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終末黙示録のディストピア  作者: 綾埼空
Märchen Liebe
7/12

蹂躙踏破、あるいは最期の戦いの理由を

 ゴブリンが小回りを利かせた動きで四方八方から囲い込む。突き立てられる短剣。だが、

「邪魔だ」

 存在がかすめ取られた。

 スケルトンの放つ矢の第二波が最高到達点を超えて迫りくる。

 その時機にゴブリンの攻撃が重ねられた。それも、前線で直接に狙う斥候は囮で、本命は後方から同胞の隙間を縫う短剣の投擲だ。

 三方向からの攻撃。

 ヘルトは迷うことをしなかった。

 奪ったゴブリンを短剣の軌道上に放る。肉の壁がヘルトの身を短剣から護る。

 小さな隙間へねじ込まれたゴブリンにより生まれる隊列の乱れは波及し、追突や誤刺を招いた。歪んだ停滞が生まれる。

 頭上へ降り注ぐ矢を盗み取る。そのまま流れる動作で全方向へ並行に放ち、前線のゴブリンたちの頭蓋を穿つ。後方に位置する遊撃手らは倒れる同胞に足を取られて追撃を止めざるを得なかった。

 判断に惑い動きを止めている隙に正面の群を奪う。そのまま上空からの第三波への壁と投げ捨てた。

 遠ざかる背。未だもたつく遊撃手たちは苛立たしげに地団駄を踏み、斥候が握る短剣を目にした。

 斥候も視線から意図を察したのか。転び、絡み合って身動きのとれない中から手だけを自由にして短剣を投げた。

 柄を取る。ゴブリンの地面を踏み越えてヘルトへ忍び寄る。

 手投げは防がれる可能性が高い。寸前で調整できる直接の攻撃ならば、ましてや奇襲である。

 男は背後に迫る得物に気付くことなく正面の道を切り開く。

 好機と見た後方の群は金切り声を上げ跳びかかり――潰れた。

 頭上に矢が落下した。鏃が貫いたゴブリンの重さで脊髄が砕かれる。感覚で着弾予測を行っていたゴブリンは、加速分のずれを修正できていなかった。

 万の軍勢となって群がるゴブリンはその数を着実に減らす。矢はヘルトに転用されてしまうと収められた。

 衰える体力すら盗み取り、確実に前進していく。

 劣勢にドラゴンが高らかに吼えた。それだけで常人の臓腑は潰れるであろう重低音が空間を叩く。

 それに同調してワイバーンも吼え猛る。或いは、突貫の鬨だったのか。

 被膜で空気を叩き滑空する。直下の一条は矢を越す速度で迫り、後ろ肢を、尾を、牙を突き立てる。

 自らよりはるかに小さいむしけらの手足を丁寧に丁寧にもぐような一撃。しかし、ヘルトにとってはゴブリンのそれと大差なかった。

 存在を盗み、背面跳びの要領でゴブリン頭上へ飛び立つ。

 なおも襲い来るワイバーンを盗みながら身をひねり、ゴブリンに埋め尽くされ緑色となった地面を見据えた。

 転換。ワイバーンを叩きつける。

 熟れた果実が路上へ落ちたように紅い体液をぶちまける。

 さらに、落としたワイバーンの被膜を鏃で穿ち機動力を奪う。

 放り、墜落するワイバーンを足場にまた空へ身体を向けながら跳躍。

 上空のワイバーンの一切合切を浚いながら進み続ける。

 距離を詰めるにつれ、少しづつ金色の空が覗き始めた。

 確実な前進を刻む中で、ワーウルフの右目が(はし)る風景に違和を捉える。隊列を組みなおし、上弦の弧を描くスケルトンの姿を。

 鏃の先は、ヘルトへ向けられていた。

「ッ!!」

 とっさに腰曲がりにワイバーンを転換して、その影に体を隠す。

 矢はワイバーンの堅牢な鱗に弾かれたり、ぴんと張った被膜を撃ち抜く。

 首を動かし食らいつく口腔を獣の腕で無理矢理に閉じて、その体躯を取っ掛かりに身を躍らせる。

 脳が揺れたワイバーンは白目を剥いて重力に従う。下からぐちゅ、と血袋の破裂する音が耳に届いた。

 スケルトンの矢の直線射程に入り、空を裂く一閃が男の行く手を阻む。伽藍の眼孔が静かに彼へ狙いを定めていた。

