虚名を生かす
世間的に殺された『黒』の話。
書き足し終了しました。
「………あなたが、玄鳥さんですね」
それは間違いなく僕の名前なのに、妙に懐かしい。いや、原因は分かっている。長らく呼ばれることなんてなかった所為だ。
僕はゆっくりと顔を上げた。
声は澄み切った、若い娘のものだ。手燭に照らされた顔からして、おそらく僕といくらも違わないだろう。背後はよく見えないが、数人が控えているようでもある。
しかし何より、衣に染め抜かれた色、そしてその文様。
僕は遅ればせながらはっとして姿勢を正し、頭を下げた。衰えた身体が急な動きにきしきしと文句を言い立てるが、無視する。
「お尋ねの…通り、私…は玄鳥と申します。お見苦しい…ところを、お目…に掛けまして、申し訳、ございません」
久しぶりに数文続けて喋った。その所為で声は掠れて途切れ途切れ、調子も外れて、聞き苦しいのに気づいたか、彼女の声が優しく応じる。
「ああ、無理に話す必要はありません」
またも一歩遅れて思考が追いつく。
おかしい。僕が此処に居ることは『黒』の者でも一部しか知らないはずなのだから、『黒』に属さない彼女が知るはずもない。そも、流れで分かるように、僕と彼女は今まで全く面識がなかった。
その彼女が僕を探しに来たとは…どういうことなんだろう。
元々鈍い僕の頭の回転は其処で止まってしまった。え、本当に、どういうこと?
僕の思考が停止している間に、彼女の後ろに居る人影のひとつがさっと動き、僕と彼女の間に入った。金属音が何度か連続したのち、きい、とか細い音が、けれどいやに鮮明に、僕の耳に届いた。
僕と彼女の間を隔てていた格子の扉は、今や何でもないものかのように、口を開けている。
呆然としている僕に、彼女ははんなりと微笑んだ。
「玄鳥さん、外へどうぞ」
「………っ、申し訳、ございません。出来かねます」
ほとんど裏返った声で言いながら、僕は首を振った。
「僕の…蟄居は、『黒』当主の命令です」
五色は『紫』を王家としているとはいえ、勢力図としてはほぼ均衡。となれば、『黒』内部のことなら、他家の彼女より当主さまの権限のほうが強い。僕を勝手に外に出すなんて、明らかに不味い。
「……ああ、すみません。少し先走ってしまいました」
だが、『紫』の姫――藤霞さまはそれを意に介した様子もなく、さらに僕の拒絶を無礼というでもなく、きゅっと眉根を寄せて僕のいる場所を見回す。
土を押し固めたような壁はじっとりと湿っぽく、床は粗い茣蓙が敷かれるばかり。その上にくたびれた布団、身体を清めるための盥、ほとんど用をなさない箪笥などが申し訳程度に置かれている。
有体に言えば、座敷牢だ。
無論そんな環境で僕の身なりが整っているはずもない。うん、振り返ってみればやっぱり見苦しいだろう。盥の水と食事だけは毎日与えられるので不潔でない程度にはしているつもりだが、とはいえ割と長いこと此処に居るんだ、衣はすり切れてぼろぼろだし、髪も切れず梳れずにぼさぼさだ。清らかな藤霞さまと比べると明らかにむさ苦しい。
けれど僕そのものには嫌悪を見せないで、藤霞さまは微笑んで、再び確認の言葉を口にされた。
「貴方は『黒』の玄鳥さん」
「はい」
僕の父は当主さまの従兄にあたる。
よって『黒』でもそれなりに直系に近いほうだが、堂々と名乗りづらい立場でもある。
僕の出生は、とても他人様に吹聴できるものではないからだ。
地方の視察の帰りにとある商家に宿を借りた僕の父は、其処の息子の嫁がなかなかの器量よしだったのに目をつけて、夜をともにするようほのめかしたらしい。それなりの大店とはいえ五色の人間には逆らえず、舅に頭を下げられ、嫁は一晩の伽をした。買い付けのために遠く旅の空にいる夫に、詫びながら。
…そして出来てしまったのが、僕。
十歳くらいまでは真相も知らぬままその商家で育てられていた僕だけれど、その存在を偶然知った実父が半ば強引に引き取ったのだ。手駒くらいにはなるだろうと恥ずかしげもなく言い放って。
とはいえ、僕は見目も能力も極めて凡庸だった。穀潰しとはいかないまでも、毒にも薬にもならぬ、と判断されていたらしい。まあ実際問題、僕も父親に反発心こそ覚えていたが、何が出来るわけでもなく。
だから、今の自分の姿なんて、想像もしていなかったんだ。
「三年前、当時の当主に逆らったかどで此処に幽閉された。それに相違はありませんか?」
