人倫裁定、あるいはすべての始まりと終わりの序曲
――それは、リヒトが旅立ってから半日が経った頃。
「世界を救ってみないかい、〈主人公〉?」
青年に、一つの誘いの手が伸ばされていた。
起き抜けにすぐ、何の脈絡もなく差し出された手。
それを逡巡一つなく、彼は取った。
純白の部屋。医務室であるそこにある機器は、すべて正常の値を刻んでいる。
リヒトにより打倒されたはずのユウマであったが、今現在において一切の内傷外傷は認められなかった。
吹き飛ばされた頭蓋すら、元通り。平平凡凡な、ゆえに奇跡的な均衡で整った面構えは、一部のゆがみすらなかった。
その顔が、困ったような表情を作る。
「で、なんで僕は生きているんですかね?」
「知りたいのはこっちだよ」
聖剣は霧散し、それを収める鞘は砕かれた。己に降りかかる悪意を予見する眼の力も失われた。残っているとすれば、
「なんであれ、すべては君が〈主人公〉であるということにつながるんだろうよ」
「〈主人公〉……僕を最初にそう呼んだのはあなたでしたね、オプファさん」
「そうだね。だから行こうか。君には真実を知る権利がある」
そう言われ、ユウマはある場所へと案内される。
渦を巻く構造の研究煉の中央。さらにそこから隠し扉を抜けた先に空洞となっている場所があった。
箱庭の中枢。
「歴代の箱庭の管理者によって何人の立ち入りも禁じられた禁忌の間。その真実を知る者は、箱庭、否、『揺り籠』を本当の意味で管理するために選ばれた黙示録の犠者のみ……だけど、そんな錆びた風習にもはや意味はない」
男はそううそぶいた。
「罪の果実は実った。もはや、原罪を隠すことに意味はないよ」
暗闇の中でも煌々とその赤い瞳は鈍い輝きを放つ。
たなびく白髪をそのままに、オプファに視線を向けられる。
だが青年はそれどころではなかった。
渦巻く気配に脂汗がにじみ出る。
「これは……一体……」
「原初の龍が出てきた『次元の裂け目』だよ」
砕かれた空間。奔る亀裂は、見渡せどもその先端を窺うことはできず。
その身が刻んだ罪を罰する苦しみに喘ぐ声が、浮きすさぶ風となって生者を糾弾する。
「そして、死した人間たちの行き先さ」
淀んだ颶風が、無知な罪人を裁くべくユウマへ襲い掛かった。
絡む風は彼の意識を暗き虚に落とす。
「視てくるがいい。亡者がすがる記憶は過去だ」
くるくる回る認識の世界。
一面の闇は、しかし多彩な感情を訴えている。
それらは何重にも混ざり合い、いつかの情景を作り出す。
重なり合った主観は客観となる。投影される情報は、書き割りじみて、あつらえられたような風景を俯瞰させる。
高度に発達した社会だった。
科学は世界の法則を開墾した。それを制御する人間は、住まう星において文字通り全知全能の存在へと至った。
すべてを知り、操ることのできる人間は、完全なる支配を敷いた。
自然界にて人の手の入っていない場所は失われた。
木々は自らの枯葉を養分に再生機構を持つよう品種改良がなされ、安定した環境が作り出された。
適応できなかった種は絶滅した。残った菌は全て抗体が作られ、動物も今や天然の個体は存在せずに擬似的な『放し飼い』の状態にあった。
人は生命の営みを止めた。
不老にして不死の技術を得た人類は既に完成され、次世代に何かを継ぐ必要がなかったのだ。
遺伝子は乗り物が終着点に辿り着いたことを知るとそういった機能を失わせた。
勤労は全て人工知能を搭載したヒューマノイドが代替しており、金銭のやり取りは過去の産物となった。
一日三回、配給されるサプリメントで必要最低限の栄養を摂取し、生まれた時に血中に散布されるナノマシンで健康状態が常日頃からモニタリングされている。
