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終末黙示録のディストピア  作者: 綾埼空
Märchen Liebe
5/12

性存欲求、あるいはおとぎ話の身の上話

 白い世界だ。

 幾星霜の彼方から連なる終末の風景。それは未来の果て、終わりのその時まで変わることがない。

 そんな死んだ世界に、皓々とした白の羽が広がっていた。

 穢れを寄せつけない純白の色は、清浄を象徴するような神聖さを感じさせる。

 羽は、人型の輪郭を浮かべる外套の背から伸びていた。

 その身姿から天使を思い浮かべる観測者は、今はもう少ない。

 天使。神の語られし説話において、主の権能を振るう神威の代行者である。

 彼女は、長く人の世を見続ける裁定者であった。

 空高くから見下ろす視線の先には、半球の建物が。

 翡翠の瞳が外套の隙間から覗く。そこには人の営みが確かに映っていた。

 天使に建物の内部を窺い知ろうと透かして見る能力はない。人々の霊魂を|(いざな)う機構が、生命の脈動を感じ取らせるのだ。

 いつかの世はもはや神話に。人々は虚実の檻で罪と安寧を育んでいる。

 爛れた魂は、怠惰を貪る豚の姿をしていた。

 世界は緩やかに滅びの道を歩んでいる。終末時計の秒針は、人類が箱庭に閉じこもってから動いていない。

「ついぞ、抗うことすらせず、か……」

 思考を声として紡いだのはいつ以来か。

 それが一つの区切りだった。

 悠久の停滞は、天使すら無為を感じさせた。

「祈るべき神はなく、誓いはとうに忘却された。ならもう、見るべきものはないわね」

 すでに裁定は下っているのだ。この浄化されつつある世界のありさまが彼らの最果てだった。

「ただ、それだと未だに滅びを迎えていないことの説明ができな――ッ!?」

 いきなりに、視界が乱れた。存在意義が、自己の定義がたわむ。

 強大な気配の重圧が襲い来る。急に現れたその感覚に全身が凍り付いた。

 歪んだ焦点を合わせて、仰ぎ見る。

 赤い馬に乗った騎士の姿があった。その手には、身の丈はあろう大剣が握られている。

 屠られた子羊が()んだ四体の騎士。その一騎。

「〈征服〉……」

「――――」

 空気が震えた。果たしてそれは言葉なのか。少なくとも、全ての言語を編む天使にすら理解できない音であった。

 それに呼応して、馬が前足を上げた。燃え盛る地底から吹きすさぶ風のように(いなな)く。

 次に意識が世界を映した時――腹部に大剣の横薙ぎを受けていた。

 何もかもを疑問に思う間もない。

 落ちてゆく。

 堕ちてゆく。

 権能は断ち切られ、自由の翼は折られた。

 重力が身にまとわりつく。

 伸ばす手は(くう)を掻き、その中には何も残らない。

 〈死〉がもたらす雨がやんでいるのがせめてもの慈悲か。――その微かな光さえ食らう凶悪な鳴き声が空から響いた。

 黒い靄となって掻き消える〈征服〉を裂いて飛竜(ワイバーン)が迫りくる。

 乱立する牙に粘質の唾液が絡みついている。抑圧された欲望の発露がそこにはあった。

 被膜で空気を叩き滑空する様は一条の落雷のよう。

 鈍く光る爪に、ぴんと張った尾に、自らがはらわたをぶちまける光景を幻視した。

 骨の髄まで舐られ、己の存在の一切は世界から消える。

 恐怖はない。恐怖という感情はない。感情は存在しない。

 地面の気配が背に近い。赤い色を覗かせる口腔が目の前に広がった。

 どちらにせよ、数瞬のあとに終わりを迎える。

 主の代行者たる天使として、失格だった。

 それだけのことだと、終わりを受け入れた。

 だが、突如として飛竜の存在が消滅した。音も、影も、骨肉の一片もなく、失われた。

 さらには、身を覆う重力が消え去る。一瞬の浮遊感に衝撃が緩和され、小さく尻餅をつく。

「なんか降ってきたぞ、オプファ」

 声のする方を向くと、茶髪の男が困惑の目線を向けていた。

 そこで気づく。魂を上手く認識できないことに。

 霞の向こうにあるものを見ているかのように不明瞭であった。

 隣に立つ男にも目を向ける。オプファと呼ばれた白髪の男は、驚愕の感情で赤い瞳を丸くしていた。理知的に映る眼鏡の存在があいまって滑稽に見えた。

「……まさか、天使が降ってくるとは」

「お前の驚く顔が生きているうちに見られるとは……てか、天使かあ。魔物とかいうのの説明を受けたばっかなんだけど」

 あきれ果てたように言いつつ、眇めた目を羽に向けた。

「ってもまあ、そんなの生えてりゃ天使だとしか思えねえわな」

 男が手を差し伸べる。

「俺の名前はヘルトって言うんだ。立てるか?」

 その手を無視して立ち上がる。

「スルーされた。悲しい」

「普通、上位存在である天使にそう気さくに話し掛ける奴なんていないんだけど。なんていうか、君は相変わらず頭一つ抜けてるなあ」

「んなの知るかよ。相手がなんであろうと俺の存在は俺だ。神様であろうと箱庭の傀儡であろうと真正面から対話だ」