「……はい」
三年。
藤霞さまの口にした年数には、もうそんなに経ったんだ、と他人事のような感想を抱いた。そして、やっと疑問に思う。
「当時、の?」
それは明らかに、当主が変わった、ととれる発言だ。
とはいえ当主さまはまだお若いし、僕の覚えている限り頑健な方だった、お隠れになったとは考えにくい。当主さまが若君に譲ったということだろうか、いやでもそれにしたって早すぎはしないだろうか。
「すみません、それについての説明は後程。
ただ、玄鳥さん。貴方の蟄居を命じた人間は、最早その権限を失いました。現在、『黒』の当主は空位です」
どういうことだろう。
藤霞さまのおっしゃりようから当主さまは失脚したと分かったけど、そうなれば若君が繰り上げで当主となるはず。若君すら当主に立てない――ということは、つまり何某かの政変でも起きたのだろうか。
「現在新たな当主の候補、そのひとから、貴方のことを聞き及びました。
かつての当主により罰として幽閉されたけれど、貴方の為したことは決して間違っていないのだ、と私に訴えて。
……ご存知でしょう、貴方の異母姉殿です」
「……橡、さま」
僕の異母姉。
僕の知る誰よりも、気高く、美しいひと。
突然生家から連れ出され、実の父らしい人間もその妻も冷たく、世話をしてくれる従者たちも扱いかねていると言わんばかりの態度。そんな中、僕に手を差し伸べてくれたのが、三歳年上の異母姉だった。
――いい、あたくしは『黒』の橡。そして、貴方はもう、『黒』の玄鳥。あたくしのきょうだいとしてふさわしくなってもらうわよ。
いや、異母姉というより、僕にとっては最早師だった。時間を見て僕の元を訪れては、五色の一人として、できなければならないこと、知らねばならないこと、しなければならないことを教え込んだ。
幼子にとっては、お世辞でも優しい態度ではなかったと思う。
それなりに裕福な家で生まれたから読み書き計算程度は出来たとはいえ、国の柱の一つに数えられる『黒』の人間として求められるものは、それより遥かに水準が高かった。それを容赦なく叩き込まれたのだから、呑み込みの早いほうではない僕は反発したことだってたくさんあった。僕は『黒』になりたいと言ったわけじゃないのに、何故こんなつらい思いをしなければならないの、と頑是ない駄々を捏ねた。
けれど異母姉は誇り高くて、辛抱強かった。僕を見捨てなかった。
――貴方は望んで『黒』になったわけじゃないのね。でも、此処で生きているからには、義務があるの。
――義務というのは、そうね、果たさねばならない“約束”よ。
――約束は、守るものなのよ。
子どもにも分からせようとする拙い弁で、それでも繰り返し繰り返し言い聞かせて、異母姉は僕を教え込んだ。
昔は少しだけ恨んだこともあったけれど、今では感謝している。
父が僕に教育らしきものを施す様子はなかった。異母姉が来てくれなかったら、僕は学ぶことも知らないまま、父の目論見通り、ただの手駒にしかなれなかっただろう。父にとってはそのほうが都合がよかったのだろうから、まあ当たり前か。後から小耳にはさんだ話だが、どうも異母姉の両親はともに僕にかかわるのをやめろと再三告げていたようだ。それでも来てくれた彼女には、やはり、感謝しかない。
「お元気なの、ですね」
「ええ。貴方を、気に掛けていましたよ」
三年前のあの時、僕のしようとしたことに気付いて、真っ先に僕を諭したのは異母姉だった、と思い出す。
――玄鳥、あたくしに貴方の気持ちは分からないわ。けれど、貴方がどうなるかだけは、分かっているの。
――我が身が少しでも可愛いと思うなら、お退きなさい。
――正しさだけで五色は渡っていけない。それを、忘れたわけではないでしょう、玄鳥。
彼女は十二分に僕を慮って、忠告してくれた。
「止まらなかった僕が、馬鹿なだけ、なのに」
「いいえ。
三年前の一件を知る『黒』の誰もが口を揃えました。貴方は上手くやれなかったかもしれないが、自分たちよりはずっと正しかったと。
橡殿は、貴方の姉であることを誇りに思う、とおっしゃっていましたよ」
藤霞さまの穏やかな表情に嘘はなかった。嘘はないと、分かってしまった。
「…………あ」
どうしよう、泣きそうだ。
僕のやったことは、少なくとも、独りよがりの無駄には、ならなかったんだ。
