汚名を謳う
『赤』一族の下野の後、ある『紫』一族の少女の決意。
苦めのシリアス。
――『赤』一族、下野。
その報を聞いてよぎったのは、此処まで進行してしまったのか、という思いだった。
歯車は回りきらなくなってしまった。怒りも情けなさも通り越して、ただひたすらに、恥ずかしかった。
始まりは、陛下がひとりの“迷子”を保護してきたこと。
驚くべきことに、その“迷子”はわたしたちとは違う理を持った場所――おそらくは次元すら異なる世界から来たものらしかった。途方に暮れていたところを、偶々通りかかり事情を聞いた陛下が保護を申し出たのは、まあ致し方ない。“迷子”はちょっと不思議だけれど小奇麗な格好をしていたし、顔立ちも可愛らしく、常識も何も分からない場所で放置したら性質の悪い人間に売られでも何でもしていただろうから。陛下がわざわざするほどのことでもないだろうにと思うぐらいで、他は妥当な判断だ。
困ったのはその後の流れだ。
陛下は“迷子”をいたく気に入られて、いついかなる時にも手放そうとなされないほど寵愛された。それも凄く、物凄く問題だったのだが、更に『青』『白』『黒』の御曹司たちも同様に、自分の常識を砕き心を癒す、純粋無垢な“迷子”にみるみるうちに魅せられてしまった。
恋するのが悪いとは言わない。ただ、問題だったのが、恋をして彼らが盲目になってしまったことだ。
性格は違えど、なまじっか天才肌で、それゆえに幼少時から長になるべしと英才教育を受けてきた人たち揃いだったのが災いしたのだろうか。今まで己の任務に向けていた愚直なほどの精力を、根こそぎ“迷子”の心を得るための駆け引きに注ぐようになってしまったのだ。当主たちも“迷子”が余程可愛いのか、我が息子の嫁にと譲らない。“迷子”も“迷子”で、さっさと誰かを選んでしまえば良いものを、なかなか心を定めず、むしろ陛下や御曹司たちの他にも興味を示す有様。結果、政務がはっきりと滞るようになってしまった。
あの“迷子”、実は何処かの工作員ではあるまいなと疑惑をもったのは多分わたしだけではあるまい。口には出さないだけで。
『紫』一族内部のことは良い。陛下でなくても、長でなくても、何とでもなる。だけど、国政となるとそうはいかない。最悪、何処の色でもいいから、長の承諾がなければ、どんな有用な提案も、どんなに緊急性のある政策も、通らないのだ。その点、『赤』の長殿が正気だったから助かった。もし彼が居てくださらなかったらと思うとぞっとする。
けれど、けれど!
恋は、彼らの骨を抜いてしまった。“迷子”が『赤』の長殿に興味を示すやいなや、『赤』に対して言われなき中傷をするようにすらなってしまった。『赤』など役立たずなのだと、厚顔にも言い放った。彼が居なくてはならない人物だということに、誰より、何より、気づいていてしかるべき人々が!
偶然にも陛下と『黒』の長が“迷子”にそう吹き込んでいる場面に遭遇した時には、足元が崩れるかと思うぐらい呆然とした。
わたしは、その時までは確かに陛下を信じていたのだ。口でぼやきつつも、日々政務を熱心にかつ的確に捌いていく姿を知っていたから、わたしは陛下を尊敬していた。一時の熱病のようなもので、きっといつかは、嘗ての陛下が戻って来てくださると、信じていた。だから、『紫』内部のことしか出来なくても、日々の雑事を年長者に混じってこなしていた。
けれど、違ったのだ。尽力くださっている『赤』の長殿を否定したということは、国を守ることを否定したということ。
嘗ての尊敬は幻想になるわけではない、陛下がわたしの理想と違ったからといって彼が悪いわけじゃない。それ自体はわたしの罪だ。あるいはもしかしたら、わたしが抱いていたような勝手な偶像が、陛下を追い詰めていたのかもしれない。その時に救いになったのが、“迷子”だったとしたら――やっぱり、恋をしたのは陛下の罪ではない。
だけど、最早彼を長とは仰げないのは、確かな真実。
其処に来て、『赤』下野の報だ。
わたしの主観で言うならば、仕方ないといったところだろう。『赤』の長殿の周囲はじわじわときな臭くなっていた。遅かれ早かれ、彼を放逐しようという動きが出ただろう。あれだけ尽力くださった方が報われないなんて、そんなこと、あってはならないのだから。
