わずかな痛み
ぱしん、と乾いた音が鳴った。触れた瞬間は衝撃の為か少し冷たく感じ、じわじわと頬に熱が広がっていく。わずかばかりの痛みを感じたのは、少し時間が経ってからの事だった。
「酷いよ、どうしてそんな事を言うの?」
自身の発言が人間にとって失言であったと気付いたのは、叩いたのは自分の癖に、まるで叩かれたみたいに両目一杯に涙を溜めるリアに見つめられてからだった。私の方が痛いとでも言いたげな顔だ。
「ヴィオラはおかしいよ」
私は何もおかしくはない。ただ、人間と魔族の考え方が違った。それだけの事だ。私がそれを少し、隠し忘れてしまっただけだ。
彼女に叩かれた自身の頬を、手のひらでなぞる。わずかとはいえ、頬に痛みを感じる。そのことが、無性に腹立たしかった。魔族に蹂躙されるしか能のない、脆弱な人間の癖に。
勇者一行の旅は概ね順調だった。道に迷い、強敵と戦う事もあったが、何とか勝ち続けている。途中、何かと魔界で私に突っかかってきていた魔族とも相対したが、それも勇者自ら止めを刺して戦いは終わった。相手は人間に扮した私の正体に気付かなかったらしく、安堵と同時にせいせいした。私に攻撃性を向ける存在は恐怖であったし、一々難癖をつけてくれるその魔族が大嫌いだったからだ。
聖剣の鞘を手に入れる為の鍵となる丸い石も、緑と赤に加えて黄色の石も手に入れた。今は青い石を手に入れる為に北方へ向かっている。その道中で立ち寄った町で、一行と離れてしばしの自由を得た私は、人のいない町外れへ向かった。
「ヴィオラ様、そう薄着では怪しまれますよ」
レドが冬仕様の女性物のローブを持って、私の後を追いかけてきた。いつも何かとくっ付いてくるリアがいないので、久しぶりに一人の時間を満喫出来ると思っていたのに、このペットはどうやら空気を読むという事をしないらしい。
「北へ向かうごとに寒さが増しますね。人の身には、堪えるでしょう」
レドがそのローブを私の肩に掛ける。リボンがついており、それで前を留めるものらしく、彼の乾いた指が私の胸元で蝶々結びを作った。
「………少し、軽率でしたね。あの言葉は」
「そうだな。私は当たり前の言葉を口にしたつもりだが、人間は本当に気難しいな」
この町へ向かう道中、魔物に襲われる荷馬車に遭遇した。同乗していた商人が荷を運んでいたようだが、雇った護衛も魔物に殺され、フラム達が助けないと、と言って駆けつけたときにはもう商人の幼い息子しか生きてはいなかった。
魔物を倒し終え、沈痛な面持ちをする一行の中で、私は思わず呟いた。私にとっては、その息子を気に掛ける勇者一行の気持ちに沿った慰めのつもりだった。
『自分だけ生き残れてよかったじゃないか』
そう言った途端だった。リアが私の頬を平手で叩いた。良い訳がない、それはとても残酷な言葉だと、リアは泣いて訴えた。私はそこで自身の失言を悟ったものの、何がそうも彼女を泣かせたのかは理解出来なかった。
私に分かるのは、魔族と人間は違う生き物だということだけ。
「だから言ったじゃありませんか。自分を犠牲にした上での他者への奉仕こそが、何よりも尊いと語り継がれる生き物だ、と。そんな人間にとって自分一人が生き残ることは、最早罪ですよ」
「私には理解出来んな」
私にローブを着せ終えたレドに背を向け、指笛で一羽の魔物を呼び寄せる。魔物と言っても、見た目だけならばその辺にいる鳥とそう変わりなかった。
左腕に止まらせ、鳥の足に魔王陛下への報告書を括りつける。ずっとリアがそばにいて中々報告書を送れていなかったので、ある意味で良い機会だった。あの発言を切っ掛けにもしも魔族ではないかと疑われたならば、そんな悠長な事も言っていられなくなってしまうが。
報告書を受け取るとすぐにまた飛び立っていく鳥を見上げ、レドはぼんやりと呟いた。
「こんなものが何の役に立つのでしょう?」
「何の役にも立たんさ。これは精々陛下の暇つぶしだ」