「知ってるよ。――それで、なんで天使様は空から降ってきたのかな?」

 話の水先を向けられ、しかしその答えを持たないため、言い繕うことにした。

「最後の裁定よ。続けてきた監視に意味が持てなくなってね」

「じゃあ『聖域』へ帰るのか」

「白髪赤目の……貴方たちは一体、どこまで知っている」

 声色を低めたその問いに、オプファは笑みを深めるだけで答えることはしなかった。

「いいわ。そう、あなたたちが自らの滅び覆す可能性は万が一にもないと判断したの。停滞にまどろむ姿は、あの頃から何も変わっていない証左よ」

「さて、それは些か早計だと言わざるを得ないね。ねえ、ヘルト君」

「ああ。何が何だか知らないけど、とりあえずその『聖域』とやらに俺も連れてってくれよ」

「なんで?」

「なんでもなにも、取っ掛かりが目の前に転がって逃すやつがいるかよ」

「……それもそうね」

 勘案を巡らせる。

 『聖域』は罪に皮被った人間が立ち入っていい領域ではない。

 だが、と仮定が働く。

 もしかしたら状況が動く可能性がある。第三層までなら人間を判別できる獣もいない。

「……雨が降りそうだわ」

 雲の模様を見るふりをして呟く。

「そうね。助けてもらったし、見捨てるっていうのも寝覚めが悪いわ」

「もっと渋られるかと思った。優しいのな、お前」

「墓前に花を添える行為は(はた)から見れば高尚かもしれないけれど、当人からしたらなんの感慨もないものよ。死者を尊んでいなければ感情すら揺れないわ」

「……? こいつが何言ってるかわかるか、オプファ」

「滅びゆく定めのものに与える慈悲に感情が宿るわけないだろってことだろうね。そもそもの価値を認められていない……まったく、舐められたものだ」

 錆びた刃のような目線が向けられる。

「必滅の世界を覆す、だったかしら? 自らの犯した罪が罰せられるだけなのに、傲慢なあがきね」

「先人の歩んだ道のりをかえりみれるほど余裕はなくてね」

「その道が、今のあなたたちに続いているのよ」

 剣呑な気配が充満する。

 停滞する空気。そんな火花一つで爆発してしまいそうな雰囲気を破るがごとく、青年が行動を起こした。

 手を伸ばす。物珍しそうな目は、ずっと白い色を映している。

 それを察知した天使は、嫌悪感をむき出しにその手を払った。

「さわらないで」

 他者に翼を触られる。それは純潔を掲げる天使であっても、躰を許す以上に吐き気を催す行為だ。

 神威の象徴。そして何より、天使という存在の証明だ。

 いわば魂そのもの。手あかにまみれた人間の手が触れていいものではない。

「失礼。あんまし物珍しいとかでさわっていいわけないわな」

 血眼で睨むと、ヘルトは自らの行いに肩を竦めた。

 オプファに視線を戻す。先までの空気は霧散していた。へらへらとした笑みを浮かべるのみ。

「『雨』が降りそうだということだから私は帰らせてもらうよ。ヘルト君、せいぜい、悔いのない人生を」

「ま、どうにか拾ってみるさ」

 別れを惜しむことなく、二人は視線を切った。

 オプファは白砂に隠れた鉄扉から地面へと潜る。

「それじゃあ俺らも行くか。で、どこにあるんだ?」

「この世界全体に偏在してるわよ」

「……何処にもないぞ?」

「そもそもの異相が違うのよ。人間と天使の住む空間が同一なわけないでしょう」

「んじゃあ俺は入れないじゃないか」

「方法はあるわよ。血印を付けてわたしと一緒に入ることで、わたしの一部と誤認させるの」

 人差指の爪を噛む。ささくれた部分で親指の腹を切る。

 にじんだ血を男の頬に引いた。

「じゃあ、行くわよ」

 嫌悪感を感じつつも、ヘルトの腕をとる。

 一瞬の後、風景は突如として移り変わる。

 違和はない。『聖域』は、薄い境界線で仕切られただけの隣り合った空間だ。

 その世界の存在を意識して一歩を踏み出せば、後は身に宿る資格が道しるべとなって天使の治める世界へとたどり着く。

 汚物の発酵した刺激臭が鼻に突いた。

 揺らぐ黄金の空に感慨を覚えるも、目の前を通り過ぎるモノの姿に現実を叩きつけられる。

 知性の欠片も感じさせない異形の怪物。

 元はそんな風には見えなかった。

「やっぱり……」

 天使としての力が欠落している。

 飛ぶことも、魂を視ることもできなくなった。

 それでもこの場所に入ってこれたのは、

「まだ、喇叭吹きとしての力は残っているってことかしら」

 その権能は、特殊なものだ。こと、この黙示録の世界では。

「そもそも、〈征服(あれ)〉に権能を断ち切る力があったなんて……」

 黙示録を担う彼女たちが知っているのは、自らの役割のみ。

 誰がどのような役割を担い、黙示録の輪郭を描いているのかは知らない。

 またもや勘案に沈む意識を、ヘルトの声が引き上げる。

「で、散策していいのか」

「ご自由にどうぞ。ただし、この区画からは出ないこと」

 言い、思索をいったん切り上げる。すべて相談すればいいだけのことだ。