何より誰より異母姉には多大な迷惑を掛けてしまっただろうに。それでも、きょうだいとして、認めてくれたんだ。
「……未だ橡殿は、当主候補に過ぎません。その身で当主の領分を侵すべきではない、と」
だから異母姉は此処に居ないのだろう。
「それでも私に話したということは、貴方を一刻も早く解放したかったのでしょうね」
微笑んだ藤霞さまは、僕からゆっくりと視線を動かした。つられて、僕も見る。――開いたままの、牢の口を。
ずるいなあ、と思いながら、僕は笑ってしまった。
こんな話をされたら、ああもう、出るしか、ないじゃないか。
何で藤霞さまがそんな権限をお持ちなのかとか、もう先となった当主さまと若君がどうなったかとか、色々分からないことはいっぱいあるけど、でも、まずは外に出てから、なんて、そう思うじゃないか。
ぼろぼろの茣蓙に手をついてから、ぐっと力を籠めて立ち上がり、入口へ向かう。
たった数歩の距離だったのに、牢から一歩出た途端、格好悪くもふらついた。一生を覚悟していた罰からの解放という安堵と虚脱感という心理面、三年間ですっかり萎えてしまった足という肉体面、その両方で。
あ、倒れる。当たり前か。ああでも、自分の足で、あそこから出られて、本当に良かったなあ。
何だか能天気なことがくるくると忙しなく頭の中を巡る間に、腕がぐんと後ろに引かれた。やっぱり萎えた腕だったのでちょっと痛かったが、転倒を免れたのだ、お礼を言おうと思ったところで、すかさず舌打ちが聞こえてきた。
「…………軽すぎですよ、あなた」
まだ若い、男性の声だった。当然のように藤霞さまではない。多分、彼女の後ろにいたうちの誰かだろう。
いや、しかし、藤霞さまのお付きにしては何か口調に違和感が、と考えようとする僕を遮るかのように、同じ声が宣言した。
「運びます」
「う、えっ」
僕が反問する暇もなく、彼は僕を持ち上げた。こちらの負担を考慮してか、僕の両膝を彼の右腕に、僕の両腕を彼の左腕に、それぞれ引っ掛けるようなかたちになる。眠り込んでしまった幼子を運ぶような体勢は結構恥ずかしいのだが。いや、中途半端に支えられても、今の僕には意味が無いんだけど。
……うん、どう考えても彼は藤霞さまのお付き、じゃないよな。さっきから一切伺いを立ててないし。
「す、みません、藤霞さま。御前で、お見苦しい、ところを」
僕のためにかなり自主的に動いてくれたところを見れば、異母姉が僕のために寄越してくれた人員という可能性が、一番高い。異母姉についた『黒』一族かその従者か、というところが妥当だろう。ならば僕が許しを得られれば、彼も無礼には…うん、たぶん、ならないはず。
案の定、お気を悪くした様子もなく、藤霞さまはむしろ愁眉を寄せた。
「見苦しいなどと。どうぞお気になさらず、楽にしてくださいな。長い長い、三年間でしたでしょうから」
「………ええ」
僕は頷く。
思い出なんてものは何一つないけど、でも、いやだからこそ、長い三年間だった。
感傷的にはなれないけれど、感慨はある。
僕を抱える彼の身体に遮られ、もう見えない座敷牢に、その三年間に、僕は内心で別れを告げた。
三年前の出来事は、客観的に見れば、事件と言うほどのことではなかった。
……うん、その前に、少しだけ。当主さま…前当主さまのことを。
前当主さまは、何より苛烈で知られていた。
ただの乱暴者というわけではない。むしろ、普段は良識的な人だった。けれど、一旦火が付くと、人が変わってしまう。怒り狂う、と言った文字列が何より相応しいような有様になってしまうのだ。
従者の粗相に対する折檻は、多かれ少なかれ何処にでもあるものだろうけれど、前当主さまのそれは常軌を逸していた。殺しても構わない、というか、相手に命があることすら忘れているんじゃないかという徹底ぶりだった。折檻から帰ってこない従者は本当にたくさんいたし、一族は勿論、ほかの五色の傍系のひとに重傷を負わせたこともあるそうだし、若君は一応ないものの、一人の甥御を彼岸の一歩手前に追いやったこともある。
有能だけれど、すさまじいひと。だから、尊敬されるよりも恐れられた。彼の機嫌を損ねることを、一族の誰もが恐れた。
そんな前当主さまが、強く望んだ少女がいた。
その苛烈さで、望まれてしまった少女がいた。
