悪名を笑う
※同名短編を再録。
『赤』の当主である少年が決断したその顛末を、彼に仕える従者の少女がつらつらと語るだけの話。
広い板の間、その最も上座に位置する主の傍に控え、私はじっと顔を伏せていた。
何せ普段はがらんと広いはずのその板の間に、今日は人、人、人の波。しかも、私のご主人さまこと紅雪さまより立場上は格下となっているが、無論私にとってはあらゆる意味で目上ばかりだ。既に顔を覚えられているだろうとはいえ、ついでに主と共に帳の向こうにいるとはいえ、無闇に存在を主張したくない。
紅雪さまが左手の扇を開く。その合図を心得て、りん、と鈴を鳴らすと、何処か落ち着きの無い風だった静寂が、一気に緊張した。
私の主――そして、『赤』の一族の若き長は、静かに口を開いた。
「今日皆に集まってもらったのは他でもない。この先の我ら一族の在り様についてだ」
ざわり、と恐れるようなざわめきが起こる。
静かに、と少年は落ち着いた声で諌めてから、続ける。
「先だってより、『赤』以外の四色に狂いが生じたのは、皆知っての通り。力不足で申し訳ないけど、正直僕の能力では限界のところまできてしまった」
そう、周知の通り。
政は五色の一族――王として民を治める『紫』と、その下につく『白』『赤』『青』『黒』の四色で表される五家が、代表として執り行っている。
これまで、この五色の柱はそこそこに上手くやってきた。そりゃ長い歴史の間には『白』と『青』が険悪になったりとか『紫』が『黒』を疎んじたりだとか様々あったらしいが、そこはそれ、何とか折り合いをつけつつやってきた。
けれど、異界からの“迷子”の少女を『紫』の陛下が保護なさってから、随分風向きが変わってしまった。『赤』以外の四色の家の当主やその周辺の人々が揃いも揃ってその“迷子”を気に入ってしまったとかで、特に陛下と『白』『青』『黒』の御曹司の間で恋の鞘当が始まってしまった、らしい。五色の会議でもお互いに牽制しあい空気はギスギス、とても協力して政を行っていける状態ではなくなってしまったとか。余所でやれ余所で、仕事なんだから公私分けて其処はちゃんと力を合わせていけよ、と思うのは私だけか。先のお館さまの病でやむを得なかったとはいえ、五色の長のうち最年少の紅雪さまが一番冷静ってどういうことだ。
そういうわけで、特に“迷子”に興味を持たなかった紅雪さまは淡々と、けれど様々に粉骨砕身して何とか以前の状態に戻そうと努力していらっしゃった。
他の四色のためというよりは、それは民の為なのだろうなあ、と思う。力不足、とおっしゃっていたけど、多分一族の方々やその従者たちはそれを知っている。心苦しくこそあれ、不満をもってはいないだろう。
だからこそ、その紅雪さまが何を言いだすか、私ですら想像がつかなかった。
ただ「疲れた。もう嫌だ面倒臭い」なんて大勢の前で泣き言を漏らすような可愛い方じゃないし。だからといって、流石に他の長のところに殴りこみ、とかは…しないだろう、多分。したくはあるだろうけど、理性で留まってくださる、はず。そう思おう。それぐらいには主を信用しよう。
そう自分に言い聞かせているうちに、紅雪さまは次の言葉を発していた。
「そういうわけだから、『赤』一族全員で下野しよう」
………………………………………………紅雪さまああああ!?
「泥舟にいつまでも乗っていられない。民には申し訳無いが、一応収められた税のぶんくらいは働けたと自負している、大目に見てもらおう。恋に舞い上がって現も夢状態の胡蝶どもの世話をしているくらいなら、人々と共に生きて地に足がついた生活したほうが良いんじゃないかと思う」
待て待て待て待て待て! おい何あっさりと妙な決断してるんだこのご主人さまは! 自虐か自棄かと思いたかったが、覗き見る横顔はごく普通。つまり割と本気。
弱冠眩暈のようなものを覚えた私だが、さすがは主と同じ血をもつ『赤』一族というべきか、暫しざわめいたものの、「まあ確かに沈む舟に固執するのは馬鹿らしいな」「地位など今更惜しくないからのう」などと、至極あっさりとその結論に同意した。
だから何故! ちょっとは抵抗がないのかよ!
「…お疲れ様でした、紅雪さま」
一族集会が終わり、ずきずき痛みを訴える頭を努めて無視しながら、私はとりあえず頭を下げた。
うん、と頷いて、紅雪さまは飾り帯を解き、上着を脱ぐ。どちらも皺にならないように畳み終えた私へと、紅雪さまは少々眉を下げて首を傾げた。
あ、ご主人さまに仔犬の幻影が被ってみえる。私疲れてるんだなああはははは。
「卯木、怒ってる?」
何故ただの従者にそんな伺いを立てるのか分からないが、私はすぐに首を振った。
「私には紅雪さまの決定について怒る権限などございませんし、そもそも怒るはずもございませんよ。何だかもう展開が早すぎて私の頭ではついていけておらぬだけです。否やはございません」
限りなく本音だ。
確かにぶっ飛んだ結論だが、怒りは覚えない。紅雪さまがひとりで担っていた現状が可笑しすぎたのだ。国政の傾きを食い止めつつ、けれど『赤』がでしゃばりだなどと怪しい目を向けられぬように。夜遅くまで灯火を絶やさず働いていらっしゃった紅雪さまを知っているから。
「しかし、何故下野という結論に至られたのでしょう? 自主謹慎によって抗議を示す、という手段では足りぬと?」
「そういうわけではないのだけれど」
嘗て烏滸がましいと自覚しながらも私が進言した時には、むしろそちらの方向で考えていたらしき発言があったのだが。そう思って尋ねると、紅雪さまは探すように言葉を切った。それを見ながら、こんなこと私が紅雪さまの私室で訊くべきではないだろうとやっぱり頭が痛い。普通なら一族の誰かがあの場で訊くところだろうが。『赤』一族は紅雪さま含め、納得と決断が速過ぎる。即断即決といえば聞こえは良いが、何かおかしくないかあの流れ。
「まあ、卯木なら忌憚なく言ったほうが良いか」
何故このご主人さまは無駄に私を見込むんだろう、と思ったのも束の間、紅雪さまはあっさりと口に出した。
「“迷子”がね、僕に興味を示し始めた」
うわあ、と声に出さなかった私の自制心はそこそこのものだろう。
「分かった?」
「つまり紅雪さまが邪魔という空気が流れ始めたので、妙な嫌疑を掛けられて一族郎党巻き込んだ事態になる前に戦略的撤退ということですね」
「うん、やっぱり卯木は賢い」
「恐れ入ります」
こんなことが分かったって楽しくないけどな!