 また空間を渡ろうと空間を掻いた。

「っておい!」

 天使が知りたいのは、人間という要因を入れたときに起きる反応。ヘルト個人にはなんの関心もない。

 裂けた距離の概念を踏み越え、男と別れる。

 変わる風景。

 吹き抜ける清風が頬を撫でた。

 開けた風景の先に黄金の稲穂が一面と揺れている。

 その中核に居する白亜の宮殿。どこにも内部へ通ずる門扉はなく、それは人の暮らす『箱庭』と何ら変わらない様相を呈していた。

 異なる点を挙げるとすれば、外壁と同じ高さの尖塔がそびえていることくらいか。

 不可侵たる天使の都は、魂が洗われるような場景であった。

 大きく息を吸い込む。稲穂の香りが胸いっぱいに広がった。

 再び空間を渡り、宮殿の内部へ。

 磨きぬかれた鉄のように反射し、無限に連なる自らを自覚させる鏡面廊下を歩き、大広間へ。

 円卓を囲う二人の少女に出迎えられる。

 二人の背にも、真白の羽が。

「長い道楽だったね。気は済んだの、スミルナ」

「わたしたちは裁定者。なら、その存在意義を確かに量るのも役割でしょう、サルディス」

 スミルナ。そう名を呼ばれ、眼つきの悪い栗毛の少女を一瞥する。

 早々に視線を切り、もう一人へ目くばせをする。サルディスは嫌味ばかりでなかなか話が進まないのだ。

 黒髪のおとなしげな少女は口をつぐんだまま。もともと口数はそう多くない。

 二人を視界に収めてさっそく本題を切り出す。

「話したいことがあるの。ペルガモンも、いいかしら」

「話を聞く前に、ひとつ」

 ペルガモンがそう言い、目を細める。サルディスにも眇めて見られていた。

 揺らがぬ瞳は韜晦を許さない。

「魂が欠けているな、スミルナ」

「なっ!!」

 天使としての権能を切り落とされたのではなく、魂ごと削ぎ落とされていたのか。


「今の貴様は主に反する存在だ。聞く耳を持つわけにはいかない」

 世界が軋む音を立てた。

「喇叭吹きの権能。欠ければまた補填されるだろう」

 天使であろうと、確定した罪人に対する情け容赦などという慈悲は存在しない。

 断罪の証が顕現しようとし。

 黄金の光が乱反射して三人の視界を奪った。

「本当、嫌な予感ってやつは当たるな」

 舌打ち混じりに苦慮をこぼすその声は、先に別れたばかりの男のもの。

 まずい、と思った。物理的な視覚が奪われようと、魂を見分けることはできる。

「人間をこの場所へ招くとは……堕ちるところまで堕ちたな、スミルナ」

「違う、わたしは!」

「いいから逃げるぞ」

 手を引かれ、後ろめたいことは何もないというのに逃げ出す形となる。

 これで確定だ。逃れる道はなかったのだとしても、それでも偽りの罪科は真と成った。

「どこへでも逃げるといい。だが知っているな、すでに貴様らは私たちの腹の中。隠れ続けることはできないと」

 ペルガモンの言葉が胃の底に暗いものを落とし込んできた。

 どこへ向かっているのか。茫洋としていたスミルナには班別がつかなかった。いや、そんなことに意識を裂くだけの余裕がなかったと言った方が正確だ。

 主の加護は失われた。同族からは、存在そのものが背信だと糾弾された。

 寄る辺は失われた。

 価値は消え去った。

 生の理由が、出来(しゅつらい)の起源が根底から否定された。

 何故なのか。

 わからない。

 わからないことは、怖い。

 脳内に渦巻く疑念の声。

 過程が不明のまま、ただ結果だけが奈落の底を示した。

「――い。――じょ――か。――い!」

 揺さぶられ、イリスは内省の世界から現実へと復帰した。

「おい、大丈夫か!?」

「え、ええ……」

 辺りを窺う、までもなかった。

 この異臭は、第三層のものだ。

 崩れた廃墟に囲まれた行き当たり。

「とりあえずその外套を敷いて座れよ。こんなばっちいところ直には座りたくないだろ」

「そ、そうね……」

 腰を折り、一枚布の外套を頭から脱ぐ。

 金色の髪がたおやかに流れた。

 張り付く衣服が薄い丘陵とむっちりとした肉のついた脚を浮き彫りにする。

 外套の中で蒸らされた体臭が辺り一帯に解き放たれた。その香りは、性別問わず生物ならば情欲をかき立てられずにはいられない甘美な色を持っていた。

 ヘルトはたまらず鼻元を手で押さえ、目を背ける。

 だが自身の魅力に無自覚な、否、そもそもそのような機構を持ち合わせていないイリスは、男のそんな様子に首を傾げる。

「どうしたの?」

「いやお前……というか、お前の名前なんて言うんだ?」

「わたしは……もう、何者でも、ない」

 そうだ。喇叭吹きの天使としての役割を承り、その意味を刻んだ名は、もう名乗れない。

「そうか。じゃあお前は今からイリスな」

「――は?」

「なんかこんな世界だし、おとぎ話に出てくるような名前でもいいかなって思たんだが。気に入らなかったら変えるけど……俺そんなにセンスないしおとぎ話にも詳しくないから、ある程度は寛容でいてくれよ」