五色でも何でもない彼女は、いくら前当主さまの奥方が儚くなっているとはいえ、とてもじゃないが後添いに迎えられる身の上ではなかった。それが分かっていても、妾として囲うしかなくても、野に咲く花のように可憐な少女を傍に置きたがった。その有能さで少女の肩身が狭くないように様々を整え、だから一族の側近たちは反対らしい反対は出来なかった。
前当主さまにとっては、一世一代の恋だったのだろう。奥方とは政略結婚であって、情はあっても惚れてはいなかったという話も聞く。
でも、少女にとっては。
少女には、将来を約束した青年がいた。幸せな、恋人同士だった。
だから、前当主さまの求愛に悩んだ。首を横に振りたかったけれど、相手は『黒』の当主だ、低い立場の彼女が拒み切れるとは到底思えない。もし本当の理由を口にしてしまえば、恋人が殺されてしまうかもしれない、とまで思いつめた。
五色全体からしてみればそんな横暴を働く人間なんて少数なんだけど、ただ、今回の場合杞憂ではない。前当主さまのご気性からして、激高の後の行動としては十分にありうることとさえ言えた。
そして、思い悩んだ末、彼女は僕にそれを打ち明けた。
…………何故って、彼女は、血縁こそないが、僕の叔母だったから。
まあつまり、僕の実母の夫の妹――例の商家の若旦那の妹、だということだ。随分とややこしい関係だが、大体人妻に手を出した僕の実父が悪いので致し方ない。
彼女の兄とはずいぶん年が離れて僕の一つ上、僕の姉だといったほうがしっくりくる年齢だった。実際生家にいたころの僕は、彼女とその弟と一緒くたに育てられたのだ。
だから、彼女にとって僕は、ほぼ唯一無二の選択肢だったとすらいえた。
尻込みしなかったわけではない。
いや、取り繕わずに言おう。
僕の膳に忍ばされた文に気づいたとき、嫌な予感はした。
読んだ瞬間、ああやっぱり読まなければ良かった、と突っ伏した。
でも、読んでしまった以上は、読まなかったことにはできないなあ、とうなだれながらも思った。
生家の大人たちは、僕に対して優しくはあったけど、子どもにも感じられるほどの隔意もまた、何処かに漂っていた。今にして思えば当たり前だけど、そんな中、血の繋がらない叔母と叔父は、僕にとって温かい思い出の拠り所だった。きょうだいには終ぞなれなかったけど、でも、幼馴染とはいえる、そんな間柄だった。
だから。
僕は、刃向かうことにした。
ほんとうは真正面からぶつかりたいところだったけど、直訴でもしようものなら、叔母が必死に隠していた恋人のことをも話さなければならない。さっきの理由で、一番に却下しなければならなかった。
だから、『黒』として頑張った。
異母姉に仕込んでもらった情報統制の技を駆使して、前当主さまの耳に叔母の恋人のことが入らないように仕向けたのが最初の仕事。
それから、当然ながら僕と叔母の関係は知る人ぞ知るものだったので、ちょっと持って回った手段を使って伝達したり。国内で『黒』の当主から逃れるのは難しいと判断し、とりあえず外つ国に叔母と恋人さんを出せる状況を整えたり。生家を守るためには叔母と縁を切るしか思いつかなかったので、完璧な絶縁のために必要なものを伝達したり。二人が外つ国でも路頭に迷わないような準備を整えたり。それからこっそり人気の劇団に『玉の輿より恋人との愛を取った少女』の美談の脚本で演目を作ってもらうよう依頼して、事が発覚した後も生家や叔母に同情的な視線が向くように工夫したり。
…うん、思い返しても、僕はあの時で一生分頭を回した気がする。
あと、大事なこと。
すぐに事が露見しないように、とてもとても慎重に時間稼ぎを仕掛けたこと。でも、もしそれらすべて、誰の差し金か探ろうとしたら――僕にちゃんと、辿り着くようにしたこと。だって、いくら優秀な異母姉が教え込んでくれたとしても、五年足らずの付け焼刃で、当主を張る方を煙に巻ききれるなんて、思っちゃいなかったんだ。
縋られたのは僕。やろうと決めたのも、僕。だから、まあ、僕が引き受けるのが、筋ってものだった。
怖かったけど、逃げられるものなら逃げたかったけど。
最悪殺されると思っていたし、事実露見した時には何度も死ぬんじゃないかと思った。それでもまあ何とか命は繋がれて、あの座敷牢に蟄居という形で押し込まれた。
…それから三年生き延びて、まさか外に出られるようになるなんて、本当に人生ってわからない。
