醜名を伴う
※『とりどり色鉛筆』vermilion再録。
『醜名を繋ぐ』の一年後の話。
月日は回る。
一年が経っても、わたしは青鹿さまに仕えていた。
その頃には、わたしみたいな下働きでも分かるくらい、本邸のほうがざわざわとしていた。遠目から見たご当主さまと若さまはご機嫌がよさそうだったのに、何というか…出入りする人たちの雰囲気が、必ずしも穏やかじゃない。それが何を意味するのかは分からなかったけれど、何かが変わってきたことだけは感じ取れた。
それなのに、頭の良いはずの主人筋の方々よりも、使用人たちのほうがずっと不安がっていたのはちょっと不思議だった。使用人頭曰く、ご当主さま方は頭が良いから表に出さないんだよ、とのことだったけれど、それにしてはご機嫌が良すぎる。そんな温度差を怖がるのは、変だろうか。
あんまり不安な顔をしていたのか、一度青鹿さまに見咎められ、洗いざらいお話することになった。ずっと難しげに考え込んでいらした青鹿さまは、それ以来、外との文のやり取りが頻繁になった。幽閉されているとはいえ、文のやり取りくらいなら青鹿さまの体質は関係ないということで見逃されていた。
青鹿さまのところにお客さまがお見えになったのは、そんなある日の夕方のことだった。
扉の前で声を掛けて、青鹿さまの許可を待って入室する。お茶を運ぶ所作がいつになく強張ってしまうのは、青鹿さまの向かいで脇息にもたれかかっているお客さまが理由だ。
垂らされている艶やかな長い髪、切れ長の目元、すっと通った鼻梁、花びらのように色付く唇、鮮やかな紅の着物に映える白い肌、まろく流れる身体の線。どれもこれも極上で、わたしがこれまでお目にかかった誰よりも華やかな少女だ。同性とはいえ、やっぱり美しいひとというのは特別に感じる。初対面の美しい少女の傍に上がるとなれば、自然緊張してしまうのだ。
しかも、幽閉されているはずの青鹿さまに直接の面会が叶ったのだ。きっと只者ではない。
お茶を準備した後、そのまま下がろうとしたのだが、何故かお客さまのほうが押し留めた。青鹿さまは特に止める気もないらしく何もおっしゃらない。仕方ないので、わたしは部屋の隅に縮こまるようにして座った。
「………さて、お茶も運ばれてきたことだし。何の用だい、緋羽」
「ご挨拶ね、幼馴染に。あんただって、あたしにとっては兄弟みたいなものよ」
幼馴染、兄弟みたいなもの。
わたしは目をぱちくりさせる。青鹿さまにそのような関係の方がいらしたなんて初めて聞いた。
多分、ずっと定期的に文をやり取りしていたのは、この方だ。互いに気安い調子から、多分この方には青鹿さまの『傾城』が通用しないのだろう。だから、面倒が嫌いな青鹿さまでも、幽閉されてからもずっと交流していたい相手なんだ。
――そう思ったら、何となく、つきんと心が痛くなった。何でかな。青鹿さまに親しく出来る方がいらっしゃるなんて、素敵なことのはずなのに。
「ま、良いわ。まず、あたしはその名前捨てることになったから、その挨拶ね」
「うん?」
「あら、あんたのところまでは届いてないのね。『赤』一族郎党全員、下野するのよ」
青鹿さまの顔色が流石に変わった。聞いてしまったわたしも卒倒するかと思った。
『赤』って言ったら――だって、国を支える五色のひとつじゃないか!
「………例の、迷子に関する騒動で、かな?」
「そ。兄さんもね、今まで頑張ってたんだけど、流石に嫌気が差したみたい」
わたしには訳が分からないが、お二人の間では通じているようだ。ちょっと仲間はずれみたいな気分もないわけじゃないが、多分五色の内部の、しかも醜聞のようなので、分からないほうがむしろ良いんだろう。
「………そうか。末期だね」
「当たり前でしょ。『赤』が消えるんだもの」
他人事のように、美しい少女はお笑いになる。
「国って鼎と同じじゃない? それを残った一本で支えていたこと自体、間違いだったの。脚がぐらつき始めた時点で、おしまいは決まっていたのよ」
「つまり、『赤』は二度と戻る気は無いと?」
「兄さんがその気になって号令でも掛ければ話は別だけど……まあ、それには他の四色が『赤』に折れる必要があるわ。無理でしょうね」
わたしは、もしかしなくても、物凄く重大な話を聞かされているんじゃないだろうか。
でも、どうして? 何故さっき下がるのを止められたのか全く分からないままなのに、更にとんでもない言葉が届いてきた。
「さてここからが本題よ、青鹿。幼馴染の誼で忠告してあげる――――逃げちゃいなさい」
何で!?
声は上げなかったが最大限混乱するわたしを余所に、青鹿さまは冷静に尋ね返した。
「逃げねばならないほどの面倒なことをした覚えはないよ」
違うわよ、と美しいお客さまは一刀両断なさった。
「現状考えて御覧なさい、色恋がらみの馬鹿騒ぎよ? となれば、このまま安穏としてたら、腹黒の多い『青』のことだもの、誰かがあんたのその無駄な色気を利用しようって言い出すわよ、多分」
懐から出した扇を広げて、彼女は続けられる。
「まあ誰を惑わせって言われるかは正直わかんないわ。あんたんとこの当主や御曹司が考え付けば、恋敵の姉妹を誑かして恋敵の気を一時的にでも逸らせって言われるだろうし、それ以外の連中が思いつくなら迷子を誘惑して当主たちから遠ざけろって言うかもしれないし」
「いずれにしても馬鹿馬鹿しいには変わりないねえ」
「そういうことよ。あたしたちならともかくも、大抵の人間には耐性がないもの、いとも簡単に篭絡できるだろうってのもあんたにとっては残念よね。でも、別にソレはあんたの所為で身についたものでもなし、他人の惚れた腫れたに付き合ってやることはないわ」
青鹿さまとお客さま、何だかどちらもとっても冷静でいらっしゃるんですけど、事態は青鹿さまに不味い方向に来ているってことで良いんですよね?