「名前なんて……どうでもいいわよ」

「名前は大切だぞ。自分の在り方だったり、時に道しるべになってくれるんだからな」

「道しるべ……」

 イリス、と言う名に思いを馳せる。

 成る程。確かに近しい側面はある。

 だがそれはまるで、

「名で役割が決められているようね」

「そう言ったしがらみに寄りかかりながら生きていくんだ」

「寄りかかる?」

「そうだ。縛られるんじゃない。寄りかかって、寄り添って生きていくんだ」

 その言葉は、命じられた役割に従ってきた身に深く突き刺さった。

 特別に生き永らえたいわけではないが、黙示録の果てを見たいという観測者としての想いはある。

 生の肯定をする男に、少しばかし興味が出た。真っ当な生者に関わるのが久しいというのもあるが。

「それで、なんで助けに来たの」

「嫌な予感がしたからだ……杞憂だったらいいんだけど、残念ながらよく当たるんだよ、俺の勘は」

「そう。三層から一層まで距離があるはずだけど、よくあんな短時間で追いついたわね」

「遅いくらいだったがな。一応言っておくけどよ、俺の能力(チート)は簒奪。万物を奪い取り、自由に使用できるんだ。〝盗人〟とかいうしょぼい二つ名もあったよ」

 臍を噛むような顔をしながら、あっさりと手の内を晒す。

 それに困惑を得ながら、イリスは予想を立てた。

「距離を盗んできたってこと」

「さすがにそんな抽象的なものは盗めねえな。触れられるものだけだよ、奪って、使えるのは」

「使う?」

「そのまま出し入れしたり、エネルギーとして転用したりできるんだよ。俺が盗んだものは、俺のものってことさ」

「……思ったより力技なのね」

「だからこそ、通せない無理を無理やりにこじ開けることができるんだよ」

「理解したわ。それでもただ一つ、納得できないことがあるの……なんで、わたしを助けに来たの?」

 その質問に彼は困ったように笑い、一拍を置いた。

「……一度救った命が奪われるのを見るのは夢身がわりい。それが救われたやつの責任だって割り切ってくれや」

「勝手にとんでもないものを押し付けられたものね」

 あの瞬間に終わりを覚悟した身としては、助けられた恩義など感じられない。

 それに、わずかな延命策でしかなかった。

「そう、だな。反射的にやっちまったこととはいえ、とんでもないことをしたよ。悪い」

 意外な答えであった。

 見知らぬ誰かを救う行為。それは善意のはずだ。

 たとえその善意の先が地獄へ続いていようと、善意の価値は汚れない。

 だから、そんなしおれた謝罪が出るとは思ってもみなかった。

「い、いいわよ別に。助けられたことは事実。そのことにはわたしも礼を言うわ」

「そう言ってもらえると助かる。だから、ちゃんと守るよ。それだけが俺に果たせる責任だ」

「……なんでそんなにこだわるの」

「誰かを救うってことは、そいつを抱えるってことだと思うからだ」

「随分と高尚な理念ね」

 嫌味なく、本心から感じたままを言葉にした。

 それを受けた男は、自虐的に笑った。

「俺はただ逃げてきただけだよ。高尚な理由なんてない」

 イリスの言葉が防波堤を砕いたらしい。言葉がどんどん溢れてくる。

「俺には抱えきれない、助けても幸せにはできない。そうやって言い訳を重ねて行動に移さない。違和を感じながらも『胎』の子たちだって使ってきた。そうやって何もかも諦めてきた」

 瞳が熱に浮かされ霞んでいる。

「全部が嫌になって外に出るために子供だって殺した。子供を守るのが大人の役割なのにな」

 男は、まだ青年と言う歳から一つ上がっただけだろう男は言うのだ。

 無言で聞き入るイリスに気付き、男ははっとした。

「……悪い。変なこと聞かせた」

「いいわよ、別に。それで、そこまでして何を願ったの?」

「え……?」

「あなたたちは何かを信仰しているようね。死に際に聞けば、色々と教えてもらえた。あの箱庭から出ることを強制されるのと、何か一つ願いを聞いてもらえるのでしょう?」

「ああ……俺は、俺が知らない常識を聞いた」

「常識の差異について、ね」

「『胎』を……子生みの道具とされている女の子たちを使うのは、あそこでは常識だ。だけど俺には違和感があった。それを含めて、俺の感覚が歪んでいるのか、それとも本来の感覚としてそれが正しいのか、知りたかった」

「常識なんてその時々の環境で変わるものよ」

「そうだな。適応ってやつだ」

 理解しているように言いながら、しかし納得はできていないそぶりだった。

 この男は、全体のためであろうと一が切り捨てられるのを本質的には看過できないのだろう。

 だからといって、全体を切り捨てられるほどの強さもない。

 その弱さを自身で理解して、がんじがらめになっている。

 理性にも感情にも寄らない。

「……感情ってやつはつくづく厄介そうね」

 ぼそっと呟いた言葉は、男には届かない。

 イリスは更なる興味を引き連れ、話の中で疑問に思ったことを口にする。

「『胎』だっけ? なんで彼女たちをみんなを救おうとする人がいないの?」

「……必要だと思うからだよ」

「なぜ? かつて数の差で敗れて管理体制を敷かれたから? 今はもう、あの頃のように百もいないわけではないんでしょう」

「そうだな。だからなんとなくに、現状へ十分を感じている奴らが一定数いるからだと思っていた。けど、外に出てみて本質の違いに気付かされたよ」

「……獣の存在ね。あなたたちの呼び方は魔物でしたっけ?」

「そうだ。どっちの呼び名が正しいのか俺にはわからないが……奴らを見たとき、血が泡立つ感覚を得たよ。こいつらは絶対に殺さなきゃいけない。そんな強い意志が湧き出てきた。なあ、やつらはなんなんだ? お前は、知ってるんだろ」

「『666』――不完全な獣。本能と理性、自然界の生物に備わる無駄なき循環の機構を狂わす感情を得た人間。その成れの果てよ」

「あれは、元々は人間だっていうのかよ」

「元々じゃなくて、今も人間よ。ただ、反転しただけ。堕落した魂が姿となっただけだもの……人間には、おとぎ話から飛び出た怪物の姿に見えているようね」

「なんでそんなことが……」

「かつて人は神へと至った。自らの認識領域内のものを用いて、全知全能の領域を手にした」

「神様になろうとしたから、罰せられたのか」

「別に神の領域(ケテル)へ踏み入ることはいいのよ。それは一つの生命体の進化だから」

 神へ至ろうとする人類は等しく裁かれる。これは真実だ。だが、それは人知を超えようとしたから。内省を積み上げた果てに神の領域に入るのならば、何の問題はない。

 しかし人は、神ではない。

「だけど、人はそこで進化をやめてしまった。それは罪だった。犯されるべきでない大罪だった。だから、黙示録は下された。存続する文明の破壊と新たなる世界への浄化を敷く審判の時が」

「ああ、理解した。その先を俺は知っている」

 『第二の聖母』の神話。そこへ繋がるのだ。

「そうね、そうじゃないとおかしいもの……というか、この黙示録についてあなたたちが無知なのが不思議よ」

「なんでだよ?」

「だって、あのオプファって男は色々と知ってるわよ」

「確かに色々と知ってそうな感じだけど、断言できるほどなのか」

「あの箱庭に人間が隠れ住んで以降、初めて外に姿を見せた人間も白髪赤目だったもの」

 百の年月が三回ほど巡った頃だろうか。

「この必滅の世界を覆す。あいつらはそう言って、この世界を散策し続けた。どうにかできるわけないのに。そして一人、また一人と死んでいったわ」

「無駄だったと?」

「少なくとも、前進はしてなかった」

 黙示録に変化はなかった。ならば彼らの行為は、現状に喘いでいただけだ。

 そして、ある疑問が生じた。

「いつも思っていたの。感情というものを持つあなたたちにとって、死はどういうものなのか」

「そりゃあ恐怖の対象だよ。死に近づけば近づくほど、恐怖は際立つ」

「なぜ、恐怖するの?」

 ヘルトは不思議そうに首を傾げる。

 一拍を置いて、大きく目を見開いた。

「……それがわからないから俺たちは命を懸けられたんだろうな」

 死を恐れないからこそ、命を懸けることができる。ある種当然の帰結を、男は今知ったかのように感慨深げに呟いた。

「『箱庭』に住む奴らにとって死は必然なんだ。歳が三十にもなれば剪定……つまりは殺される。生まれた時からそれが当たり前だから、自分が死ぬということには疑問を持たない」

