正義問答、あるいは善の魔剣と悪の正拳
ユウマは手にしているペルガモンの頭蓋を興味なさげに放り投げた。
上位種としての尊厳を重んじていた天使も、死を迎えれば語る口を持ってはいない。
白砂の上に転がり、淀んだ色の瞳がリヒトを射抜く。
だが、それも長くはなかった。喇叭吹きとしての役割を終えたペルガモンは、その存在をこの世界から消滅させた。
それだけの時間しか経っていないのだ。
それだけでこの破壊が行われ、そしてその戦乱は終わっていた。
それとも、終わらされたのか。青年の手によって。
彼が行う行為すべてが示威であった。
今から殺す相手の、心をくじくための。
「さて、早速だけど死んでもらうよ、リヒト君!」
右手にダーインスレイヴを握り、ユウマが突貫する。
蹴り出す足は、白砂を爆発的に巻き上げた。
その接近を、イリスは捉えることはできなかった。
認識が追い付いたときには、彼女ははるか遠くへ吹き飛ばされていた。
羽で風を掴む。遅れて腹部の圧迫感を知覚する。
上空から見据え、そして自分に起こったことを理解した。
押し出す形に伸び切ったリヒトの左腕。
少年には見えていたのだ。ユウマの姿が。
そしてイリスを逃がすと同時に、応戦も行っていた。
突き出された右の拳。その先には頭部のはじけた青年が倒れている。
「どうせオプファのやつが余計なことをしたんだろうけど、これで終わりだ」
あまりにもあっけなく、そして圧倒的であった。
役割を終えていたとはいえ、天使の首を取った青年をただの一撃で仕留めた。
少年は何もかもが煩わしいと言うように右手にこびり付いた血を払い、歩き出した。
意外と手近で止まったユウマの死体を乗り越え――その軸足を掴まれた。
「ッ!?」
上げていた右足を地面に叩きつけ、乱雑に左足を振るう。
その足首を掴んでいた青年の手が肩からもげた。
「痛いなあ」
声がした。途絶えたはずの命から。
振り返り見下ろすと、ダーインスレイヴから伸びた管がユウマの首から上を形作っていた。腕もだ。
骨が、神経が、血管が、筋繊維が、上皮が編まれていく。
少年は慌てて距離を取る。
靴が砂を噛む頃には、ユウマは完全に再生していた。
そこでリヒトは知った。ユウマが生きている理由は、青年そのものであると。
戦慄に喉を鳴らしながら問う。感じていた違和を。
「お前それ……本当にダーインスレイヴなのか?」
今はその脈絡を知れぬ神話のひとつにある魔剣の名。いわく、血を浴びるまで鞘に戻らぬ魔剣だと。
だが、奪った血液を肉とし攻撃、また持ち主の欠損部位へ転嫁されるなどと言う記述はない。
「さて、どうだろう? 血を、生を啜り空の身を満たせと喚き散らす、聖なる剣と対を成す邪悪な剣」
起き上がり、ユウマは蠢動する刃を掲げる。
「それを名で縛り役割を与えただけのただの無銘だからね」
ああ、とリヒトは唸る。それで得心がいった。
「つまりはお前か」
「辛辣だねえ。……だけどま、否定はしないさ」
言い合い、しかし二人は干戈を交えることはない。
先の交戦で、互いの力は図られた。
差は歴然。機先を制したにもかかわらず、リヒトは同伴者を戦闘の圏外に追いやりながらユウマに致命の一撃を加えた。
だが、その彼我の違いこそがリヒトの足を止めていた。ユウマが弱くなったのか、それとも少年自身が知らぬ間に急激な変化を遂げているのか。
その疑念の気配に気付いたユウマがわざとらしく口を開いた。
「それが〈人類免疫〉の力と言うわけだね。全く、人間から敵だとみなされるのは堪えるね」
「さっきから言ってる、その〈人類免疫〉ってなんだよ」
「人類が危機に陥れば陥るほど、その脅威に対しての力を増す免疫、らしいよ」
「曖昧だな」
「聞きかじりの知識だからね。どうやら君は、この黙示録に対して恐怖した人々に願われて生まれた存在みたいだよ」
「おれに人を救えと?」
あまりのばかばかしさに鼻を鳴らすリヒト。ユウマも笑い飛ばした。
