10 特別
剣道は楽しい。
だけど、それだけじゃない。
それよりももっと、私が剣道を続ける理由。
剣道を“続けなければならなかった”、理由。
* * *
「お前、何してんの」
夏は野球のユニフォーム姿で、そこにいた。そこにいて、窓から落ちてきた私を、助けてくれた。
「……夏」
「夏、じゃねぇよ。いきなり降ってくんな」
そういえば、この道場の先はグラウンド。野球部の使用部分は、この剣道場の裏を通っていけば近いのだ。
夏に抱えられた状態で、私は、ぼうっとしていた。大きな体と固くて強い筋肉に触れて、何も考えられなくなっていた。こんなことは、初めてだったから。
「あっ。ごめんっ、なさい……」
はっとして夏から離れると、袴の裾を踏みつけてよろめいた。
「あぶねっ」
そう言って夏は、反射的に私の手首を掴んで、抱き寄せた。私の体は、今度は夏の胸にすっぽりと、抱え込まれる形になった。
「きゃあっ!!」
驚いて声を上げると、その声に夏が驚く。再び夏の体から離れると、ほんの一瞬ぶつかった胸が、やけに熱を帯びているのが、分かった。
「夏、体が熱いよ」
「ランニングの途中だったんだ、当たり前だろ。そういう椿だって、熱い」
「……あたしだって、練習試合の最中だから」
うまく言葉が作れない。本当は、すごく、すごく、お礼を言いたいのに。「助けてくれてありがとう」と、言いたいのに。
でも、椿だったら、言わないような気がした。夏のことを「バカ」で「単純」だと話す椿は、どこか、夏を否定しているところがあると、分かっていたから。
だから、言えなかった。私は今、椿だから。
「試合、見てた。ちょうど道場の前を通ったときに、しんとした中でパーン、っていう鋭い音がひとつ聞こえて、そのあと大歓声が起こってたから。何してるんだろうって覗いたら、剣道部の練習試合だった。ちょうど、お前が試合してた」
それは、試合形式の稽古が終わって、団体戦の試合をすることになったとき。メンバー5人のうち私は3番中堅で、開始10秒ほどで1本目の面をスパンと取ったやつだ。
「『始め』の合図のあと、3秒も経たないうちにお前、勝ってたよな」
それは、2本目の面。結局私は開始11秒で、その試合を制してしまった。
「お前、剣道やってたの? 先週ちらっと見たときも、勝ってた。6試合、全勝だったんだって?」
「さぁね」
私はぷいっと、夏から目を逸らした。先週、夏が見たのは、椿。“ほんものの”、椿。何だかとても、一緒にしてほしくないと、思った。
――矛盾してる、あたし。
夏にばれてはいけない。夏に、嘘をついている。
それなのに、夏に、桜を見てほしいと、思っている。
「……さっき、何してるって聞いたでしょ? あたし、逃げ出そうとしたの」
「どこに?」
「分からない。とりあえず、どこかに」
どこか、椿として振舞わなくてもいいところに。
「何から?」
「剣道、かな」
「嫌なの?」
「ううん。剣道は楽しいよ」
「じゃあ、何で」
「分からない。たぶん、嫉妬してるんだと思う」
「嫉妬? 何に?」
「内緒。言えないから、言わない」
「何だよそれ。お前、相変わらず時々分かんないこと言うよな」
夏は口元を歪ませて言うと、呆れた顔で、笑った。お前のことは分かってるよ、とでも、言っているみたいに。本当に心の許せる人にしか見せないような、優しい目を、していた。
やっぱり椿と夏は、何か特別な関係があるのだろうか。初めて意識して、そう思った。