食事をし、時が過ぎるまで何をするでもなく、たまに隣人を慈しみ、夜を迎えれば就寝して一日を終える。
変わることのない平坦な日常。誰もが平等な幸福を約束されており、民衆が笑顔を欠くことはなかった。
変わらぬことが当たり前であった。そのため精神的な自壊を迎える人は、黎明期以降いなかった。
だが、長い年月の停滞で奇異な発想を思いつく人もいる。
『人は全ではなく個』であると。
そう言った人物は、壊れてしまったと判断されかつての安楽死の方法を転用して『廃棄』をされる。
減った分は、保存された遺伝子の複製をランダムに選出して新しい人を生んで埋める。
完全に近い停滞があった。争いがなければ恐怖もない。ただ、自分が連続するという安心感。
理想郷。そう呼ばれた過去はすでに閲覧禁止の情報として封されていた。
――それがユウマの視点から七世代前までの、地球と呼ばれる世界の在り方だった。
情景が流転する。
しかして、楽園は突如として壊された。
おとぎ話の中から飛び出てきたような九つ首の巨龍が、日本と呼ばれる島国の首都に出現した。何故そこだったのか。その場所が一番、閉塞とした安寧にたゆたっていたからか。
全ては仮設でしかない。
人は、大きな変化の濁流にのみ込まれた。
あらゆる可能性の演算を可能とするマザーコンピューターも、幻想的な存在に対する対処法としては交戦か降伏の二択をたたき出すのみ。
目的のわからぬ相手だ。破壊行為をするでもなく、自らの這い出た際にできた空間のひびの前で鎮座するのみ。
日本国にて一応の責任者と登録された人物は、選択を迫られた。全世界から貴国の問題であると押し付けられ、首都から遠のいた自国民からも正しい選択をと一任された。
その人物もまた、蒙昧に安心を享受する生活を長らく続けた一人でしかない。重責に心はあっけなく壊れ、身綺麗な人道から外れた決断を下した。
委託された権力を使って反応窺うための人間を作り出したのだ。
端的に言えば、人身御供であった。
性別は女性とした。十六歳の肉体にまで成長促進剤で育て、役割のみを脳に入力して放った。
少女を目の前にし、初めて龍は行動を示した。
九つ首を少女の体に絡める動作。
それだけを行い、龍の姿は霞と消えた。
短い悪夢は、一人の犠牲も出すことなく覚めた。
人々は救世主たる少女に感謝を捧げた。
彼女を造るよう指示した人物は壊れていたと民意に判断され処分された。
少女はアリアと言う名と共に人権が与えられた。不老不死化の施術を受け、一般教養を入力し、平等な幸福を受ける一人として生活に受け入れられた。
アリアが、処女のまま懐胎していると判明するまでは。
視点が変わる。
少女は寝台にはりつけにされていた。。
手足を切断され、肩と太ももに拘束用の鉄輪が回されている。眼球も取り除かれ、口には自決を防ぐ猿ぐつわが嵌められていた。
大きく膨らんだ腹が、彼女の短かった幸福な生活の年月を物語る。
現在の人間に生殖機能がない以上、アリアのつがいはあの巨龍の可能性が高い。ましてや処女懐胎など、そのような不可思議な現象は、同じく不可思議な存在によるものと考えるのが自然であった。
臨月を迎え、ヒューマノイドによって帝王切開が行われた。
その様子は多くの人の要望の下、全世界に配信されていた。
取り出されたのは、人間の形をした稚児だった。
すぐに検査され、染色体数からも人間であると判断された。
ただの人間の誕生。そのはずだ――だが、その泣き声は酷く人々を不安にさせた。
何か自らの身に災いが降りかかろうとしている。そんな予感が、心の底から湧き上がっていた。
恐れの根幹は、自らの消失だ。それを避けるためには繋がなければいけない。それを叶える機能を完全に取り戻したのは、アリアから生まれた子供が特殊な力を持っていると判明した時だった。