久しぶりの湯は少し沁みたけど、気持ちよかった。肌通りの優しい着物って、本当にありがたい。髪もさっぱりしたし、うん、快適。生き返るってこういうことだ。人心地ついた。
いちいちありがたみを実感しながら身なりを整えた後、医者に診てもらう。栄養失調と運動不足などなどが相俟って、今の僕の身体は相当酷いことになっているらしい。暫くは静養するよう言われ、僕の傍に控えていたあの青年に注意すべき諸々を伝えて去っていった。
しかし彼、やっぱり『黒』じゃないよなあ。ひょっとして、もしかして彼、このまま僕付きになる従者、とかなんだろうか。
…ありえそうな気がする。名目上僕の従者だった人は、事が発覚しかけた時に逃がしてしまったし。満足に動けない僕の世話をするなら男手のほうが必要だろう。見たところ同世代だろうから、それは異母姉の配慮だろうか。
でも、彼が掛けている片眼鏡はどう見ても舶来もの。従者がもつものにしては少し高価すぎるんじゃないだろうか。
そんな風に探るような気持ちはあれどどう言葉を掛けて良いか分からず、僕はとりあえず、気になっていたことから尋ねた。
「………………あなた、の名前を、聞いても?」
彼は綺麗な目を瞬かせて、次に何とも形容しがたい表情をして、それから細い息を吐いて、最後に僅かに微笑んだ。
「枝垂です」
「……………………………………は」
耳を疑った。
ちょっと小生意気な口調が、脳裏に過る。少し釣り目気味だがつやつやと輝く瞳、すっきりと通った鼻筋が、つんと澄ました猫のような印象だった子どもの顔に、重なる。
……ああ、うん、完璧に、面影がある。そういえば、『枝垂』は僕の一つ年下で、つまり同年代で。
「薄情ですね」
「…返す言葉もない、よ」
短い詰り声に、僕は力なく突っ伏した。
いくら八年の年月が経っていたとはいえ、その間成長したとはいえ――気づかないなんて、確かに弁明のしようもなかった。
「嘘です」
「へ?」
「文字通り命懸けで姉さんを助けてくれたあなたを、薄情だなんて思うわけ、ないでしょう」
血の繋がらない年下の叔父で、僕が助けたかった少女の、弟。生家たる商家の末息子。
その枝垂に微笑まれて、反射的にへらりと微笑み返してから、何だって此処に枝垂がいるんだろう、という疑問に思い至った。しかし、尋ねる前に、枝垂が先に話し出した。
「傷、残るんですね」
彼の口調は、一転して重々しくなった。いや、彼にとっては事実そうなのだろう。
三年前、叔母を逃がしたことが露見して、僕は前当主さまに鞭打たれ、気絶している間にあの座敷牢に押し込まれた。その時の背中の傷は、今更どう頑張っても綺麗にはならないだろう、というのが医者の見立てだった。
彼にとっては、自責の種としかとらえられないのだろう。だから僕は、わざと軽く笑った。
「大したこと、ないよ。死ななかった、だけで、お釣りがくる、ってもんだ」
これは本音だ。おそらく手当してくれた人の処置は最善に近かったのだろう、その後暫く熱にうなされた覚えはあるが、時間が経っても傷口が膿んだり腐り落ちたりしなかっただけ儲けものだと思っている。
まだしかめっ面したままの枝垂に、僕は微笑みかけ続ける。
「見る相手が、いるわけでもなし。いいよ、こんなの」
「いいわけないでしょう」
枝垂の顔は、晴れない。まあ、そりゃ、はいそうですかありがとうございます、で済ませられはしないよなあ、と思う。
「言い訳ですが…あなたが、こんな目にあっているなんて、思わなかったんです」
「そりゃ、そうだ」
「あなたは、五色の『黒』に引き取られて、俺たちのことなんて忘れるくらいに可愛がられているんだろう、って思ってました」
「便りは」
「一度も届かなかったんですよ。多分、届けなかったんでしょうね」
枝垂の苦い顔を見て、思い出す。生家に向けて便りを出そうとするたび、父につけられた僕の従者は良い顔をしなかった。多分父は、僕に余計な里心をつけたくなかったんだと思う。だから、僕が従者に渡した文は、何処かで処分されていたのだろう。多分、枝垂たちから出された文も。
父にとって一番届いてほしくなかった知らせだけは結局僕の手に渡った、というのは結構な皮肉かもしれない。
「『黒』の内情も、あなたの立場も知らなかったんです。だから、もしかしたら、あなたは『黒』の当主に直言出来る立場かもしれないって。あなたに頼めば何とかなるんじゃないかって」