けれど、政という観点で言うなら、『赤』の長殿がいなくなることでの痛手は大きい。どんな手を使っても、止めるべきだった。わたしだって、望まぬ慰留を繰り返した。それなのに、『赤』を失うことを、陛下は認可されてしまった。
もう、彼らが見ているのは国じゃない、民じゃない、“迷子”への恋心だけだ。
陛下が男として人を愛しても、それ自体は悪ではない。
けれど、無能に成り果てた人間がそのまま玉座にあるのは、明らかなる罪だ。
それを正すのは、民であるべきではない。他の手を汚すわけにはいかない。
すう、と息を吸い込んで、わたしは扉の前に立った。一緒に居るのは各一族のご意見番など、それなりに発言権があり、なおかつ今まで陛下や当主、御曹司たちの言動を諌めたことがあり、『赤』の下野を本当の意味で憂いている方々だ。
陛下の私室とはいえ、先ぶれなしの訪問は失礼に当たる。だが、わたしたちの顔ぶれと、抱えた書類の束を見て、近衛たちは執務の催促だろうと踏んだのか、然程戸惑った顔はせずに通してくれた。この時間、陛下は執務用の場所にいらっしゃるのが本当なので、とうとう痺れを切らしたか、程度だったのだろう。
不審を感じさせないよう、そのまま、近衛たちに下がるように指示する。人払いが済んだことを確認すると、挨拶もそこそこに、押し入るように部屋に入った。
すぐに目に飛び込んできたのは、“迷子”を膝に乗せ、共にいる『白』の御曹司と争うようにして甘く囁いている陛下だった。
だが、わたしたちに気づくと不快げに顔を顰める。
「藤霞、俺は今忙しい。何用にせよ、後で聞く、すぐに下がれ」
わたしは、努めて冷静に、平淡に言ってみせる。
「陛下。長らくのご尽力、ありがとうございました」
「何を」
「玉座が重石であり枷であるというのなら、我らが解放いたしましょう。これからはどうぞ、愛しい姫君との蜜月をお楽しみくださいませ」
きっと、上手く笑えていない。歪んだ笑みは、きっと彼らにとって、物語の悪役めいて映っているだろう。
「譲位に必要なものは、全て、揃えてございます」
一笑に付そうとしたらしい陛下は、わたしたちがばらまいた書類を見て血相を変えた。
嘗て五色の始祖が、建国時に設定したという緊急措置。一族の権力者が暴走した時に、それを一族の下位の者であっても止められる手続――通称『自浄』。条件の厳しさゆえに、そして今までは色同士の牽制で収まっていたがゆえに、一度も使われることがないまま、しかし始祖の遺したものとして、細々と形式的に受け継がれてきたものだった。
「………形骸化したものだ、使えるはずが」
「形骸化していたのは、『自浄』の条件が厳し過ぎたからでした。ですが、つい先だって整ったのですよ。――『赤』一族の下野によって」
『自浄』を起こすための最も厳しい条件は、他の色の長が、その行動に対して強く抗議を示したこと。これにより、客観性が保たれると共に、下位の者であっても後ろ盾を確保するという狙いがあったのだと思われる。
後ろ盾となりうる『赤』はもうないけれど、でも、だからこそ、覚悟を決めた者だけが揃った。下野という結論が『強い抗議』以外の何物とも思われない以上、条件は今や全て整っている。
とても最悪に近い、整い方だったけれど。
「そんな、馬鹿なことが」
陛下の膝の上でこれまた呆然としていたらしい“迷子”が、其処でやっと我に返ったらしい。とはいえ、美しい声で発せられるのは、陛下が地位を追われるなんておかしい、という内容だったので聞き流す。現段階、陛下の妃ですらない“迷子”に、陛下の身の振り方について政治的に口出しをする権利などないのだ。
「畏れながら申し上げます、陛下」
陛下を長として選んだ、それは『紫』の一族の責任だ。
だから、止めるのも、一族の者であるべきだ。
前代未聞だろうが、『紫』の娘として、わたしは声を上げる。
「陛下―――いいえ、兄上。貴方から、長たる位を剥奪します」
歴史がこれを何と呼ぼうが構わない。
たとえ簒奪者と呼ばれようとも、わたしは滅亡より、汚名を取る。