人が持つにはあまりに強大な破壊の力。
それは、いずれ来る大きな災いへ立ち向かうための力だ。
ならば、増やさなければならない。
ぽつぽつ、と生殖機能を取り戻す人たちが現れる。
初めの一人がアリアを犯す。
月日が経ち、生まれた子供に成長促進剤を打ち、子を産める身体になったら犯す。
ねずみ算式にどんどん増えていく。
蜜に群がる蟻のように貪り精を吐き出した。
焦燥感が、アリアやその子供たちを犯している間だけ消える。
安心だった。
安心のために犯し続ける。
少しでも不安な間を減らそうと複製を造って数を増やそうとした人物もいたが、クローンには能力が宿らなかった。
体内で育まれることこそが大きな意味を持つかのように。
その事実がさらに人々を後押しした。
犯して生んで生ませて育てて犯す。
使えなくなった子生みは、臓器や卵などを腑分けし保存された。アリアも例外ではない。怠惰と淫蕩にさいなまれた少女は、人として生まれることができなかったばかりか、人として死ぬことすら許されなかった。
数はどんどん増え、子生みと能力保持者を分けることができるようになった。
連なる糸のような血脈の必要性と反則的な力からチートと名づけた能力の発現条件のに困窮していた。
多くの試料を観測しても現れる時期ごとの共通点はない。
あえて特筆すべきことを見出せば、世代ごとに必ず一人、白髪赤目の男児が生まれることか。だからといって彼らにほかの個体と異なる点は見いだせなかった。
その答えは皮肉な形となって姿を見せる。
外的要因でなく、内的要因。そう考えた研究者たちは、管理区画も性格も能力もまったく異なる子供を何人か選出して質問をした。
能力が目覚めたきっかけに心当たりはないか。
そんな漠然とした問いに、子供たちは同じ答えを返した。
同じ区画で暮らす人たちと自分は違い、彼らは彼らでしかなく、自分は自分でしかない。そう思ったとき、チートは見に宿っていた、と。
すべての平等を築き上げたこの社会をあざ笑うかのごとく、個々人の自覚こそが能力を発現させる鍵であった。
暗転する。
その喚び声は汚染されていた。
怨嗟の歌。自らに残酷な運命を強いたすべてのものを呪う声が始まりの音だった。
四体の騎士が。七柱の天使が。七つの喇叭が。
羊水たゆたう子宮で育まれ、怨みのこだまする産道から生まれ出て、しかしその生を祝福された。
紅い紅い血の涙を流す子羊に祝福された。
黙示録。そのためだけに生まれたその存在たちは、終わりの引き金を自らに引いた愚者の命を祝福する。
それは浄化。
終わりは、新たな始まり。
終末の音は高らかに鳴り響く。
終わりは歪み、始まりは欠落し、無へ至ると知らずに。
喇叭の音色が鳴り響く。
世界を軋ませる絶望の音は、しかし生命の実りを讃える美歌のようにふくよかで、主の威光を感じさせる輝きを持っていた。
高らかに鳴り響く四つの喇叭は、超克すべき永劫の試練に立ち向かう勇気を壊し、終結する世界から倫理を失わせた。
もはや、人の子らがその手に抱えることができるのは己が命のみ。
理性はかすれ、知性は掻き消えた。
その魂は感情をむき出しにした獣へと堕ちていく。
終末を呼ぶべく降り立った七人の天使は、左右の指を絡め尽きる命のともしびに傅く。
終わりの引き金を自らに引いた愚者の命に祝福を。
命の色の輝きは、赤い果実がごとき色に染まっていた。
光が点る。暗く落ちた景色が一気に広がった。
そして、審判の日は訪れた。
四人の天使が空に円を描く。
金色の角笛を吹き鳴らし、人類に裁きを下す。
まず初めに、民への裁きが下された。次いで、救いへの願望が掻き消える。そして、友愛は失われ隣人すらも足蹴に。他者を慮る自己犠牲の精神は断ち切れた。