「それでも君は人間の傀儡。そして僕は世界の傀儡さ」
「お前も何かに願われたのか?」
「これでも世界から〈主人公〉を背負わされた身でね。僕は世界の危機に対してその力を増す必勝の力。なにせ僕が死ねば、それが世界の敗北だからね」
刃の腹で肩を叩きながら笑みを深める。
「どちらにせよ、この黙示録は果たされることなく潰える。まったく、無為な争いだ」
「じゃあそこを退けよ。邪魔だ、〈主人公〉」
「断るよ。僕は世界を救うんだ」
「あの頃から変わんないな、お前は。死んでも何も変わってない」
「ああ。それでも僕はみんなを守りたいと思ったんだ」
「それは尊いな」
リヒトは視線をユウマの向こう――崩れた『箱庭』に運んだ。
「だがよ、お前が言うみんなとやらはどこに居る? お前が言う『世界』ってやつは一体なんなんだよ」
「再定義する必要もない。この世界全てだよ」
本当に変わらない。それが青年の根底にあるものなのだ。
「僕は苦しんでいる人を見捨てない。伸ばされた手は全部取る」
「じゃあ、『箱庭』のやつらはみんな助けられたのかよ」
ユウマは首を横に振った。
「あれは僕の介入していい事柄じゃない。彼が託したものは、僕にはいささか扱いかねる」
リヒトの頭に疑問符が浮かぶ。もはや知れぬ事柄だ。
「それも終わって、結果は見えた。だからこれからは、僕が僕の役割を全うする番だ」
「勝手にやってろよ。おれはユーを連れ戻しに行くだけなんだから」
「駄目だね、許されない。そんあ君じゃあ世界を救えない。あれに思慕している君は、世界を見捨てる可能性がある」
「だからさ、世界なんてどうでもいいんだよ!」
苛立たしげに吐き捨てる。
焦燥が胸を暴れまわっていた。。
喪失への予感が、それが誇大された妄想であろうとリヒトの脳裏に過ぎり続ける。
ひとつの生命の死は原則覆らない。
ユーベルの存在は生きる寄る辺そのものだ。もし取り返しのつかないことになったのならば。
あの日、手の平に宿った熱が道しるべだ。
前を向け。
目を逸らすな。
手を伸ばせ。
走り続けろ。
「――その果てに求める光がなかったとしたら?」
ぐらり、と意識が傾ぐ。
少年の前提が、否定される。
「君の行く道は、つまりそういうことだ」
「……どういうことだよ」
「〈終末黙示録〉。〈人類免疫〉たる君が否定するべき、終末論の極地。それがユーベルなんだ」
思考が、凍った。
「形成された文明を破壊することで行き詰った世界を浄化する黙示録とは異なり、あまねくすべてを終わりすらない無へと帰す。それが一人の女の怨嗟が生んだこの地獄だ」
その言葉に、上空で推移を見守っていたイリスが全ての疑問の答えを得た。
「そういう意味では彼女も〈終末黙示録〉の傀儡か。とんだ喜劇だよ! どいつもこいつも何かの役割に縛られている!!」
憤りをぶつけるようにユウマは叫んだ。
それで、リヒトの思考に張った薄氷が砕けた。
「だからリヒト君、君が望む世界は来ない。〈終末黙示録〉と暮らす安寧とそれを保持する世界は同居しない」
それが現実だと、覆しようのない事実だと青年は諭す。
――だが、何かが違うとリヒトは思った。
ユーベルに関する事実から逃避するために現実を歪めたのではない。
ある男と女の出会いと別れを知った。
言葉は世界に刻まれ、誰かに届く。
そうした中で、少年の思考は研磨されていった。
感情が言葉となる。形の見えなかったものの感触が確かにわかる。
「それでもだ」
脈絡のない呟きにユウマが怪訝な表情を向ける。
少年は真っ直ぐに見据え、言葉を語る。
「それでもおれは立ち止まらない!」
リヒトの叫びに、ユウマは今や血肉と化した男の言葉を思い起こした。
「ああ……それが人間だと!? こんな酷な話があるか! 万人に君の存在は強いる! 幸福のため、どんな艱難辛苦を前にしても立ち止まるなと!!」
