眉尻を下げる。
「怖いさ。でも、怖くないな」
「なん、だ、それは。死んでも良いのか?」
矛盾した事を口にするヘリオドールを非難するようにそう言った。しかし彼は飄々とした態度を崩さず、ここではなんだからと言って近くの公園まで私を連れていくと、備え付けのベンチに座らせ、彼自身も隣に腰を下ろした。ヘリオドールはお互いの間にランプを置いて、口を開く。
「酔っ払いの戯言だと思って欲しいんだが、少し俺の話をしよう」
そして、彼は驚くべき事を口にした。
「俺は昔、勇者だった」
「は?」
「正確には、勇者候補だった」
彼らしい軽口の一種だろうかと呆れようとしたが、ヘリオドールの横顔は思いの外真剣だった。一欠片の冗談すら感じさせてくれないほどに。
「俺の家はな、先代の勇者が興した家で、その中でも俺は飛び抜けて魔法の才に恵まれていた。剣術も一級品な上に、先代勇者の肖像画と顔まで瓜二つと来てる。誰もが俺に勇者の役割を期待したよ。すごかったぜ、道を歩けばヘリオドール様ヘリオドール様、ってさ。皆が俺に夢を見てた。そして俺も、その期待に応えたいと考える馬鹿なガキだった」
それは初めて聞く話だった。道理で、彼は妙なほど強い訳だ。そして、話しの終わりにも察しがついた。今、そんな彼ではなく、フラムが勇者をしているという事は――――
「二十のときにとうとう聖剣を抜きに行った。もう分かるだろ?抜けなかったんだよ。周囲は面白いほど手のひらを返したぜ。俺の事を嘲笑して、騙されたと言って皆俺の元から去っていった。後ろ盾になってくれてた神官はそのせいで辺境の雪国に飛ばされるし、気持ち悪いほど純粋だった当時の俺が、何もかも憎むには十分だったな」
そう語るヘリオドールの顔は薄っすらと笑っていた。その割に目は真っ直ぐにここではないどこかを見つめていて、その笑みが口元だけのひどく冷たいものだと察せられる。
「自分でも笑えるほど簡単に腐ったよ。遊興に耽って、落ちぶれて行くのなんか簡単だった。自分も世界も何もかもどうでも良かった。けれどユノが」
突然よく知った彼女の名前が出てきて、わずかに目を瞠る。
「あの子が俺の顔を引っ叩いて言うんだ。ちゃんとしなさいって。俺は全然覚えてなかったけどさ、俺がまだ勇者候補だった昔に転んだあの子を助け起こしたことがあったみたいなんだ。それ以来、こーんな奴に憧れてくれてたらしい」
そのとき初めて、ヘリオドールの目元が緩んだ。険しいとさえ言えるような目が、何かを懐かしむようにゆっくりと細められる。
「それ、俺にとって記憶に残らないくらいどうでも良い事だったよ。けどさ、そんなどうでも良いような、勇者でなくても出来るような事を覚えてくれてるって、すごい、なんて言うかな。嬉しいと、思ったんだ」
私は口を挟む事も、何故だか相槌を打つ事さえ出来ずにヘリオドールの話に聞き入っていた。
「俺は勇者にはなれなかった。けど、勇者でも何でもないただの俺がさ、魔王討伐なんて偉業に一役買ったら、それって最高に格好良いと思ったね。そしてそれをさ、そんな俺をたった一人でいいんだ。見届けてくれたなら、俺の二十年は報われる」
最近、気付いた事がある。ヘリオドールの笑顔はどこか紛いもののようだった。いつも笑っているその顔が、女性を口説く甘い顔が、どうしようもなく胡散臭い。そんな彼が、私を振り返る。少しだけ困ったように、まるでリアやフラムのように浮かべたはにかむような笑顔は、珍しくとても素直なものであると思えた。
「それに、死なせたくない。だから俺は、世界を救ってあの子を守る為なら、死にたくないけど死んでも良い」
そのヘリオドールの笑顔には、嘘がないように思えた。私が、人間の表情を読み切れていないだけだろうか。けれど、どうしてもそう見える。どこか困ったような、まるで仕方がないなあとでも語るような、けれどけして非難している様子はなく、むしろ何だか嬉しそうな、顔。
彼の言葉が、一言一言積み重なる度に、私の血の気が引いていくようだった。全然分からない。彼の言い分は意味不明だ。見届けてくれたって、死んでしまってはそれも分からない。そんな事は理由にならない。
それなのに、どうして。ああもう、最近の私はいつもそうだ。彼らを否定する言葉が、どうしてだって出てきてくれない。
冷えてきたな、とヘリオドールがランプを持って、立ち上がるように私を促す。私はいつの間にか宿のベッドに戻っていて、そうだな、と相槌を打ったかどうかも記憶になかった。




