11 否定
「あたし、そろそろ道場に戻る。試合終わってるかもしれないから」
「ああ。俺も行かなきゃ監督に怒られる。遅刻したのせっかく校庭20周で許してもらったのに、サボってるなんてばれたら、今度こそ絶対丸刈りの刑」
夏は、坊主ではなかった。まだ短髪と呼べるくらいの長さで、野球帽を被ったら、少しだけ襟足がはみ出ている。
「いいじゃない。野球部は坊主が1番でしょ」
「あ、椿また前と同じこと言ってる。俺は野球部だから坊主っていう固定概念、嫌いなんだよ」
そして私は思う。前に椿が私と同じことを言ったというときも、夏は、同じように返したのだろう、と。
「じゃあね、夏」
「ああ、また明日な」
夏はグラウンドを向くと、一度もこっちを振り返らずに走っていった。銀杏並木の道を、遠ざかる白いユニフォームが、上下に揺れている。
「夏。助けてくれて、ありがとう」
聞こえないと分かっていたから、私は声に出して、言った。
「夏。あたしは椿じゃないんだよ。あたしは、桜なんだよ」
おまけに、もうひとつ。
「夏。あたしを見て。あたしに気づいて」
言ったあと、どうしてこんなことを口走ってしまったのか、分からなくなった。
でも、夏だったから、というわけではない。偶然ここを通りかかって助けてくれたのが夏で、今日の椿はいつもと違うと気づいてくれたのも、夏だったから。
ただ、それだけのこと。
だから、この胸に溢れている苦しさは。この、荒々しく動き出した鼓動は。
恋じゃない。
恋なんかじゃ、ない。
* * *
「ただいま」
家に着くと、午後7時を過ぎていた。この時間に帰宅するのはいつものことだけれど、今日は特別、1日中感じていた緊張が、今更滝のように落ちてきた。椿として振舞った長い時間。それからやっと解放されたことへの安堵も、一緒に落ちてきた。
「桜、おかえり〜。遅かったね。もしかして、部活の助っ人頼まれた?」
リビングでは椿が、私の制服を着たままで、ソファに座っていた。
「椿、今帰ったばっかり?」
「ううん。5時には家に着いてたけど」
「そうだよね」
私の高校の剣道部は、週に1度、体力作りのトレーニングをしている。そしてその日はいつもより、部活が早めに切り上げられる。私は椿にあまり負担が掛からないようにと、部長に頼んで今日をトレーニングにしてもらっていた。
「何でまだ制服なの?」
「だって、せっかく桜になったんだもん。もうちょっと楽しみたいっていうかさ」
「冗談!! あたしはもう、絶対嫌よ」
すぐに答えを出した私に、椿は「えぇ〜、何でぇ?」と、甘ったるい口調で抗議する。
「ずるいよ椿。ネクタイ取りに戻らせるし、部活の助っ人なんてやらせるし」
「だって、あたし既に4回も忘れてんの。5回注意で1ヶ月、職員トイレの掃除だよ?! そんなの絶対無理!! それに部活は、あたしにだって分からないんだもん。みんな大体、前の日かその日の昼休みまでに言いに来るの。昨日は何も言われなかったから」
それにしても、よりによって剣道だなんて――。
あのとき、夏に言えなかった言葉の続きを、私は心の中で、ひっそりと、読み返す。
なぜ剣道を続けているのか。なぜ、あの道場から逃げ出したいと思ったのか。
答えは簡単。
「たぶん、嫉妬しているんだと思う」
2人して大好きだった剣道を、あっさりと捨てることができた、椿に。
いつも一緒だったのに、ひとり、颯爽と新しい世界へ足を向けていった、椿に。
嫉妬、している。
桜が、椿に。
ひとひらでは小さくしか咲けない桜が、ひとつでも大きく咲き誇れる、椿に。
「椿が途中で放棄したものを、私は続けてみせる」
「剣道を捨てた椿がここに立っていたなんて、何だか、許せないような気持ちになる」
でも、そんなこと言えない。私は椿が大好きだから。
言えないから、言わない。