「死を考えないの?」

「死を考える奴は、今に生きていない奴だと思う。過去に縛られ、未来に飛躍して……今をおろそかにしている奴が死を考えるんじゃないか」

「それでも恐怖する」

「……そうだな。実際に死が迫ってみると怖かった。なんでかはわからなかったけど……死を考えてこなかったんだから、その理由もわかるわけがないよな」

 このような質問をしているため当たり前ではあるが、天使に死の恐怖はない。

 自己消滅が迫った時に考えたのは、自らの役割を果たせないという事実について。

 この世界に存在を刻んだ意味が全うできなくなる。

 それは生が無意味であるということ。

 多くの動植物は死を恐れない。それなのに死から逃げるのは、無意味であることを避けるためだ。

 だが、人はそうではない。必然と知りながらも、恐怖する。知らないはずなのに、怖がる。恐れるからこそ、死を遠ざける。

「感情とはつくづく厄介なのね」

「そう難しい顔をする必要はないさ」

 今度は、呟きが男に届いていた。

「自分が何を思うか。それだけの代物さ。そういった意味では、死を問うお前も十分に感情があると思うぞ」

「……わたしに……感情?」

 あまりに荒唐無稽な言葉に失笑が漏れ出そうになる。だが、

「多くの人の死に触れて来たんだろ? そして自分自身も死を間近に感じた。なら、興味を持つんじゃないか」

「感情があるものにとって死は恐れるものじゃないの?」

「みんながそうとは限らないさ。それにきっとお前は、感情が芽生え始めたばかりなんだろ。だから、恐怖ではなく興味を得た」

 枯れた土壌に芽は生えない。誰かが整備し、種を植えた。

 それがなんであるか、すぐに理解できた。

 長く人を見すぎた。人と言葉を交わしすぎた。

 自我は感情の呼び水となり、主に準ずる思いこそが起伏を生む。

 自己を律しようとする心が、すでに自己と他者を切り分ける思いを作り出していた。

「そう。これが……感情。わたしには感情がある……ね」

 自覚してみれば、受け入れがたいものではなかった。

 主に仇なす存在と認識されたため、もはや天使としての自らに縛られる必要もない。

「どう思うか……どうしたいか」

 問う。感情に。

 答えは、呆気ないほど簡単に出た。

 当たり前のものであるから。

「わたしは、生きたい」

 それを聞き、男はそうか、と笑った。

 早速という風に立ち上がろうとするヘルトだったが、彼の服の裾を摘まんで止めた。

「ねえ、一つお願いがあるの」

 男の目を見据える。そこに映る自分の瞳は無機質である。

「スミルナは死んだ。イリスとして逃げる。だから、それを分ける新しいわたしとしての何かがほしいの」

 ちょうだい、と小首をかしげれば、ヘルトはたじろいで顔を背けた。

「お……俺にできることなんてたかが知れてるけどそうだな髪をいじらせてくれ」

 矢継ぎ早に語られた提案に頷き、頭を預ける。

 男の武骨な指が髪先から頭部に触れる。

「さらさらでやりやすいな。こんな髪質は初めてだ」

「天使としての魂が体に自浄作用をもたらしててね」

 てきぱきと後ろ髪が編み込まれていく。

「慣れているのね」

「ただの手慰めだよ。こうやって自分の感情を紛らわせていただけさ」

「『胎』の子たちにやっていたってこと?」

「そうだよ。結局はただの自己満足だけどな――っと、終わりだ」

 先ほどまでヘルトが触れていた箇所に手を添わせる。

 彼女自身は気づいていないが、自然と頬がほころんでいた。

「じゃあ、逃げようぜ」

「どこまで逃げるの?」

「どこまででも」

「外は『死』の雨があるわよ」

「よくわからないけど、これがあれば防げるんだろ?」

 そう言って男は、床を指さした。

 彼の足元にもなぜか、雨よけの外套があった。

「ここに来る途中で盗んできた。なんか必要そうだったからさ」

 『死』の雨はこの世界のすべてを殺す。獣も例外ではない。だから、外套は常備されている。

「ま、頑張って守るよ、イリス」

「頼むわ、ヘルト」

 曲がることなき信念。それを形作る魂を、見るまではなく、感じた。

 だから――

「お前、羽……」

 言われて背中から伸びるそれを見る。純白だった羽は、見るも無残にどす黒く穢れていた。

 イリスは、微笑混じりに首を横に振った。

「いいのよ。これで、いいの」

 立ち上がりながら外套を着こみ――不意に背筋に稲妻が走ったかのような衝撃を感じた。

 わき目も振らずに、得た感覚をそのまま言葉にする。

「黙示録の騎士……騎士は、守護をする存在。彼らは、何かを守っている?」

 あの瞬間、彼女は何をしていたか。

「わたしは、黙示録に疑念を抱いて、それで……」

 もう少しで、何かがつかめそうだ。

 しかし、

「見つけたぞ」

 上空から、声が。

 視界をくすんだ白が覆った。それがヘルトの放った外套であると知ったのは、手繰って作った隙間から状況を確認したとき。

 仰ぎ見れば、栗毛の少女が。鋭いまなじりが敵意によってさらに厳しく細められている。

「主に祈る時間は多分に与えたぞ。さあ、断罪の時だ」

 サルディスの体の形が崩れた。

 ぎちぎちと音を立て膨張と収縮を繰り返す。ぐしゃぐしゃの肉塊から折れた骨が飛び出ては呑み込まれていく。

 構成そのものが変わっていく。