「利用価値を見出される前でさえあれば、あんたは『青』の鼻つまみ者、追っ手も掛かんないでしょ。とっとと逃げちゃいなさい」
「………ふむ。どう思うね小萩」
何故わたし!? 狼狽するが、わたしはとりあえず、顔を上げる。
「青鹿さまが不本意とお考えなら、お逃げになるべきかと思います」
だって、お二人がおっしゃったように、『馬鹿馬鹿しいこと』なんだろう。だったら、青鹿さまが望まれないのにやる必要、ないのだもの。
「それに……勝手なことを申し上げますが、青鹿さまにはそんな、人の心を弄ぶようなこと、して欲しくないです」
面倒臭がりだけれど優しいわたしの主に、そんな酷いことをして欲しくない――なんて、やっぱり押し付けがましいだろうか。
俯くわたしに、顔をお上げ、と青鹿さまがおっしゃった。促されるままに顔を上げると、いつの間にか近寄っていた青鹿さまに頭を撫でられ、わたしは硬直した。
というか、こんなの、使用人の分を越えている!
内心で焦るわたしを余所に、あくまで何処か気だるげなまま、青鹿さまは続けた。
「じゃあ小萩、私が逃げると言ったら、お前はどうする?」
「青鹿さまのご随意に、何でもいたします」
自分は逃げるからわたしも此処から逃げて何処かへ行けっておっしゃられたなら、わたしは従う。
残って何か時間稼ぎしろっておっしゃられたなら、やっぱりわたしはそうする。多分露見した時には折檻されるだろうけど、覚悟できる。
だってわたしの主は青鹿さまなんだから。
そう言うと、青鹿さまはわたしの頬に手を当てて、ふと溜息を吐かれた。
「……そう悲壮な顔をするでないよ」
「え、え、ご、ごめんなさい…」
そんなに情けない顔をしていただろうか。おろおろするわたしを見て、緋羽と呼ばれたお客さまはとうとう堪え切れなくなったとばかりにお笑いになった。
「ふふ。その可愛い子には『傾城』効いてないんでしょ? ってことは、あんたみたいな昼行燈が、随分慕われたものじゃない?」
「五月蝿いよ、まったく」
「言いたくもなるわよ。いざって時は引き取ってくれって言ってたの、この可愛い子でしょう? あの木石みたいな青鹿がねえ」
お客さまは含むように微笑んでいらっしゃったが、わたしとしてはお客さまのお言葉を聞いてそれどころじゃなくなった。
青鹿さまは、わたしが此処に居られなくなった後のことを、考えてくださっていたの…?
「ほうら、青鹿。あーんな主冥利に尽きること言われて、あんたはどうやって返すつもりなの?」
「緋羽、お前、面白がっているね?」
うふふ、とお客さまはお笑いになるだけだ。
青鹿さまはもう一度溜息を吐いて、わたしに向き直った。
「じゃあ、小萩、一緒に逃げようかね」
「かしこまりました! って、え……?」
勢い込んで答えてから言われたことを認識して、きょとんと首を傾げた。
だが、美しい少女は、ああやっぱりね、と呆れたように微笑まれるだけだ。
「親切で言っとくけど、遠慮しないほうが良いわ、可愛いお嬢ちゃん。留まってればあんたは咎められるし、別々で逃げたって野垂れ死ぬか妓楼に売られるか、よ」
もちろん、そのどれだって嫌だ。でも、わたしがついていって青鹿さまの助けになるんだろうか。学もないただの子どもだし、むしろ足を引っ張るだけじゃあないだろうか。
しかしそんな内心を見透かしたように、青鹿さまはわたしを覗き込んだ。
「そもそも小萩、考えてご覧。私がお前と別れたところで、一人でちゃんとした生活が送れると思っているのかい?」
色々なことに無関心で腰が重い青鹿さまが、炊事洗濯掃除その他諸々不自由なくお一人で過ごせるか……と言われれば、残念だけど、否だ。主の名誉のために、口には出せないけれど。
「私を助けるつもりがあると、お前は言ったね? ならば一緒に行くのが、一番の助けだとは思わないかい」
「……かしこまりました!」
涙ぐみかけて、それを誤魔化すように勢いで頷く。
世話役として慣れているからわたしを連れて行きたいって、それだけだ。だけど、信頼されていると感じる。わたしの主は青鹿さまだと、青鹿さまご自身が認めてくださっている。それが、自分でもびっくりするほど嬉しかった。
湿っぽくなった空気を払うかのように、お客さまは扇をぱしりと閉じられた。
「ほら、そうと決まればとっとと荷造りしなさい。四泉までなら同道してあげるわ」
「そうだね、万事早いほうが良い。小萩、手伝っておくれ」
徐に立ち上がった主の後を、慌てて追いかける。
正直『青』を離れてどうなるか、わたしには想像がつかない。青鹿さまは外の世界にあまり出たことのない方だし、わたしだって使用人としての生き方しかしてこなかった。外での生活能力は、どっちもどっちだ。
でも、青鹿さまが、わたしの行き場だから。
「許される限り、お仕えいたします。青鹿さま」
いつかと同じ言葉を、わたしは申し上げる。
「許そう」
振り返ってお笑いになった青鹿さまを覚えている限り。
これからどうなろうと、わたしは後悔しないだろうな、と思った。