46 理由
校門をくぐるのにこんなにも緊張したのは、初めて入れ替わりをしたあの日以来ではないだろうか。
いや正確には、あのときは椿が私にネクタイを取りに行かせたせいで、学校に遅刻してしまうことだけを考えてこの道を走っていたから、この緊張感は今日が初めて。
何だか不思議なものだ。入れ替わりをして1か月以上経つというのに、今さら、初めての緊張を味わっているなんて。
「おはよう椿。今日はちょっと早いね」
「おはよう乃李。1本早い電車に乗れたんだ」
ちらりと教室を見回すと、夏がまだ来ていないのが分かった。野球部の朝練が長引いているのだろうか。いつもは私が来る前には、夏はすでに教室に戻っていた。
――まだ来てないんだ。
とりあえず束の間の安心。そのすぐ側で、私に向けて声が飛んだ。
「椿。夏ならまだいないよ」
遠くのほうにあった意識がふっと戻されて、私は驚いた顔で乃李を見る。にこっと、私を見上げて笑った乃李は、続けて言った。
「2人の間に何があるのか、あたしは知らないけど。でもあたしは、椿のことは分かってるつもり」
「乃李……」
そういえば、入れ替わりをする前のクラス写真で、椿が夏のあとに真っ先に指差したのが、乃李だった。「1年の頃からずっと一緒にいるんだけど、あたしのことがすっごい好きな女の子なの」と椿は言って、「結構ベタベタなんだ。たまにうっとおしいの」と、溜め息を吐き出した。
「ふ〜ん、何か面倒そうだね」
「いい子なんだけどさ、あたしにばっかりくっついてるの。でもやっぱりそうやって側にいてくれるのは嬉しいことなんだけどね」
その話を聞いて、乃李は私の苦手なタイプの女の子だろうと思っていた。初めて会ったときからずっと苦手意識を持っていたから、乃李はいつもの椿と違う私の態度に、気づいていたかもしれない。
だから乃李は、こんなことを言ったんだ。
「椿がもう夏に恋愛感情を抱いてないのも、椿と同じ顔のあなたが夏を好きなのも、あたしは、みーんな分かってるよ」
椿のことが好きだから2人の恋を応援してるね、と、乃李は私の手を握り締めた。
* * *
すぐにチャイムが鳴ったのに、夏はまだ来なかった。私の後ろの席はぽつんとそこにあって、存在感がまるでない。いつもならドキドキするはずのこのホームルームの時間も、あらゆる感情が沈んでしまっているようで、どんより曇りがち。ふっと窓に目を向けると、ポツポツ雨で濡れていくのが見えた。
――これじゃ屋上に行けないじゃない。
今日は夏と、屋上で話さなければならないのに。せっかく覚悟を決めたはずの心が、窓の外で流れていく雨のように、ザアアっと音を立てて引いていく。
――早く来てよ。夏。
夏も来ない。屋上にも行けない。それならば、私はどうしてここにいるのだろう。
「ホームルーム始めるぞ〜」
まもなく越丘先生が入ってきて、出席簿を開いた。すると、1番の「入来夏」の名前を呼ぶ前に、先生は思い出したように言った。
「あ〜。夏は今日欠席だ」
周囲がざわめき立って、乃李が私のほうを振り向く。どうやら夏は、今まで一度も欠席したことがなかったらしい。あの夏がどうした、という心配の声が、教室を飛び交っていた。
「朝早くに連絡があったんだ。具合が悪いから欠席させてくれって。本当は親からの連絡じゃなきゃだめなんだが、あいつはサボるような奴じゃないしな。声もつらそうだったし、俺が特別に許可した」
と、先生は言った。
ただ、私はそこでひとり、夏の欠席の理由を知っていた。
――逃げた。
夏は、真実から目を逸らした。
私から、逃げたんだ。