 器たる人間を侵蝕し、本来の姿をむき出しにする。

 全身を埋め尽くす無数の腕。背から伸びる羽すらも人の腕を組み上げたよう。全身にはくまなく眼球が蠢いていた。

 それすら、ある種の神威を纏う姿であった。

 魔を滅する純心無垢の執行者。

 天使。

 七色に流動する瞳が二人を見下ろす。

 深遠がごとく底の見えない口が開かれ、音を作った。

「もはや交わす言葉は持たぬよな、スミルナ」

 高低が重なる音色。

 絶望的な状況に怯えるイリスは、返す言葉も浮かばず合わぬ歯の根を震わせる。

 その姿にサルディスは失意すら覚え、多碗を掲げ己が武器を顕現させる。

 木を粗く削って作られたような意匠の(おおゆみ)。それが右半身のすべての手の中に。左手には矢が。

 世界が音を立てて軋んだ。

「神罰……!」

 イリスは戦慄を声にした。

「なんだよ、それ。やばい感じ……だよな、このぴりぴりする感覚は」

「主を代行する天使の権能が物質化した武具よ!」

 多碗多眼が一斉に二人の方へ向く。

「さあ歪め。ねじれ、狂い、無限に連なる自我に意味を崩壊させろ」

 矢が射出される。

 雨あられと降る矢は、空間を混ぜた水あめのように歪ませる。(やじり)に絡められた空間はそのまま引き伸ばされ、千切れた。

 神威の一撃に、世界の規格は耐えられない。

 収斂していく矢の軌道は、巨大な鏃の姿となる。

 欠落した空間から覗く黒色を()とした矢の一条が、着弾する。

 余波だけで世界を砕く矢は――しかしその力を減衰させ、この区画の建物すべてを吹き飛ばす程度の威力を発露した。

 立ち込める砂煙の中で空間の破片が煌々と降る。

 それを一挙に吹き飛ばす風が渦巻いた。

 視界を覆うものは晴れ、サルディスの眼に結果を映す。

 歪まぬ魂が二つ。辺り一帯が爆ぜたように窪んでいるが、二人の立つ場所だけが損壊を受けずに健在だった。

「勢いを盗み切れなかった」

 この場の惨状にヘルトは毒づく。

 奪い取った力は濁流のようであり、人の身に収めきれるものではなかった。転換し、力の矛先を逸らすので精いっぱいだ。

 それでも、男は主の権能を退けた。

 ――それがきっかけか、或いは天使の怒りに呼応したか。

 金色の空を、さらに明るく染め上げる光が君臨した。

 皆、視線がサルディスの胸の前に自然と誘われる。

 黄金の喇叭。形は獣の角のようでありながら、しかし硝子(がらす)に似た透明な光沢。

 誰が語るでもなく、理解した。

 あれが黙示録を喚ぶ喇叭であると。

「は、ははは」

 義憤すら忘れ、サルディスは笑う。

 自らの役割を全うする日が遂に来た。

 『神罰』を消し、生まれた赤子を抱く母のような手つきでそっと触れ――それが不意に消失した。

 ぎちり、と静止する。

 何故。それを思うまでもなく、わかった。

「貴様ァ!!」

「これも……きついな」

 もしくは、『神罰』の一撃で無理やり拡張されていなかったら収まらなかったかもしれない。

 それでも、五番目の喇叭を盗んだヘルトは笑みを刻んだ。

「嘆かわしい。人間ごときに喇叭を奪われるなど……主よ、同胞の失態を許し給え」

 サルディスと似て非なる声がした。

 水晶を思わせる硬質で透明な羽が目につく。

 天使としての姿を露わにしたペルガモンだ。

 黒曜石のごとき肌に白の刻印が走り幾何学模様を浮かべている。腕が異様に長い。片方だけで全長を超える。

 手には『神罰』たる黒柄の槍がすでに顕現していた。

「罪人が自らを裁く処刑器具を持つとは滑稽だな。返すがいい。それは汚れた人間が持つにはあまりに神聖なものだ」

「そんなに大事なもんだったか? なら……イリスに手を出してみろ、ここで俺は俺を殺すぞ」

 怖気づくことなく男は覚悟を示す。

 そんな脅しにも天使は弓と槍を収めはしない。略奪者には死を以て返還してもらう、と厳然たる態度で示した。

 男にはそれがわかった。だからこそ、不敵な笑みが口角を吊り上げる。

「俺が死んだら取ったもん帰ってくるなんて都合のいいこと考えるなよ。こいつは、反則(チート)なんだぜ」

 その言葉に少し、天使たちはたじろぐようにした。

 牽制で生まれたわずかな時間に、ヘルトはイリスへ言葉を投げた。

「あいつらは俺から力を吐き出させようと躍起になってくる。一緒には行けない」

 それは訣別の言葉であり、

「かっこ悪いけどよ、助けに来てくれ。次の年に勝ち上がってくるチート能力者を連れて、な」

 絶対の敗北を確信した言葉でもあった。

「嫌よ! わたしを抱えるんじゃないの!!」

「ちゃんと守れるのは強者だけだよ。俺は弱いからさ、こんな方法しか取れないけど……ようやくわかったんだ。俺の生きる目的ってやつが」

 理想を諦めて、踏みにじった道の先に見つけた光。それは、

「全部諦めて、見捨ててきた俺だけど……それでもただ一つ、お前だけは助けたいんだ」

 そうだ、そうなのだ。イリスは自らの身をかえりみる。

 その身は何も持たない。無力だ。

「逃がさぬぞ。スミルナもなァ!!」

 百八十度に駆動する腕が、全方位に向けて矢をつがえた。

「大事なもんだったらきちんと抱えておくんだな。じゃなきゃ、俺みたいなコソ泥にかすめ取られるぜ」

 そう言って不敵に笑う横顔が、イリスが見た最後の姿だった。

「堕落の仇人を貫くは我が双槍」