 だが、意識の隙に通せなかった(しゃ)はもはや男の前では無力に等しい。

 盗まれた先から反射のように折り返す矢に頭蓋を穿たれ、衝撃に骨の体は吹き飛ばされる。

 起き上がろうとした先からワイバーンによる圧殺で粉骨の身とされた。

 圧倒的だった。その肌にすら傷をつけることは叶わず、万を超える雑兵は蹂躙に蹂躙を尽くされた。

 そしてすべては踏破される。

 空には黄金の揺らめきが。地面には紅い池に沈む亜竜の姿と幾千幾万の乱れた立つ矢筈が。

 ただ一頭となったドラゴンは、ようやく悠然とした構えを解き重い翼をはためかせた。

 龍鱗の色は赤褐色。口端からは炎がこぼれる。

 知性の光る紅玉の瞳には、一つの敵を認める王者の意思が灯っていた。

 幻想の覇者。夢幻に巣食う、矮小な人間が勇気の剣を以てなお打倒しえない強者に個を認められた。

「退けよ、前座が。お前じゃ役者として不足だよ」

 にも関わらず、むしろあざけるように男は言い切った。

 挑発の意図を読み取った火龍は、大きく喉を膨らませる。

 放たれる世界を焼く劫火。逆巻く焔の息は、見上げる空一面を赤に染め上げた。

「――ッ!!」

 ヘルトはそれすらも簒奪した。

 自らを象徴する王威の炎をたかが人間ごときに奪われた火龍は、怒りの声をあげ狂ったように突貫を仕掛ける。

 巨躯が押し出す空気にヘルトの足場とされたワイバーンたちは耐え切れず、翼を失った同胞と板挟みで潰され煎餅となった。

 だが、彼の姿はそこにはない。

 すでに足場を蹴り、向かい風を難とせずに男は突き進んでいた。

 知の光を失ったドラゴンの瞳もそれを視認している。昂る感情を滾らせその身を叩きつけた。

 身を焼く苦痛(、、、、、、)に顔を歪めながら、ヘルトも右の拳を振り上げた。

 接触は刹那。ぶつかり合いで生じた衝撃に空間が振動し、風が吹き荒れる。

 砕ける音がした。伴う湿った音は、肉を打つそれ。

 拳は振り抜かれた。

 すっ飛んでいくドラゴンは外壁を中ほどから砕き、そのまま監獄塔の先端をへし折った。

 途中で勢いを失い落ちた重量で地面が大きく跳ねる。鱗と内臓を破壊されたドラゴンは絶命していた。

「こんなわかり切った結果しかなぞれないからお前は三文役者なんだよ」

 空中で身を回しつつ男は嘆息した。推進力は衰えず、男は外壁の上へ手足を着いた。

 ぽっかりと空いた穴の上に少しだけ残る足場が崩れないか。そんな考慮も杞憂に終わる。

 そして、大きく息を吸い込んで声を作った。

「おーい! イリス!!」

 ちょっと上ずった呼びかけに答え、彼女は姿を見せる。

 どこか辟易とした目をしながらも、顔は喜悦を隠そうとしない。

 たった半日のことでしかない。それでも、あの別れは数多の後悔を生んだ。

 それらを乗り越え、一年の月日を費やしてようやく二人は再会した。

 だが、感傷に浸っている暇は与えられなかった。

 多碗多眼の天使が尖塔の上に降り立つ。

「あるいは、と置いておいた雑兵どもも時間稼ぎには役立ったか」

「サルディス!!」

 絶対的脅威を仰ぎ見、その君臨に女の本能が怯える。

「事情が変わったとはいえ、堕ちた存在を放置しておくのはあまりに罪深い。ええ、今この時、この手での断罪を赦したもうた主に感謝を」

 サルディスの右手に矢が、左手に弩が握られる。

 神罰の顕現に世界が軋む。規格の外に在るものを処理するしわ寄せで、負荷が大きくかかる。

 それは空間で、風景や黄金の空が所々剥がれ落ちて赤黒い色を覗かせる。

 それは獣たちで、溜めた種を飛び散らせる植物のように血飛沫をまき散らす。

 それは外壁で、先ほど大きく破壊され、力の逃げ場の少ない男の足場があっさりと崩れる。

 足場とできるものはなかった。この高さからでは、たとえ軽い白砂であろうと骨折は免れない。なにより、舞い上がった白砂に視界を奪われている間に神罰の矢がヘルトを穿つであろう。

