絶望が踏み荒らす
蹂躙だ。
目の前の光景を、それ以外になんと言えば良いだろう。その理不尽で圧倒的な暴力だけが、笑う事を許されていた。いつだって、絶望は気紛れにやってくる。
聖剣の鞘への鍵となる紫の石は、魔界の入口にほど近い場所にあった。魔族でさえ、一歩足を踏み入れれば二度と出らないと噂される深い森。しかし、私達は迷うことなくその森の中を進む事が出来た。聖剣が道標となり、フラムを森の奥へと誘ったのだ。
紫の石を守る聖獣は、比較的穏やかな性格をしていた。勇者の実力を試すと言って、結局闘う事にはなったものの、勝負さえ付けば友好的で微笑みさえ浮かべるほどだった。
残すは白い石のみとなり、聖獣へ礼を告げてその森を出る。はず、だった。
「近くまで来たなら、一声掛けてくれればいいのに」
首が飛んだ。何が起こったのか、すぐに状況を把握できない。首、誰の?聖獣だ。地面で少し跳ねて、コロコロと転がっていく。途端に感じる恐怖と威圧感。身体が重い、しかしその威圧感は、私が良く知るものであった。
「寂しいなあ」
その方は朗らかに笑った。少年らしい面差しで、柔らかな表情で、風に黒い髪を遊ばせ、底冷えするような金の瞳で。優しく、優しく笑った。私の恐怖を、ドロドロに煮詰めたような顔で。
身に着いた恐怖心に身を竦ませる私よりもよほど早く、フラム達は態勢を立て直した。素早く前衛と後衛に別れ、その方に立ち向かっていく。やめてくれ、と声高に叫びたかった。やめろ、敵うはずがない、まともに戦う事すら敵わない。知らないのか、その方は、
魔王陛下だぞ。
何故私が敵対者として陛下と向き合わなければならない。そういう役だ、陛下の命令だ、この役を私は貫き通さねばならない。けれど足下が震える。ただただ恐ろしい。陛下へ向けてどうして詠唱などできるだろう。今の私の立場が陛下の望んだものだとしても、今すぐ地に伏せて許しを乞いたかった。
その結果は、蹂躙だった。順当な結果と言えるだろう。元々聖獣との戦闘で体力を回復できていなかったフラム達は、初撃を堪える事すら叶わず、吹き飛ばされた。その上で、陛下の魔法が一人ずつ確実に傷付けて行く。
「残念だなあ、まだこんなに弱いのか」
残念とは口にするものの、陛下は至極楽しそうな様子だった。陛下にとってはこんなもの、ただの戯れでしかないのだろう。私のすぐそばではレドが気を失って倒れている。フラムとアルバも意識があるようには見えず、木に背中を打ち付けたユノの意識も危うく見える。リアとヘリオドールもとても立ち上がれるようには見えなかった。
そこでふと、陛下の顔がこちらに向いた。全身が粟立つのを感じた瞬間、黒い刃が、私の肩を貫いた。
「あ、ぁああああ……!」
痛い。熱い!肩が燃えるようだ。死、死……嫌だ。違う、落ち付け。このくらいで死なない。死なない、はずだ。畜生。逃げたい。落ち付け。陛下は嬲り殺す趣味を持たない。気に入らなければ一瞬で殺す。こんな半端な攻撃を与えたのは、きっと私の正体が勇者一行に悟られないようにする為だ。だから、大丈夫。大丈夫だと、誰か言ってくれ。
「さて、どれだっけ?確か白いって聞いたんだけどな………ああ、あれか」
独り言を呟いた陛下の目が、木にもたれた状態で気を失っているらしいユノへ向けられる。誰もが動けない中、陛下だけがゆっくりと大地を踏みしめて歩き、彼女の目の前で立ち止まる。
「『聖剣の守人』………今は『聖剣の乙女』と呼ぶんだっけ。随分可愛らしい呼び名になったものだね。勇者と聖剣に一生を捧げ、勇者の為に生き、勇者の為に死ぬ。自ら望んで何かに縛られるなんて、僕には分からないなあ。随分モノ好きに思える」