 両腕から投げ放たれる槍は、音を、光を、概念を超えて二人のいる空間を消滅させようと貫き進む。

 絡めとられた空間は尖峰へ収束する歪みを生み、引き千切られた空間からは無が覗く。

 放たれたと同時に干渉した箇所を消し去る一撃。

 収束と膨張により多大な破壊をもたらす力は、拡散して暴風と化した。

 中途半端に盗まれた力は、均衡を失い指向性なく吹き荒れる。

 ふわり、とイリスの軽い体は飛ばされた。勢いを得た砂塵が肉を浅く抉る。

 そして自由落下へ。

 それを操る力は失われている。

 手を伸ばせど距離は遠く、こぼす涙だけが舞い上がる。

 届け、と願う手の平は何も掴めはせず、(とも)る熱は失われていった。

「あ、ああ、ああああああ」

 尾を引く叫びは自らの悔恨で。

 もう届かないと知った失意の感情だ。

 嵐の圏内から逃れた後、必死に走った。

 どれほどの時間が経ったか。どれほど男から遠ざかったか。

 逃亡中の記憶はなかった。

 肌に触れる冷たさで意識を取り戻し、イリスは外の大陸の果て、海にまで来ていたことを知った。

 第二の喇叭で三分の一が紅く染まった海。長い年月をかけた満ち引きの中で混じり合い、かつての澄んだ色は一切ない。

「今のわたしが飛び込んだら死ねるわね」

 虚ろな瞳が海面を映す。

 岩肌に打ち付ける波の猛々しさに飲み込まれれば、活力のないその身はあっという間に砕かれるであろう。

 だが、一歩が踏み出せない。

 震える足を叱咤する。

「もう意味はないのよ! この世界は黙示録に覆われている! どこにも逃げ場なんてないのよ!!」

 そうだ。せっかくヘルトが逃がしてくれても、『聖域』はこの世界と重なっている。

 サルディスやペルガモンが探そうと思えば、イリスなど簡単に捕捉されてしまう。

 しかし。

 かつて、白髪赤目の老躯が言った言葉が体内にこだまする。

『この必滅の世界を覆す』

「なによ……それ……」

 罰せられるべき行為を行ったのは人間だ。たとえそれが今は亡き古人によるものだったとしても、その罪の証は彼らの血脈に受け継がれて、消えることはない。

 犯した罪からは逃れられない。逃れることは許されない。

『誰かを救うってことは、そいつを抱えるってことだ』

「……嫌になる」

 何を流されようと、甘い考えに縋ろうとしているのだと毒づく。

 だけども、視界に端で揺らぐものがある。

 どんなに目をそらしても、事実は変わらない。

 体をずたずたに切り裂く暴風の中でも未練がましく抱えたヘルトの外套が。

「ああ、だから」

 軋み、ねじれ、ひび割れた胸の隙間から漏れ出る熱がある。

 どろり、粘度を感じられるそれは、諦めることを許さない意志。

 熱は巡り、巡る。

 だが決して、中央の虚には流れ込まない。

 それが喪失の痛みだと、イリスは理解した。

「痛い……痛いよ……」

 うずくまり、えずくようにして呼吸を求める。

 まともに息が吸えない。

 じくじく、じくじくと鋭くも鈍い痛みに苛まれ、ついぞ胃の中のものをぶちまけた。

 岩肌に散る吐瀉物。ひとしきり吐くと体が力を失い、顔を溜まりに(うず)めてしまう。

 体に力が入らない。手足の末端まで疲労に浸っていた。

 まぶたに涙が浮かぶ。

 嗚咽が漏れた。

「諦めたくない……失いたく……ないよ……!」

 涙声で、それでも力強く彼女は叫んだ。

 濡れる瞳は、色を取り戻していた。

 だから。

 彼女は恋を知った。

 彼女は恋をした。


 ――その感情の自覚は、あまりにも遅すぎた。


 慟哭は降り始めた雨に混じり、悲愴さを増した。




 過去語りを終えたイリスは、大きく息を吸い込んだ。

 ぽっかりと空いた心を埋めるように。

 しかしそれで、何が変わるわけもなかった。

 こぼした欠片は二度と取り返すことはできない。

 あの日はもう、追いつくことのできない彼方へ走り去ってしまった。

 そこでイリスは、ああ、と気付きを得たような呟きをこぼした。

「……だから、話したんだ」

 一年間。それだけの年月、イリスの心はあの日あの時に蝕まれていた。

 生まれ出たばかりの心が自己嫌悪の痛みに耐えきれずに、まやかしへ縋ったことがないとは言えなかった。

 だから、歪んでしまっていた実像を捉え直すため。

 欲しいのは、過ぎ去ってしまったあの瞬間ではない。

 自由を共にした、唯一無二の温かさだ。

 ならばこそ、信頼の有無は後付けでしかない。

 終盤など他人(ひと)に聞かせられるような話ではなかったと気を落としつつ、赤髪の少年に視線を送った。

「えっ?」

 彼は白髪の少女を守るようにしながらも穏やかな寝息を立てて眠りについていた。

 いつから寝ていたのか。自己の内面にこそ話し掛けていたイリスには見当もつかなかった。

「寝物語にしては不釣り合いだと思うんだけど……」

 四つん這いになって二人の寝顔をのぞき込む。

 背丈から想像する歳より少し幼い顔つき。少年にとって少女の存在は安息そのものであるようだ。

 イリスは小さく身震いした。

(だからこそ、怖いのよね)

 少年の想いは少女へは届いていない。赤子すら持つ意思すら希薄で、まるで人形のようだ。

 それでも少年は命すら張って少女を守ろうとする。

(これが愛だっていうなら……)

