9 剣道
弥代椿は有名だった。整った顔立ちに、身長165cmのスラリとしたメリハリのある身体。そこそこ頭も良く(本気を出せば全国レベルだが)、運動神経もいい(本気を出せば全国レベルだが)。生徒会では書記、1年のころは文化祭の実行委員もしていた。人当たりも良く、先生からの評判もいい。
弥代椿は有名だった。
* * *
いつのまにか人だかりができていた。気づいたのは団体戦の最中。私は試合が終わって、もうすぐ夏になろうという日の蒸し暑さに耐え切れず、面を取ったところだった。
「わっ!! 何、この人たち」
面を取って広がった視界には、まず目の前の道場入り口に溢れるほどの人、左右の扉からも、部活中らしい人たちが大勢いた。
「弥代さん、今気づいたの? さっきからいっぱいいたじゃない」
「え、全然気づきませんでした。でも、どうしてこんなに?」
もしかしたらこの剣道部は、全国でも指折りの部なのだろうか。真紀さんの言うとおり、都大会1位の実力は、確かにあると思う。
私の前に試合を終えた剣道部の3年生、佐伯さんは小さく笑って、言った。
「あはは。みんな弥代さんを見に来たんじゃない。前から有名だったけど、先週の練習試合のとき、弥代さん助っ人なのに全勝したんだもん」
「そうだったんですか?」
「え?」
「あ……いえ。それでこんなに人が」
「今日でまた人気者になるよ。先週よりもなんだか強くなったみたい。ねぇ、本気で剣道部に入らない? 弥代さんがいれば全国でもイイ線いくと思うんだよね」
「いや、えっと……。そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、いろいろやりたいことがあるので」
「そうかぁ。そうだよね、他の部活の誘いも断ってるんだもんね」
そう言って佐伯さんは、目の前の試合の応援を始めた。
――椿、全勝だったんだ。
私と椿は、小学1年生のころ、同じ剣道教室に通い始めた。一緒に練習して、一緒に試合に出た。時には決勝を、2人で戦うこともあった。
だけど中学に上がるとき、椿は剣道を辞めた。理由はいつもと同じ。「他にもやりたいことがいっぱいあるから」だった。
私はひとり、剣道部に入った。高校で椿と別々になった今も、剣道部に所属している。
それは、なぜだったのだろうか。ふと、考える。私はそこまで、剣道をやりたかっただろうか。
確かに剣道は楽しいけれど。強くなるために練習するのは、苦にならないけれど。
だけど、それだけではなくて。
何よりも、私は――。
私はスッ、と立ち上がり、不思議そうに見上げた佐伯さんに、言った。
「ごめんなさい。ちょっと抜けます」
「え? 弥代さん?」
立ち上がってスタスタと、袴を引きずっていく私に、佐伯さんが声を掛けていた。それを背に受けながら、私は早足で更衣室に向かった。さっき着替えるときに見つけた、更衣室の窓からの抜け道。2mほどの高さを飛び越えれば、道場の裏側に、人だかりに気づかれずに行けるのだ。
「よし」
防具が並ぶ、天井まである棚に片足を掛ける。勢いをつけてもう片足を振り上げると、思ったよりも簡単に、窓の柵に飛び乗ることができた。ただ、道場自体が古い建物なので、あまり持ち堪えそうもない。窓から地面を覗くと、それは思ったよりも高さがあって、もしかしたら崩れ落ちるかもしれないと、悟った。さらに剣道着を着ているから、袴がうっとおしく、動きづらいのだ。
「まぁ、今更戻るほうが辛いんだよね、実は」
更衣室には道着も竹刀も、防具も転がっている。つまづいたら怪我をしてしまうことも、分かっていた。
よし飛ぶぞ。そう思って、私はヒュッと飛び降りた。その瞬間、窓縁に袴が引っかかって、体がぐいっと引っ張られた。そのままでは、更衣室に背中ごと打ちつけられるところだった。
「きゃっ」
思わず叫ぶと、覚悟した。ぶつかる、と。しかし体は痛くはなくて、なぜだか、軽かった。
「えっ?」
固く閉じた目を片方ずつゆっくり、開くと、誰かに抱き抱えられている、そんな光景が映った。
「え?」
私の体に重なる、体。私の体を包む、大きな体。
そうっと後ろを振り向くと、夏が、そこにいた。




