生ゴミを朝食にした理由
気怠い午後の授業も終わり、中学二年の夏がやってきた――そんな夕暮れ時。
人体で、一番きれいな箇所は、トイレに座ったときの太股だ。
洋式便座は素晴らしいと、少女はいつも思う。
おかげでつい、トイレに一時間ばかり籠もっていたのがよくなかった。
少しだけズレた帰宅時間の悲劇。
家に帰ると、見知らぬ人物が粘液塗れの卵を産んでいた。
言うまでもないが、千葉ではよくあることだ。
しかしまあ、生き物というのは臭い。産卵中ともなれば尚更である。
今年で一四歳になる少女は、無言で居間のドアを閉めた。鼻を突く異臭がいつまでも粘膜に染みついている。
「どうしよう、昆虫系だった」
具体的にはカマキリ人間だった。ぶよぶよに膨らんだお腹から、無数の卵が詰まった卵鞘をひりだし、ソファーに植え付けている。
朝、学校に行く前、あそこで寝るのが好きだったのに。少女――マリエは目を伏せた。お通夜のような顔だった。
千葉市民の一〇人に一人は卵生動物である。つまり産卵自体はよくあることだ、それはいい。
冷静に考えると不法侵入者であり、色々と法的にアウトだが、そのときは殺せば良いだけだった。
母屋を貸して乗っ取られる前に駆除。むしろ積極的に殺していく流儀。板東武者のライフスタイルを受け継ぐ美しい国と言えよう。
マリエは決意した。とりあえずあの昆虫人間を始末してから悩もう、と。
健気な女子中学生特有の思考回路である。
「ままよ!」
意を決して扉を再び開けた。する、どうだろう――
カマキリ人間は巨大な四つ足動物に押し倒され、首を噛みきられているところだった。即死である。びくびくと痙攣しながら、粘液質な体液をぶちまけて絶命している。ソファーは青臭い体液でぬめっていた。
「変なのが増えた-!?」
マリエの叫び。猛獣を刺激するとか、しないとか、そういう合理性は頭から抜け落ちている。
頭が弱いのではない。野性的な強者の傲慢、それが千葉の一般的女学生の習性であることは、日本国民なら周知の事実であろう。
カマキリ人間を組み伏せる獣が、こちらへ首を向けた。
奇妙な生物だった。体長が二メートルほどもある狼だ。しかしその表皮は、体毛ではなく艶のない装甲で覆われており、背中には折り畳まれた細長い構造物――蝙蝠の翼に似ている――が収まっている。
「俺の名前はグリュク。この星は、こいつら――混沌生命に狙われている」
犬が喋った。
なるほど、真っ当な野犬ではない。冷静に考えてみればカマキリ人間も相当に真っ当ではないが、
マリエの常識では二足歩行と四足歩行には埋めがたい差があるのだ。差別的教育が生んだ悲劇と言えよう。然るに少女は無駄に冷静であり、強い使命感を持っているらしい犬への返答にも躊躇いがない。
「えっと、あのね。半世紀前に入植されちゃったんだけど」
既に手遅れだった。
途端、犬の動きが止まって震え始めた。人間離れした骨格と装甲のため、細かい表情はわからないが、明らかに動揺している。
「ま、待て。今は西暦何年だ」
「二〇五〇年だけど」
「……Oh」
何故か外人っぽいニュアンスの溜息。
カマキリ人間の死骸を前足でズタズタに引き裂き、ソファーだったガラクタに塗り込めると、
謎の喋る犬――グリュクはとても嫌そうな調子で口を開いた。
「ああ、情報が遅れていたようだな。本当は一九九九年に来る予定だったんだが、ちょっとした誤差だ」
「遅れすぎ! 中学生が年金貰い始めるレベル!」
「すまない……とりあえず連中を皆殺しにする手段を探そう」
グリュクはどうにか気を持ち直したのか、丸々とした瞳に使命感の光を浮かべ、立ち上がった。
足下で惨殺死体と化したカマキリ人間と、使い物にならなくなったソファーについてはガン無視である。
いろんな意味で許せない犬だった。半世紀遅れた、だの意味が分からない妄言もひどい。
マリエは意を決し、抗議の声を上げた。
「ちょっと待った。この生ゴミをゴミ袋に入れる方の身にもなってよ」
「迷惑をかける」
「事情ぐらい、説明してよ」
