37 夏の特別
私が夏を好きだということを、杏堂先生は知っていた。きっかけは私が、本当に大切なものの存在を明らかにしたとき。先生はふっと唇を吊り上げると、「入来だろ?」と言った。
「弥代、入来に告白したことがあるんだろ」
「……どうして、」
「入来は、ここにはよく来る」
部活でも体育の授業でも、つい熱血して張り切ってしまう夏は、あちこちにすり傷をつくって保健室にやって来るのだそうだ。
「実はあいつの兄貴と高校の同級生だったんだ。その関係で入来の家によく遊びにも言ってたから、あいつのことは知ってた」
先生が夏を「入来」と呼ぶのは、夏のお兄さんをそう呼んでいたから、らしい。おかしいと思ったんだ。人気者の夏はほとんどの教師にも、「夏」と呼ばれていたから。
「入来って、付き合い浅いだろ」
「え?」
「友達多くて、いつも囲まれてる。1年にも3年にも、教師にまで慕われて、言うことない学校一の人気者。だけど、知ってるか? あいつに親友と呼べる奴はいないんだ」
そう言われてみれば――。
ふと気づく。夏はいつも、みんなと行動を共にしているけれど、“特定の、特別な誰か”と一緒にいるところを、見たことがない。
まだ、私が夏を知ったばかりのころの、初めて学校で再会したのを覚えている。入れ替わり初日、学校生活の窮屈さにうんざりして、開放感を求めて屋上に出た。立ち入り禁止になっているそこで、私は、夏と会ったのだ。夏がひとりでよく来ているという、その場所で。
空に手が届きそうで好きなんだ、と話す夏の、太陽のほうに手をかざして眩しそうに目をこする仕草を、何度も見た。私はそれが、とても好きだなと、思っていた。
だけどそこに、「別に理由なんてないけど」と言った夏の、理由があった。
「入来って、中学はここよりもう少し遠いところに通ってたんだけど」
と杏堂先生は切り出して、話し始めた。
「幼稚園のときからの幼なじみで、入来の無二の親友だった奴が、死んだんだ。生まれつきの病気を持ってて、入来もそれを知ってた。そいつのために、いつも気を遣ってたよ」
だけどそれは遠慮や同情なんかではなくて、その幼なじみと一緒にいたいと願う夏の、夏自身のためだった。
「でもその幼なじみは、ずっと申し訳ないと思ってた。入来と……あ、あいつの兄貴な、そいつと俺に、幼なじみの奴は言ったんだ。『夏にはこれ以上心配かけたくない』って。だから、黙っててくれって」
「何を、ですか?」
喉の奥から、何かが迫ってくるような気がした。正体は分からないけれど、妙に嫌な感じのする、何か。
「俺たちにそう話したときでさえ、そいつはすでに、余命1ヶ月を切ってたんだ。そのまま結局、入来には何も言わずに、突然、死んだ」
椿がついた嘘を忘れないと、夏は言った。
あのとき私は、初めて屋上で会ったときに夏が言っていた「信じてた奴に嘘をつかれた」とは、椿のことだと思っていた。
もちろん私も、そのうちのひとりなのだろうけれど。
夏が、あのとき言っていたのは、私ではなくて――。
空に手が届きそうだと言っていた。
眩しそうに空に手をかざしては、目をこすり、何かを思い浮かべていた。
夏。昼休み、私が屋上を走り去った後も、いつものように、空に手をかざしていたのだろうか。