 落ちながらイリスの方へ手を伸ばし、叫んだ。

「飛べるか!? あの上から目線のくそったれをぶったおすぞ!」

 その言葉は、恐怖に立ちすくんだイリスの心を大きく揺さぶった。

 力を貸してくれと。共に戦おうと。一年前、その言葉をどれだけ望み、そして自らの無力に打ちひしがれたか。

 穢れた両翼をかえりみる。

 天使の羽は、高潔なる魂を持つ者にのみ輝きを宿す。

 身は処女(おとめ)のままであろうと心が下った天使に主の権能は宿らない。

 だから――否、だからこそ(、、、、、)

 彼女は塔から身を躍らせた。

 黒い羽が空気に絡む。

 着地点はない。

 その羽は、確かな自由を掴んで想いを貫いた。

 低空からのすくいあげる軌道で羽ばたき、イリスは落ちる男に腕を伸ばす。

 熱が、腕の中に重みとなって宿る。

「なっ」

 その信じがたい現象に、感情を持たぬ天使の中で不条理が吐き出される。

 愛する男を抱きかかえながら、イリスは天使と同じ高さに飛ぶ。

「わからないわよね。ええ、あなたには、わからない」

 この想いは個人のものでしかない。

 多を切り捨て一を選ぶ。

 そこに正しさは介在しないだろう。

 それでも、彼女は選び取った。

 偽ることなく心根をむき出しに。

 ならば胸を焦がす想いを縛るものはなく。

 ゆえにその魂の輝きは本物だ。

「理解……する必要はないな」

 切り替え、切り捨てる言葉がサルディスから漏れた。

 臨戦の気配を察したヘルトは彼女の首に左手を回し、半身で相対する。

「主に代わり神罰を下そう。お前らには永遠の責め苦すら生ぬるい!!」

 多碗の構える弓矢が、ばらばらの方向へ好き好きに蠢いていた眼球が一斉に二人へ向く。

 圧倒的な結果を道筋として刻んだヘルトですら、かつて逸らすのがやっとであった神威の一撃。

 逆立つ毛の一本一本まで感じ取れるほどに肌が痺れる。華られる圧力は恐怖を心に生み出し『逃げろ』と喚きたてる。

 ――だが、その力の源が突然と消えた。

 サルディスの意識に空白が生まれる。この現象を知っている。

「違うぜ」

 まるで、天使の思考を読んだかのごとく男は差し込んだ。

「簒奪はしていない。わかってるだろ」

 自覚は、後から追いついてきた。

 力を盗まれたのではない。

 存在自体がたわみ、神罰を保持できなくなったのだ。

 入れ替わるようにヘルトの内側から全身に膨らむ力があった。

 代償として、大きな気配を失いながら。

「お前、その力……それに喇叭の気配がッ!」

「そのままは使えなかった。だけど、いい炎を盗めたんでな」

 権威の象徴であり知恵の象徴であり勇猛の象徴であり悪意の象徴である龍は、時に神へ匹敵する力を誇る。

 その種の一つ、火龍の司る炎は神すらも罰する。

 主から生み出された喇叭は溶鉄され、ヘルトの体内を巡る熱となった。

 壊された喇叭はその機能が潰え、その奏者たる喇叭吹きの天使は役割を終えさせられた。

 存在の定義が失われた以上、その体は意味を持つことなく消え去る。

 欠陥品。無駄。廃棄処分。

 ぐるぐるぐるぐる言葉が回る。

 声音は冷徹なまま、だけど語気に震えを混じらせながら天使は問いかけた。

「なぜ折れない。お前たちに未来はないんだぞ」

「未来、か……」

 その単語に思うところがあったのか。短く言い返し、そして真っ直ぐに視線を向けた。

「悪いが、そこまで強くねえんだよ。一寸先は闇の中、確かに感じられるのは今っていう足場の強さだけだ。だったら、そこで一生懸命に生き抗うことくらいしかできねえだろ」

 射抜く瞳には揺れることのない強い意志が。

「未来っていうのは今を過去にして積み上げていった先にあるんだ。たとえ踏み出した未来が奈落の底でも、そこに至るまでに後悔がなければ幸せだったって言って死ねるだろうが」