「何とか、なった、よね?」
「姉さんはね」
枝垂の顔はひたすら苦い。未だ中性的な色を残した整った顔立ちなのに、何だか台無しだ。
「何とか事件のごたごたが落ち着いて、連絡を取ろうとして、そうしたらあなたは死んだっていわれました」
「…ああ、まあ、そうだろう、ね」
納得と同時に、前当主さまは本気で僕を永蟄居させておくつもりだったんだなあ、と思う。
「でも、あなたの異母姉上が俺たちに本当のことを教えてくれて。まあ、それからお互い色々と協力しあったんです」
「いろいろ」
「今全部言ったって処理しきれませんよ。ただでさえ、とっておきのが控えてるんですから」
鸚鵡返しで尋ねたつもりだったのに、枝垂には小さな笑いとともに躱された。
……何だとっておきって。何でそんな邪悪っぽい笑顔見せてるの枝垂。
聞きたいような、怖いような…いややっぱり聞きたくないけど、でも聞かなきゃなんないんだろうなあ。
「よく、わかんないけど…橡さまが、『黒』当主、になるかも、しれない、ってのと、関係ある…?」
「ありますね。でもまあ、あんまり驚きすぎると身体に障りますから、追々にしておきましょう」
俺は優しいんですよ?と枝垂はにこやかに言った。ちょっと怖い笑顔のままなので信用できないけど。
素直じゃなくて意地が悪いところはあったけど、でも、こんな腹に一物あるみたいな笑顔じゃなかったのに…月日って残酷だ。
…いや、彼を変えるほど、過酷な日々があったのだろうか。
僕のなけなしの知恵で出来る限り火の粉は減らしたつもりだし、口ぶりからして異母姉が支援していたようではあるけど、でも結局『黒』に逆らった形にはなっちゃっただろうから、苦労しなかったわけもない。
さておき、さっきからはぐらかされっぱなしなので、本当に今言う気はないんだろうと判断し、仕方ないので話を変える。
「僕、どうなるの…?」
「俺のところに来てもらいますけど」
…………はい?
「まああなたも予想してる通り、三年前、うちの商売は大荒れに荒れました。でも何とかうまく乗り切って、逆に結構資産を増やしたんですよ」
わ、わあ。
生家ってそんなに商魂たくましかったっけ? いや、開き直ったのか? 分からない。
「で、都から少し離れますが、静かなところに一つ小さな屋敷を買ったので、あなたには其処で療養してもらいます」
「………橡さまの、采配?」
「ええまあ。あなたの認識に合わせて『紫』の姫殿下と呼びますが、あの方に足を運ばせたんですから、あなたの生存は遠からず四色に広まるでしょう。それを嘆願したのが、『黒』の次代当主候補だということも」
藤霞さまのことだ。陛下の妹君。才覚では兄の出がらしなどと口さがない言い方をする者もいたらしいが、しかしそれを補って余りある勤勉で責任感の強い人柄という噂に、僕は一方的に好感を覚えていた。だからこそ、彼女を示す文様を何とか記憶から引っ張り出すことが出来たのだ。
…うん? でも僕の認識に合わせて、ってどういうことだ? 藤霞さまが降嫁した、とか? でも、藤霞さまが『黒』暫定当主候補の橡さまより強い権限を持ってないと、僕を座敷牢から出す、なんてできないわけだし。うん、よくわからない。
疑問は後から後から湧いてくるものの、話の腰を折るわけにもいかず、大人しく枝垂の話の続きを聞く。
「つまり、あなたには世間的にも価値が生まれてしまったんですよ。あなたの異母姉上が当主確実となれば、彼女が大事にしているらしきあなたが注目されることも避けられません」
「…衆目から、遠ざけて、療養させて、くださるんだ」
今度は何となくわかった。
『黒』の当主候補のご機嫌伺いに来ることは咎められない。当たり前のことだから。それで、僕が療養中だと知っていれば…まあ良識的な人は見舞いの品を託けるくらいにしてくれるだろうが、そればっかりじゃないだろう。異母姉は、名前からも分かるように、『黒』の跡目に数えられる立場ではなかった。だから、『黒』の当主とつながりを持ちたい人たちの大半にとって、適当に機嫌を取っておけば良い程度の相手、ぐらいだったはず。だからこそ、彼女と確たるつながりを持たないことに焦る人たちが、僕のところに見舞いと称して押しかけて、口添えを頼むかもしれない。