妙に気の強いマリエだが、犬が襲ってきた場合、その首を切り落とす算段はつけている。
通学カバンに居合い刀を仕込んでおくのは、大和撫子の嗜みである。
だが――予想に反し、グリュクはすこぶる協力的であった。
「そうだな。話をしようか」
◆
窓の外では、男根崇拝者の街宣車が、しきりに健全な生殖行為についてがなり立てている。
次の選挙では野党第一党になると評判の新興政党、日本繁殖党である。基本的に存在そのものがセクハラめいているが、街中で蟷螂やキリギリスが二足歩行して産卵するご時世、ナチュラルセックスの需要が高まるのは世の必然と言えよう。
マリエとして、いつか公然わいせつ罪で連中から金を搾り取りたい気持ちで一杯だ。
大和撫子の鑑である。
さて、グリュクの語る事情とやらは、えらくファンタジーであった。
なにせ、異次元で魔法の国からやってきたというのだから。居間のフローリングに丸まって寝転がる異形の犬が一匹。かと思えば、テーブルに躰を預けて見下ろす少女が一人。双方共に、すぐ隣に死体があるというのにリラックス済みである。
「俺の祖国――こことは違う宇宙にある地球では、人体改造技術が発達していてな。俺はそこの検疫局所属だ。こっちには、犯罪者が持ち逃げした外来生物の回収のためやって来た」
つまり魔法公務員である。基本的に世界が違っても、人間の営みって変わらないんだね――マリエは思う。今の話から察するに、装甲をまとった畸形の狼にしか見えないグリュクも、元は人間なのだ。一体どんなセンスで四足動物になったのか、常識的でクラスのリーダーを務める少女には想像もつかない。
「わあ、すごい。魔法の国の犬なんだね――その躰は趣味?」
「いや、子供をペット感覚で育てたいという父母に改造された。控えめにいって人間のクズだったな」
「へえ」
さらっと重い事情が明かされたものの、特に謝ることもなく流した。興味がないからだ。
死ぬほどどうでも良いと言わんばかりの声音だったのもある。おそらくグリュクの父母とやらは、生きてはいまい。
自ら危険な話題に触れるほど、間抜けではなかった。中学生とはそう言うものだ。
「ふむ、ところで――死体遺棄の罪を君に押しつけるのは心苦しい。ご両親はどこかね?」
「お母さんはいないよ」
いやに暗い声を吐き出し、マリエは顔を伏せた。
「すまない、不躾すぎた」
「うん、いいの。今も町内の誰かの体内に潜んでるはずだから」
笑えないジョークだと思ったグリュクは、装甲で覆われた犬のような頭部を傾げる。
その直後、この世のものとは思えぬ絶叫が届いた。隣の家が音源だった。自分の体内で異物が暴れているのだと訴え、激痛に喚き続ける人間の声。
救急車のけたたましいサイレンが鳴って、わんわんと大きな音を鳴らしている。ブレーキ音。
やがて声は聞こえなくなった。
「……どういうことなんだ」
グリュクは頭を抱えたくなったが、基本的に四足歩行なので出来なかった。人間臭い動作のために副腕を展開するのも面倒である。
人ならぬ躰で人間らしさを保つがゆえの悲劇だった。
そんな異邦人の葛藤も知らず、少女は可愛らしく小首を傾げた。
「お父さんよぼっか?」
「あ、ああ。頼む」
正気のあり方について苦悩しつつ、グリュクは精一杯の虚勢を張った。
今度こそまともな親御さんが来てくれよ、と祈るように目を閉じて――
「おとうさーん、お客さん!」
刹那、マリエの頭の上で空間が軋んだ。異世界の人体改造者が持つ超知覚、一種の第六感がその危険な兆候を読み取り、グリュクはその二メートル近い巨体を跳ね上げ、跳び退って臨戦態勢へ移行。半ば本能的な恐怖に襲われながら、それでも理性の力でその双眸を異変の中心へと向けた。
吐き気。目眩。痙攣。
反射的に背中の外骨格が展開され、強靱な副腕は敵を切り裂こうと爪を生やす。
少女の頭上、わずか一メートルほどのところにそれはあった。
ぐねぐねと揺らめく、銀色の泡にも似た冒涜的な光の屈折が、視覚を通してこちらの脳細胞へ染み込もうとしてくる。