「そうだ。おれはおれでしかなく、お前はお前でしかない。求めるものが違う以上、ひとりひとりが自分の足で歩き続けないといけないんだ」
「だが、人はそんなに強くない! 黙示録の日、多くの人は獣へ転じた。〈終末黙示録〉の存在に、それを否定する〈人類免疫〉を願った」
「確かに、苦難を前に折れることはある。だけどな、それでも求め続けることに意味があるんだ!」
結果のみでは足りない。そこへ至る過程こそが、結果の価値を決めるのだ。
「寄り添って、寄りかかって……ひとりで立てないときは誰かに頼ればいい。だけど、自分の足で進むことだけは決して止めちゃいけないんだ」
幸福が自ら歩み寄ってくることはない。
歩み続けたその先で、ようやく手にすることができるものだ。
幸福の臨界点。理想郷。
行き詰まった幸福は、やがて霧散する。
「お前の救いの定義は、そういうことだよ。お前が言えば確かに現実と感じられて甘美だ。だけどな、それは幸福であることを諦めるってことだよ」
「君の詭弁は、根底を見誤っている。それは人間の強さこそを信じ、本質的な脆さを度外視した理想論だ」
「ああ、理想だ。理想論だ。だがな、理想論じゃなきゃ現実||は越《、》えられない《、、、、、》!」
「――ッッ!」
「こんなくそったれな現実に傅くなんてごめんだ! 届くか届かないかじゃない。理想を夢見ろ。生き抗え。だから、幸福の果てが何処にもなき理想郷なんだ!!」
最果てなんてない。
世界に限界なんて存在しない。
信じ続けてその足を止めない限り、未来はいつだって前にある。
「可能性は信じなくなった瞬間に潰えるんだ。だから、おれは信じる」
「君のそれは、独りよがりに過ぎない!!」
「そうだ。全ての行動の源泉は、自分のわがままから始まるんだ」
「……結局は並行か」
もはや言葉は尽くされた。それでも互いが相容れることはなかった。
「君は世界を知った。僕は真実を知った。ただそれだけの差異。だからこそ、これは最も単純な構図――ただ、世界を救うための戦いだ」
「おれが世界なんてどうでもいいと知っててそれを言うのか」
「結果の話、或いは客観の視点さ」
「だからどうした。要るのは、なんで戦うのか。その理由だろ」
「……ああ、そうだね。君と僕。その間に、まどろっこしい理由はなしか」
何故戦うか。その理由は、とうに語られている。
「僕らの正義の証明は、こうだったのだから!!」
彼我の差は関係ない。自らの意思を貫くために、他者の意思を砕くために全身全霊を尽くす。
示し合わせることなく、二人はほぼ同時に蹴り出した。
少年の見る風景は一瞬で移り変わる。
黒の先端。ダーインスレイヴによる突きが喉頭に迫る。
それが到達する寸前、小さく外側へ回していた腕が先に手首を砕く。
その衝撃にダーインスレイヴも吹き飛ばされるも、伸びた管が傷口に絡み収縮。負傷を治しながら右腕に収まった。
それは刹那の間。だが、リヒトに対しては致命的な時間だ。
下へ抜けるように振り抜いた左の拳。その勢いに体を巻き込んで右下へ上体を落とす。
曲げた腕、地面を踏み締めて肘を空いた顎へ突き立てた。
肉弾戦において『筋力』のチート能力者であるリヒトにユウマは敵わない。ゆえに再生の間は、まったくの無防備に等しい。
首から上が爆散する。
下から持ち上げる力に、頭を失った分だけ軽くなった肢体が浮いた。
管が失われた器官を構成し直す。
同時に管が重なり合って布のようなひだが作られる。
うぞうぞと蠢く肉ひだ。それが刃に収斂する。
剥き出しの筋肉に似た紅い剣となったダーインスレイヴが、圧倒的質量にて振り下ろされる。
追撃を仕掛けるため膝に力を溜めていたリヒトは、即座に腕を組んでそれを受ける。
ずんっ、と足場が沈み、その衝撃に世界が揺れた。
ひだが解ける。血の詰まった管が一部の隙もなく全身を拘束する。膝まで埋まったリヒトは躱すことができない。