それに、異母姉の政敵が居るとしたら、ろくろく動けもしない僕はやすやすと彼女の急所になってしまう。
その点、僕が『黒』の屋敷からも都からも出てしまえば、煩わしいことはだいぶ避けられるだろう。異母姉は「静かなところで療養させている」と一言告げれば良いだけだし、それだけで相手は勝手に『黒』の別墅のどれかだろうと推察してくれて、枝垂の言う屋敷までたどり着く人間は然程多くないはずだ。
「……枝垂は…随分、橡さまの、信を、得てるんだね?」
素直に感心した。
異母姉は一通りの人付き合いは心得ているが、自分にも他人にも厳しい人だから、本当の信を得るのは難しい。諸々を踏まえて、彼女にとって僕は庇護対象なんだろうが、その僕を生家だからという理由で託すとは思えない。彼女は良くも悪くも生粋の『黒』だから、血縁地縁だけが由来の情はさして重視しないのだ。となれば相応の信頼関係がある、と解釈して良いだろう。
だが、枝垂はちょっと眉を顰めた。不本意そうだった。
「まあ、協力関係にありましたから、特にあなたに関しては一定の評価を得てますね」
「僕……?」
問い返すと、ますます枝垂は眉を顰めたが、疑問には答えてくれるらしい、僕にひたりと視線を据えた。
「俺たちは――俺は、あなたをあそこから出してやりたかったんです。
姉さんと義兄さんを助けてくれたあなたを、どうしてあんな場所に一人きり、置いておくことができると思ったんですか」
怖いほど、真摯なまなざしだった。
だからこそ、本当だと、分かった。
「あなたの異母姉上は、その俺の望みだけは評価してくれているんでしょう。俺はあなたにとって害あるものではないと、ご存知なんですよ」
枝垂は、ずっと。この三年間、ずうっと、僕を助けようとしていてくれたんだ。
……変わってしまったと思ったけど、やっぱり枝垂は枝垂のままだった。頭が良くてひねくれたような口を利くくせに、いつだって優しい、枝垂のままだった。
「三年間、がんばって、くれたの?」
「はい」
「……………ありがとう」
こんな一言で、伝えられるものじゃないって分かってるけど。
何とか、僕も目に力を入れて、枝垂を見る。
「僕も、三年間、がんばって、よかったなあ」
あの三年間。
生家を恨みに思ったことがないと言えば、嘘になる。前当主さまを憎まなかったと言えば、それも嘘になる。でも、誰かを恨み続けるのも、憎み続けるのも、僕にはとても気力が必要なことだった。程なくして疲れてしまったから、やめた。此処で朽ちるしかないって、割と早々に諦めた。
ただ。
僕は馬鹿だったけど、間違ったことはしていないと、信じていた。死ななかったのは、狂わなかったのは、そういう意地で頑張っていただけ。
でも、それで僕を助けたいと願ってくれた二人に再会できたのだから、無駄じゃあなかったって、そう思える。
万感を込めて呟くと、枝垂はようやっと微笑んでくれた。
「………ところで、あなた、何だって『僕』なんて言ってるんです?」
しかしすぐに眉根が寄る。
「……あ、はは」
「俺の記憶では、昔は私とか言ってたはずですけど。
あなた、女性ですからね」
多分、これは心配されているんだろう。
男として振る舞わなきゃいけないような――たとえば実父に『息子』として引き取られたのか、とか。
でも、逆だ。僕はちゃんと『娘』として引き取られた。教育に関してはほぼ放置されていたけれど、身を飾る道具や着物などは季節折々に与えられた。胎としてなら、僕はそれなりに『黒』の直系に近く、価値があるから。いずれ『黒』の益になる男に嫁ぎ、子を産み、繋ぎをつくるための娘として、実父は僕を扱おうとしていた。
僕はそれが嫌だった。僕が『黒』であるがための義務だって、分かっていたけど。
恋がしたいとか、顔も知らない男に嫁ぐのが嫌だとか、そういった結婚や恋愛に対して願望があったわけじゃない。ただ、従順に実父の手駒として、子を産めるまで成熟するのを待つだけなんて、御免だった。
でも、この点で僕に逆らいようなんて全くなかった。せめてもの抵抗として、この一人称を使い始め、娘らしく着飾ることもほとんどしなかった。勿論従者やら何やらには良い顔をされなかったし、異母姉にも苦言を呈されたけど、でも、僕には結局これしかできなかったのだ。仔猫が爪を立てるような、弱い反抗でしかないのは分かっていたけれども。
「…………納得しました」