『フフフ、よんだかい? お父さんはいつもマリエを見守っているよ』
不可視の狂気。そう呼ぶほかない、異常な現象こそマリエがお父さんと呼ぶ存在だった。
「個性的な家族だ。地球人への調査が足りなかったらしい」
「ごめん、個性的だよね」
皮肉が通じていないが、少女にも自覚はあったらしい。
じゃあ呼ぶなよ、と言おうとしたグリュクだったが、冷静になって考えてみると己の行動も相当に非常識だった。
これは非常識対決、言葉にならない冷戦という奴なのかもしれない。そう考えると抗議するのも筋違いである。
「貴様――人間ではないな?」
グリュクの言葉を馬鹿にしてはいけない。なにせ、二足歩行するカマキリに一応は人権があるのが二〇五〇年の千葉である。
おかげで人権の重要性そのものが摩耗しているようだが、それはそれ、これはこれ。
魔法世界で非難の的になるのはグリュク当人なのだ。社会人たるもの、報告書の材料ぐらいは揃えておかねば責任問題になる。
実に世知辛い。
「うそ。お父さん、やっぱり人間じゃなかったんだ……」
マリエは顔を青ざめさせている。前々から自覚があったのに、今さらショックを受けているのが不可解だが。おそらく乙女心とか思春期とか、そういう不安定な要素が絡んだ結果であろう。
頭上で空間の歪みに潜む超常現象を実父と呼んでいる時点で、この少女も同類であった。
「ああ、一目でわかるな」
『うちの娘に畜生が気安く話しかけないでくれ、犬め』
初っ端から険悪な関係だった。それもそうか、とグリュクは思う。
おそらく、マリエの父親を名乗る現象こそが――彼の追う犯罪者なのだから。
「貴様が、この星の混沌生命をばらまいたんだな」
『否定はすまい、魔法検疫局の犬め』
銀色の名状しがたい物体と、犬のようで犬ではない怪生物の睨み合い。
そんな緊張感に堪えきれなくなったのか、それとも空気を読んでいないのか。
マリエは果敢にも実父へ質問した。
「待って。わたしは本当に、お父さんの子供なの?」
『そう、マリエは母さんが……お腹っぽい部位を痛めて産んだような気がする娘だ。母さんの愛らしさと来たら洗い立てのゴボウ並みさ!』
「野菜にセックスアピールがあったとはな、理解できん」
グリュクのボヤキは見事に少女の耳に入り、奇天烈な反応を引き出した。
ほとんど妄言の永久機関である。
「わたし、キャベツならわかるよ」
『キャベツが産むのか、キャベツに産まされるのか……哲学的な問題だね、マリエ』
「ゴボウやキャベツと交尾は出来ない、現実をみろ」
魔法で犬っぽいボディにされてしまった異世界人が言うと、妙な迫力のある台詞であった。
きつい台詞にショックを受けたのか、中学生の少女は眉を困惑に歪めている。
「どうして……なんかもう犬が恋愛対象に入りそうな躰じゃない、グリュクさんだって!」
「無茶を言うな。こんな躰に改造されてしまったが、俺はこれでも人間なんだ。君だって類人猿と恋愛は出来ないだろう?」
「が、頑張れば……チンパンジーまでならいける。たぶん、きっと、もしかしたら」
対話の道は断たれていた。これが地球人と異世界人の文化の違いなのである。
なお、マリエが人間なのかどうか、という差別的話題については追求しない優しさが、この場の当事者の存在していたことは明記しよう。
「すまない。俺には君が理解できない」
両者の間に途轍もない緊張が走る――そのとき、マリエが思い出したように手を叩いた。
「ねえ、この生ゴミどうするのかで話し合うんじゃなかったの?」
少女の視線の向こうには、ばらばらに引き裂かれたカマキリ人間の死体。
そう言えばそうだったな、と頷く父親と、どうして今さらそんな話になるのか理解できないグリュク。
理不尽なペースに飲まれている時点で勝負は決していた。
「とりあえず、お母さんの明日の朝ごはんでいいよね」
「生ゴミを母親に食べさせるモラルに突っ込むべきなのか」
これは奥深い、千葉のとある家庭の日常の一コマである。
およそ一時間で書き上げた。つまり他意はない。