多くの魂が反転する。負荷に世界を砕きながら、獣へと成る。彼らは奪われる前にこの満たされることのない欲を満たすべく人を食らい始めた。
空の模様が大きく変わっていく。
太陽は黒く灼熱の威光を閉ざし、星は光年の果てからこぼれ落ち、月は純白の身を鮮血のごとき紅に染め上げた。
失われた熱は地上を舐めあげていた。そこかしこから立ち上がった火が木々や青草を燃やしながら広がっていく。
こぼれる生に海は血と染まり、海の生物の多くがが死滅する。
川も同様に。蛆すら湧かぬ炭化した群れに苦くなった。
白い馬に乗った騎士が空間を割って現れた。手には弓を持ち、頭には冠を被っている。
その存在は、勝利の暗示。そしてその果てに訪れる荒廃を世界に刻み込んだ。
紅い馬に乗った騎士が空間を割って現れた。手には身の丈はある剣を携えていた。
その存在は、戦争の暗示。獣に人間達を襲わせ、戦端を切り開いた。
黒い馬に乗った騎士が空間を割って現れた。手には食料を制限する秤を持っていた。
その存在は、飢餓の暗示。獣からは食欲を、人間からは食料生産の術を奪い取る。
青白い馬に乗った騎士が空間を割って現れた。
その存在は、死の暗示。疫病と恐怖を引き起こし多くの生物を死滅させる。
そのすべては形を持たぬ概念である。だがそれでも、人は陽炎の中にその姿を幻視した。
はるか遠い昔、天災に神威を与えたように。
四人の天使はその役割を終え、姿を消した。
瓦解していく文明に、人々は拠り所を失い恐怖する。
襲い来る獣に個人が持てる武具などは効かなかった。いつ隣人が獣に成り代わるともわからぬ極限の状況は、じわじわと理性を奪っていく。
それでも、刷り込まれた『殺人』への忌避が防波堤となってぎりぎりの状況を持続させていた。
ある大国がとある技術で小国を『廃棄』するまでは。
幸福の平等分配社会では、核兵器などの大量虐殺を目的とした殲滅兵器は失われている。
だが、そのユートピアで個人としての自由を行うものに対して行われる廃棄――つまり、永遠の命を断ち切る技術は多くの人を殺すことをできながらも保有されていた。
大量殺戮と言う事実はわずかな電波に乗り、虫食いながらも平等に各国へ伝わった。
情報精査は機能を停止し、為政者たちも個人でしかなくなっている。
次は自国であるかもしれない。そう考えると同時に人々は、人は、個人のために人を殺していいのだと思った。
抑圧された感情が爆発する。
女子供は簡単に殺された。力の強い男は集団に囲まれて殺され、集団も互いを殺し合った。
食料の枯渇していシェルターでは人食いも行われた。
血の味を覚えた人間は、等しく獣と成った。
その狂気に同調できなかった者たちもいたが、扉を開け獣を招く存在としてやはり殺された。
血で蒸れた空間から、それでもどうにか人のまま脱出できた幸運なものらは、荒廃した世界を見た。
地平の果てまで見渡せる大地。文明を象徴する生い茂ったビル群は瓦礫の一片もない。
白砂に覆われた世界。裂罅に色づく赤紫は、獣に転じた際に世界が耐え切れずに欠けた証だが、今の彼らにそれを知るすべはない。
なにより、地上にひしめく生が、未だに罪を爛れさせ続ける人間を許しはしなかった。
長き忍耐の末、ようやく歩み抜けた光の先に待っていたのは、絶望でしかなかった。
抗う力はなく、彼らは裁かれるしかない。そのはずであった。
獣をその身一つで打ち砕く者が現れなければ。
その正体を、知っている。
チート能力者たちは、人間を救うために戦っていた。
そして言う。自分らを多種多様に広げると。のちの世に『胎』と呼ばれる制度の発端だった。
抗い続けるには数が足りない。勝つには、力が足りない。それを補うために、自らが贄となる、と。