他の四色の上層部の紅雪さまに対する後ろめたさが様々な意味での嫉妬で歪んだと、まあ要はそういうことだろう。
紅雪さまとしては周囲が仕事しないことでとばっちりは食らうわ、お門違いだったり自業自得だったりすることに対する嫉妬の煽りを受けるわで踏んだり蹴ったりだ。
「しょうもないですね」
思わず呟くと、紅雪さまは楽しそうに笑った。
「うん、しょうもない。そう感じた瞬間、付き合う義理もないな、と思ってしまった」
「得心いたしました」
あっさり言い切る言葉に今日一番の納得だ。
紅雪さまは、決して悪人ではないが、かといってお人好しではない。他の四色のことなど、もうとっくの昔に見切りをつけていたのだろう。今までは政のために残っていたが、流石に他の四色が排除に動き出したら、いっかな『赤』の当主でも分が悪い。下手を打てば一族諸共国外追放の憂き目に遭う。
受動か能動かの違いで、いずれ役目を全うできなくなるのは目に見えている。ならば自分たちの被害の少ないほうを選ぶ、というのは、人間として当たり前だった。だから私は話題と口調を切り替えた。
「下野なさったら、どうなさるおつもりですか?」
「そうだね。少し、旅をしてみたい」
そうですか、と私は微笑む。彼は四色の中で政務に携わっていた上、先のお館さまの差し金、もとい教えで時々市井に下りていたため、割と世間知もある。お忍びと実生活とでは感覚も異なるだろうが、紅雪さまのたくましさだったら、どうとでもなるだろう。
「私は何処へ行くことになるのでしょうね」
従者たちには次の勤め先として、『赤』と付き合いのあった家へと斡旋をという話があった。私もその中に混じるのだろう。
表面上は軽い口調であっさり言いながらも、胸の内では何とも言えない悔しさと虚しさが燻っている。紅雪さまがいらっしゃらなければ、今の私はいない。だから、命尽きるまで、紅雪さまにお仕えするつもりでいた。それを奪われてしまった所為で、身を切られたような思いだ。だが、紅雪さまというよりは他の四色が主たる要因なのだから、恨み言をこぼしても仕方ない。
そう思って明るく話を振ったつもりだったのに。
「卯木は、僕が連れて行くから」
「はっ?」
既に宣言の形だ。
決定事項なのか。
せめて提案する形とか、尋ねる形とか、ないのか。
…………無いな。紅雪さまだからな。
「……………………紅雪さま。私が居ないと困る、なんてことは無い筈では」
高貴な身分の人には、従者が居ないと身支度ひとつ満足に出来ない人も居るらしい。けれど、緊急の時でも従者がいなければ最低限のことも出来ないのでは困るというのが『赤』の考えで、それに則って紅雪さまは大抵の身の回りのことならばひとりでこなせるよう育てられている。だから傍仕えが私ひとりで済んでいたともいえる。
「不満?」
「そういうことじゃあなくてですね、わざわざ私一人分食い扶持を増やすことはないのでは、と」
これから下野して新しい生活を始めるのだから、出来るだけ身軽なのに越したことはない。
そりゃ単純計算で手は二倍になるが、必要な生活費も二倍になるわけだ。居なくても困らないのに連れて行こうとする理由がわからない。
「どう考えても、卯木が居るほうが楽しいだろうから――じゃ、理由にならない?」
「なりません」
「即答しない」
「曖昧な理由で大事なことを決定されるのは、お止めすべきかと」
我ながらつれないと思う返事をする。
そりゃあ、確かに長年の間の主であり、一方的にでも親しみを持っている相手に「一緒なら楽しそう」と言われれば悪い気はしない、というか嬉しい。さっきも言った通り、本当なら、ずっと紅雪さまに仕えて生きたかったのだから。だけど、そういう問題でもないのだ。何となくでこれからの現実を左右するようなことを決めないで欲しい。
紅雪さまの足枷になる気はないのだ、私は。
「そこそこ曖昧じゃない理由もあるんだけど、それはもうちょっと後で言う」
「…………私の納得出来る時期が来たら、ということですね」
頷く主に、もう諦めが首をもたげてきた。
元より、私のご主人さまはこうと決めたら梃子でも動かせないところがある。私を連れて行くのが彼の中で決定事項である以上、抵抗はあまり意味が無いだろう。嫌なわけではないのも手伝って、抗いきれない。
旅は危険だが、反面様々な場所を訪れることには魅力を感じる上、同じく仕えるなら、何だかんだとよくしてくださっている紅雪さまのほうが良いに決まっている。
「承知いたしました。お供いたします、紅雪さま」
心を決めて一礼すると、彼は満足そうに頷いた。