ユノの顎が少しだけ持ち上がる。多少意識があるのかもしれない。しかし、語りかける陛下に何か返事をする気力もないようだった。
「君も名誉だろう?望んだ通り、勇者の代わりをしてもらおうね」
座り込む私の眼には、二人の姿だけが映っていた。陛下の意図が分からない。それが、私に一層の恐怖心を与えている。そんな中で、動く影があった。
「離れろ、クソガキ」
足元は、かなり覚束ない。それでも立ち上がったヘリオドールが自身の鼻血を袖口で拭い、恐れ多くも魔王陛下へ向かって剣を向ける。その隙に走り寄ったリアが、陛下とユノの間に入り込み、彼女を守るように抱きしめた。
ヘリオドールは強い。剣の腕は一行の中で群を抜いており、魔法の腕もそれを専門とするリアやユノにもけして劣らなかった。初対面で手合わせをした際、確かに彼は手を抜かずに私に敗北しただろう。しかし、あれが手合わせでは無く、本気で殺し合っていたならば、魔族である私でさえ彼に勝てたかどうか分からない。
「弱いなら邪魔しないでよ」
その彼が、あっさりと地に伏せる。そりゃあそうだ、相手は魔王陛下だ。逆らう事が大きな間違いだ。陛下と向き合った時点で、彼らにはもう夢も希望も見る資格がない。
「痛いかな?ごめんね。僕は痛くないから分からないや」
地に伏せ、最早指一本動かすのも辛いだろう身体で、ヘリオドールが陛下の足首を掴む。陛下はそれをあっさりと蹴り飛ばして、再びユノ達へ顔を向けた。リアがほとんど泣きそうな顔で、ユノを抱く腕に力を込めた。
「来ないで」
「そう言われもなあ。気は長い方だと思っているけど、このままだとあまりに張り合いがないからね」
「ユノに酷い事しないで」
リアは陛下と目を逸らす事無く、そう訴えた。何故、そんなことが出来る。恐ろしくない訳ではないだろう。自身よりも圧倒的な力を持つ存在に攻撃されて。実際にリアの身体は、怯えるように震えているのに。
「うーん………」
陛下が少し思案するような様子を見せた。早く、許しを乞え、と声も出せずに願っていた。陛下は気紛れだ。もしかしたら、それで見逃してくれるかもしれない。私のときのように。
「君はどうして、勇者と旅をしているんだい?」
「え………あ、フラムが心配だったから……」
「フラム?ああ、勇者の事かな?どうして心配?」
「だってフラムは、考えなしで、すぐ無茶ばかりして、弟みたい、で………」
「そっかぁ!」
歓声のような明るい声が、陛下から上がった。絶望に染まり切ったこの場で、あまりにも相応しくない声だった。ぞっと、血の気が引くような。
「それなら君でもいいよ?」
陛下の手が、ユノを抱きしめていたリアの腕を掴んで持ち上げる。陛下はけして大柄ではない。それでも少女にしては小柄なリアを持ち上げれば、簡単に彼女の足は地から浮いた。リアの表情が苦しげに歪む。
「勇者が強くなるのを待ってるけどね、このままでは余りに冗長だ。だからさ、時間制限をあげようと思って」
リアの口から呻き声が漏れる。全身を腕一本で釣りあげられれば、肩が外れそうに痛む事だろう。その上、あの方から見下ろされる恐怖は、人間である彼女にとって如何ほどだろうか。
「記念に名前を教えてもらおうかな?ああ、やっぱりいいや。どうせすぐ忘れてしまうもの」
左腕でリアを持ち上げた陛下が、右手をリアの口に突っ込む。リアは苦しげに嘔吐くが、陛下の手は容赦なく口の中に押し込まれる。内側から引き裂くつもりだろうか。見ていられなくて、私は堪らず目を閉じる。何も出来ず、何もせず、見捨てた私の中が、爪を立てて引っかかれたかのように気持ち悪かった。ああ、ああ。あーあ………
彼女は、笑った顔がよく似合うのに。