 自らの胸に手を当てる。そこに宿る想いが強くなればなるほど、そんな妄執に似た形に変わる可能性があるのか。

「……ちょっと、嫌だな」

 そして何よりも、お互いに想いが通じていないのは嫌だった。

 愛は心があるから生まれる。だけど、心は時に強い痛みを伴う。それを前にしたとき意思は砕け、折れてしまう――だから、寄りかかれる相手がほしい。

 後ずさり、ふたりから距離をとってイリスも横になる。

 押し寄せるまどろみに瞼は重く垂れ下がる。

 溶ける意識。その中に一つ、澱みがあった。

 それは抑え込むべきものだと、もしかしたら少年の無意識に刻まれしまうと危惧し、それでも言わずにはいれなかった。

「ねえ、それは本当に幸せなの?」

 チクリと痛んだ心から目を背けるために、イリスは曖昧模糊の無形な夢の世界に身を投じた。



 真っ暗な夢うつつに意識がたゆたう。

 意識は無限の闇を漂流する。

 それを引き上げる声を認識するまでは。

「――なあ……なあ!!」

 その焦った声音の主が、昨夜手を組んだ少年のものだと認識し、イリスは跳ねるように飛び起きた。

 焦燥に揺らぐ顔は年相応に見えた。他人にこんな弱さを見せるほど脆く崩れるなど、一体何が、と視線を巡らせる。

 はたして、彼女が見つけるのが先か、少年の言葉が先か。

「ユーが、さっきから苦しそうなんだ!」

 自らを抱く姿で獣のような呻き声を発する少女を、視界に収めた。鬼気迫る表情。赤い瞳が涙で揺らめく。

「いつから?」

「ついさっき。呻き声が聞こえて起きたから」

 立ち上がり、少女の全身を俯瞰する。主だった外傷は見られない。

(『雨』……かしら)

 イリスの思考がそこへ帰結するのは、必然であった――スカートの内からにじむ赤を見るまでは。

 それでユーベルを苦しめるものの正体に辺りがつき、嘆息しながら面を上げた。

「彼女は今何歳よ」

「じゅ、十一歳」

来ない(、、、)歳でもないわね。わたしも受肉してから時たま悩まされるのよね」

「な、何がだよ」

「別に隠す必要があることではないけど、わざわざ明言する必要がある?」

 そこまで言われて、少年は自らの察しの悪さに毒づきたくなった。

「取り敢えず血は拭いておかないとかぶれちゃうわね。ほら、あんまり男が見るものじゃないわよ」

 はっとし、目を逸らす。布すれの音が耳に障る。

「ちょっと受付に行ってお湯を沸かしてもらってきてくれない。こんな場所だけど、受肉の関係で衛生面はちゃんとしてるから。あと、布も何枚か」

 ユーベルから目を離すのは不安だったが、彼自身が何をできるわけでもなく、諾々と従う。急く気持ちに押し出されるところで「扉閉めていきなさい!」と制止の声を聞いた。

 受付の魔物は、特に事情を問うでもなく身を翻した。奥に備品庫が覗けた。

 しばらくして、お湯を張った桶と純白の布を三枚手渡してくれた。

 踵を返して部屋に戻り、それらをイリスに渡す。

 湯に沈めて絞った一枚を腹部に乗せるのを見たところで思い返し、視線を切る。

 立ち呆けることしかできぬ身を恨めしく思う。女装をさせられ男に抱かれていた過去があろうと、女ではない。

 どんなに拒否しようと、本質は変わらない。変われない。

 それを理解したうえで、自由と願いをかけた闘争へ拳を握って立ち向かった。

 だがやはり、理解と納得は違った。

 込み上げる焦りは、ユーベルが一切の価値を認めてくれない恐怖から。あの時は、自分以外に手を伸ばす人間は居なかった。だが、他に、現れたなら。

 元から手にないものなら諦められた。一度手にできた今は、妄執に近い独占欲が少年の中に芽吹いていた。

 昏い熱を持ち始めた思考に冷や水をかけるイリスの声が凛然と響いた。

「終わったわよ」

「けどまだ、痛そうだぞ」

 その表情は先程までよりは緩くなっているも、途切れ途切れの息など、苦痛が取り除かれた様子はない。

「四、五日は痛みが続くのよ……この子、言葉通じるの?」

「いや、無理だ」

「そっか。痛みの原因が知れれば我慢のしようがあるでしょうに……まあ、向こうに入ればもう少しはまともなところで横になれるから、今は応急処置ってところかしらね」

 その言葉を聞いて、リヒトは張りつめた緊張の糸をほどくことができた。

 そっとユーベルの方に駆け寄り、視界が歪んだ。即座に立て直すも、脳が痺れる感覚に教われる。

「ちょっと、大丈夫?」

 憂慮の声は、しかしリヒトの耳には届かなかった。

 彼の意識は、鼻腔を焦がす香りに囚われていた。

 むわっと立ち込める生臭さ。

 それは、女だけが香り立たせられるいのちのにおい(、、、、、、、)


「――!!」


 せり上がる嘔吐感に口元を抑える。青くなる顔に脂汗が浮かんだ。

「……ぁ!」

 ついぞ、耐えられずに部屋を飛び出す。イリスの当惑の声にも耳を貸さず、逃げるように路地の奥へ奥へ。

 ただならぬ様子にそこを住みかとする者たちが近寄ろうとするも、怨念渦巻く黒陶の一睨みで反射的に身を引く。

 どこまで走り抜けても脳髄を刺激するあの『におい』の残滓は張り付いて離れない。

 荒ぶる感情に身を任せ近くの長屋に拳を放とうとするも、寸でのところで思いとどまる。

 わかっている。わかっている――それでも。

 行き場のない自己嫌悪がリヒトの喉から漏れた。


「なん……で、なんだよ……」


 下腹部が、痛いほどに張りつめていた。どろりとした熱が沸き立っている。

 くらくらと回る頭に眉をしかめながら、少年はその場に崩れ落ちた。

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