それは、善意の発露からくるものであった。
いつか、楽園にたどり着くために。
本当の意味で万人が幸福であれる――そんな理想の果てがあると信じて。
人類は、獣を接合して作った壁に閉じこもった。
その瞬間から獣は、〈飢餓〉の両天秤により、その底なき食欲を節制された。それは重さが釣り合ったから。均衡が崩れたその日こそ――。
食糧生産の技術が奪い取られた人類は、同胞の死骸を食らうしかない。血肉にまみれ、もはやその魂は引き返すことのできない場所まで達してしまった。
それでも彼らは祈った。
その祈りに反し今は、格差を下敷きとした刹那的な幸福に箱庭は満たされていた。記録は失われ、記憶はかすれ、根底にあった願いは消えてしまった。
過ちは繰り返されるであろう。
だから、死者は嘆き続ける。無の手前にからめとられた怨嗟は、今を生きる人らの幸福を叫ぶ。
それは苛む呪いであると同時に、大いなる祈りでもあった。
これにて終幕。
幕は閉じ、一面は暗闇。前も後ろもなく、そもそも浮遊感に進む足すらない。
じわじわと意識が暗闇に侵食されていく感覚だけが身に走る。
八方ふさがりの状況。
青年は右手にダーインスレイヴを呼んだ。
振りかぶり、一閃。
空間に切れ目が入り、暗闇はそこに吸い込まれるようにして晴れた。
ユウマは立ち尽くす自分を自覚する。息苦しさに大きく深呼吸した。
「よく帰ってこれたね。さすがは〈主人公〉」
「帰ってこれたって……」
「普通だったら死んで、死者の仲間入りさ。それをたった一日で」
「あなたも、これを見て帰ってこれたんですよね」
「私はアリアの直系でね。〈終末黙示録〉を繋ぐための種。ゆえに、他の人たちとは強度が違うんだよ」
オプファは終始ふざけた調子で話し続けた。そこに含まれる意味がかすんでいってしまいそうなほどの、軽さ。
「箱庭からの洗脳も、これを見て毎回脱していた。この『揺り籠』の管理者は皆、そうやって〈終末黙示録〉に備えていた」
「〈終末黙示録〉……あれは、そう言うんですね」
垣間見た子羊の涙を思い出す。
黙示録を産む母が願った、全存在の終焉。その呪いが形となったものの名。
「そう、あれが〈終末黙示録〉だ。最初から意味なんてなかったんだよ」
オプファは手を伸ばした。その誘いは、もう取られている。
「適正は見させてもらったよ。本来なら〈主人公〉たる君が全ての中軸に収まっているはずなんだろう。だが、物語はすでに転がり落ちている」
だから男は笑う。嗤う。
「なあ、〈主人公〉。九九パーセントの奇跡を必然とし、一パーセントの勇気で一歩を踏み出せば君の勝利は確定する」
このくだらない運命を、嘲笑う。
「だからさ、一つ――世界でも救ってみないかい?」
どこか遠くから音がした。ユウマは、どこかで聞いた音だと耳を澄ませ――次の瞬間、それを上回る怒号に建物全体が振動した。
「始まったか」
笑みの収められた口から、災厄の到来を告げられた
「じゃあ、行こうか。この身に宿した力で、自由を手にしに」
気付けば、青年は高い場所にいた。
オプファのチートで、演説台へ場所を移し替えられていた。
地獄絵図だった。
箱庭全体を覆う外壁は全て吹き飛ばされ、その破壊は『揺り籠』の壁にまで到達している。
外壁を破壊した攻撃の直線状にいた人たちはすり潰されて路上の染みとなっていた。
余波でひき肉になった者、舞い散る瓦礫で四散した者もいる。
人的被害は『揺り籠』にまで到達していない。
それでも、ぽっかりと空いた穴の向こう。
鎌首をもたげる絶対の脅威に、彼らは声を失った。
地平の果てまでびっちりとひしめく獣たち。
血が騒ぐ。
その正体不明の熱に彼らは混乱した。
先導者が、求められていた。
