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玄関先にボロ雑巾


 死にたくない。

 それは生物が感じるべく最も強い願望だと思う。容易く理性を凌駕し、自尊心を砕き、体裁を奪い去る、最も本能的な衝動。だから、私は選んだ。

 私にとって何よりも強靭だった父、私にとって何よりも正しかった母。私にとって絶対的君主であり、圧倒的支配者だった二人が、息を呑む暇もなく地に伏せ絶命した、あのとき。


『選ばせてあげるよ』


 強者にのみ許された酷薄な微笑みでそう示され、私は迷わず地に伏せた。ただただ、生きたい一心で。ただただ、死にたくない一心で。父と母の死を下敷きにして、尊厳などかなぐり捨てて命乞いをしたのだった。









 魔王陛下が治める土地は、常に厚い雲に覆われた陽の光の届かない土地だ。人間達は、魔族の住むここを『魔界』と呼んでいるらしい。所々噴き出す瘴気に触れると、人はたちまち溶けて死んでしまうそうだ。何とも脆弱な事で、その寿命の短さも相まって憐れみすら感じてしまう。

 もっとも、陛下を滅ぼし、この世界から魔族を掃討しようと企む浅はかな人間達には、同情する謂われもないのだが。


 山頂の陛下の住まう城から、髪と同じ紫色をした羽を広げて平地に降り立つ。アーチのようになっている剥き出しの岩肌をくぐり抜け、自宅へと向かう。洞窟などに住処を定める魔族もけして少なくはないが、これでも陛下から勅命を戴く立場にあるので、それなりの権利を与えられている。住みやすいという理由で、私の自宅は人間のそれに似せて作らせていた。人間は暗愚で浅慮だが、こうした技術に関しては私も一目置いている。


 その、自宅の玄関先に、ボロ雑巾が転がっていた。


「何をしている」


 非常に不本意だったが、そのボロ雑巾に向かって声を掛ける。それはボロ雑巾だが、返事の出来るボロ雑巾だと残念ながら私はよく理解していた。


「玄関先に蹲っていると邪魔だ」

「おや、これはヴィオラ様。お帰りなさいませ」


 ごろん、と寝がえりを打ち、ボロ雑巾は男の声で返事をした。向けられる顔はよく見慣れた男性のものだ。億劫そうに半分閉じた黒い目に、唇は一本の線のよう真っ直ぐに閉じられている。奇妙なほどに表情が動かないが、その丸い耳が主張するのは、彼が人間であるという事実だった。

 自身のものだろう、血と埃と泥に汚れた彼の灰色の髪が、額の上を滑る。


「それで?レド、おまえは何をやっているんだ」


 レド、と彼の名を呼べば黒い目がこちらをじっと見返した。

 この魔界において、人間である彼の存在は異質だった。魔族は、人間を壊れやすいおもちゃ程度にしか思っていない。私の子飼いのペットであるという事は知れているので、壊されるような事はないが他の魔族に絡まれ、暴行を受ける事はけして珍しくはなかった。


「目付きが気に入らないと、少々制裁を受けました。こんなに愛くるしい目をしているのに、全く酷い事を言うものです」

「おまえの目はいつ見ても死んだ魚のようだよ」

「ヴィオラ様までそのようにおっしゃるとは、レドは哀しみで胸が潰れそうです」


 まるでたおやかな女性のように口元に手を当て、悲しげに呟くもののレドの表情はわずかばかりも動く事は無い。彼の表情筋はとうに死んでいた。頭の歯車と共に遠くへ旅立ってしまったのだろう。

 呆れて溜息を一つ吐き、レドのそばに座りこむと彼に回復魔法を掛ける。レド自身は痛みには慣れたと口にし、私も痛みを誤魔化す魔法を彼に掛けてはいるが、回復魔法を掛けなければ動く事もままならないだろう。痛みでは無く、単純に肉体が限界だった。


「おお、さすがヴィオラ様はお優しい。ペット冥利に尽きます」


 粗方回復魔法を掛け終えれば、ようやく起き上がれるようになったレドが上半身を起こし、そのまま何故か両手を空に向かって伸ばした。屈んでいた私は普段よりも近い位置から胡乱な眼を彼に向ける。


「それは何をしている?」

「喜びを全力で表現しようと思いますれば」

「…………おまえは、そんなくだらない事よりも表情を動かす努力をしろ」


 無表情な割に、レドは気持ち悪いくらい陽気な性質だった。口を開けばふざけた事しか口にしない。彼と真面目な会話をした事など、彼を飼い始めてからしばらくの間だけだった。


 レドは、私の子飼いのペットだ。他の魔族が彼の両親を殺しているところに出くわし、彼に興味を持った私がそのまま引き取った。始めは私の家で呆然と過ごすばかりだったが、あるときを境に徐々に動き始め、今では私の身の回りの世話をしてくれている。力こそが全てだと考え、それ以外には恐ろしく大雑把な魔族に比べて人間の彼は気配りが細やかであり、なかなか過ごしやすい環境を整えてくれている。少々、口が過ぎるのが難点だが。


 何より、人間の彼は限りなく無力だ。私の気紛れでその首を刎ねる事も容易だった。常に強者として高みを目指す魔族をそばに置けば下剋上を警戒しなければならないが、人間のレド相手では、その心配も無い。人間の彼は、あまりに脆弱だ。

 そして、念の為、呪いも掛けた。私に害成そうとすれば、彼の心臓はたちまち破裂して死に至る事だろう。レドは私の忠実なペットであり奴隷だった。


「身支度を整えろ」


 私の命令に、レドは開き切らない目で不思議そうな感情を示す。私が彼の身なりに口を出す事自体が珍しかった。


「どこかへ向かうのですか?俺も?」

「ああ。飛びきり良いところに連れて行ってやろう」


 『良いところ』と言ったのは皮肉のようなものだ。本来ならば、絶対に近付きたくないところだった。私の恐怖の象徴を、大きな鍋でドロドロになるまで煮込んだような、ところ。


「魔王陛下がお呼びだ」


 そんな事、口が裂けても言えないけれど。





最後までお付き合い頂けますよう、頑張りますのでどうぞよろしくお願い致します。

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