ぎちぎちと音を立ててその輪郭は確実に絞られていく。抵抗の余地なく破裂する結末は避けられない。
だが、砂に埋まり拘束を逃れた足が蹴り上げられる。舞う砂塵は、その勢いに一粒一粒が鋭利な刃物のような切れ味を保有して管に触れる。
外皮が裂け、中身が飛び出た。
舞い散る血が少年の裏拳にはじかれ、着地した青年の視界を覆う。
紅く染まる世界から顔を左に逸らせば、右からリヒトの横殴りが迫っていた。
足を開き、拳に合わせて回る。突き抜けるはずの拳の直撃を回避できたのは、たまたまで運だ。それでも、風圧で右半分がひしゃげた。
そのまま一周する頃には回復し、ユウマは口の中に残っているものを仕込み矢のごとく吹き出した。
その真白の飛来物は、砕けた歯の欠片。眼球を狙い定めていた。
とっさに右腕を眼前にかざし、それを防ぐ。
しかし、腕で影となった隙にユウマが迫っていた。
頭蓋を割る斬り落とし。右半身を逸らすもわずかに遅く、左の水晶体が斬り裂かれる。
「ぐっ!」
鋭い痛みに剥離した感覚が左目の中で混じり合う。
左の世界が暗がりに落ちるも、ひるむことなくリヒトは蹴りで青年の膝下を薙ぐ。
管が脚を再生しながら地を掴む。多脚となって逃げる魂胆だ。
しかし、それを許すリヒトではない。
頭上からの高速の叩きつけ。ユウマが肉片と散る。
縫い糸のように交錯する管を連撃で潰し続ける。
地面を殴り続けるたびに地殻が揺れる。
砂の許容水分量を超え、辺りが血だまりが広がっていく。
宿主を再生させる最低量の管を失いかけたダーインスレイヴは自立を選択。
伸縮した管が本体を飛ばす。左の死角から迫った刃に一瞬反応が遅れ、反抗はできない。振り下ろしの力で体を回して前へと転がった。
二回転の後に地面を掴む。四足歩行の獣の体となったリヒトはそのまま身をひるがえしながら飛びかかった。
低空の跳躍。飛び散った肉片を繋いでまばたきの間に再生したユウマの手前に左半身で着地する。
再生直後の区切れた風景に映る拳に対応すべく、黒剣を斜め下から斬り上げる。
しかし、少年の腕はその軌道上へは伸びなかった。
溜めを作ったのだ。
筋力のチートにはそぐわぬ動作がユウマの予測を外させた。
着地の反動で伝わる力を伝導。腰を限界まで右に曲げた。
溜め込まれた力が軋みを上げる。弓のように引かれた体から一条の拳が放たれる。
だが、青年は奥歯が砕けるほどの気合を以てそれに合わせる。
動く手を止めることはできない。だが、行動は未だ最中である。
「ッ!!」
手首を返す。それにより斜めからの斬り上げが弧を描く軌道となり、剣先に砂が噛む。
前に乗った重心を利用してさらに体を沈め、寸前まで剣を地中に走らせる。
リヒトの懐近くに潜り込んだことで、接触の時間も早まった。
空気を押し出しながら迫る右の拳。その直下から垂直にダーインスレイヴが斬りかかる。
一閃。空気を裂く剣戟の方が早く到達した。
少年の肘からが断ち切られる。
血肉に喚く黒剣を無視し、二の次を継ぐ。
腕を返し――悪寒が走った。
狼狽なく、真っ直ぐを見据える少年の瞳に。
そして、失策を思い知る。
リヒトのチートは筋力。
一打一打が致命。
だからこそ、ユウマは確実にリヒトの攻撃を潰せる手段を採ってきた。だが、それでも――
「っ!」
拳と共に踏み込んだ右足を軸に半身となる少年。体をひねる動作すら置き去りに、左の拳を運ぶ。
速さに重きを置かれた軽打。だが少年のそれは、人を爆散させるほどの威力を秘めている。
握り拳が、青年の顔面を捉えた。
鼻先が押され、頬骨ごと陥没。眼球が眼窩ではじける。
奔る力の逃げ場を失った筋肉は、上皮を突き破って散った。
顔を失った躯は、もう起き上がることはなかった。
それを確認し、引いた腕を下ろす。
切り落とされた少年の右腕が、ユウマの死体の上に落ちた。
大きく息を吐き、リヒトは有無を言えぬ亡骸へ言葉をこぼす。
「右腕はくれてやる。だから、ここは死んどけ、〈主人公〉」