普通の人々は荒れ狂う。理由も知れぬ殺戮に至る魔の手は今まさに首元へ触れている。
男は、それらを背にして語り出す。
「諸君、今我々は、分水嶺にいる。選択を迫られた」
拡張された音声が、チート能力者たちの意識の隙間に這入り込んだ。
「地獄の釜の蓋は開かれた。噴き出したものは、我々が背負う宿業だ」
演説台に立ったオプファを狙い無数の弓が射られ、矢が錐揉みして襲い掛かる。
背後から迫る鋼の雨。狂乱に踊る人間たちを置換し、肉の傘を作って自らの身を貫くのを防いだ。
男の懐からその身を左に滑らせたユウマの右手に握られた黒剣が、一条の線を刻む。横一文字。放たれる管が射手を喰らい尽くした。
男は、オプファは問いかける。
「――自由と願いのため、命をかけることはできるか?」
その言葉は。
箱庭で飼われ続けることを是とした者たちへ。
いつか、と外の世界を望む少年たちへ。
『胎』という宿命を背負わされた愛すべき者を救おうと抗う者たちへ。
「『揺り籠』は壊され、まどろむ時間は終わった。君たちは、一人で立ち上がらなければならない。自らを守る箱庭は失われた。それが自由だ。そして、私たちの内には、この現実に抗う力が備わっている」
直上。空を覆うワイバーンと共にドラゴンが喉を膨らませた。
男はそちらへ目もくれず、手を聴衆へ向けて伸ばし、握る。
「戦うも、逃げるも自由だ。もはや、君たちへ強いるものは存在しない。その上で、最後に言っておきたい」
ユウマの展開した管を掻い潜ったドラゴンの雷撃が二人へ降りかかる。
「我々は、人間だ」
そう宣言して、二人の姿は飲み込まれた。
演説台は炎上しながら折れた。二つの炭化した人間が瓦礫に混じって粉々となった。
だが、肉体の欠片は、あの場に立っていた細身な二人のものとは異なっている。
その徽章はある一集団に属する証。『揺り籠』をオプファを通じて管理していた議会である。
オプファの能力により、入れ替えられていた。
管理体制への反逆。
崩れ去った秩序が、そして再生不可能にまで砕け散った。
次々に普通の人間達が殺されていく中で、チート能力者たちは選択する。
各々が正しいと思う行動を
それらを遠い喧騒とする場所に、オプファとユウマはいた。
男は三人重なった死体の上に腰かけ、眼鏡をはずす。
ぼんやりとした瞳で戦火を眺め、彼は呟いた。
「ユートピアって……なんだと思う?」
「個人が個人を尊重し、万人が平等に幸せである社会形態では?」
「即答か……けどさあ、それって本当は当たり前でなきゃいけないことだよね」
憑き物の落ちた覇気のない声音だった。先程の演説での狂ったような熱が幻か霞であったかのごとく。
「きっとさ、ユートピアなんてどこにもないんだ。人は人が想像できることは必ず実現してきた。常人には思い浮かびもしない狂ったものから、未来を切り開いた技術や思想まで――まあ、それらの進歩速度に人類は置いていかれ、自らの首を絞めただけだったけどね」
そこで薄っすらと、いつもの笑みを浮かべた。
「人間は理想郷を想像することはできなかった。全く、笑えるよね。自分達が恒久的に苦しむ方法をいくらでも思いつくのに、恒久的に幸せになる方法は思い浮かばなかった」
嫌味っぽく、だが空虚に。
「何処にもなき理想郷、か。……本当、私たちってやつはどうして幸せになろうとしないのかね」
「手を、伸ばせばいいのでは?」
「そう答えられるから、〈主人公〉なんだろうね。……いや、こんな世界を救うために生まれ出たからこそ、か。かつて〈主人公〉を背負った英雄たちの中でも、君ほど正しかったのはいな――」
そこでオプファの言葉が止まる。
ユウマが胡乱な視線を向けるも、意に介す様子はない。
自らの言葉で見落としていたものに気付いたかのように目を見開いていた。