 だから、と男は言う。

「絶望はしない。俺の心が失意に落ちることは断じてない」

 揺らがぬ魂の在り方に天使は自らを失いながらたじろぐ。

「これで終わりだ」

 男は天使に手を向けた。掴み取る動作。盗み、奪い取る簒奪の力が発動する。

 それは救いであり、それ以上に冒涜であった。

 しかし、逆らう術はなく存在を形成する全てがヘルトのものとなる。

 終わった。世界は変わらずとも、男と女の逃避行は終わったのだ。

 ならば、その過程で何を得たのか。

 男が右の手も首に回した。

 向かい合う。

 告げたい言葉は互いに決まっていた。

 だから、速さの違いは、ちょっとした勇気の差だ。

 理性を飛び越えてそれを口にしたのは、女の方からであった。

「好きよ」

「――ああ、俺もだ」

 胸に宿る万感の想い。

 吐露とその肯定。

 世界に刻まれたそれは、確かに結実した。

 男が悔しそうに唸りながら頭をかきむしった。

「あー、最後の最後でかっこ悪。こっちからいうつもりだったのに」

「……なんで」

「あ?」

「なんであなたがわたしを好きなの!? わたしはあなたに好かれるようなことを何もしていない!!」

 イリスの顔には紅潮(こうちょう)も喜びもなかった。ただ、目の前にいきなり湧いた都合のよい現実を信じられず、疑念と自制がないまぜになった複雑な表情をしている。

 ヘルトは何を当たり前にことを、と滔々と語り出した。

「好きになるっていう始まりはいつだって表面さ。だけど、幸運にもお前の内面が知れて、さらに幸運なことに俺はそれすらも好きになった」

「なによ、それ……それじゃあわたしの全てを肯定するっていうの?」

「いや、そんなことないぞ。冷たいしとげとげしてるのは嫌なところだからな。好きな子からそんな態度とられると傷つきはするんだよ……まあ、好きだからこそ気になる粗ってやつだな」