こんな情報などなくとも、陛下ならば瞬きの間に世界を崩壊させる事が叶うだろう。あの方はそういう圧倒的で理不尽な力の持ち主だ。人間にとっても、私達魔族にとってさえ、恐ろしい支配者だった。
それなのにこんなまどろっこしい事をさせているのは、私の予想ではあの方なりの遊びでしかない。かつて自身を五百年もの眠りに就かせた『勇者』に、陛下は期待しているのだ。この退屈を終わらせてくれるのではないか、と。私が陛下のお心を察するなど、恐れ多いことではあるが。
「俺にはただの少年に見えます」
軽くそう口にするレドを、思わず睨んだ。
「失礼な事を口にするな。陛下への侮辱は私が許さん」
「おお怖い。可愛いペットの首を刎ねるというのですか」
「誰が可愛いペットだ」
おまえは可愛くないペットだと口にして、まるで自身を守るように、わざとらしく両腕を撫でさするレドに溜息を吐く。
「魔族は人間に比べれば歳の取り方が遥かに緩やかだ。あの方も例外ではない。むしろ、強い力をお持ちだからこそ、よりゆっくり歳を取る傾向にある」
「陛下も何気に三人の子持ちだそうですしね。全員陛下に逆らって殺されたそうですけど。老いは無いのですか?」
長い間、魔界に住んでおきながら、レドは今更そんな事を問い掛ける。しかし、それも仕方がない事だろう、とすぐに気付く。レドはほとんど私の家に引き籠って過ごし、たまに外に出る事があるとすれば、嗜虐心を持て余した魔族に引きずり出されるときだけだった。
あちらでは、壮年以上の年齢を見掛けること自体が稀だ。しかしそれも、至極単純な理由が原因だった。
「もちろんあるさ。ただ、その年まで生きられる者などほとんどいない」
魔族は弱肉強食。常に力によって奪い合う。その中で生き抜く事は、うんざりするほど困難だった。
だから、手段なんて選んでいられない。何を犠牲にしても、何を陥れても私は生き残る。フラム達に思う事も同じだ。どうか、私の為に死んでくれ。所詮彼らは人間で、私達魔族の敵なのだから。
そろそろ戻ろう、とレドに一声掛け、町の中央へと移動していく。今日はここで一晩過ごす予定であり、すでに宿は抑えていたので、その宿屋を目指す。迷うことなく辿りついたが、その宿屋の前にはリアが一人で立っていた。
「ヴィオラ……」
彼女はこちらに気付いて顔を上げると、またもやその大きな瞳に涙を一杯に溜め、こちらに駆け寄ってくる。先程まで私を避けていたので、何のつもりかと警戒すれば、彼女は構う事無く私に体当たりをし、そのまま私の首に両腕を回した。
「ごめんね、ヴィオラ。痛かったよね。ヴィオラも色々あったもんね、きっとそれで酷い事を言っちゃったんだよね。ヴィオラの事、考えてあげられなくてごめんね」
リアは泣きながら謝罪を口にした。何事かとしばらく戸惑っていたが、どうやら私のあの発言を、都合よく解釈してくれたらしい。これを切っ掛けに彼女らに疑心を持たれてはかなわない、と思っていたので、正直少し安堵した。
「ごめんね、ごめんね。痛かったよね?」
そう言って、リアが私の頬に触れる。雪こそ積もっていないが、冷え込み始めたこの土地に来ても、彼女の手のひらは温かいままだった。その手のひらが、私の頬を労わるように撫でる。
「痛かった?………痛かった、な」
非力な人間の、さして力も籠っていない平手打ちだった。それにしては、そのときの事が妙に記憶に残る程度には痛みを感じた。その事に、わずかな疑問を覚える。本来なら、取るに足らない痛みだろうに。やはり、勇者一行に加わる力を持つ彼女の平手は、それだけの付加価値があるのだろうか。
「あああそうだよね!?ごめんねごめんねヴィオラ!」
自分の中の疑問を整理するように呟けば、リアが大きな声を上げてうろたえる。ますます涙を溢れさせる始末で、彼女を宥める為に自身の思考に集中することも出来なかった。