「……いや、そうか……勘違いしていた。そもそもこれは、物語に至っていない、お話なのか」
「物語ではなく、お話?」
「誰かが引き金を引いた。放たれた弾丸は逸れることなく現実を撃ち抜く。これは必然だ」
「ええ。だからって、物語とお話とやらになんの違いが?」
「紙一重の差さ。だけど、私たち普通の人間はそれを撃ち破れない。それを貫けるからこそ〈主人公〉なんだろうな」
「不明瞭ですね。あなたの語る視点が見えてこない」
「そうだね……これは借りものの言葉だ。見知らぬ誰かからの受け売りで、私の認識によるものではない。実を語ることはできず、語りえぬことなんだろう。これが私の限界さ」
そうしてもう、オプファがこの話題に対して口を開くことはなかった。
話の矛先を大きく変える。覆った前提に、先の台詞を塗りつぶすみたく。
「君はリヒト君についてどう思う?」
「どう、とは?」
「好きな女の子に一喜一憂して、だけど告白する勇気が出ない。それは十三歳の少年らしいと純朴さだとは思わないかい?」
「……だけどリヒト君は、そこへ到達するためにわが身を砕くことすら厭わなかった」
「そうだね、まっすぐだ。狂ったくらいにまっすぐだ。……呪いかのようにね。けどそれこそが私たちの獲得したものだったのでは……人間らしさと言われたものだったんじゃないかな」
「人間らしさ……人間らしさってなんですか?」
「私たちがいつかに置いてきてしまったものだよ」
どこか諦観の混じった声色で男は言い切った。
それでも彼の瞳は前を見続ける。
「ようやく理解した。前言を撤回させてもらう。〈主人公〉、君じゃこの〈終末黙示録〉から世界を救えない……人間らしさを問う君の役は、ここにはない」
「……リヒト君ですか、僕でないというなら」
納得と否定が混じり合った声音に男は嗤って返す。
「チートの全ては〈第二の聖母〉に通じている。怨嗟は血脈の中にも刻まれている」
誰もが目に見えない何かに震え、湧き上がる欲求のままに生を繋げた。一人の少年を除いては。
「そして産声を上げる〈終末黙示録〉の気配に、恐怖に怯え、編まれ続けたチートは願いを形にした。あるいはそうだね――〈人類免疫〉、ヒューマニティとでも言おうか」
「いくらチート能力が特別なものだからと言って、そんなことが……」
「何も特別なことじゃない。過去にも多くの生命体が自らを進化させるために、それに必要な能力を獲得してきた。人間だって変わらない。特異な点としては、その特殊な免疫を持つ個体の数が異様に少なかったことだけどね」
「初めから知っていたから、ユーベルさん……〈終末黙示録〉と引き合わせたのですか?」
「まさか。それこそ彼らが引き寄せた縁さ。殺し殺される。そんな関係性の根幹が二人を引き寄せたのだと私は考えているよ」
「いつ、気付かれたので」
「彼があの闘争で優勝した時さ」
「僕に……〈主人公〉に勝利したから」
「そうだよ。物語を持たない〈主人公〉は世界の哀れな傀儡だ。世界は自らを補完するためになら、現状の生命体を滅ぼすことすら是とする」
ユウマの戦う理由は、誰かのためではなく、何かのために。必要犠牲の肯定は、本人の行動から明白である。
「絶対勝利が確約された聖剣。もはや原典の失われた説話に伝説は刻まれているね。元来の持ち主は、自らが治めた国の危機の際に蘇り、多くの勝利と栄光を手にした力で以て外敵を退けるとされている。だけど、世界がこんなになっても王は現れず、〈終末黙示録〉が迫る今、その力の一部が君と言う〈主人公〉のチートとなっていた」
「だけどエクスカリバーは、リヒト君に砕かれた」