「っっっ! だ、だいたい今はとげとげしてないわよ!」

「お、怒るなよ」

 腕の中でこわばった体が本当に恐怖を感じているのだと伝えてきた。一発きついのをかましてやろうかと思案したが、両腕は塞がっていたので諦める。

 女々しい態度を一笑に付すことで留飲を上げておいた。

 それで怒りは収まったと認識したのか。ヘルトもこわばりを取って笑みを浮かべた。

「楽しいな。楽しいよ。最高だ。こんな気持ちで死ねるなんてちょっと前まで考えられなかったぜ」

 満足そうに笑ったまま、男はそんなことを言う。

「ちゃんと、伝えられた。これを伝えるために生きてきたからな」

「……やっぱり……そうなのね」

「そんな顔してくれるなよ」

 今にも泣き崩れそうなイリスに困った顔で嘆息する。

「そういえばもう一人捕まっている子がいるって聞いてるんだが、どこに居るか知らないか?」

「あの子は……連れていかれたわ」

「そっか…そこらへんの詳しいところは彼に話してやってくれ」

 外壁に視線を向ける。その上に佇むリヒトへ問う。

「少年! 君が今、何をすべきかわかるな」

 リヒトはぎゅっと拳を強く握りしめ、男の言葉を反芻する。

「あまりに強大な力は、自らも、愛する人も傷つける」

「そうだ!」

「けど、おれにお前を殺せるのか? 今のお前は、チートって枠からもはみ出ているのに」

「大丈夫だ。お前ならできる。お前だからできるんだ」

「意味不明だぞ」

「そうだな。俺もよくわかってない! だけど、お前はお前が思っている以上に強い!!」

 イリスに半回転をするよう合図を出した。背がリヒトに向く。

「さあ少年、迷う必要はないはずだぞ! 喇叭と天使。その本来の力を失っていようと、その力は俺と言う個人にはあまりに大きすぎる。守りたいものがあるのなら、俺を殺せ」

「……ああ、そうだな」

 少年の面持から迷いが消える。覚悟の所在を再確認できたのだ。

 だが、ヘルトから見ると硬すぎて危うく思えたので一つだけ付け加えた。

「あ、イリスの胸にさわるなよ。俺の女だからな」

「なっ」

「は? お前は何言ってるんだ」

 この期に及んでの冗句に、さすがのリヒトもすっとんきょうな声を出した。イリスが巻き込まれていたが、無視をしておく。

 しかしそのお陰で気概を削がれ、無意識に入っていた力みが取れる。

 つま先だけで軽く蹴り出す。

 いつもよりゆったりと風景が流れた。

 背中から心臓までを貫く力加減を脳内で反復しながら、緩く握った拳を振りかぶる。

 足が先にヘルトの背に乗った。滑らかに折り曲げた膝で衝撃を吸い込み、拳を放つ。

 想像と誤差はない。

 少年の拳は男の背中から心の臓までめり込み、呆気ないほど簡単に男の力の軸を打ち砕いた。

 痛みを感じることはなかった。溶かした喇叭が生む苦痛に触覚は焼き切れていた。

 わずかな交錯の中で男は耳打つ。

「悪いな、約束守れなくて」

「……いい。別に期待はしてなかった」

「厳しいねえ」

 拳を抜き、重力に従い背中から落下していく。ヘルトは遠く落ちていく少年に言葉を投げかけた。

「なあ少年、生き急げよ、だけど死に急ぐなよ」

「……おれは……おれのために生きてるよ」

「そうなのかもな」

 二人のやり取りはそれで終わる。

 はるか先の接地面に足を着いた少年は、もう二人の方を見やることはなかった。

 イリスが深々と穿たれた傷口へそっとふれた。当人の感じられない死の感触が、温かく彼女の手を濡らす。

 去来する憤りに歯の根が軋んだ。

 だけど、と彼女は思う。この感情は口にしてはいけないものだ。別れが必定であるならば、ぐっと堪えて笑顔で送り出さなければ。

 そんな思いを唾棄するように男は言う。

「きちんとさ、終わろうぜ」

 それで、堰を切って感情が溢れた。

「……愛はね、紡いでいくものなのよ。想いを伝えて終わりっていうのは、ただの自己満足じゃない」

「それでも俺は、お前と会えてよかったよ。お前に最期を看取ってもらえてよかったよ……俺の人生は、確かに幸せだったよ」

「そう。ならわたしも幸いよ」

 それが嬉しくて男は笑うが、上手く力が入らない。

「なあ、俺はちゃんと笑えているか?」

「どうかしら……けど、そうね。もっとちゃんとに笑わせてあげるわ」

 きょとんとするヘルトをしり目に何度も深呼吸をして、

「羽、さわってもいいわよ」

「……?」

 何を言っているのか理解できないというのが本音だった。

 息苦しさに、背に回されている腕の力が強まりを知る。

 現実に引き戻されたヘルトは、耳を赤らめ翡翠の瞳を涙でにじませるイリスの姿を視認した。

 何のために戦い抜いたか。その理由を知る。わかっていたつもりでいたが、それ以上だった。

 痺れる右手に鞭打って羽をつまむ。

「はは……めちゃくちゃふわふわだ」