かいつまんで説明すると、枝垂は小さく息を吐いた。
「でも、あなたの実父上は、もうあなたの身の振り方に関して口出しできないですよ。会うことも、ないでしょうけど」
少し考えて、え、と零してしまった。
僕はこれまで、何だかんだ深く考えていなかったのだ。異母姉が当主候補であるという、その意味を。
だって、異母姉は若君の婚約者ではあったけれど、直系から見れば、より近いのは実父のほう。でも、実父を飛び越して異母姉が候補に挙がったということは、つまり実父を据えることができない状況だということ。
失脚か病か、それとも儚くなったか、それははっきりとは教えられなかったけど。
「…………………………そっ、か…」
僕の覚えている実父は、ふてぶてしいという言葉がよく似合った。人好きはしないが、その打算で何やかんやと上手く渡っていたはずだった。憎まれっ子世に憚る、を地で行く人間だと思っていた。
「呆気ない、なあ」
「そんなもんですよ」
枝垂は身も蓋もないほどあっさりと言い放った。
確かに、前当主さまと若君が失脚なんて事態も、三年前には考えられなかったことだ。事実は小説より奇なり、といったところだろう。
まあ、もし実父があらゆる意味で健在だったとしても、このことに関しては意味なんてなかったと思うけど。
「…僕、傷物にも、程があるし、ねえ」
蟷螂の斧を振りかざして前当主に逆らって、その暗躍を隠しきれずに座敷牢に入れられてしまった僕。異母姉たちがいくら正しい行いだったと言ってくれようが、傍から見て愚行だったのには変わりない。その上、傷跡すら残ってしまった。『黒』当主候補にとって唯一の妹、という有利を差し引いたって帳消しに出来ない汚点だ。政略結婚だからこそ、そんな嫁を受け入れてくれるような家はそうそう無いだろう。
「そんなこと気にしてるんですか」
「……枝垂、傷、気にしてた、よね…?」
「傷を負ったことと、それが一生綺麗に治らないことに対して、です。
その傷跡は、あなたが立ち向かった証です。少なくとも、俺が気にするなんてありえません」
力強い否定に、思わず、ふ、と声を零してしまった。
「…何笑ってるんですか」
「ううん。…枝垂、やっぱり、優しい」
枝垂が言いたいのは、僕の覚悟そのものを尊重したいってことだ。傷が叔母のためのものじゃなかったとしても、枝垂はきっとそう言ってくれただろう。
「…………………あなた、他に引っかかるところ、ないんですか」
「う、ん?」
「何でわざわざ、『俺は傷跡なんて気にしない』なんて言ったと思うんですか」
「……慰め?」
何でそんなこと念押しされるんだろう。
僕の答えを聞くと、枝垂はめまいを払うみたいに頭を振った。
「枝垂?」
「いえ、大丈夫です。予想外に難敵だと実感しましたが、相手に不足はありません。相性は悪くないはずですし」
「…枝垂は、何と、戦って、るの…?」
「固定概念と」
真顔でそれを言われて、僕にどんな返事をしろって言うんだ。
反応に困っていると、枝垂は柔らかく微笑んだ。
「それはまあ、良いんですよ。追々分からせますし」
「う、うん…?」
言葉選びがちょっと怖い気もするが、枝垂への信頼のほうが勝り、僕は素直に頷いた。
「とりあえず、療養に専念してもらいたいんですが…ああ、ほかに何かしたいこと、ありますか」
「…そう、言われても…」
あの座敷牢の中で未練を覚えなかったわけじゃないけど、それは全部外に出ることばっかりで。外に出たら具体的に何をしたいかなんて、正直考えたことはなかった。むしろ、そんな具体的な望みを抱いたら、かえって絶望してしまいそうな気もして。
ああ、でも。
「いろんな、話がしたい」
「話、ですか」
「まずは、枝垂と」
八年間…僕にとっては実質五年間。
例の事件に際して、報告や連絡や相談は割と頻繁にしたけれど、話らしい話をしたことは、ない。
橡さまとは難しいかもしれないけど、療養するのは枝垂が管理している屋敷みたいだから、それなりにちょくちょく顔を合わせる機会はあるだろう。きっと、それなりに叶う希望のはず。
そうやって今更ながらに自分の口にした言葉を確かめていて、枝垂の表情には気づけなかった。
「喜んで…いえ、望むところです、と言うべきですね」
でも、そういったとき、ちゃんと枝垂は笑っていた。
「俺だって、あなたに話したいことが、山ほどあるんです」