「正確にはその時だ、光を見たのは。世界の傀儡たる君の絶対勝利は、どんなことがあろうと世界に修正されて勝利を結果とする。剣の姿が見えなかったのは、観測されることで結果が修正不可能に確定されてしまうのを避けるためなんだろう」
たとえばエクスカリバーが鉄の剣であると仮定し、熱を司るチート能力者と相対したとしよう。
果たして観測者は、エクスカリバーの勝利を絶対と思えるか。
エクスカリバーが強大であったのは、この世界にはない力でできていたからである。〈主人公〉が絶対に勝つと言う理を形にして、この世界で近しい力を持つ武具の銘を与えて順応させた。ゆえに、不安定な力だったのだ。
「それを真正面から打ち砕いたリヒト君は、だから人類に仇なすものへの免疫なんだ」
「……それでも僕が、〈終末黙示録〉を打ち滅ぼす」
「君が止めようと、彼は打ち倒して行くだろうよ」
「何故そう思うのです? 九九パーセントの奇跡と一パーセントの勇気。それだけで、〈主人公〉たる僕の勝利は確定すると言ったのはあなたですよ」
「人間の意地さ。神々に罰せられ、世界についでにと救われる。それじゃあ、立つ瀬がないじゃないか」
「そんな曖昧な理由で確定事象を撃ち破れると!?」
「本当に愛する者のためになら、人間は何度だって立ち上がる。君だってその事実は身をもって思い知っただろう」
「だからこそ、次は僕が勝ちます。一歩を踏み込む勇気を以て」
男は青年を睨みつけた。赤い瞳に灼熱の意志を灯し。
「君に行っても栓のないことだってわかっている。それでもさ――あんまり愛の力を舐めるなよ、世界」
それにさ、と男は言う。
「少年少女が一緒に手を繋いで冒険に出たんだ。ならばそれは、世界を救う旅になるだろうよ」
「愛の力、ですか。笑うことはもう僕にはできませんね。それすらも、一歩を踏み出す意志の力なんでしょうから……理解はしかねますが」
「君は正しいよ。愛だの友情だの関係なく、自らをすり減らして世界を救う。結果こそが過程。正しすぎて――私みたいな人間にはおぞましい」
「それこそ栓のないことですよ。僕がなんであるかなんて関係ない。僕は僕も人間だと思いますし、叶えたいことだけをやる」
「そうだね、それでいい。引き金は引いた。弾丸は手元から離れ、このくそったれなディストピアを撃ち抜くのを願うしかできない。だからそろそろ、私という茶番も終わりにしよう」
「いいんですか。自らの願いの結末を見ていかなくて」
「若人に全てを残して逝くのは心苦しくはあるが、悪い種しか吐かない種子は摘まないと」
「そうですか。……世界を救うためにその身をやつしたあなたを、僕は尊敬します」
世界を救う主人公視点からの賞賛。それはオプファの神経を無粋に逆撫でた。
「止めろよ、うすら寒い。たかが世界の免疫如きに認められなきゃならない薄っぺらい人生じゃねえよ」
いつかの彼の口調。過ぎ去った日へ置いてきてしまい、それでもわずかに残った欠片に火が灯る。
「……それが最期の言葉ですね」
それが是であると、男は沈黙にて答えた。
ユウマは喚き立つダーインスレイヴを振るい――オプファの首を刎ねた。
血管のように浮き出る赤い筋が断面から肉を抉り進み血を喰らう。
オプファと言う存在は、ダーインスレイヴの血肉を構成する一部となった。
「ああ、苦しんでいる声がする」
辺りを見渡せば、死体の山海。
抗うチート能力者の声も、どんどん小さくなっていく。
助けを求める声はもはや潰えた。
だが、青年は剣を強く握る。
「じゃあ、世界を救うおうか――この僕が!」
黒剣を掲げる。その刀身からおびただしい量の筋が吐き出された。
擬似天体たる天蓋を覆うほどの膨大な筋は、ミミズのようにうぞうぞと蠢き、そして――
「さあ食らい尽くせ、ダーインスレイヴ」
――阿鼻叫喚、混沌と鮮血が渦巻く『揺り籠』を血を喰らう触手が飲み込んだ。