 表情が意図せず緩む。笑みが抑えられなかった。

 もはや感触を得ることはできずとも、それを許してくれたことにイリスの想いの丈を知れたから。

「ああ、本当に俺は幸せ者だよ」

 そう言って、男の瞳は色を失う。

 イリスは、もやのようにしか視認できなくなったものがどこかへ導かれていくのを確かに見た。

 力なき亡骸を抱え、彼女はリヒトの元へ降り立つ。

 言葉が、自然と口をつく。

「ありがとう」

「やめてくれ……」

 リヒトは顔を背けた。

 思い起こされるのは、男を殺す瞬間。ヘルトが背を向けたということは、イリスの顔が向いたということである。

 彼女の瞳の奥を見てしまった。

「おれがやったことは、お前に……お前たちに感謝されるようなことじゃない」

「あなたがそう思っても、わたしはそう思わないわ」

「けど、涙……」

 言いにくそうにしながら、それでも告げる。直視を拒んだ、理由を。

 頬を伝うそれを、イリスは伝えられるまでもなく自覚していた。

 その、理由も。

「幸いでも涙は出るのよ」

 両の腕は幸いを包んでおり、涙はぬぐえない。

「終わったら、始まって。そうやって繰り返していくのよ。ちゃんと終わったから、ちゃんと始められるわ」

 彼女は微笑んだ。

「だから、ありがとう」

 リヒトはやるせない気持ちになり、その言葉を真正面から受け取れない。胸が張り裂けそうだった。

 だからといって、逃げたくはなかった。

 頭の片隅にひっかけつつ、少年は最優先事項に話を向けた。

「なあそれで、ユーは?」

「外に連れていかれたわ」

「外にって……おれたちの世界にどうして」

「六番目の喇叭が顕れたの。そして彼女が、獣の軍団と共に連れて行かれた」

「なんでユーが……」

「何故かはわからない。だけど、六番目の喇叭をペルガモンが吹く――人間を守る檻は崩れ去るわ」

 箱庭の崩壊。それが示すのは、

「あなたたちにとっての終わりが訪れるわよ」

 あるいは黙示録、と女は言う。

「彼が倒した獣たちですら一部でしかない。〈征服〉も黙示録化して、片方が潰えるまで途絶えることのない戦闘を世界に植え付けるわ」

「難しい話は知るか。わかってるだろ。おれはユーを救う」

「ええ。わたしは観測させてもらうわ。彼が生まれたこの時代の果てを」

 イリスはそっとヘルトの(むくろ)を降ろした。

「いいのか?」

「どっちにしてもわたしも消えるからね」

 戦いが終われば、七番目の喇叭がイリスの手に取られるのだろう。

「だったらここに置いていくわ。わたし、ちょっと独占欲が強いみたい」

「……ああ、なるほど」

 この空間は天使たちの力によって成り立っているというのは記憶していた。

「よく保ってるな。飛べてたし……力、戻ったのか?」

「関係ないわよ。わたしの実観測域であるここ以外もう消えてるわ」

「ふぅん。じゃあ、行くか。間に合うよな」

「ペルガモンたちはここから出ていったから、直接通じているはずよ」

 イリスはかさぶたができ始めた顔の傷を無理やり爪で裂いて血を滲ませる。それを血まみれの指先ですくい、

「覚悟はできてる? あなたたち人間が生き残るには勝つしかないわよ」

「ああ」

 右手を差し出す。わずかに色の異なる血の混ざりあった印が付けられた。

 あとは移動の意図を以て踏み出すだけ。

 視界が遮られるのは一瞬。まばたきのよう。

 すぐに世界は開け、人類を守る箱庭を正面に見る。

 ただしその壁は崩れ去り、中は赤黒く空気が色づいている。

 戦乱の跡は確かにあった。

 だが、音がない。億の軍勢が攻め入る喊声や蹂躙される悲鳴、抗う意気が。

 荒れ狂う戦火などなく静まり返っていた。

「何が起きてるんだ」

「すべが無に帰そうとしているだけだよ」

 答える声は、落下してきた。

 よほど高いところから落ちてきたのか。舞い上がる土煙に正体が隠される。

 だが、リヒトの脳裏にはその姿が鮮明に思い浮かんだ。

 その声は、少年の聞き覚えがあるものだった。

 あり得ない。そんな理性と相反する確信に心が揺らぐ。

 あれは目的のための過程でしかない。

 なのに、まるで因果を訴えるかのように左手が生々しい感触を蘇らせる。

 声の主は、右手に潰れた塊を握っていた。

「嘘……ペルガモン」

 イリスの瞳が大きく見開かれる。直接見なくても何かを感じるのか。六番目の喇叭の担い手の名を口にした。

 砂煙からその影が踏み出す。

 見知った黒髪の青年が、姿を見せた。

「ユウマ……なんで、生きて……」

「世界を救うため」

 うそぶき、苦笑を浮かべる。

「だからリヒト君……いや、〈人類免疫(ヒューマニティ)〉。君を殺しに来た」

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